祖母が高熱で病院へ行き入院か!?

 祖母が熱が37度5分だと言う。7度5分といえば発熱している体温で、解熱剤を飲んでもいいくらいだ。そういうわけで、薬を飲むように言ったわたしだった。
 薬を飲んだ祖母だったが不安はおさまらないようだ。しきりに「どうしたらいい?」とわたしに尋ねてくる。「だ・か・らぁ~、薬を飲んだんだからそれでいいじゃないですか」と冷たい言葉が喉元まで出てきそうになる。が、それをおさえて黙っていると、「お母さんのところに電話するね」と深刻そうな表情でわたしの返事を待たずにわたしの母のケータイへと電話をした祖母だった。
 母と祖母。あまり関係がよろしくない。だから、母は祖母からの電話に取り合わないのではないか、という懸念がわたしには予想された。また一触即発? になるのかもしれない。ヒヤヒヤする。ハラハラする。
 けれども、わたしのそうした野暮な予測とは裏腹に母は信じられない行動を取った。いや、取ってくれたのだ。何と祖母の代わりに病院へと状態を電話して、さらにそれ次第では今から一緒に病院へと付いてきてくれるらしいのだ。祖母は感動した。猛烈に感動していた。断裂して終わった前回のやり取りを思い出すだけに、まさに今日、奇跡が起こっていたのである。
 そういうわけでしばらくしたら母がタクシーに乗って祖母を迎えに来た。これから一緒に病院へと向かってくれるのだ。以前、母が祖母の病院の付き添いをしていた時に医者から「高熱が出て食欲がなくなったら入院になりますからね」と言われていたので、もう入院になっても大丈夫なように母はあらかじめ祖母が準備していた旅行用バッグを手に持って二人で家を出た。
 で、肝心の星さんは? いやはや恥ずかしながらお留守番なのだ。なぜか? これには深~い、深~い理由がある。わたしも以前2回ほど祖母の病院に付き添ったのだが、あれは2回目の時だった。待ち時間と輸血で3~4時間くらいかかったのだが、付き添っていたらおそらくストレスからだろう。猛烈に死にたくなってきたのだ。わたしは統合失調症だから、もうすでにおかしいところもあるのだが、叫んで高い場所から飛び降りたくなるほど危険な精神状態になったのだった。まさに発狂しそうになったのだ。これはヤバイでしょう、ってなわけで星さんは病院付き添い免除になったのだ。いや、むしろ自衛のために自粛していると言ったほうがいいかもしれない。自分の命を守るためには祖母の付き添いはしない方がいいのだ。だから、わたしは祖母に少々脅しのような次のことを言った。「わたしが死んでもいいんですか?」と。さすがにこれに対して祖母はそれでも来てほしいとは言わなかった。まぁ、それもそうだよな。
 それで今、夜の8時頃になるのだが、母からの連絡待ちなのだ。わたしは母に「終わったら電話して」と出際に頼んでおいたので、もう少ししたら電話がかかってくるだろう。でも、それにしても落ち着かない。
 と言いながらも、こんな状況下でありながらヘブライ語の勉強をしているくらいだから、ちゃっかり者の星さんである。わたしが「心配だ。心配だ」と家の中をうろうろ歩き回っていても事態は何ら変わらない。わたしにできることは祈ることくらいだ。ってなことをTwitterにも書いたので重複しておりますが、ご容赦を。だいたい同じ人間なんだから、同じネタを使い回しもするものですよ。そこまでこだわっていたら身が持たない。
 さて、猫のルルと彼らの無事の帰宅を待ちわびている星なのだが、(いや、それ以前に母からの電話待ち)一人だと何か外の車の音とかバイクの音とかすごい気になる。めっちゃ気になる。(←どこの地方の人?)何やかんや文句を言いながらも祖母が家にいてくれていることは有り難いことだったのかもしれないと祖母不在になって気が付いたのだ。いつもいる人がいないってのは妙に寂しいものですな。
 とにかく祖母に大事がないことを祈ろう。それくらいしか今のわたしにできることはない。久しぶりにクリスチャンらしいこと考えたような気がする。
 そして、この文章を読んでくださっているあなたもわたしの祖母のために祈ってください。みこころならば聞き入れられることでしょう。
 祖母のしょうもなさ加減にはいつも閉口させられているけれど、それでも心温まる交流も少ないながらもたしかにあった。家族は時には大変な時もある。でも、それでも家族は家族なんだと痛感する。それを今日の母の行動からなおのこと感じさせられた。
 これから祖母がどうなっていくのかは分からない。けれど、長く生きられないことは確かなことだ。だから、もし入院にならず家に帰ってこれたなら少しでも安らかな毎日を送らせてあげたい。あるいは、入院になったとしたらわたしにできる範囲のことでできることはやってあげたい。
 まさにラストスパートだ。そして、祖母の人生の総決算だ。と言いつつもうざく感じて敬遠してしまうこともあるだろう。それでも、それでもめげずにやっていけたらと思う。
 「祖母が家に帰ってこられるといいな。」これが今のわたしのささやかな希望だ。

ヘブライ語の勉強、再開しました

 ヘブライ語の勉強を昨日からまた再開した。10日間くらいさぼっていたわけだが、10日もさぼるとアレフベートをすっと読めなくなってくる。言葉というのは使っていないと忘れてしまう。
 アレフベートを一ヶ月かけてやっと全部覚えたわたしが今取り組んでいるのは、読むことだ。ヘブライ語には母音記号があって、子音のアレフベートと組み合わせて読むようになっている。言うなればローマ字みたいな感じだろうか。アレフベートの「アレフ」に母音記号「エー」がついたら「エー」と読むというように。同様にアレフベートの「メム」に母音記号「ア」がつくと「マ」になり、「ダレット」に「エ」がつくと「デ」。
 こんな調子で読んでいくわけだが、なかなかスラスラとは読めない。まぁ、最初だから仕方がないんだけど、よたよた、よたよた読んでいる。
 ヘブライ語を読んでいると、小学校時代を思い出す。もちろん小学校でヘブライ語をやるわけはないのだが、ローマ字をやったことを思い出すのだ。たしかローマ字百人一首とかやってて、宿題で全部ノートに写してきなさいってのがあった。本当あれは大変だった。アルファベットでさえもしどろもどろなのに、100首写してこいと言う。でも、やればできるもので、ひーひー言いながらも終了させることができた。今こうしてブラインドタッチでPomeraでローマ字入力で日本語を難なく打てるのも、小学校時代のあの鍛錬の賜物なのである。だから、何がどこで役立つかということはわからないものだ。そして、そのローマ字の基礎があって今のヘブライ語の勉強にもつながっている。ローマ字ができなかったらおそらくヘブライ語は無理だっただろう。
 わたしの目標としては旧約聖書をヘブライ語ですらすら読めるようになること。このためにコツコツ勉強しているのだ。だから、自分がヘブライ語の旧約聖書をすらすら読めるようになっている姿を思い浮かべるようにしている。かっこいいなぁ。憧れる。その憧れが夢物語ではなくて、一歩ずつ一歩ずつ近付いている、前進しているというのは励みになる。前にも書いたが、牛歩であっても一歩ずつ一歩ずつ進んでいけば、かなり遠くまで進むことができる。
 8月の初めのころのわたしはヘブライ語のアレフベートを3つしか言うことができなかった。それがもう9月も終わろうとしている今にはアレフベートを全部言うことができて、よたよた、よたよたながらもヘブライ語を読めるようになっているのだ。これは大きく大きく前進しているではないか。
 最近すごく語学を学ぶことにおいて刺激を受けた本があるので紹介したい。新名美次『40カ国語習得法 私はこうしてマスターした』という本である。この人は眼科医でアメリカで開業した人なのだが、何と40カ国語も操れるらしいのだ。40!? マジすか? 多くの日本人が英語で苦戦してそれすらままならないまま挫折している現実がよく見られる中で、わたしはこの著者の40カ国語に度肝を抜かれた。英語という1カ国語だけで折れているのがとてもつまらないように思えてきたのだ。世界にはたくさんの言葉があって、アクセスされるのを待っている。わたしは頑張っても生涯において40カ国語は無理だろう。でも、あきらめなければ数カ国語はものにできるんじゃないか。そんな希望がわいてきたのだった。一度しかない人生において母国語の日本語だけしかできないのってもったいない。この本を読んでいたらそんな思いがふつふつとこみ上げてきた。
 というわけでわたしの抱負をここでいくつか。志を持つことは悪いことではないからね。わたしのやりたい外国語一覧を書くとしたらこんな感じ。うーん、志高いなぁ。

 ①ヘブライ語
 旧約聖書を原典で読めるようになりたい。
 ②ギリシア語
 新約聖書を原典で読めるようになりたい。
 ③ラテン語
 ラテン語聖書とアウグスティヌスを原典で読めるようになりたい。
 ④ドイツ語
 ルター訳聖書とルターを原典で読めるようになりたい。
 ⑤英語
 英語の神学書を読めるようになりたい。
 ⑥アラビア語
 コーランを読めるようになりたい。

 またやりたいことが変わってくるかもしれないけれど今はこんな感じなのだ。6カ国語も操れる未来のわたしって本当かっこいいと思う。想像するだけでもワクワクする。それにそれだけの言葉を学ぶことによって、多くのものを得ているだろうし、人間的にも大きく成長していることだろう。
 38歳からの外国語ってなわけで、最終的にどこまで到達できるかは未定であり未知数であるけれどもやっていけば何とかなるだろうと楽観している。先のことは分からない。だからこそ、どうなるか分からないからこそ面白いのだ。ワクワクしてきた。とりあえずコツコツ、ヘブライ語頑張るぞー!!エイエイ、オー!!(古!?)

P.S  新名美次『40カ国語習得法 私はこうしてマスターした』 の新名さんが何と新たに本を出していたということに今気付いた。『50ヵ国語習得法 誰にでもできる、いまからでも間に合う』という本で何と10か国語増えとる~!! 思わずいい意味で笑ってしまった。50カ国語の新名さんの本、買ってみようかな。

興味を持っていただけましたら下の本もぜひぜひ。

感謝して足るを知ること

 わたしの住んでいる近くに閑静な住宅街がある。5、6年くらい前になるだろうか。一斉に売り出されて、割合若いと言っても結構そのお家はいいお値段だったから、おもに購入したのは30~40代の人たちだったと思う。とてもきれいな新築の一戸建てが立ち並んでいて、当時はみんなとても幸せそうだった。夢のマイホーム。しかもピカピカの新築。夢も希望も膨らんでもう幸せ絶頂のはずだった、が……。
 それから5、6年後の現在。あんなに当時は幸せそうだったのに、絶頂って感じだったのに、今ではみんなの表情が暗くて重い。
 え!? 何で!?
 あんなに昔は楽しそうで幸せそうだったじゃないの。それなのに何で?
 その住宅街のそれぞれの家には車が駐車してあって、つまらなそうに車に乗って、つまらなそうに帰ってきて、つまらなそうに家の中に入る。
 みんな笑ってない。笑おうよ。こんな綺麗で新しい家に住んでるなんて幸せなはずだよ。何で、何で? 何でそんなにつまらなそうなの? 倦怠感に満ちてるよ。不幸せオーラ漂ってるよ。家が立派で新しいだけにその家と住んでいる人たちのギャップに驚かされる。みんな幸せそうではないのだ。
 それでも最初のころはみんな嬉しそうで楽しそうで幸せそうだった。表情も明るかった。それがだんだん時間が経ってくるに従って嬉しそうでなくなってきた。幸せそうでなくなってきた。
 幸せは長続きしないものなのだろうか。彼らを見ているとわたしはつくづく考えてしまう。
 新築のマイホームを手に入れれば一生幸せかと言えばそうではないようだ。マイホームを手に入れた瞬間を絶頂とすると、そこからみるみる下降していく。そして、下手をするとマイホームを手に入れる前と同じかそれ以下にまで下がっていってしまうのではないだろうか。
 どうしたらいいのだろうか。というか、何があれば、あったらこうならないで済んだのだろうか。
 わたしが思うには、毎日の日常に幸福を見いだすことではないか。当たり前の日常に幸福を再発見し続けることではないか。マイホームは手に入れたばかりの頃は幸せそのもの。そして、その非日常的な興奮状態が日常となっていくに従って、興奮しなくなってくる。
 今思ったのは、これって買い物とか飲酒と似ていないか。買い物とか飲酒を繰り返していくことによって、買い物ならより高価なものを買わなければ満足できなくなり、飲酒なら多くの量を飲まなければ酔えなくなる。まさに耐性である。だから、マイホームを手にした人が興奮するためには、さらに豪華なマイホームを手に入れることが必要になる。または、マイホームまでいかなくても豪華なハイクラスな何かが必要になるのだ。
 つまり、彼らへの処方箋として何が的確かと言えば、足るを知ることではないかと思うのだ。そして、現状で満足してそこに幸せを見出す。幸せをかみしめると言ってもいいかもしれない。もっと、もっと、ではなくて、今あるものに満足する。(もちろん新しいものを買うこと自体を否定しているわけではない。)この生き方というか、あり方を体得することが重要ではないかと思う。今あるものに満足しないで、まだ見ぬ新しいものに憧れてばかりいるとしたら、いつまで経っても満足感や充足感、ならびに幸福感は得られないだろう。
 もっと言えば安いもので満足できるとしたらそれは幸せなことではないだろうか。安いもので満足するのだ。
 逆に高いものでも満足できないとしたら、もちろん安いもので満足することも当然ながらできるわけがない。結局、よりハイクラスなものをどこまでもどこまでも求めていくことになる。そして、どこまで行っても「もっと、もっと」で満たされない。それこそ、ある意味地獄ではないかと思うのだ。どんなにいいもの、高いものを買っても満足できない。もしくは買った瞬間には満足感が得られても持続することなくすぐに渇いてしまう。
 昔の日本に戻りたいとまでは言わないけれど、昔の子どもたちが貧しい中で食べた飴玉って本当においしかったんだろうなぁって思う。ましてやチョコレートなんて贅沢品でそれを食べようものなら一日中ハイテンションだったことだろう。
 何を手に入れても自分のことを幸せだと思えない金持ちよりも、わずかなものを手に入れるだけで幸せだと思える貧乏人の方が幸福ではないかと思うのだ。(とは言えども貧乏もなさ過ぎるのは問題だが)不幸な金持ちは足ることを知らない。だから不幸なのだ。
 以上の話をふまえてわたしはどうなりたいのかと言うと、感謝しながら生きていきたいのである。「足りない、足りない」とぶつくさ文句ばかり言っているのではなく、「こんなに与えてくださってありがとうございます」と感謝したいのだ。誰に? 神様と人生において出会う人々に、である。
 わたしは「ありがとうございます」と「感謝いたします」というこの2つの言葉が好きだ。教会員のOさんが「感謝すれば愚痴は出てこない」とわたしに以前、箴言を語ってくれた。その言葉の意味が今日さらに深まったような気がする。
 「足りない、足りない」というのは愚痴なのだ。だから、感謝できていない。それが感謝し始めると愚痴は反転する。そして、そうすることによって、幸福が現れるのだ。たったこれだけ。たったこれだけのことで幸福が向こうからやってくると言うよりは、自分が幸福だということに気付くのである。今の自分がとても恵まれていることに気が付くのである。足りないのではなく、自分がこんなにもたくさんのものを与えられていて豊かだということに目覚めること。これにかかっているのではないだろうか。
 これが信仰にかかれば、自分を含めたすべてのものが神様からのギフトだということに気が付く。もうここまで来れば、愚痴や不平不満ともおさらばなはずだ。ハッピーライフが待っている。いや、待っているではなくてすでにあなたの人生はハッピーライフなのだ。今執筆しているわけだが、隣に本が積まれている。その本も今のわたしにとっては恵みであり、急に輝いて見えるようになった。わたしが今いるこの部屋もまさに恵みの象徴であるかのように光り輝いている。キラキラ、キラキラ。実際に光学的に輝いているわけではないけれど、わたしのこころの目を通過することによって輝いて見えるのである。
 恵み。神様からの恵み。人からの恵み。もうこうなったら感謝全開で行こうではないか。感謝して感謝して感謝しまくるのだ。
 ありがたい。ありがたい。ありがたい。
 すべてはあることが難しいのだからまさに有り難いのである。日常は奇跡の連続とも言える。
 何かに問題があって苦情をつけなければならない時には申し立てるべきだとは思うが、基本的な姿勢として感謝して足るを知る者は最強なのだ。そんな人になれたらと思う。
 一緒にそういう人になりましょう。なれますよ。きっとなれます。大丈夫です。

祖母はあとどれくらい生きるのだろう

 書くことがない。何を書こうか。
 最近のわたしは教会の礼拝や集会などもないため、自ら刺激を取り入れるしかなくなっている。日々の読書で面白いことはたくさんある。けれど、それは昨日の記事で大体書いてしまったから書くことがなくなっている。そんな状態なのだ。ウミガメのことも書いた。難しいキリスト教神学のことも書いた。さぼっているヘブライ語のことも書いた。要するに読書くらいしか書くことがないのだ。
 って肝心なことを忘れてた。祖母のことだ。祖母は一ヶ月半経つというのに弱りながらも生きている。洗濯物は祖母がやってくれていて、食事は各自でといった感じだ。
 時々、わたしにどうしたらいいのか助言を求めてくる時があるのだが、そんな時は精一杯向き合うようにはしている。
 最近こんなことがあった。熱が37度2分あると言う。それで解熱剤を飲んだ方がいいのかどうかわたしに聞いてきたのだ。薬の袋には「高熱時2錠」と書いてある。7度2分で解熱剤を飲んだ方がいいのか分からなかったわたしは最初無責任なことに「1錠でいいんじゃないですか?」と答えたが、医学的な処置だけに調べて答えた方がいいのではないかと思い直し、ネットで信頼できそうな情報を探したのだった。すると、37度5分以上の場合にこの薬を飲んでください、と医療機関のホームページに書いてあった。そうか7度5分以上なのか、と了解したわたしは「今日は様子を見ましょう」と答えた。その情報にめぐり合うまでに、その薬の添付文書も探してプリントアウトして読んだりした。どうやらこの薬は腎臓の悪い人にはあまりいい薬ではないようだ。祖母は長年塩辛いものを食べ続けたからだろう。腎臓があまり良くない。だから、本当に高熱が出てしまった場合は仕方ないとしても、その解熱剤は極力飲まない方がいいのではないかと思えてきた。
 まぁ、わたしは医者でも何でもないから、素人判断でしかないのだが、それでも何も調べないよりは断然ましだ。わたしはそれで祖母に言った。「高熱が出続けて解熱剤を飲んでも熱が下がらなかったりしたら、薬局に電話して薬剤師に聞いたりしないとわたしでは分かりませんよ」と。まぁ、これを読んでくださっている読者の方は聡明な方だろうから、言うまでもないが、素人判断は厳禁である。核心を持って判断できる初歩的なことならまだしも、これはヤバいんじゃないかってことはもちろん、そこまでいかないことであっても医者や薬剤師に質問して相談してほしい。
 そして翌日祖母の免疫力が功を奏したのか、熱は36度5分くらいになり、「良かったですね」で一段落したのだった。
 祖母は祖母だというのにこういう医学的なこととか細かいことが分からないことが多い。それで、そのたびにわたしに質問してくる。頼りにされているのは有り難いけれど、わたしも常識的なことしか言えなくて(常識的な回答を祖母は求めているのだろうが)果たしてこれでいいのだろうかと思うときもある。そんな時は今回のようにぼちぼち調べるようにして無責任なことは言わないようにしている。そして、調べても分からない場合は正直に「分かりません」と答えるようにしている。
 祖母が死に向かいつつあることを実感する瞬間が点々とある。そのたび、あぁ、あとこの人はどれくらい生きるのだろう、とわたしは少しばかり感傷的な気分になるのだ。
 でもわたしは祖母が死んだ後も生きなければならない。生きていかなければならないのだ。だから、前を向いて歩いていく。祖母が死ぬということ。そのこと自体は厳粛に受け止めなければならない。一人の人間が死ぬのだ。へらへらしていてはいけない。でも、だからと言って、そのことに気持ちを持って行かれすぎて燃え尽きてもいけない。祖母の死は祖母の死として真正面から受け入れる。そして、それで気分を停滞させるのではなく、そこからまた前へ前へとゆっくり進んでいく。わたしはそんな風にやっていきたいと思っている。
 祖母はわたしが本当にたまに作るカレーをおいしい、おいしいと言って食べてくれる。あとこのやりとりがどれくらいまで続くのだろうか。それは分からない。わたしは神ではないのだから。でも、祖母が息を引き取ってしばらく経ってから、あぁ、あのときおばあちゃんはカレーをおいしいと言っていたなぁと思い出すことがあるかもしれない。そのように、今こうして決して経済的には裕福とは言えないけれど、ほのかに灯っている、そして、灯っていたと過去形になるであろう幸福が愛おしく思い出される時がいずれ来る。やってくる。それがわたしと祖母との思い出であり宝ではないかと思うのだ。
 もう命が長くはない祖母。人格的に問題がないとは言えない祖母だけれど、わたしはわたしとして今まで通りに変わりなく関わり続けていけたらと思う次第なのである。そして、祖母の人生が終わる時、残された者たちの新しい形の人生が始まっていく。終わりがスタートのきっかけになる。祖母の毎日を平凡に今まで通りに見守っていきたい。
 神に感謝。

未開の分野「○○○○」にチャレンジ中

 こんにちは。いかがお過ごしでしょうか?
 てなわけでわたしの最近について書きたいと思う。え? 星の話はどうでもいい? そう言いなさんな。というか、わたしの個人的な話が聞きたくてこのブログを見に来てくださっているんでしょう? え? 違う? そう言いなさんな(2回目)。星さんフリークが集まっているわけじゃなかったのか!?
 まぁ、気を取り直して、近況報告を。
 まず、ヘブライ語。「絶好調でーす!」と言いたいところなんだけれど、実はあれからさぼってしまっていて10日くらいやってないの。まじだよ。まじだよ。星さん、さぼってますよ。これだけヘブライ語をやってますアピールしておきながら、さぼっているとは何事だ。けしからん!!と鼻息を荒くして星を怒ってくださる律儀な方もいるとは思いますが、まぁ、星の勉強だからね。星がさぼろうがどうしようが星の勝手なのよね~。(←な、な、生意気ですね。)と言うのも人間的にどうかと思うので、またヘブライ語再開したいと思います。と言うのにとどめておこうかと思う。誰しも熱中する時と冷める時と様々な「時」があるのだ。あたたかく見守っていただけたらと思う。
 で、ヘブライ語さぼって何をやってたかって言うと、まず小説書いてました。3作目です。小説って本当むずいのよね~。(苦汗)こう書きたいっていうイメージが全然形にならないの。一応、書くことは書けているんだけど、何か面白くするのが難しいのよ。でも、書いている時すごく充実していてうっすら楽しいし、それが完成した時なんて「やったー!!」て感じで本当嬉しい。だから、小説また書いているわけなのです。
 そして次に、キリスト教神学の難しい本にチャレンジしております。

 

ペールマン『現代教義学総説 新版』を読んでいて、本の帯には「神学史的な背景を手厚く解説した上で現代神学と対話。原著はドイツで神学生の標準的な教科書として長く読み継がれ改訂を重ねてきた定評ある名著。」とあり、読んでるとまさに気分は日本語訳されているけれどドイツの神学生。ルンルン気分です。と言いたいものの、これがむずいのよ、本当。これ本当に日本語ですの?、てな難解な文章で時々折れそうになります。特にパソコン長時間やった後読むとさっぱり意味が取れなくてポンチ状態に。教訓。この本は頭が冴えている時に読むようにしましょう、だね。
 最後に、新しい未開の分野にチャレンジしています。問題。それは何でしょう? ヒントは生き物で動物です。
 これだけじゃあ分からないよね。第二のヒント。牛と馬が近くて、豚、鶏が遠い。
 分からない? じゃあ、さらにヒント。この生き物はは虫類です。
 イルカ? クジラ? ってそれ哺乳類じゃん。近いけど違うんだよなぁ。海の生き物ってところまでは合っているんだけど。
 じらしにじらして、正解発表。
 パンパカパンのパンパーン。
 ウミガメです。
 牛と馬は「う」で始まるのでウミガメに近くて、実はウミガメっては虫類なの。
 で、また何でウミガメ?
 もっともな疑問だ。なぜウミガメに興味を持ったかというとたまたま新聞記事にアカウミガメの記事が載っていたのだ。静岡県でアカウミガメと言ったら、御前崎(おまえざき)の地なのだ。で、その卵を海岸に産みにきたアカウミガメが過去最少らしいのだ。その記事を読んで、アカウミガメのことよく知らないよな、と興味を持ちAmazonで本を検索して探したのである。そして、買った本が菅沼『ウミガメは100キロ沖で恋をする』亀崎『ウミガメの自然誌 産卵と回遊の生物学』の2冊。

『ウミガメは100キロ沖で恋をする』を今半分くらい読み終えたところだけれど、ウミガメって面白い。何が面白いって不思議なところがおもしろい。まだウミガメについては分からないことが多いそうでまだまだ研究中とのこと。そして、何よりも菅沼さんの熱いウミガメへの情熱がビンビン本から伝わってくるのだ。ウミガメについて今まで自分はスルーしてきたんだなって反省させられっぱなし。ウミガメって魚みたいにえら呼吸しているもんかと誤解していたけど、肺呼吸だったのだ。で、呼吸をして2~3時間潜っていられる。また、今でも捕獲制限はしているものの、小笠原へ行くとウミガメ料理が食べられるとのことで、ウミガメってどんな味がするんだろう、と可哀想な気もするものの、それでも好奇心が食べたい気持ちを加速させる。死ぬまでに一度食べてみたいなと思った。『ウミガメの自然誌 産卵と回遊の生物学』についてはパラパラーっとめくっただけだけれど、ウミガメについて体系的に書かれている印象を受けた。この本、高いのよ。5千円もするのです。いやぁ、星さんはお金ないけど奮発して買いましたよ。この2冊でざっくりしたところは十分知ることができると思うので、気長に読んでいきたいと新しい分野に新しい心意気を燃やしている星なのであった。  それから、それから、引照つき聖書(新共同訳 旧約続編つき)もぼちぼち読んでおります。

 いやぁ~引照つきって骨が折れますなぁ。これは終わらないわ。
 てなわけでわたしの拙い(?)近況報告、最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
 ウミガメは本当面白いからおすすめです。いいですよ、ウミガメ。最高!!
 読了感謝。

 下の本、面白そうだと思いましたらぜひぜひ。

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