いつも絶好調でなくてもいい

 明日は教会の集会があって、それから奉仕でお掃除をやる。考えてみればそれだけのこと。が、わたしは不安になってしまった。果たしてできるのだろうか、と不安になってしまったのだ。教会の集会は結構ハードで牧師がみっちりやるんだ。この前なんて、1時間半の時間のうち、残りの10分以外ひたすら牧師が喋っていて、参加者にも疲労感がつのり始めていた。そんなハードな集会の後に果たしてお掃除ができるのか。分かりやすいわたしはとたんにドツボにはまって、不安になってしまった。どうしよう。できなかったらどうしよう。長年(とは言っても2、3年)一緒にやってくれていたSさんが怪我で不在の今、急遽ピンチヒッターを買って出てくれたMさんの期待にわたしは応えることができるのか。結局、疲労困憊でできませんでした、とならざるを得ないのではないか。どうしよう、どうしよう。できなかったらどうしよう、と考えれば考えるほど不安は増幅していき、本日45分ほどパソコンをやったことも手伝って(15分にするんじゃなかったのかよ)不安は絶頂に。
 と、メンタル不調ともなれば、もう決まっておりますね。あの本の登場ですな、と行きたいところだけれど『いやな気分よさようなら』はうつとか怒りなどに焦点を当てた本なので、今回は少しばかり役に立つところがなさそう。で、取り出しましたは、デビッド・D・バーンズ『フィーリングGOODハンドブック』。この本はメンタル不調でももう少し広範に扱っていて、もちろん不安も扱っている。もう何年も前に買ってほとんど読まずに積ん読になっていたけれど、買っといて良かった。本っていつかは役に立つ時がくるものなのですね。
 で、読んで感想。「ありのままでいいじゃないか」。以上。チーン。てなだけでは手抜きも手抜きなのでざっくり概要をお伝えすると、別に常に完璧でなくてもよくね?、という話なのだ。
 不安を感じやすい人というのは真面目なのだ。いつもこうあるべきっていうのが自分の中にあって、それができなかったらどうしようと思うものだから不安になるらしい。
 バーンズ先生はたしかこんなことを本の中で言っていた。最悪の事態になったとして深刻な問題が発生するのか、と。
 考えてみればたしかにそうで、わたしが明日調子が悪くなって、集会に出席できなくなったり、集会の後のお掃除ができなくなったところでたかが知れているのだ。こういう言い方をすると真面目な人に怒られるかもしれないけれど、損害はあるものの、発生してしまうものの、微々たるものじゃないの。別にわたしがお掃除できなくなったとしても、いつもよりも教会が汚れているだけだし、極端な話、毎週誰かがお掃除してくれているわけだから、そんなに大きな汚れもないのだ。何もわたしが出席したり、お掃除したりができなくとも、何億円の損害が出るとか、人が死ぬとか、そういう話ではないのだ。いわば、ささやかな損害。たしかにお掃除ができなくなれば、Mさんが一人でやらなければならなくなって迷惑はかかる。でも、調子が悪いと言っている不調な人に「歯を食いしばって何が何でもやれ」だなんて言わないだろう。Mさんはそんな非情な人ではないし、まぁ何とかやりくりをつけてくれることだろうと思う。また、日曜日までにやればいいわけだから、わたしが自分で回復した頃合いに次の日とか土曜日にやるっていう方法もある。つまり、それほどの大問題ではなかったのだ。
 今回のことを通して気が付いたこともある。それは完璧主義は良くないということだ。調子が悪くなったらどうしよう、と真面目なわたしは不安になったわけだけれど、調子が悪くなったら悪くなったで別にいいじゃないの、と開き直れたのだ。不調というものは誰しも好き好んでなるものではないし、コントロールしようと努力していてもなってしまう時には不調にもなるんだ。完全無比なコンピューターじゃなくて、わたしは生き物なんだからそれは仕方がないことじゃないの、って思えてきたんだ。準備はする。不調にならないように努力もする。けれど、そこまで気を遣っても不調になることは誰しもある。そうなったら、「調子が悪いです」と自己申告して仕事なり何なりを免除してもらおう。ズルはしていないのだから、むしろ正直に不調であることを相手に伝えた方がいいと思う。
 わたしは少しばかり、いや結構強迫的な思考に陥っていたことにも気付かされた。わたしは「すべき」とか「ねばならない」が嫌いな人間だと自負していたくらいなんだけれど、それでも自分の中に課していたのだ。それらを。

 もしもあなたが、不安や動揺を感じてはならないと考えたり、自分が常に幸せであるべきだとか自分を常にコントロールすべきだと信じているならば、あなたは余計な問題を起こしているのかもしれません。なぜなら、どんな人も、常に幸せを感じたり、常に愛されていると感じたり、常に自信があると感じることはできないからです。(同書p321)

 わたしは常に快調でいなければならないものだと自分自身思い込んでいた。そのためにアーユルヴェーダをやり、ヨガをやった。何が何でも不調にはなりたくないものだと、まるで不調をバイキンか何かのように毛嫌いしていた。けれど、わたしの体調は生き物で調子がいい時もあれば、やはり悪い時もある。わたしは何もこうした快調に近付いていく行為そのものがすべて不毛だとか意味がないなどと言うつもりはない。でも、気付いたのだ。不調だってわたしの一部であって、大切な一部ですらあるんだ、と。できることなら不調を避けたい。避けることができるなら苦しいから避けたい。でも、こうした不調の一つひとつを愛おしむ視線で眺める時、不調も悪くないものだなと思う。不調は抹殺すべきバイキンではない。むしろ、わたしに大切なことを教えてくれる先生だ。不調があるからこそ、より健康になりたいという気持ちが持てるわけであって、いつも絶好調だったらそのありがたさだって薄れてしまうよ。
 さらにバーンズ先生はこんなことも言っている。当たり前のことのようだけれど、わたしには刺さってきた涙が出そうなくらい嬉しかった言葉だ。

 私たちは、欠点があって不完全であるために、愛されることができるのです。(同書p321)

 誰かを愛するっていうことは、その人の欠点も含めてその不完全さを丸ごと受け入れることなんだろうな、とこの言葉を読みながら思った。欠点を愛することができるようになるのはいつのことやら、と思いつつ不安は和らいできた。つまり、ありのままということかな。む、難しい。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
↑ポチっと投票よろしくお願いします。

ぐだぐだ不調日記第10弾「おそらくソフトクリームにやられた」

 好き好き大好き、ソフトクリーム。みんなから愛されているソフトクリーム。食べるとみんな笑顔になる魔法のような、ソフトクリーム。
 のはずだったのに、今回はそれを食べたら不調になったのだ。え? 不調の原因はパソコンじゃないの? だいたい今までのパターンのほとんどすべてはパソコンとかからくる不調だったよね。新パターン到来? おそらく新しいやつなんだろう。自分でも驚いている。今日はパソコンとか何もやってないからさ。マジで? マジよ。星さん、うそつかない。冗談は言うけどうそつかない。インディアンうそつかない、を完全にパクりながらも自分自身、未だに信じられずにいる。パソコンをやらなくても不調になることってあるんだ、ってね。
 それはそうさ。不調にもいろいろな種類がある。今まではたまたまパソコンをやった時になる不調だったんだよ。今回のは不調の症状は似ているけれど、違うんだ。原因が違うんだよ。
 と、完全にソフトクリームが原因と断定している星でありますが、それ以外にも要因として考えられることってない? そもそも、ここまでの文章で不調になったいきさつには一切ふれてなかったよね。やはり、それにふれないことには原因をこれだと断定することはできないだろう。そして、断定することを差し控えるべきだろう。
 いきさつ、いきさつ。
 今日はね、駅前に用事があったんだ。だからバスに乗って駅前に出掛けたんだ。で、二つあった用事のうち一つを済ませました。そこまでは良かったのだ。と、歩いておりましたら一軒のソフトクリーム屋さんがあるんです。星さん食べたくなったので食べた。そこまではいい。それからだ。急に体が重くなってきて、だるくなってきて気持ちがどんよりとしてきた。今日のお天気自体も曇っていて蒸し暑かったから、この気候のせいだろうなって思っていたけれど、とにかくだるい。二つ目の用事を済ませるためには往復で15~20分程度歩く必要があって、とことこ歩いていたんだ。どんどん体がだるく、重たくなってくる。しまいには一緒にいた母(一緒にお出掛けなのだ)のささいな言動にもいつもだったら何とも思わないのに、イラつき出す始末。わたしの左手にかかっていたトートバッグが結構重かったこともあったのか、疲労はどんどん蓄積してきて、だるさはどんどんどんどん増していく。ここ数日お散歩をさぼっていて心肺機能が落ちてきていることもあったのかもしれない。とにかく、だるくて仕方がない。けれど、このだるさは熱っぽいとかそういう感じではなくて、ただだるい。明らかに風邪ではなくて、とにかくだるかったんだ。
 で、帰りもバスに乗って帰ってきた。が、食べるものを買いたいと思ってスーパーに寄る。ってやめておけばいいのに、と今では思うけれど、それでも寄ったんだ。限界まで来ているわけではないものの、それでも相変わらず気持ちに清涼感は1ミリもなくて、ただただだるい。
 帰宅。やっと家に着いた。こういう時はどうするべ、と思ったわたしはアーユルヴェーダの本を開いた。「疲れる、疲れやすい」という項目を開いてどうすればいいのか知ろうとしたわたしである。ふむふむ、この項目は何度も開いて読んではいたけれど、豆乳にターメリックとしょうがとシナモンを入れたものを飲むといいらしい。で、即実行。飲む。そうしたら急に食欲がわいてきた。本当は疲れている時には良くないと分かってはいるんだけれど、さきほどスーパーで買ってきたカレーパンをパクリ。半分のつもりがおいしかったので全部食べちゃった。カレーパンを食べながらNHKの朝ドラを見ていたわたしである。そして、朝ドラ今日の分終了。と気が付いてみると、あんなに倦怠感に包まれていたのが完全ではないにしろ霧がパーっと晴れているではないか。カレーパンが効いたのか。それとも特製ドリンクが効いたのか。それとも両方効いたのか。あるいは朝ドラがリラックス効果をもたらしたのか。分からないがその三者が複雑に絡み合ったか何かして、わたしの不調はおおかた消えてしまったのだった。
 原因を探ることももちろん必要だけれど、どうしたら回復するかっていうことを知ることはもっと大事だと思う。
 わたしたちの世界は複雑にいろいろなものが絡まり合って原因と結果をつくりだしているんだ。だから、何かこれひとつが原因だと思ったとしても、それ以外にも要因が重なり合っていたり、組み合わさっていることによって問題が発生することだってあるんだ。だから、今回の不調はおそらくソフトクリームだと思う。けれど、どうやら今回のはそれ以外にも、天気、気温、体の調子、荷物の重さ、などが複雑に作用しているように思えてならない。ソフトクリームだと大方目星は立てながらも断定することはできない。そんな感じである。
 が、それにしてもアーユルヴェーダの力はすごいなって思う(って今回のが100%アーユルヴェーダのおかげだとは言い切れないけれど)。ピタリと不調を治しちゃうんだもんな。少なくともわたしにはアーユルヴェーダが合っているようで、不調になり始めたらアーユルヴェーダのケアをしていけたらと思う。
 今回は不調日記と言いながらも、正確には不調「後」日記って言ったほうがいいかな。だから、今回の記事は割合落ち着いていると思う。っていうかいつものが奇をてらいすぎて、異様な空気すら出してたからね。今回のはかなり真面目だったかも。何だ、真面目か、などと落胆せずに今後もぐだぐだ不調日記を楽しみにしていてくださいませ。あんまりこの日記は書きたくないけれど、苦い不調も他人のことなら蜜の味?、てなわけで第10弾はこれにてお開き。お付き合いありがとうございました。拍手~!!、してくださいな。パチパチ~!!。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
↑ポチっと投票よろしくお願いします。

わたしは空っぽ

 時々わたしは自分のことを「あぁ、空っぽな人間かもな」と思うことがある。今までいろいろな経験をしたり、勉強したりしてきた。けれど、何にも残っていなくて空っぽなのかもしれない、と思う。
 わたしは何かの専門家ではない。何かについて専門的で体系的ないっぱしの知識を持っているわけではない。でも、それが何かとても愛おしく感じられるのだ。何者でもない。何者にもなれていない(もちろん洗礼を受けてキリスト教徒にはなったけれど)。そんな悪く言えば、専門を持たず、いろいろなことをつまみ食いしては渡り歩いているような中途半端な人間。
 でも、これがわたしなのだ。この中途半端で何もものになっていない、達成できていない。それがわたしなのだ。
 今まではそれがすごく嫌だった。何か立派な資格がほしいと思ったし、何か人に誇れるような肩書きがほしいものだと思っていた。何が何でも三流を脱したかったのだ。でも、たしか高校の時の卒業文集にこんなことを書いた人がいたんだけれど、ある人は一言「アマチュア万歳!!」って書いたんだ。わたしはその時は何言っているんだろう程度にしか思わなかった。けれど、今になってみると、プロにならずアマチュアでいること。そのことにもなにがしかの価値はあるのではないかと思える。もちろん、何かのプロになれるのなら、それはそれで素晴らしい。でも、そうした専門家になれない人はたくさんいる。じゃあ、専門家になれない人はダメかと言えば、そんなことはなくてオールラウンドにはできなくても専門家を超えている分野はきっとおそらくあることだろう。
 と、力んでみても何も始まらない。と、ここでわたしは別に空っぽでもいいんじゃないかって気がしてくるのだ。これは負け惜しみではない(まぁ、負け惜しみにも十分聞こえるけど)。ただわたしがこう思うっていうだけの話だと了解してほしい。
 知識って武器とか鎧(よろい)だと思うんだ。それらがあれば、ないよりは強くあることができる。だから、人はみなそうしたものを手に入れようと必死で努力するんだ。わたし自身、知識には助けられているところが大きいから、それらを全部捨てて丸腰で、いやもっと捨てて丸裸でなんて言うつもりはないけれど、それでも知識は人を高ぶらせるものだとは思う。「俺はこれを知っている」「わたしはこれを知っている」。たしかに医者だったら、患者に治療をするために医学的な知識は必要で、それなしにやったらヤブ医者で害悪ははなはだしい。でも、そういう場面ではなくて、人対人の場面の時にはかえってそうした知識が上下関係を作ってしまって水平ないわば対等な関係は難しくなるんだ。そんな時、空っぽな人はただ空っぽなままで相手とかかわる。わたしは何も持っていません。わたしは何もできません。でも、あなたの話を聞きたいです。それだけで十分じゃないかって気がする。どっちが偉いとか、どっちが知識が豊富とか、どっちが頭がいいとか、そんなことどうだっていい。ただ、相手の話を聞きたいと思っている。空っぽなのだから、相手を助けたり、助言を与えたり、何か気の利いたことなどもちろん言えない。でも、それでいいんじゃないか。
 今まで学んだこと、経験したこと。それらが記憶から消えてなくなった時、わたしは何が言えるのだろうか。覚えているのはイエスさまのお名前だけ。あとは全部忘れた。もしかしたら、本当に必要な知識はイエスさまのお名前だけなのかもしれないって思う。誇るものはもうわたしにはないし、誇りたいとも思わない。それでいいような。むしろ、それでいい。
 イエスさま、空っぽなわたしと共にいてください。

P.S. と書きつつも進歩向上したいという気持ちをわたしはなくすことができない。矛盾している。明らかに矛盾している。でも、それもわたしなんだよなぁ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
↑ポチっと投票よろしくお願いします。

しみバナ

 ヨガ、朝散歩、用事での外出。そんなこんなでわたしは8510歩も歩いているらしい。で、やっとほっと一息。
 8000歩も歩くと、脳の回路が切り替わるのかわたしは途端に書けなくなる。だから、この文章もしどろもどろに書いている。
 だるい。それにしてもだるい。ぐだぐだ不調日記を書くまでにはいかないけれど、それでもだるい。っていうことはぐだぐだ不調日記の出番ですか? 第10弾? 今、一瞬あなたはこれは面白くなりそうだな、みたいな顔をしませんでした? ぐだぐだ不調日記始めちゃいますよ? 期待をよそに(って誰も期待していないとは思うけれど)今回はしみじみとした文章を書いていけたらと思っている。しみじみ。しじみじゃないよ。しみじみ。しじみ。しみじみ。しじみ。だんだん文字が記号化されてきて、難しくなってきた。
 ところで、皆さんはお疲れだろうか? わたしは今疲れている。結構疲労が来ている。疲れた時には休むのが一番って言うけれど、わたしは「はい、休んでください」と言われてもどう休んだらいいのか分からない。時間を持て余してしまって、休めないのだ。というよりも休むことに集中しようとするあまり、逆に疲れてしまうみたいなやつですかね。
 休むの「休」。今気がついたんだけれど、人が木と並んでいる。だから、休んでいる。わたしの推測では、森林浴でもしてくださいって意味じゃないかなって思うんだ。根拠は? ない。自信を持ってそうだとは断言できないものの、それでも休むとは本来自然の中で休むことを意味していたのではないか。しかし、現代人は「人」と「スマホ」で休むものだと誤解してしまっている。にんべんにスマホと書いて休むみたいな感じだ。そんな現代人にこの漢字は大切なあり方を教えてくれているように思う。木と共に休む。自然と共に休む。そういうことじゃないかな。
 しみじみとした話。なかなかこれは難しいぞ。うーん、じゃあ、次はあの話。
 今日わたしはヨガをやろうとテレビをつけたんだ。そうしたら某高級ブランドのお披露目会みたいなものをやっていて、それはそれは高そうな服や装飾品を美男美女が身にまとっていたんだ。それを見て単純なわたしは何かイラっとしたんだよね。自分と彼らを比較して劣等感にさいなまれたわけさ。で、そのことを母に言ったら、母はわたしにこんなことを言った。「あの人たちは渇き続けている人たちだよ」って言うんだ。「どんなにいい洋服を着ても、どんなにいいものを身に付けても満足できないから気の毒な人たちだよ。好きにそういう人たちはそういう人たちでやらせておけばいい。」さらには、「ブランドのものって新しいのが次々に出るから、それを買い続けなければならないよ。一生それを追い続ける人生っていうのはつまらなくない?」しっかりとした聡明な母だとわたしは思う。
 人間誰しも渇いているものだ。カラカラで潤してくれる命の水を求めている。そんな時に、どんな水を飲むのかというのが大きいのではないかと思うのだ。高級ブランドに溺れるのはいわば塩水を飲むようなものだ。飲めば飲むほど魔法のようにのどが渇く。そして、血圧も上がっていき、体のコンディションはボロボロになる。それでも塩水はしょっぱくておいしいから飲み続ける。状態はどんどん悪くなっていく。
 ってしみじみとした話ってこれでいい? 大丈夫? しみじみというより、しみる話だなぁって思う。しみる話もいいねぇ。
 では、次のしみじみとした話へGO!!
 人生、何が役に立つのか分からないものだというしみじみ話をおひとつ。
 わたしの高3の夏休み。何をしていたと思います? そりゃあもう受験勉強に決まってるでしょう、といきたいところだけど、違うのだ。遊んでいた? 遊んでいたわけではないんだ。ちゃんと勉強はしてなかったけど、やることはやってたよ。それが何とパソコンのブラインドタッチの練習。高3の夏休みに追い込みをかけている同級生をよそに、わたしはひとりブラインドタッチの修得に向けて目下励んでいたのだった。華麗に両手でチャカチャカ、キーボードを打てるようになりたい。その一心で毎日のように受験勉強なんか一切しないでパソコンのキーボードを叩いてましたよ。受験生がブラインドタッチとか自殺行為なのでは、てな感じだが、そのブラインンドタッチが遅ればせながら今、猛烈に役に立っている。役に立っているなんてもんじゃない。このブログをこうしてチャカチャカ打てるのもまさに高3の夏休みの特訓の賜物なのだ。まぁ、受験勉強していた方がリターンは大きかっただろうけれど、この技能ができるだけでも実にありがたいし重宝している。人生、やっといて無駄なことは一つもないんだなとしみじみ思うのだ。だから、今やっていることの小さなものから大きなものまで、その一つひとつがわたしを形作っていて、それが未来のわたしへと確実につながっている。そんなことを思う。
 高校時代、1、2回面接をしてくれた臨床心理士の先生が「人生には無駄なことってないんですよ」としみじみ言っていたことが今となってようやく、あぁそういうことだったのかと分かる。あぁ、無駄なことってないんだな。全部尊い糧となって経験となってわたしを豊かにしてくれているんだなと思うんだ。
 しみじみとした話。略してしみバナ。しみじみとした話の先に何か大事なことがある。それに気付かせてくれるのがしみバナじゃないかな。
 一切は移り変わっていく。諸行無常の響きあり。これこそまさにしみバナの極み。しみじみを大切にしていきたい。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
↑ポチっと投票よろしくお願いします。

早起きができないんです

 アーユルヴェーダの基本。それは早起き。早起きは三文の得と言うように、アーユルヴェーダでは早く起きることをすすめる。
 が、できない。できていない。わたし自身の毎日を振り返ってみても、早起きができた日とそうでない日を比べたら、できていない日の方が多い。早起き。したらいいのは分かっているのに、できない。なぜできないのだろう。早起きするためにもなぜできないのか考えて、自分自身の気付きへとつなげていけたらと思うのである。お付き合い願いたい。
 うむ。では考えていこう。この論考(というほど大げさなものではないにしても)はきっと早起きしたいけれどできないあなたのためにもなることだろう。そう信じている(ってオーバーだよ、星さん)。
 なぜ早起きできないのだろう。考えられる理由を一つずつあげていこう。

 ①起きようと思う時間が早過ぎるから(わたしの場合、朝の4時に起きようと懸命に努力しているのだ)。
 ②二度寝してしまうから。
 ③自分の中で早起きすることが差し迫った問題ではないから。
 ④おそらく眠りの質が悪くなっているだろうから(運動不足等で眠りの質が低下しているからスッキリ起きられないのではないか)。
 ⑤わたしの深層心理において、早起きすることに必然性を感じていないから(要するに早起きしなくても何も困らないから)。
 ⑥(最後に)早起きしたくないから。

 一つずつ考えていこう。
 ①のように、朝の4時というのは早過ぎるのだろうか。今の季節でも4時というと、まだお日様も昇っていなくてあたりはまだ真っ暗。これは自然の本能に反しているのではないか、という気がしないでもない。なぜ4時に起きたいと思っているかと言えば、朝やりたいことをやるためにはそれくらいに起きる必要があるからだ。4時に起きなければ、十分にやりたいことをこなせない。そういうわけで、4時なのだ。それが早過ぎるのか。だったら、もう少し起きる時間を遅くして、起きやすくなるよう修正していくのも一考かもしれないとも思う。しかし、アーユルヴェーダの理想の起床時刻は日の出の1時間半前だという。季節によっても変動するものの、この教えに沿うのであれば、4時が妥当なところではないか。うむ、早すぎるのだろうか。
 ②の二度寝するから、はもっとも端的な理由だろう。わたしは4時に鳴る目覚まし時計のアラームを止めてはいる。止めてはいるのだ。で、また寝てしまうのである。これを改善するためにどうしたらいいのか。しかも、目覚まし時計は歩いて4、5歩のところ、つまりベッドから離れた場所に置いていて、それを止めるためにはベッドから出なければならないという条件があるにもかかわらず、なのだ。これはくせ者なのかもしれない。日頃の活動で疲れているのだろうか。にしても二度寝してしまうのである。この二度寝をやめることができたら早起きできるのにと、いつも二度寝した後に後悔するのだ。早起きのための最大の障壁はやはり二度寝であろう。
 ③と⑤は同じようなことで、わたしが早起きに差し迫った必要性を感じていないからではないか、ということなのだ。その証拠に何か外せない用事があって早起きしなければならない時にはスッと起きられるのだ。だから、何か深層心理的なものがはたらいているのではないか。自分の中で早起きしなくてもいいや、って思っているんじゃないか。そんな疑いが頭をもたげてくるのである。わたしは早起きしたいとこうして公言しながらも、実は早起きなんてしたくなくて、朝遅くまでズルズル寝ていたいだけなのかもしれない。だったらなおさらくせ者だ。わたしの深層心理に基づく本音と理想として頭で考えていることが乖離しているのだから。だったらどうしたらいいのだろう。何か早起きが楽しくなるような成功体験が必要なのかもしれない。わたしの深層を変えるような、何か早起きをしたことによるポジティブな体験などが必要かもしれない。
 ④の眠りの質が悪くなっている可能性については、最近ヨガをやって調子が良くなってきているものの、朝散歩がほとんどできていないことが原因として考えられるところだ。朝、日の光を十分に浴びることが、それも早い時間に朝日を浴びることが必要なのだ。朝散歩をする時間を捻出するためにも、やはりわたしは早起きする必要がある。朝起きるのが遅いと、起きてからすぐ食事といった感じになってしまい、食前の朝散歩ができなくなってしまうからだ。それに起床してから15~16時間後に眠くなる物質が大量に出始めるらしいから、夜の7時か8時頃に眠りにつくためにも逆算して朝の4時頃に起きるのが最もベストなのだ。あと思い当たるのは夜の5時とか6時頃にパソコンをやってしまうことが結構あることも原因として考えられる。ブルーライトが、人工的な光がやはり眠りには良くないのだ。しかも、夜の7時とか8時には寝たいのだから、その間近にパソコンをやっているのはやはりまずいだろう。眠りの質が低下してきてしまっているから、それを補うかのように二度寝したくなっているのではないか。その可能性も十分に考えられる。
 最後に極めつけは⑥の「早起きしたくないから」である。まさにこれこそ、哲学的な回答と言ったらいいのだろうか。いろいろと言うことはできるけれど、なぜ早起きできないかと言えば、早起きしたくないからだと言える。実にシンプルで明晰な理由である。「何であなたは昨日来なかったんですか?」と聞かれて「来たくなかったからです」と答えるその受け答えと同じものだ。だから、人間早起きしたければ早起きするし、したくなければしない。ただそれだけのことだ、とも言えるのである。何だか笑い話のようでもあるけれど、これは核心をついているよ。
 で、ここまで理由を挙げてきたけれど、じゃあどうするか。どうしようか。そんな時だった。たしかアーユルヴェーダのあの本に早起きのやり方書いてあったな、と思い出したのだ。それには次のように書かれている。

 早起きのコツ
 「思考をはさまずに体をベッドから出すこと」です。目覚まし時計が鳴ったら何も考えず、とにかくベッドから体を起こして立つこと。それが一番効果的だと思います。(略)
 そしてベッドから出たら……窓を開けて朝の光と風を体で感じます。すると、自然に目が冴えてきます。(アカリ・リッピー『アーユルヴェーダが教えるせかいいち心地よいこころとからだの磨き方』p50)

 やってみよう。とりあえず四の五の言わずやってみよう。早起きができるようになった先には朝の優雅な時間を満喫している自分がいるんだ。早起きをして、シャワーを浴びて、ヨガをやって、朝散歩して、そこそこ手をかけた朝食を作る。何て早起きした先には素晴らしい日々が待っているのだろう。
 あきらめないぞ。あきらめたくない。早起きするんだ。早起きしたいから早起きするんだ。まずは一週間続けることができるようにやっていくんだ。いや、まずは3日かな。まずは三日坊主になる。そして一週間坊主となり、二週間坊主となり……、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と続けていくんだ。
 と書きながらも毎日はきついかもしれない。でも、この初心というか、心意気を忘れないようにしたい。早起きは三文以上の得ですからね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
↑ポチっと投票よろしくお願いします。

PAGE TOP