教会に行きたくなくて

キリスト教エッセイ
この記事は約7分で読めます。

 のっけからネガティブな話で恐縮なんだけれど、話してもいいかな? ダメ? じゃあ、少し間を置いてそれから読んでほしい。
 単刀直入に申しますと、今、教会へ行きたいという気持ちが起きないのだ。毎週、風が吹こうとも嵐がやってこようとも、日曜日に教会へ行っていた人間が何を言い出すのかと思うことだろう。でも、これが飾らぬままのありのままのわたしの気持ち。
 2017年の10月から通い始めた今の教会。もう6年目にもなる。6年。思い返すと長いようで短かった。いろいろなことがあったな。1年くらい経って受洗して、それから教会員としての教会生活が始まって、それを続けてきて今に至る。それを思うと、特に受洗した頃のことを思い出すと、あれほど神様と共に歩んでいきます、とまで誓ったのに、その誓いを破ろうとしている。教会生活を死ぬまで続けよう。そう思っていたくらいなのに、それが今、途切れようとしている。
 真面目なクリスチャンなら「星さん、信仰生活何が何でも続けなさいよ。それが神様のみ心であって、神様が望まれていることなのですよ。あなたは途中でその歩みを放り出すのですか?」と詰め寄って迫ってくることだろう。
 でも、今のわたしにはキリスト教を信仰しよう、教会生活を続けよう、という気持ちがわいてこない。情熱がひとかけらさえもなくなってしまっていて、冷めてしまっているんだ。
 牧師が以前の礼拝の説教で言わなくてもいいのに、こんなことを言っていた。それは洗礼を受けてから3年くらいで教会を離れる人が多いということ。3年という月日は理想を打ち砕き、現実を見せつけられるには十分な時間なのだと思う。しかし、わたしの場合は3年ではない。6年なのだ。でも、やっぱり牧師が言っていたように3年目あたりから倦怠期というか、嫌になり始めた。あまり教会には行きたくない。けれど、わたしはその気持ちを自分の心の奥に閉じこめるかのように押し込んでそれでも教会生活を続けてきた。続けてきたけれど、ある瞬間、ぷつりと何かが切れる音がした。堪忍袋の緒とも違う、自分自身の「もういいにしよう」というなかば諦めにも似たそんな感情が。
 苦しい。あの礼拝に行くのが息が詰まるようで、またあの牧師の説教を聞かなければならないかと思うと一気に気持ちが重くなってくる。牧師の説教に問題があるのか。ここで教会の牧師の説教のここが問題だとわたしが思うところをあげつらうことはできる。でも、何もそうした問題自体はなくて、むしろわたし自身のほうに問題があるのかもしれないとも思ってみたりする。真偽のほどは分からないし、この場で牧師を攻撃したいわけでもない。しかし、たしかなこと。それは牧師はいい説教をしているのかもしれないけれど、わたしには何も響いてこなくてむしろ気持ちをかき乱されているということ。あるいは気持ちが重くなってしまうということ。
 人はなぜ教会へ行くのだろう。神様から導きを受けてそれで行く。招かれて教会へと行きたいと思う。理由は人それぞれだけれど、神様がおもな理由だと敬虔な人は言うことだろう。でも、わたしはもっと現実的にドライに考えていてメリットがあるからではないかと思っている。何か教会に行くことによってメリットがあるから、人は教会へと休みの日曜日であるにもかかわらず出掛ける。メリットなんて言うと怒られるかもしれないけれど、わたしはメリットがあるからだと思う。クリスチャンが何十年も教会へ通い続けるのもやはりそこに何らかのメリットがあるからだ。逆に教会に行くことにデメリットしかなくても人はその場所へと向かうのだろうか。そのデメリットにメリットを感じる(ややこしい言い方だけれど)といったことがなければおそらく続けることはできない。ヨブ記でサタンが言った「利益」という言葉。つまり、メリット。メリットがなくても人は教会へと行くのか。行き続けるのか。わたしは否だと思う。
 教会に来ている人たちは素晴らしい人たちだと心の底から思う。あれだけ素晴らしい人たちというのはなかなかいない。でも、そうした人と話をしたいだけなのであれば、別の場でそういった関係を求めたほうがいい。教会は仲良しサークルではない。教会は礼拝を捧げてイエスさまを囲む祈りの場なのだ。仲のいいお友達を作りたいのであれば他にしかるべき場所はあるはずだ。教会で得た人間関係を手放すのは寂しい。つらいものさえある。でも、ここでどうするのかわたしは決めなければならない。
 わたしがヨガやアーユルヴェーダと出会ってそれから変わってきたことも教会に行きたくないと思うようになった理由なのかもしれない。わたしは神様ではなくて、自分自身の心に聞いてみた。「あなたは教会へ行きたいと思うのか? あなたにとって教会は本当に必要な場所なのか?」と。そうしたら、それに対して正直な声が聞こえてきた。わたしの本音は長い間封印してきたけれど、教会に行くのが大変で苦しかったんだ。気が進まないにもかかわらず、自分で自分に鞭を打っていたんだ。そのことにようやく気付けた。
 わたしには悪い癖があって、みんなにいい顔をしてしまうところがある。教会を休んだら、教会生活をやめたらきっとみんながっかりするんじゃないか。失望されるんじゃないか。残念に思うんじゃないか。そんな自分へのネガティブな反応を予想しただけで怖くなってしまい、一歩を踏み出せなかったんだ。
 でも、教会に実際に行くのはわたしだ。他の誰でもないこのわたしだ。他の人にほめてもらえるから教会へ行くとか、喜んでもらえるから行くというのは何か違うような気がする。他の誰でもないこのわたしが何を信仰したいと思うか? もっと言うなら何を選択し何を選択しないのか。それはわたしが決めることであって、意見したい人はいるだろうけれど、主導権はその人にはなくて、まぎれもなくこのわたしにある。と書くと利己的な人ですねと言われてしまいそうだ。要するにわたしは人からどう思われるかということに過剰なのだ。敏感すぎるのだ。けれど、わたしが何を信仰するのか。それを決めるのは教会の牧師でも他の誰でもない。わたし。このわたしが決めること。そこにこそ、わたしがわたしの人生の主人公であるという本当のあるべき姿がある。そして、自由もある。
 ここまでね、教会にはもう行きたくないんだってことをこれでもかっていう感じで書いてきたけれど、人間というものは常に移り変わっていく存在だから、また教会に戻ってくるということもあるかもしれない。それが何年先になるのか、それは分からない。もしかしたら、半年もしないで戻るかもしれないし、それは風の吹くまま、気の向くままなことであって、わたしにも予想することはできないんだ。
 今の気持ちのままならわたしは教会を離れることになる。でもね、洗礼を受けたこと、そして今まで教会生活をやってきたことは良かったと思っている。そのことは何も後悔していない。
 人は変わっていく。だから、その時、その時で最善だと自分が思う道を進んでいけばいい。行き当たりばったりで頼りないように見るかもしれないけれど、みんなそうなんじゃないの。5年後、10年後、いや、明日のことだって分からないよ。不確かで変わっていく。風向きも状況もその時、その時で変わっていく。だから、どう歩んでいくかも変わっていくのが自然なあり方というもの。何もおかしな話ではない。人はそんな自由気ままに振る舞う人をとやかく言うかもしれない。「あの人って無責任だよね」「あの人、コロコロやること変わりすぎだよね」「前はあんなに燃えていたのにね。どうしちゃったんだろう」。でも、その人の人生を生きるのは外野から好き放題言う人ではない。その人なんだ。その人自身なんだ。だからこそ、わたしの決断は決断として尊重してほしいし、わたしは他人の決断にも口出しをしない所存だ。
 初志貫徹のごとく教会生活を50年とか60年続けられる人は素晴らしいと思う。けれど、続けられない人だっているし、気持ちが不安定であちこち渡り歩いていく人だっている。どちらがいいとか、そんなつまらないジャッジはしなくていいし、する必要はない。少なくともわたしは自分の心に正直でありたい。自分に嘘をつかないで本当にありのまま、自分らしく生きていきたい。ただそれだけなんだ。それに教会へ行きたくないのに無理して行っていてもイエスさまは喜ばれないだろうということも付け加えておきたいと思う。
 わたしにとっての神様はとてつもなく大きな心を持たれている方で、わたしが教会へ行ったとか行かないとかそんな小さなことで裁いたりはしないんだ。もっとあたたかくて大きな方。だから、わたしが決断することも受け入れてくださることだろうと思う。むしろ、「よく決めた」って喜んでくださってね。
 何かを決める、特にやめることには時として痛みを伴う。でも、その先には新しい世界が、展開がきっと待っているはず。それでやってみてまたうまくいかなかったらまた考えればいい。歩きながら、歩き出しながら考えていきたいと思う。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました