礼拝の説教の感想「素敵なおじさまクリスチャンを目指して」

 今日は日曜日。というわけで、恒例の礼拝の説教の感想を。と行きたいところだけれど(「と」が多いな)、実は説教中に睡魔が襲ってきて眠ってしまい、ほとんど聞けなかったんだ、などというのは嘘で、最初から最後まで星さん、それは熱心に牧師先生から一瞬たりともほぼ視線を逸らさないで熱心に聞いておりました。が、何やら今日の説教難しくてほぼ理解できなかったんです。うむ、だから感想を書こうにも書けないんだな、これが。「サクサク○リンキー新発売、ジャン!!」というのは冗談だけど、書けない~。どうしよう。困ったな。そうだな、説教の感想を書けないのなら、教会へ行ってきてほとばしり出た星の思考を少しばかりご開陳することにしようか。うん、ま、それなら教会の感想だし。説教の感想ではないけどね。ただ、毎週もしかしたらこの調子になってしまうんじゃないか、と思うと少し先行きが不安になってくるものの、ま、いいでしょ。というわけで行ってみよー。
 思ったこと。人のふり見てわがふり直せ、って言うけど、まさにそのことについて考えさせられたんだ。ある人がわたしに淡泊な態度を取るんだ。取ってくるんだ。別の人にはフレンドリーにこれでもか、これでもかってなくらいに話しかけてにこやかに話をするのに、わたしにはまったくもってしてノータッチ。朝のあいさつ「おはようございます」は普通に返してくれるけれど、それ以上の会話は何もなし。わたしも距離を置かれてるのが分かっているから、話しかけるタイミングが取れずじまいで結局、今日も何も会話はしなかった。こんな調子でもう2、3年になる。もちろん、相手には相手の好みがあって、わたしのことを「ちょっとなぁ~」って思っているのかもしれない。でも、その淡泊な態度がわたしは寂しいんだ。むしろ、わたしはその人と仲良くなりたい。くだらない話だってお互いしたいし、信仰の話だってお互いできたらなって思ってるくらいなんだ。でも、とてもそんなことができるようになれる雰囲気ではないし、わたしとその人との間には高くて厚い壁ができあがっている。
 まぁ、言われるまでもなく分かってはいる。つまり、わたしとはその人はできることなら関わりたくないと思っているんだ。わたしが以前、その人にアプローチした時にもその人はどこか冷淡で嬉しくなさそうだった。要するに、仲良くなりたくないってことなんだろうなと推察するしかない。
 ここまで書いてきて、これはわたしの一方的な片思いだということが見えてきた(恋愛の片思いではないやつね)。一方が仲良くなりたいと思っても、その思いが受け入れられずはねつけられることだってあるんだ。はねつけられるまではいってないけれど、まぁ、向こうはそういう関わり方をしたいわけなんだろうな。それにもしかしたらだけど、過去に何か深い傷を負っていて、それがまだ癒えていないのかもしれない。わたしがその人の心の古傷をなでつけている可能性だってあるかもしれないし、それは分からない。
 クリスチャンであろうと、所詮はただの普通の人。弱さがあり、欠けがあり、もろさがあり、とてもではないけれどイエスさまの精神なんてこれっぽっちも体現できていない。そう、それはわたしも同じ。だから、人のふり見てわがふり直せ、なのだ。相手にこうしてほしいとか、こうあるべきだとか言いながら、その言っているわたし自身が何にもできちゃいない。イエスさまが説かれた隣人愛の精神にのっとるのであれば、その人は失格だろう。でも、わたしだってそれに負けず劣らず失格なのだ。失格者同士、不適格者同士。だからこそ、イエスさまに従っていくんだ。隣人愛を完全に実践できているのなら、もう教会になんて行く必要なんかなくて、自分が教祖さまにでもなって新しい宗教でも始めればいいんだから、ね。
 わたしはおそらく、その人とは親しくなれないことだろう。この他人行儀な距離感のまま、お互いこれからもやっていくことだろう。でも、わたしはその人の幸福を神様に祈り求めたいと思う。そして、陰ながらその人のことを遠くから見守っていきたい。
 その人からしたら、今くらいの距離感がわたしとの間ではちょうどいいのかもしれない。だから、それを強引に縮めようなどと強攻策に出ることなく、おだやかに平和な態度でいけたらと思う。わたしはその人と親しくなりたい。でも、その人はそれを望んでいない。だったら、相手のことを尊重するには今の関係性のまま行くのがいいんじゃないか。無理に自分の希望を押し通すばかりがすべてではないのだ。で、もしも何かの機会にむこうの気持ちが変えられて、わたしとの距離が縮んだら、それはそれで「わたしの願いをかなえてくださりありがとうございます」と神様に感謝する。でも、それがかなえられなかったとしても、それが神様のみこころなのだろうから、それはそれでよしとしたいと思う。
 人間に成熟した態度があるとしたら、それは何から何まで全部自分の思い通りにすることではないことは明らかだ。それは未成熟な小さな子どものわがままな態度だ。そこを一歩こらえる。こらえて、ひく。押すばかりではなくて、ひくところで思慮分別を発揮する。それが成熟であり、大人の態度だと思う。この記事を書くまでのわたしは今のわたしよりも青かった。何から何まで全部自分の思い通りにしようとしていた。そして、それがかなわないことに腹さえ立てていた。でも、こらえるんだ。ひくんだ。大人になるんだ。
 星の精神年齢がすこし上がって大人になりました? 子どもっぽさはまだまだ抜けないけれど、素敵なおじさまクリスチャン目指してやっていけたらと思う。
 って今週、こんな感じでいい?
 星がおじさまクリスチャン目指してるんだってさ。ま、あたたかい眼差しで見守っていてくだされ。乞うご期待。

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孤高の芸術家の星?

 それにつけてもおやつはカール♪ ではなくて、それにつけてもわたしのブログは人気がない。「はぁ」とため息が出てしまう。
 ここ最近のわたしの記事で、自分を励ますようなことを書き続けてきたけれど、やっぱり人気というものが得られるのであればほしいと思ってしまう。
 毎度毎度のわたしの2000文字超の記事。書くのに1時間ちょいかかるんだ。それに比べて、他のブロガーはそんなに記事を書くのに時間をかけない。中には、今日の出来事、近況報告だけしか書かない人さえいる。で、そういう人に限って、わたしのブログの何倍もの読者を得ていて人気がある。
 世の中にはわたしなんかよりも努力していて、かつ報われていない人もいるだろうから、あんまり声高には言えないけれど、それでも努力って必ず報われるとは限らないんだなってつくづく思う。才能のある人がちょちょいと仕上げた仕事の方が評価されることだってよくあることじゃないの。その何倍も努力したものの、一向に報われない人。それは努力の方向が間違っているとか、才能がないからなんだろう、とか好き放題言おうと思えば言える。でも、世間ではあまりこういうことは大きな声では言わないんだ。頑張れば必ず報われる。だから頑張れ、の一点張りでね。もちろん、星のブログ記事なんて毎日書いたとしても、せいぜい毎日1時間の努力。こんなもんじゃなくて、毎日多くの時間を割いて心血注いで何かをやっているのに結果がついてこない人、いるんじゃないかな。はっきり言って、どんな世界でも成功した人にしかスポットライトが当たらない。頂点をつかんだその成功者、勝者だけにしか勝利インタビューは許されないんだ。でも、そのチャンピオンを頂点とした時に、そのピラミッドの下には名もない多くの人の群れがいる。えてして、そうした人々は黙殺されがちだ。チャンピオンが勝利インタビューを受けるのを横目に己の力が及ばなかったことを痛感する。
 わたしのブログは人気がない。まさに細々とさえしていて、閑古鳥も同然。記事の中でいいこと言えてると思うのになぁ。結構冴えてると思うんだけどなぁ。やっぱり、独りよがりなのかなぁ。方向性が間違っているのかなぁ。などといろいろ思いをめぐらせてはいる。
 でも、単に人気が出さえすればそれでいいのだろうか、という疑問も一方ではわいてくる。
 わたしの現状を陶器職人にたとえるなら、わたしは文章という壺を作っているんだ。その壺、自分では結構いい感じにできたと思っている。けれど、ほとんど誰からも見向きもされない。多くの人々からわたしの壺は価値あるものとは見なされず、素通りされている。となれば、考えられるのは壺のクオリティー自体が独りよがりで低いのか、あるいは大衆ウケする壺でないのか、のうちのどちらかということになる。そう考えると、わたし自身、壺のクオリティーが低いとは考えにくいから(いや、そういうのが分からないのが致命的なのだろうか?)、やはり人々の求めるものを提供できていないのだろうか。
 人々から必要とされる。人々から認められる。人々から価値ある存在だと思われる。それも良く言えば商品価値があるということで、悪く言えば単に大衆ウケしているだけ。
 ここでわたしには二つの道のどちらを行くかという選択肢が出てきた。一つの道は人々から認められようがどうだろうがそんなことは気にせずに己の道を突き進む。とにかく自分が作りたい壺を探究していく。もう一つの道は人々に気に入られて必要とされるようなニーズに合致したものを目指していく。自分が作りたい壺ではなくて、受け入れられる壺を目指していく。
 この両極端な二つの道のどこあたりでやっていくか、というのが今後のわたしのテーマのような気がしてきたのだ。この二つの道はどちらか二者択一といったものではなくて、どの程度の案配でその方向性で行くのか、といったところだろうと思う。だから、半々くらいで行くというのも一つの道だろうし、いや、片方にやや傾くくらいがいい、という案配もある。
 こう考えていくと、世の中には人々からは評価されていないけれど、あるいは酷評されているけれど、優れたものって少なからずありそうだ。
 とここまで書いてきて、わたしの方向性が見えてきた。孤高の陶器職人(文筆家)と呼ばれてもいいから、ひたすら自分が納得できるような壺(文章)を目指して精進していけたらと思えてきたのだ。そうなれば、人々からの賞賛は得られないかもしれない。いや、賞賛とは無縁な芸術活動になる可能性のほうが断然高い。でも、いいのだ。日々細々と暮らしていくだけの糧はあるのだから、文筆はそれにプラスするオプションみたいなものであればいい。で、やっていって、生計が得られるようになったら万々歳。得られなくともそれはそれで文筆自体は続けられているのだから、それも良し。社会的に成功してもしなくても、自分が書きたいものをどこまでも追究していくことができればそれでいいのだ。何も万人にウケようと迎合する必要はない。うーん、まさに芸術の茨の道。孤高の文筆家の星と呼ばれたら(呼ばれさえしなくとも)それで良し。
 今日もいい壺(文章)作っていくぞ~!!

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リスペクト

 テレビをつけても、ラジオをつけても、新聞を広げても、どこもかしこも「これが正解です」と言わんばかり。様々な思想が飛び交い、ライフスタイルが提案され、「これしかない」と強気で主張する人たち。みんながみんな強気ではないのだけれど、それでも自分の人生の多くの時間を費やしてきた生き方というだけのことはあって、どんなに控え目な人であっても自信はあるようだ。
 その自分が実践している生き方なり、思想なりが別の誰かによって否定される時、そこには怒りが生じる。自分が大切にしているものをけなされたことへの怒り。踏みにじられたことへの怒り。それもそうだろう。だって、その人はそれを否定されてしまったら「あなたの人生無駄でしたね。ご苦労様」と言われるに等しいからだ。たとえば、わたしがキリスト教神学を勉強しているとして、それも本当に心血注いで多くの時間をかけて勉強しているとしたら、それを「意味ないね」と言われたらどんな気持ちになるかと言えば、察するのは実にたやすいことだろうと思う。
 なぜかは分からないけれど、ふとわたしに「働け」とこのブログのコメント欄で言ってきたYのことが思い出された。働いている人間と働いていない人間の正面からのぶつかり合い。一言で言えば、そんな感じだった。で、あまりにもわたしの生き方を彼は否定してくるものだから、本当に頭にきて「あなたのようにはなりたくない」ってわたしは返答したんだった。お互いが大切にしているものを否定し合う。これって不毛だよね。
 神様は十戒の安息日の規定のところで、一週間のうち6日は働きなさい。そして、安息日に休みなさい、って言われたんだ。つまり、仕事をして働きなさいってことのようだ。わたしはクリスチャンだから、神様の命令に従う義務がある。そう単純に素直に考えるなら、わたしは働いていないのだから神様の掟に逆らっていることになる。でも、とここで苦しい言い訳をするのであれば、たしかにわたしは賃金が発生する労働はしていないけれど、勉強したり、料理をしたり、ごみ出し、洗濯などの家事の多くをやっている。これらは仕事としては認められないのだろうか。もっと根源的なことを言うのであれば、生きていること自体が仕事ではないだろうか。すぐちょっとしたことで死にたくなるわたしにとってこの毎日の生活というのは仕事のようなものだ、と言うのは断じて甘すぎるのだろうか。Yだったら、「甘い。そういう風にぐだぐだ言っている暇があるのだったらとにかく働け」とわたしに言うことだろう。
 ともかく、この神様からの十戒であっても、わたしの解釈を用いるなら、わたしだって立派に仕事はしているし、神様の前で十分勤めは果たしていると思うのだ。
 大抵、人と人が言い争いを始める時というのは、自分の正解をお互い相手に押しつけようとする時ではないだろうか。神学的な物言いをするなら、本当の正解を知っているのは神様だけだと思う。人間もある程度は正解を知っているけれど、絶対的な100%正しい正解というものは知らないと思うのだ。もちろん、自分や人を傷つけることを相対的にとらえて、それらが絶対的にいけないことではない、などと言うつもりはわたしにはない。それらはダメだと思うのだけれど、例外だってあるだろうし、何が何でもどんないかなる場合においてもダメなことだ、とは断言できない。最後は神様だけがご存知の領域。
 しかし、前言撤回するけれど、わたしにとってこれは、と思う掟はイエスさまが言われた「互いに愛し合いなさい」である。この掟、すごいんだよなぁ。これに反しながらできる悪いことって何にもないんだ。
 さっきの話で考えると、自分の正解を相手に押しつけることにしても、それが愛し合えているか、と問われれば違うと言うしかない。いや、これは相手を正しく導くための愛の鞭なんだと正当化することもできなくはないものの、その鞭によって言い争いが始まるのだから、わたしはこれは違うと思う。
 もしも愛のある物言いをしているのであれば、それは相手に伝わる。押しつけるというのは愛のない物言いだと言ってもいいかもしれない。
 それに変わりたいと思っていない人にどんなに口を酸っぱくして言っても、ただそこには抵抗や反抗が生じるだけ。適切な時期に、適切な言葉で。そうでなかったらその言葉はただの雑音だよ。スポーツで考えてみても、スポーツ教室とか部活動で指導者からこうした方がいい、って言われて素直に受け入れることができるのは、上達したいっていう気持ちがしっかりとあるから。上手くなりたいとも何とも思っていない人にアドバイスしてもそれは無駄ではないだろうか。むしろ、「わたしは楽しむためにやっているのに余計なことを口出しして」と反感をもたれるのが関の山だ。だから、働きたいとは思っていない人間に「働け」と命令するのは無意味な行為だと言える。その人が機が熟して、その一押しをしてもいいという絶好のタイミングが来た時に背中を押す意味での「働け」は響くだろうとは思うけれど。
 少なくとも、相手に自分の考えを押しつけて変えようとする人は安全な人だとは言えない。安全な人は、相手を批判しないし、アドバイスだって本当に状況を見計らって慎重にする。人に何かをすすめることにだって神経を使うくらいなんだから。
 相手に「こうしろ」「これやれ」と命令する時、そこにあるのは自分の方が相手よりも正しいという意識だ。相手は間違っていて、その間違っているお前のために教えてやっているんだ。そうした傲りがそこにはある。自分がもしかしたら間違っているかもしれない、という謙虚さや慎重さはその態度には微塵も感じられない。俺は人生の正解を知っていてそれを教えてやっているんだから従え。なぜなら、それは絶対正しいからだ。
 そうじゃなくて、わたしは共に生きていきたいな。共に生きていく、つまり共生するためには相手へのリスペクトが必要じゃないですか? 自分と違う相手を無理矢理、自分と同じようにするのではなくて、違いを認め合うんだ。だから、わたしはYを否定してはいけないし、Yだってわたしのことを否定してはいけないんだ。お互い話をすれば噛み合わなくて平行線なところも多いだろう。でも、否定してはダメなんだ。相手の存在を否定してはいけないんだ。その人の歩んできた、そして現に歩んでいる人生にリスペスト。敬意を表する。「頑張ってるじゃん」「よくやってるよ。ご苦労様」っていう言葉をお互いかけ合うんだ。
 と書いてはみたものの、これが本当に難しい。異文化理解みたいなもんだからね。
 リスペストする姿勢がこれからの時代、求められていくだろうと思う。「よく頑張ってるね」とお互いねぎらえるようになった先にはきっと新しい関係性が広がっていくんだろうな。
 リスペクトすることが難しい相手をリスペクトする。否定して切り捨てるんじゃなくて、ね。そこから始まっていくんだよ。

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わたしのプロセス

 本などの著者略歴を読むたびに、以前のわたしはため息をついていた。彼らの華々しいプロフィールとは裏腹に、わたしが実にパッとしない人間であることを思い知らされていたからだ。わたしが読む本の著者たちは、東大、京大、慶応、早稲田、名だたる学校の出身者。わたしはと言えば、高卒、現在放送大学在籍中。うーん、パッとしないんだなぁ。
 しかし、最近何かそうした学歴主義から解放されつつある。うらやましいことはいまだにうらましいのだけれど、それでも何かわたしの中に変化があって、それはそれで置いておこうと思えるようになってきたのだ。
 そもそも人生は比べるものではない。わたしとAさんを比べて、どっちの方がいい人生を送ったか。送っているか、とか比べるのはそもそもナンセンスだし、意味がないということに気付いたのだ。わたしにはわたしの人生がある。わたしにはわたしの歩みがある。人生のプロセス(過程)があって、歩むスピードがあり、置かれた環境があり、ここまで背負ってきた過去の歴史がある。わたしの人生はわたし独自のものだし、似ている人はいたとしても、わたしとすべて同じという人はいない。わたしの人生は世界に一つだけのものであって、そしてわたし以外にわたしの人生を代わりに生きてくれる人はいない。
 だから、「あなたの生き方って価値がないね」とか、「あなたの人生って無意味だったね」と他者が決めつけてジャッジするのは一番やってはいけないことなのだ。もしも、そう判断してしまえるとしたら、それは実に軽薄なものの見方だと思う。その人のことなんてほんの一部しか知らないのに、たったそれだけの断片だけで判断をくだして、総括して悦に浸っているからだ。
 誰かが「星ってダメだよな。何にもできてない。まず働いてないし、結婚さえできていないし、マイホームを築けていないし、子どもだっていないし、車の免許さえも持っていない。俺と比べて本当お前はダメな奴だよ。俺を見習ってまずは働いてみろよ」と言ったとして、たしかにその指摘にもその観点から見るなら一理ある。批判者が言うように、わたしは何にもできていないのかもしれない。ダメなのかもしれない。でも、わたしにはわたしなりの歩幅というものがあると思うのだ。進んでいく、歩んでいくペースというものがあると思うのだ。たしかに批判者から見たらわたしにはやる気がないように思えてしまうかもしれないし、まさにダメ人間の典型として映ってしまうのかもしれない。批判者の基準、世間一般の基準に照らし合わせると、全然そのラインにまで到達できていない、ということなのだろう。でも、その基準って絶対的なものなの? 批判者や世間が決めた基準のラインって絶対なの? 70点以上が合格のテストで50点を取ったらそりゃあ不合格だ。合格点に達していないのだから。でも、だからと言って、その人がダメだということにはならないんじゃないかなぁ。ただテストで点が取れなかっただけ。合格できなかっただけ。それなのに、その人自体が何か劣った存在であるかのようで、反対に合格できた人や合格どころか満点を取った人が人間的に優れているかのように思ってしまう。そんなことないのに。
 何かで読んだんだけど、日本人って能力と人格を結びつけがちなんだそうだ。能力的に優れている人っていうのは人格的にも尊敬できる、というように錯覚してしまうらしいのだ。でも、冷静に考えてみればそんなことはない。テストで100点とかそれに近い点数を取った人を手放しでそのまま尊敬できるかと言えば、そうは言えなくて優秀だけれど人格が荒んでいる人というのはいる。逆にテストはできないけれど人格的に素晴らしい人もいるんだ。
 わたしたちはともすると誰かと自分を比べてしまう。そして、気持ちを激しく落ち込ませてしまう。しかし、どんなに他の人の人生が素晴らしいものであるかのように思えたとしても、それはその人の人生なのであって、わたしの人生ではないのだ。うらやんだり、嫉ましく思ったところで、わたしの人生に何か変化が訪れるわけではない。わたしは思う。そんな自分の気持ちを沈ませるネガティブな感情に支配されているよりも、自分の人生を豊かにすることにつながっていくことを何かやる方が建設的ではないだろうか、と。自分よりも高い場所にいる人をひきずり下ろしたところで自分が向上するわけではない。うらやましい、ねたましいと思ったところで、それだけではこれも同じく自分は上昇していかない。
 わたしにはわたしの人生のプロセスがあって、AさんにはAさんのプロセスが、BさんにはBさんのプロセスがあって……、と一人ひとりにはそれぞれの過程があるのだ。だから、それを全然できていない、とか遅いとか、もっと速くとか言わないほうがいい。うさぎのようにピョンピョン、どんどん前へ進んでいく人もいれば、亀やかたつむりのようにゆっくりゆっくりと進んでいく人だっている。そのどちらが優れているとか劣っているとかジャッジする必要はそもそもない。それをしてもいいのは神様だけだとわたしは思う。神様は全部のことをご存知なのだから公平で正確なジャッジがおできになる。だから、これは神様だけの特権(というか万物は神様が造られたのだからね)。神様だけが行使していい権限。
 わたしのプロセス。誰かのプロセス。プロセスを大事に、大切にしていけたらと思う。それこそ必要なことではないかなぁ。

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礼拝の説教の感想「世界をポカポカに」

 今日は日曜日なので、教会の礼拝に行ってきた。そして、一休みしてあともう少しで午後の2時といったところ。それにしても暑いですね、と言いたくなるほどの快晴。お天気日和まっただ中である。
 今日は平和主日ということで、いつもの福音書ではなく、ミカ書4:1-5が本日の聖書の箇所だった。
 平和主日。平和って一体いつになったら実現されるのだろう。剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すって今日の箇所では言っているけれど、そんなこと実現できるのかな? そもそも、人間が生きている限り、争いごとはなくなる気配はまったくないし、現にウクライナでは今も戦争が行われている。そんな調子で今日の説教は始まったと思った。この状況下で、平和とか何とか言うのが綺麗事ではないのか。牧師は広島の話を中心にして、現実がドロドロしていることをこれでもか、というくらいにわたしたち信徒に突きつけてくる。そんなこと言われてもどうしたらいいんですか? 良心的な信徒である(自称)わたしはやはり困り始めてしまった。
 わたしはどうも、戦争の悲惨さを語ろうとする人が苦手だ。その人のことが嫌いなわけではなくて、単に途方に暮れてしまうからだ。
 で、結局というか、この厳しい現実を前にして何ができるか、ってなった時に牧師はまとめるかのように祈り求めていきましょう、とたしか結んだ。わたしたちって実に無力。教会に来て「世界が平和になりますように。アーメン」と祈るのだけれど、そんなことは関係ないかのように、世界では戦争や紛争などが起こる。それも立て続けに起こり続ける。わたしたちのアーメンはどこへ行ってしまったのだろうか。神様だってこういうわたしたちの平和を求める祈りはかなえてくださらない理由なんてないよね。却下したり、拒否したりするなんて愛の神様だったら絶対なさらないはずだよね。でも、そんな優しい神様のはずなのに、一向にわたしたちの平和を求める祈りはかなえてくださらず、実際物理的な力や行動などが幅をきかせている現実。
 ここまでの話を踏まえるなら、牧師が祈り求めていきましょう、というのが一牧師、信徒たちの限界ではないかと思えてくる。でも、わたしはここから一歩踏み出したい。何も目新しいことを言うつもりはない。もうすでにわかりきっていて、そんなの言われるまでもないよ、っていうことをあえて(?)言おうかと思う。
 わたしたち一人ひとりが心の平和を求めていけばいいと思うのだ。何だ、そんなこと言われなくたってやってるよ。そう言いたい気持ちも分かる。でも、究極的にはこれしかないんじゃないかって今日の説教を聞き終えたわたしは思うんだ。「一人ひとり」というのがミソであり大切なポイント。これは大統領も、総理大臣も、お偉い政治家も、はたまた権力を何も持っていないスラム街で暮らす人も、日本人もアメリカ人も、大人も子どもも、男性も女性もそのどちらでもない人も、ありとあらゆる人のことを言っているのだ。
 ひとつ確実に言えることは戦争を始める人っていうのは絶対に心が平和ではないと思うんだ。心が平和なのに軍事侵攻するなんてそんなバカな話があるわけがない。アティテューディナル・ヒーリングの人間観で言えば、人間は二種類しかいない。ポカポカしたあたたかい心でいる人と恐怖などの怖れにとらわれていて助けを求めている人の二種類。だから、戦争を仕掛ける人というのは怖れに支配されてしまっている人なんだ。こうした人はもちろん悪者扱いされるけれど、実は困っている人であって、助けてくれ~って叫んでるんだ。
 だから、世界を平和にする方法はわたしが言うこの方法しかない。一人ひとりが自分の心を平和にしていくんだ。そして、実現不可能ではあるけれど、すべての人の心が平和になった時完全な平和になり、多くの人の心が平和になった時にはおおむね平和が達成される。
 もちろん、そんなことは不可能で絵空事でしかなくて、今日のミカ書の4章にもある通り、それは世の終わりにならなければ実現しないことなんだ、というのはもっともだ。でも、世界を1ミリでも良くしていくことには限りない意義があり、れっきとした価値がある。そう考えていった時、このわたし、そしてわたしたちにできることは自分の心を平和に整えていって、少しでも平和の循環を促進していくことではないだろうか。まずは自分の心を平和にする。そしてさらには自分のまわりの人たちへと影響を広げていく。そんな調子で多くの人が心の平和を実現していけば、きっとこの世界は1ミリずつでしかないかもしれないけれど、確実に良くなっていく。身近な人の話をアドバイスや批判などをしないで、ただただあたたかいポカポカした態度で聴く。ポカポカは広がっていく。それは平和が広がっていくということだ。だから、何も難しいことをすることだけがすべてではない。専門的な知識が必要なことは専門家に任せておいて、わたしたち凡人はただただ自分のポカポカで身近な人をあたためていくんだ。
 ポカポカした人がどこまでも増えていった社会はきっとあたたかいのだろうな。そうした世界はとても居心地がいいだろうな。冷たい怖れか、それともポカポカの愛か。世界を単純化しすぎているきらいはあるかもしれないけれど、要はそういうことなんじゃないかなって思う。
 わたしの心をまず平和にする。これ世界規模の運動にしたらいいと思いません? 絶対効果あると思う。世界をポカポカにする運動。以上が礼拝の説教の感想。某時間テレビも言っているように愛(ポカポカ)は地球を救うはずなのです。きっと。

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