飴玉

 コロナ禍となり、地域活動支援センターまで行って精神保健福祉士のWさんと面談をすることがなくなった。その代わりに、ということで電話でお話しさせていただくことになったわたしである。
 思えば、あれはもう15、6年くらい前のことになるだろうか。精神の病気と診断されて右も左も分からない状態のわたしは父に連れられて嫌々、不本意ながらも従わないと父の機嫌が悪くなるので、地域活動支援センターに行った。
 不安に包まれてたどり着いたセンターで面談に応じてくれたのが、今もお世話になっているWさんだったのだ。第一印象は嫌な感じだった。何というか、その明るさ、笑顔がひたすらわたしにとっては嫌悪そのものでしかなかったのだ。脅威だったと言ってもいいかもしれない。こんなに苦しいのに、こんなに大変な思いをしているのに、この人はこんなに晴れやかな顔をして、わたしにひたすら微笑みかけてくる。何もわたしは愛想笑い大会に参加したいわけじゃない。そんなことを当時のわたしは思っていた。相手の明るい表情に嫌な感じがするというのはどれだけわたしが病んでいたのかがお分かりだろう。
 そんな嫌な感じの第一印象から始まったWさんとの関係は、彼女の誠意ある態度ならびにその知的さ、そしてそのあたたかな心によって少しずつ進展していき、わたしの厚い氷のような心が溶かされていったのだった。
 この間、Wさんがすごいと思うのは、一度もわたしの地雷を踏んだことがないことだ。どんなにわたしが病んでいるネガティブトークをしたり、嫌味を言ったり、悪意を向けたりしても彼女はそれを浄化してポジティブな明るいものに変換してしまう。まるでそれは魔法のようで、どんな状況であろうと合格点と言っていいような言葉を紡ぎ出す。
 この15、6年、月1で面談をしてもらうだけのゆるいつながりではあったけれど、Wさんはわたしに誠心誠意向き合ってくれた。困った時、立ち行かなくなった時、いつも相談に乗ってくれて、親身に話を聞いてくれて、助言を求めれば現実的で冴えたアドバイスを返してくれる。そして、決して自分の考えを押しつけたり、無理強いをしたりしない。おだやかに、しなやかにいつもいてくれて、足場を見失いそうになる時、もとの安全な場所へと引き戻してくれる。
 こうして月日が流れてわたしもWさんも歳を取ったわけだけれど、わたしは有り難いことに病気から回復してきた。元気になってきたのだ。だから、だから、今度はわたしがWさんを支える番ではないかと思うのだ。支えられるばかりではなく支えなければと思うのだ。と言いつつもわたしはWさんとは違って資格もなければ専門家でもないし、ただの素人でしかない。でも、ちょっとしたことはできるんじゃないか。何もわたしが彼女の悩みや苦悩をすべて解決したり、解消したりするわけではない。そんな重役はわたしの力量から言っても明らかに無理だ。
 そんな非力でか弱いわたしにもできることって何だろう? 自分ができる範囲で支えることではないだろうか。できる範囲というのが逃げだったり、責任回避のように思えなくもない。けれど、わたしにはできることしかできない。当たり前だけれども、できないことはできない。具体的には彼女をいたわることだろうか。気遣って大切に思うことだろうか。そして、それを言葉や態度で示すこと。
 Wさんは精神保健福祉の専門家として、今までに多くの人たちを大切にしてきた。大切に接して愛を注いできたのだ。が、果たしてその大切にされてきたわたしたち福祉の利用者だったり、患者が彼女にそれをできていたかと言えば怪しい。利用者や患者という立場に甘えてしまい、当然のこととしてあぐらをかいてしまい、専門家を気遣っていたわることができていなかったのではないか。「利用者や患者にいたわられる専門家ってダメじゃないの?」「自分のセルフケアをしっかりやってこそ、できてこそ専門家だ」。こうした意見はもちろんあるとは思う。でも、わたしはもっと利用者や患者がその力を発揮して、専門家を支えてもいいのではないかと思うのだ。わたしたちは非力なのかもしれない。無力なのかもしれない。役立たずなのかもしれない。でもね、わたしは無力だということを認めながらも無力では決してないと思うんだ。わたしたちサービス利用者にだって、患者にだってできることはある。だから、ほとんど意味のない支えかもしれないことは重々承知の上で、それでも専門家をいたわって大事にしてあげたいんだ。もしかしたらわたしたちの側からのちょっとした優しい言葉やいたわりの気持ちが専門家にみずみずしい活力や意欲を喚起させるかもしれないと思うんだ。「専門家なんだからこれくらいしてくれて当たり前」「お金をもらってやってるんだからもっとしっかりやれよ」「お前は専門家として失格だ」などと逆に叱責したりクレームをつけたら普段はおだやかな専門家だって仕事が苦しくなったり嫌になってくるんじゃないか。専門家だって人間だよ。気に掛けてもらえば嬉しいし、話を聞いてもらえば安心するし、ほめられればもちろん嬉しい。専門家だって完璧な人間なんかじゃないんだ。Wさんは優秀で聡明な人だからミスはほとんどしないけれど、専門家だって人間なんだから時には失敗したりミスしたりすることだってある。専門家は専門知識は身に付けているけれど、それ以外はふつうの人なんだ。そうであれば、いたわることだってもちろん必要だし、大切にされることだって必要だ。
 今日、Wさんと話をしていて思ったことは、あぁ、ふつうの人なんだなってこと。欠けもあり、弱さもある普通の人なんだなって思ったんだ。専門知識といういわば武器や鎧は持っているけれど、それを除けばわたしたち一般人と同じふつうの人なんだなってね。時折、垣間見せてくれる彼女の葛藤だったり、苦悩だったり、弱さだったりが何だかとても愛おしく感じられたんだ。
 わたしが彼女をどの程度支えられるかと言えば、おそらく口に含んだ飴玉くらいの働きだろうと思う。でも、飴玉だってそれはそれは人を癒してほっこりさせて気持ちを落ち着かせる。わたしはそんな彼女にとってのおいしい飴玉になれるものならなりたい。
 これからもわたしはWさんにお世話になりっぱなしだと思う。でも、今日の電話で感じたのは彼女との関係性が少しずつ変化してきているということ。一方的にわたしが支えてもらうだけの関係から、時にはほんの少しわたしが飴玉の精神安定くらいの支えをしているような、そんな感じに変わりつつある。何も気負わなくてもいい。わたしはわたしにできることをやっていけばいいのだし、それくらいしかできないのだから。
 ま、持ちつ持たれつ行きましょうってことですかね。目標。飴玉みたいな貢献を。もちろん無理せずにできる範囲でね。

母の受洗の日が近付いてきて

 もう明日から12月。月日が流れるのは本当に早いものだなぁとしみじみ思う。12月ってまだまだ先のことだと思っていたのに、それがもう明日。で、クリスマスまで1ヶ月を切った。今年のクリスマス礼拝では以前にもこのブログに書いたけれど、母の洗礼式が行われるのだ。
 そうなれば、ぼちぼち準備の方も始まる。というわけで、当日どんな服装で行くのかだいたい決まったわたしだけれど、母の方がまだどの洋服を着ていくのか確定していないのだ。というのも、洋服屋さんが母がいいなと思った服が在庫がなく、別の店舗などを含めて探してもらうということになり、今はその連絡待ちというところ。早く連絡来ないかなぁとそのことで話題は持ちきりではないけれど、それでもその服の在庫があることを願っているところなのだ。
 わたしはと言うと、当日はジャージで参ります。というのは嘘で、ビシっとスーツで行こうかなって思っているんだ。そのためにアマゾンで十字架の模様が入っているネクタイを新調したのです。もうやる気満々。とこんなことを書くと、この文章を読んだ母がプレッシャーを感じてしまうからあまりやる気とかもう楽しみで仕方がないとか書かないようにしておこうと思う。
 少し前の日曜日、教会である方が母にこんな言葉をかけてくれた。それは「ありのままでいいんですよ」という優しいあたたかい言葉だ。がぜん、洗礼を受けるともなれば張り切ってきりきり舞いをして、もう胸が張り裂けそう~なんていう精神状態になる人も結構いることだろうと思う。しかし、その方は母に「ありのままでいいんですよ」と語りかけるのだ。ありのまま。もうありのままのあなたを神様は受け入れてくださっている。だから、何か特別なことをするとか、何か張り切って気合いを入れるとか、そういうことは必要ないんだってことのようなのだ。
 考えてみれば、人間どんなに頑張ったところでできることなんてたかが知れている。有限で限界の上限が限りなく低い人間が死に物狂いで何かをやっても、神様の足下にも及ばない。言ってみれば、何もできない赤子のようなわたしたちなのだ。いろいろな人生経験を積み重ねてくると、自分は何かできるんじゃないかとか、自分って結構すごいじゃん、とか思ってしまうものだけれど、神様の前に虚心坦懐に立つ時には自分という存在は丸裸で何も持たない無力な存在でしかないのだ。というか、何かすごい人にならなくても、なれなくても、そんな欠けだらけのわたしを、このわたしを神様は受精した瞬間から、いや、受精するずっと前から愛してくださっているのだ。何もわたしは人間の努力とか行いを全否定するつもりはない。わたしが言いたいのは、神様の前で謙虚、謙遜であった方がいいのではないか、ということ。
 教派によっては厳しいところだと洗礼を受けるまでに聖書を一通り通読しておくように、とか洗礼を受けるにあたって自分の信仰告白的な文章を書きなさい、とかいろいろ注文をつけられることもあるようだ。まぁ、それはいろいろあるだろうから何もそれらが間違っているとか言うつもりはない。たしかに聖書を一通り読んでおく。自分の受洗にあたって文章を書く。それらは意義のあることだし、やっておいた方がいいことではあるのだろう。しかし、それをやらなくても、やれなくても、神様はそんな小さなことに目くじら立てて咎めるような了見の狭いお方ではないのだとわたしは思う。もっと言うなら、別にそうしたことをやったからと言って、神様に何かメリットがあるわけでもない。万物の支配者であり、すべてをお持ちの方。すべての富すらお持ちの方。そんな神様にとって一人の人間が聖書を通読したとか、何か文章を書いたとか、そんなこと何のメリットにもならない。もちろん、神様がそれを喜ばれた、嬉しいと思ってくださったということ自体がメリットなのだと言ってしまえば言えないこともないけれど。
 洗礼。わたしが洗礼を受け、そして母もこれから受ける。何という恵みなのだろうか。母の洗礼式が迫っているというこのこと自体が少しばかりわたしにとってはまだ現実感がないというか、実感がわかないというか。あの母が洗礼をついに受けるのか、とほおづえつきながらぼんやりと考えているような、そんな感じなのだ。嬉しいのだけれど、その実感がわいてこない感じ。嬉しい100%だけ、とも少しばかり違うような感じ。嬉しくないわけではもちろんない。ただ、実感がまだわかないんだ。
 母が洗礼を受けることが決まり、それが教会中に知れ渡ってからというもの、教会の人たちの態度が変わってきた、と嬉しそうに母は言う。それもそうだろう。何せ、仲間が増えるのだ。母もうちの教会の仲間入りをするのだから、そこに仲間意識が芽生えてくるのは当然だ。今まではお客様だった。教会員の星さんのお母さん。そんな感じだった。それがこれからは母も立派な教会員。立派な正真正銘のクリスチャン。社会的にもキリスト教徒となる。何だかまだ信じられない。嬉しいんだけれど、変化がありすぎてそれにまだ頭がついていけてない感じ、と言うのが一番しっくりくる表現だろうか。
 今年のクリスマス礼拝、母の洗礼式には精神保健福祉士のWさんも駆けつけてくださる。もうこれでだいたい準備は万端。あとは母の洋服がどうにかなれば、まぁ、大丈夫でしょう。あ、わたしのダウンジャケットをクリーニングに出さなければ。まだ汚れたままだったんだよな。
 クリスマスにどんな感動の物語が紡ぎ出されるのかとても楽しみだ。でも、忘れてはならないのは「ありのままでいいんですよ」とうこと。でも、だからと言って普段のジャージで行くのはちょっとねぇ~。スーツはありのままではないのでは? いやはや、そういう堅苦しいことは言わないの。スーツでいいじゃない。スーツで上等だからさ。

理想とアーユルヴェーダ的生き方

 理想。わたしたちにはこうあったらいいな、という理想がある。それが高い基準にせよ、そんなに高くない基準にせよ、ともかくそういったものはおそらく多くの人にはあるだろうと思う。
 わたしにも理想がある。
 まず、朝は5時か5時半に起床。ってまず、それから今日はできていなかった。昨日、何だかんだ寝るのが11時になってしまったわたしはその時間に起きることができなかったのだ。で、結局朝は8時頃起床になってしまい、一日を有効に使えずじまい。
 それからわたしの二つ目の理想は(目標と言い換えてもいいかもしれない)、毎日ヘブライ語を一時間勉強すること。が、これもできていない。毎日曲がりなりにも勉強することはできているものの、それがコンスタントに毎日1時間とはできておらず、平均して30分とか40分くらいになってしまっている。
 三つ目の理想は……、と星の理想などあまり興味がないと思うので割愛させてもらいたいと思う。って自分でここまで書いておきながら、こういうことを言うのってどうかとも思うけれど、こうして例を挙げながら何を思うかと言えば、案外みんな理想通りには物事にしろ生活にしろ、できていないんじゃないか、ということだ。
「わたしは今、完璧に理想通りの生活ができていて、すべて順風満帆で問題なしでまさに理想を描いたような生活を送っています」と言う人もわずかながらもいないことはないだろう。しかし、それはかなりの少数派であると思う。というか、完璧に何の妨げもなく理想通りにやることを、できていることを追求するとコンピューターとか機械になりません? ひたすら休憩も補給も必要とせず、遊び心も何もなく、ただプログラムされたことをひたすら脇目もふらずに実行していく。冷徹無比な機械。
 わたしは人間には無駄なことが必要だと思う。それもくだらないくらい無駄なことが。わたしが飼っているかたつむりだって、言ってしまえば無駄だ。それによって何か収益が得られているわけでもないし、まぁ、強いて言えば精神的安定にはつながっているものの、それだって無駄だと切り捨てることはできる。
 目的と結果だけがあるとしたら、いかにその目的に到達できるかがすべてとなる。朝5時頃に起きたいのであれば叩き起こしてでも起きればいいし、ヘブライ語だって自分に鞭打ってビシバシ、ビシバシやればいい。ただそれだけのことだ。それなのに、なぜそれができない? そんな簡単な自分を律することがなぜできない? そうしたところまで突っ込まれる時、そこに人間らしさがあるのか、という話になってくるように思う。理想通りにできたかどうかだけを基準にしてわたしの行動をジャッジするなら、わたしは不合格だ。でも、そのできないところに人間としての味があるんじゃないか。決めた通りに、言われた通りにできない。そこにこそ味わいがあるのではないか。もちろん、こうした言葉はできない、できていない人間の言い訳なのかもしれない。そんなことぐだぐだ言ってないで、理屈を持ち出さないで、そんなことを言っている暇があるんだったらやることやれよ、てな話なのかもしれない。でも、この理想通りにいかない、理想通りにできないというところに人間らしさがあるように思えてならないのだ。
 そもそも人間は生き物だ。ということは毎日、いやもっと言うなら毎瞬間ごとに違うということだ。同じ人が毎日同じように生きているだけのように見えても、その日、その時間の、その時というのはまるで一期一会のようなものであって、同じ状態が二度とやってくることはない。瞬間ごとに移り変わって、元の川にあらずなわたしたちなのだ。だとしたら、それを毎日何が何でもこれをやれ、とか、これをやらなければならないとがんじがらめに厳しく縛り上げるのは得策ではないように思えてこないだろうか。毎日違う、毎瞬間違うわたしたち。だったら、その流動していくその時、その時に一番しっくりくることをやっていった方がいいんじゃないか。これは生活の目標とか目的に限らず、食べ物などにも言えて、一日あたりタンパク質を60g摂った方がいいという科学的な知識があったとしても、その日、その日によって体調は違うのだからより多くを必要とする時もあれば、そんなに必要としない時もあると考えるのが賢明ではないだろうか。それを杓子定規で一日に60gって決めているからと自分の体調やら行動やらを無視してまでもそれに従わせようとする。それはもしかしなくても自分への暴力ではないだろうか。
 だからなのだろう。アーユルヴェーダでは自分の体と心の声を聴きなさいって教えているんだ。自分の体がタンパク質を必要としていたら、そうしたタンパク質を多く含む食べ物を食べたいと思うだろうし、必要としていない時にはそんなに食べたいとは思わないだろう。何て優しい医学なのだろうか(アーユルヴェーダはインド発祥の伝統医学)。でも、甘いものがどれだけ食べてもやめられなかったり、唐揚げやお酒などが大量にほしくなるっていうのは、いくら自分の体がそれを欲しているとはいっても、それはアーユルヴェーダで言うところの「知性の乱れ」だということらしいのだ。自分の体の感覚が狂っておかしくなってしまっているから信用してはいけないのだと教えるのだ。
 このアーユルヴェーダの考え方を勉強や日々の行動に応用できないだろうかとわたしは考えてみたりする。自分の体と心に「今、わたしは何をやりたいのか教えてください」と教えを乞うのだ。と言いつつもある程度の方向性というか大雑把な目標などは持っておいたほうがいいと思う。さっきの話で言うなら、一日あたりタンパク質を60gというざっくりとした目標は立てつつも、それに何が何でも従うのではなくて、自分の内側からの声を聴きながら適宜増減していくというやり方。これを日々の行動に適用するなら、もう今日は疲れていて体の声が「休みたい」って言っているから今日の目標は達成できていないけれどこれくらいにしておこうか、とか今日の目標はすでに達成しているけれど、まだまだ物足りないみたいだからもう少しやってみようか、という感じになる。そして、目標にしても人間は生き物で移り変わっていく存在だからやりたいことだってその時、その時で変わっていく。だから、何が何でもこれをやり遂げるんだと考えるのではなくて、臨機応変にその時、その時で少しずつ変えていったり、大幅に変更していってもいいと思うのだ。
 何だかここまで書いてきたら気持ちが楽になってきた。人間は変わっていく存在だから、変わっていくことを恐れなくていいんだ。変わっていっていいんだ。とても気持ちが楽になりませんか?
 こうすべし、こうすべき。たしかにそのやり方にもメリットはある。けれど、デメリットの方が大きいような気がするんだ。キリスト教では自分を打ち叩いてでも従わせなさいといった克己を説く箇所が聖書にはあるんだけれど、あんまりわたしはそういうのが好きじゃないな。わたしはアーユルヴェーダ的な自分に無理なく、のやり方のほうが共感できるんだ。
 しなやかに生きるっていうのはそういうことなんじゃないかってわたしは思う。無理をして歯を食いしばることも時には必要だけれど、しなやかな人っていうのはそういう時にはそうした執着をいとも簡単に手放すんじゃないかな。それに無理をしていると本人だって苦しいし、結果としてその無理がまわりの人へも波及していって、まわりに優しく接することができなくなると思う。
 って甘いこと言ってる? でもね、これがしなやかさの秘訣じゃないかなって思うんだな(わたしはしなやかな人を目指している途上なのだけれど)。

かたつむり、面白いよ

 かたつむりを飼い始めてもうかれこれ2ヶ月になろうかとしている。飼ってみるとそののっそりとしたマイペースさが面白い。まさにスローライフの象徴。彼らを眺めるたびに日々の喧噪はどこかへ飛んでいってしまう。かたつむりを眺めている時、わたしは心が落ち着いてゆったりできる。急がず、焦らず、そんなにカリカリしなさんな。そんなことを彼らに言うつもりがあるかどうかは別としても、わたしはそんなメッセージを受け取っている。
 もっとかたつむりのことを知りたい。というわけで本(脇司『カタツムリ・ナメクジの愛し方 日本の陸貝図鑑』)を買ってみた。一冊だけ読んでかたつむりの全容が分かったというわけではないものの、それでも読んでみて新しい発見があったのでそのことを書いてみたいと思う。
 まず、かたつむりって何の仲間なんだろう。それすら分からなかったわたしは「陸貝」という言葉に出会った。陸の貝と書いて陸貝。要するに、貝の仲間なのだ。かたつむりは海の巻き貝が陸に出てきて進化を遂げたものらしいのだ。どうりでかたつむりって貝っぽかったわけだ。で、陸に上がってきたものだから、かたつむりの殻は薄く軽くなった。さらにその殻すらもなくなったのがナメクジで、ちなみにナメクジも陸貝なんだ。まぁ、今回はナメクジのことは置いておこう。そういうわけで、かたつむりはアワビとかサザエなどの海の巻き貝と近いらしい。どうりで。どうりでわたしがアサリとかシジミをかたつむりを飼うようになってから食べられなくなったわけだ。何というか、アサリにしろシジミにしろ、ビジュアルはもちろん動き的にもかたつむりと似ている。かたつむりは貝の仲間で陸貝。このことがとても新鮮にわたしの中で響き渡ったのだった。
 次に、かたつむりの飼い方についても本を読んだら新しい発見があった。かたつむりたちにわたしはナスをあげていたんだけれど、野菜をあげなくてもどうやら紙でいいらしいのだ。というわけでぬらしたティッシュをナスの代わりにタッパーの中に入れたわたし。そう言えば、今まで保湿のために濡らしたキッチンペーパーを容器の中に入れていたら、それ食べてあったな。つまり、紙でいいんだ。野菜だと腐ってしまって衛生環境がすぐに悪化してしまうけれど、ティッシュなどの紙だったらすごく楽。腐らないし、入れてある容器のお掃除が簡単になるからだ。考えてみれば紙だってもともとは木からできていて植物由来なんだ。それを食べるかたつむり。著者の脇さんが言うには、トイレットペーパーが水に溶けるから消化に良さそうなんじゃないかとのことらしい。でも、まぁ、ティッシュでもいいんじゃないですか。同じ紙ですし、などと自己流を行こうとするわたし。大丈夫かなぁ。ま、大丈夫だろう(自己流)。
 さらにそのティッシュだけれど、水に濡らして固く絞るくらいでいいと本には書いてあって、今までわたしは割合びちょびちょにしていたからこれからは絞ろうと誓ったのだった。かたつむりは乾燥するのはもちろんダメ。でも、びちょびちょで湿度が高すぎるのもダメらしいのだ。だから、わたしが今までしていたキッチンペーパーでびちょびちょっていうのは良くなかったんだな。いやぁ、ためになります。
 これも本を読んで知ったことなんだけれど、かたつむりって肺呼吸らしいんだ。海にいる貝なんかはエラ呼吸。で、それが陸に上がって生活するようになったら肺呼吸をするようになった。さらに驚いたのがかたつむりって泳げないんだって。知ってました? いやぁ~、長距離は無理でも少しは泳げるもんかと思ってましたよ。だから、川とかあると渡れないものだから、その地域ごとに種がかたつむりでは固定しているらしいんだ。川を挟んでかたつむりの種類が異なるとか、そういうことなんだろうと思う。
 それから、かたつむりの殻を取ったらナメクジになるのかどうかと言えばならないんだって。そもそも、かたつむりとナメクジでは体の作りが違うらしいんだ。かたつむりの内蔵は殻の中にあるんだけれど、ナメクジは内蔵がむき出しになっているわけではない。体の中に内蔵がある。つまり、かたつむりの殻を強引に取り除いてしまうと内蔵が出てきてしまって(本には書いてなかったけどそんなことしたら死んじゃうんじゃないかな)、ナメクジと同じにはならないし、なれない。いやぁ~、素朴な疑問だけれど、かたつむりの殻をなくしてもナメクジにはならない。あはは、面白いね。
 それから、それから教会でかたつむりの話をしたらこんなことを質問されたので一応あげておきたい。かたつむりとヤドカリって同じようなものなの? かたつむりの殻ってどういうもの? かたつむりの殻は体の一部なのです。だから、ヤドカリみたいに別のものに変えることはできないし、そのかたつむりの殻は一生背負っていくものなんだ。背負うというよりは、体の一部だからね。かたつむりの場合は。
 最後に話のシメとして本を読んで一番意外で驚いたことを申しましょう。皆さんはかたつむりにも男女があると思われるだろうか。オスのかたつむりとメスのかたつむりが出会って交尾をして子孫を増やしていく。よくイラストでピンクのリボンをつけたかわいいかたつむりの女の子のイラストがあったりもする。が、それは誤りなのだ。がびーん、でしょ? かたつむりの場合、雌雄同体(しゆうどうたい)といって一匹のかたつむりの中には雄と雌、それぞれの生殖器官が備わっているんだ。じゃあ、何でかたつむりは交尾するの? それはね、自分だけでは生殖できないからなんだ。交尾で何をやっているかと言うと、お互いの精子を交換するんだ。で、お互いに精子を交換し合って受精してそれぞれ卵を産む。
 と大人に説明するのはいいんだけれど、これを子どもに説明するのは難しそうだな。かたつむりはね、男であって同時に女でもあるんだよ、などという説明を幼稚園児とか小学校低学年にしても理解してもらえるかどうか。おそらく無理だろうな。「えっ? えっ? どういうこと?」と何度も聞き返されることは必死だ。
 まぁ、この雌雄同体というのはすごく効率がいい。なぜなら、出会った別のかたつむりが同性で生殖活動ができない、なんていうことがないからだ。でも、雄と雌の二つの生殖器官を持つということはその分、体のスペースを取られたり、その分エネルギーが必要だったりとリスクがないこともない。でも、かたつむりの成長戦略ではこの道を取ったということらしいんだ。
 ここまで話をしてきて、面白いなぁって思うでしょう? ってそれはわたしだけ? 母にこの話をしたら面白いって言ってくれたんだけどな。
 日本人は1億2000万人くらいだけれど、かたつむりを飼っている人って何人くらいいるのだろうかねぇ。2000人くらいかな? いや、そんなにはいないか。ともかく、わたしのかたつむりライフはまだまだ始まったばかり。ゆったりと生きているかたつむりたちと共に楽しくやっていきたいな。できたらかたつむりの知識もぼちぼち増やしつつね。かたつむり、面白いよ。

甘い誘惑

 わたしは素直すぎるのだろうか。そして他者からの言動に影響を受けやすすぎるのだろうか。今朝、久しぶりに新聞を読んでいたら、前のように気持ちが滅入ることは豆腐メンタルから厚揚げメンタルに成長したせいか、なかったんだけれどやっぱり他の人、ならびに本のことが気になり出す。特に本の広告とか書評が出ていると、本が好きなわたしは読んでしまう。そして、いいなぁ。こんな世界もあるのかぁ。この人はまた新しい本を出した。すごいなぁと購買欲を刺激されると同時に羨望の感情がわたしの中に生じてくるのだ。
 新聞にはわたしよりもすごい人たちがうじゃうじゃ載っていて、紹介されていて、それはそれはキラキラ光って輝いている。今までのわたしだったらそんな彼らと自分を比較して落ち込んだり、気を滅入らせたりしていたことだろう。が、特にそういうわけでもない。けれど、自分には何ができるんだろうか。自分は今、何ができる人だと人様に言えるのだろうか、などと、うーむと考えてしまって、実に自分が中途半端な人間のように思えてきて仕方がなくなるのだ(って結局比較し始めちゃうわけなのかな?)
 わたしが人様に誇れること。アピールできることって言ったら何があるだろう。そうだな。まず吃音者であること。それから、精神障害者であること。その中でも統合失調症の患者だということ。そして、何より忘れてならないのはクリスチャンであること。これら三点くらいだろうか、わたしが誇れることって。あと、ネガティブな経験としては自殺未遂経験者であることとか、両親が離婚していることとか、それくらいかな。でも、何もネガティブなことを誇る必要もないかな。それよりも自分が吃音であることとか、精神障害があることとか、クリスチャンだということを誇った方がいいだろう。
 最近では自分が吃音者であることとか、精神障害者であることとか有り難いことに忘れていることが多い。だから、そうした属性よりもむしろ自分がキリスト教徒であるという意識の方が強いようなそんな感じなんだ。
 そんなわたしが日々選択していること。それらによってわたしは形作られていて、そして日々変化し続けている。そのやっていること、やっていないことの種類、組み合わせ方、度合いなどいろいろ混じり合って今のわたしが出来上がっている。いや、わたしという織物は今も常に続きが織り続けられていて、わたしは拡張され続けているのだ。あるいは、わたしを一冊の本にたとえるなら、わたしという長編の物語は今も書き加えられ続けていて、死ぬまでそれは継続されていく。
 わたしという織物には色々な糸が使われていて、それはそれは独自の色を醸し出している。わたしという長編の物語にはいろいろな出来事が起こって、いろんな人やものや事柄がやってきて、登場して、それはそれは面白く話が展開されていく。
 その織物なり、物語をある程度コントロールしようとするのが目標を立てたり、計画を立てたりすることではないかと思う。わたしという織物を青っぽくしたいと思えば、青系の糸を選んでいく必要があるし、わたしという物語を一つの目的へと方向付けるのだとしたら指針のようなものが欠かせない。と言いつつも、人生計画立てたところでどうなんでしょうねぇ、という気もしないこともない。綿密に人生の計画を立てて、思い通りに進めていく。それも悪くはないと思うのだけれど、人生なんていうものは思い通りにはいかないものなんじゃないかっていう風にも思うのだ。もちろん、ある程度計画を立てて指針を持たなければ、自分の目的地へとはたどり着かない。が、その目的を達成したところで「だから何?」とも思う。わたしはこの二つの考えに引き裂かれるまでいかないものの、立ち止まって考えている。
 もしかしたらだけれど、人生というものは自己満足にすぎないのかもしれない。どんなに頑張って何かを成し遂げたとしてもただ本人がすごく嬉しいだけ。なんて言ってしまうとわたしが今までやってきたことは何だったのだろうという気もしないことはない。20歳から読書を始めて曲がりなりにも覚束ない読書をしてきたおよそ20年という歳月。その努力は無意味だったのか。あれはしなくてもいい努力だったのか。そんなことも考えてしまう。でも、わたしは読書をしてきて今日までの時間、幸せだったし、今も本を読んでいるとエキサイティングで新しいことを知ることができてそれはそれは楽しい。だったらいいんじゃないの。仮にそれが「そんなの単なる自己満足だよ。おめでたい人だねぇ」という批判を受けるだけのことでしかなかったとしても、まぁ、いいじゃないの。本人がそれで喜んでいて楽しんでいて幸せを感じているんだからさ。それにその趣味なり活動をすることによって誰にも迷惑をかけたり、自分や誰かを傷付けたりもしてないしね。
 嬉しい。わくわくする。興奮する。幸せ。こうした喜びを得ようと人々は刻苦勉励する。精進してさらにいいものを作っていこうとする。だから、結局この快感を得たいわけだ。この全身をかけめぐる快感を得たいんだ。
 これから科学技術がどこまでも進んでいって、人間の快、不快を完全にコントロールできる時代がやってくるだろうと思う。そうなったら人類はどうなるのかな? その快感を得る機械に完全に依存するようになるのだろうか。まるで麻薬に依存してしまうかのように。何も努力しなくても、その機械さえあれば何かを努力して目標を達成したのと同じかそれ以上の快感が得られる。そうなったら、人間はどうなってしまうのか。おそらく堕落してその機械さえあればあとは要らないというようになってしまうんじゃないか。
 そんな機械が登場したら使いたいと思うかどうか。その機械が登場してもあくまでも自然な脳内物質の分泌のままで満足できるのか。なかなか難しい問題ではある。それはまるで何もしなくても絶世の美女が自分の前にたくさん現れて性的な欲望を充足できるようなそんな世界でもある。そうなったら、そうなったらその誘惑に抗えるか。ま、そうなったら世も末ですな。
 わたしが続けてきた読書。そして、それによって見えてきた豊かな世界。それすらも超人になれる機械(1億冊の本の情報を瞬時に脳にインプットできるような機械)などが発明されれば、これらの努力も不要になってしまうかもしれない。でも、いいんだ。この不完全で中途半端で頭の中が雑草だらけのわたしにこそ意味があるんだ。完璧に何かの分野を極めることは素晴らしいし、賞賛されてもいいとは思うのだけれど、それでもわたしがわたしとしてわたしをぶざまであっても中途半端であってもやっていることに意味があり意義がある。どんなに誰かと比べて劣っていたとしても、わたしの人生はその優れた人に代わりにやってもらうわけにはいかないのだ。わたしが、このわたしがわたしの人生を生きること、生きていくことにこそ意味があるんだ。だから、他の人が優れていようが、わたしがどんなに劣っていようがそんなことは関係ない。

 神様、どうかわたしが人と比べることなくわたしの人生を生きることができるようにしてください。そして、人間を自堕落にする甘い先進技術の誘惑に負けないようにわたしの心を律してください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

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