キラキラと本当の人間の価値

 今朝、何ヶ月ぶりだろう。テレビを見た。朝の番組を見たのだ。そうしたら、すごく気分が悪くなってきた。
 なぜかと言うと、テレビに出ている人たちがみんなキラキラしていたからだ。乃木坂が出ていた。彼女たちは洗練されたまばゆい美の集団で、それはそれは光り輝いていた。それから、大リーグの野球で日本人選手が活躍しているらしい。しばらくすると、マッチョの体格のいいお兄さんが出てきた。それから、イケメン俳優も出てきたな。極めつけは東大の先生。理路整然と冴えたコメントを時間内に述べていた。
 で、彼らのキラキラを見た後に、さてわたしは、と視線が自分に移ると、何だか自分がとてもしょぼく思えてきてしまったのだ。何にもできていない自分。何かの世界で活躍することなどはるかに及んでいない自分。彼らのキラキラの前でわたしはまるでどぶの水みたいな、そんな風に思えてきてしまった。
 自分よりも優れている人と比較してしまったから、こんなことになってしまったのだろうか。テレビを見る前までは、自分も満更悪くないと思えていたのに、テレビを見るともうダメなのだ。途端にしょぼく見えてしまう。
 わたしはキラキラすることに対して憧れを通り越して強迫観念すら持っているんじゃないかって思う。まさに、これはキラキラ病だと思う。星さん命名、キラキラ病。

 キラキラ病:キラキラ病にかかると、自分がキラキラしなくてはと思ってしまいます。そして、自分がキラキラできていないと激しい劣等感に沈んでしまい、自己肯定感は地の底をはいずり回ります。さらには、自分がキラキラになれないことが確定的になると、キラキラしている人たちを妬み、呪いさえすることでしょう。キラキラ病は早期に治療することが必要な精神的な病(?)です。

 キラキラ病にかかっているわたしはどうしても自分がキラキラになりたいと思ってしまう。光り輝いていたいと思ってしまうのだ。
 平凡ではダメなのだろうか。大衆に埋もれていてはダメなのだろうか。ダメだと断言することはできなくても、キラキラしていた方がいいに決まっている。
 と、ここまで書いていたらあることに気が付いた。全員がキラキラだったらこの社会はどうなってしまうのだろうか、と。幼稚園で桃太郎の劇をやるとして、登場人物全員が桃太郎。桃太郎、全員集合!! で終わりになりそうだ。家来の犬と猿とキジなんか出てこなくて、ひたすら桃太郎。というか、桃太郎しか出てこない。
 それと同じように、もしもこの社会で全員がキラキラする表舞台に立つような仕事をしていたらどうなるのだろう。全員が弁護士、とか、全員が医者とか、全員が俳優とか、全員が芸能タレントとか。言うまでもなく、その社会はそれでは回っていかないだろう。責任ある立場で仕事をする人もいれば、あまり責任を負わないで簡単な仕事をする人もいる。いろいろな人がいる。だから、この社会は回っているんだ。だから、一見キラキラしていないように見える人も必要なんだ。それに全員がキラキラしていたら、みんなキラキラしているわけだから、キラキラが平凡っていうことになってしまうよ。だから、ほぼ全員がキラキラしている社会では、キラキラしていないのが逆にキラキラだったりっていうことになるのかな。それはともかくとして、いろんな人がいるからこそこの社会は成り立っているんだ。それが職業が一つになってしまったら画一的で面白くないよ。
 要するにわたしは自分にスポットライトが当たるような仕事をして、ちやほやされたいようだ。ほめられたいんだ。賞賛されたいんだ。すごいって言われたいんだ。尊敬されたいんだ。憧れてもらいたんだ。
 でも、それは承認を求めているだけなんじゃないの?、とお気付きの方もおられることだろう。そうなのだろう。自分の価値を仕事で成功することによって高めたいのだろう。つまり、自分の価値と成し遂げた仕事とが連動していて、立派な仕事をした人はそうでない人よりも価値がある、という思想に基づいている。みんなから賞賛されたり、尊敬されるような人になること。そして、そのために偉大な仕事をすること。そのことによって、わたしの価値が上限知らずにどんどん高まっていく。そんなイメージなんじゃないか。
 ってそれは反対に仕事も何もしない人、何か大きなことができなかった人は人間としての価値が低いという思想をも表してはいないだろうか。
 人間の価値。人間の価値とはどのようにして決まるものなのだろう。つまりはそこに行き着く。人間に本当の価値があるのだとしたら、それは一体どのようにして測られるのだろう。そして、誰にその測るための基準を作る権利があって、誰にそれを判定する資格があるのだろう。とここで気付く。それって神様だけの特権じゃないのってね。人間に別の他の人の価値を決める権利なんてないよ。それでも、たしかに生産的な価値というものはある。どれだけお金をその人がつくることができるかっていう基準に従った価値だ。その価値に従えば、働いている人は働いていない人よりも偉くて価値があって、さらに働いていない人でも国に面倒をみてもらってない人はそうではない人よりも偉くて、最も下に位置しているのがみんなに迷惑をかけている法律に従えないような人たち。でも、その生産的な価値が低かったり、ない人であってもその人たちには本当に価値がないかどうか、って言えばそんなことはない。それを決めていいのは神様だけなんだよ。もちろん、神様が「こいつはダメな奴だから価値なし」と判定されるなら、被造物でしかないわたしたちはそれに黙って従うしかない。でも、神様はそんなことは言わないと思うな。というか、できないと思う。だって、御自分がその人を造りたくて造られたんだから、神様にとってはその人は最高傑作なんだ。御自分の手による最高傑作。それが被造物なんじゃないかな。だから、ハエだって、ゴキブリだって、わたしたち人間は嫌うけれど、神様にとってみれば最高傑作なんだろうと思う。ましてや、人間ともなれば溺愛ものじゃないの?
 あくまでもわたしたちが「あの人価値があるよね」「あの人素晴らしいよね」と判断する時には、人間の価値基準に従っている。こういう人は価値があって、こういう人は価値が低かったり、ない。そんな勝手な基準を作り出しては、人間の価値を決めつけている。でも、これと同じように、神様には神様の基準があると思うんだ。いわば、神基準が。それこそが真理なんじゃないか。人間の小賢しい浅はかな基準などとは比べものにならないような完全な価値基準を神様はお持ちなのではないだろうか。
 神の前の平等。そのことに思いを馳せるとき、人間のキラキラ基準に合致するかどうかなんていう了見の狭い見方ではなくて、もっと聖なる見識があることに気付かされる。
 わたしはこうここまで書いてきたけれど、それでもキラキラへの憧れは消えていない。でも、キラキラできるかどうかが人間の価値だなんて神様はおっしゃられないだろうから、この単純にキラキラすることに憧れてしまう自分自身のあり方を検討する必要があるかもなって思った。というか、世間でいうところのキラキラにならなくても、なれなくても、もしかしたらもうすでにわたしはキラキラしているのかもしれない。神様の被造物として、この世に誕生しただけで、もうそれだけでキラキラまばゆいばかりに光り輝いているのかもしれない。となると、キラキラはさらにキラキラすることなのかな? もうすでにキラキラしていて、この平凡な日常も天国であってパラダイスなんだ、と思えそうだけれど思えない(はっきりしないなぁ。そこはパラダイスなんだ、と断言しろよ)。
 キラキラになれなくても、もうすでにわたしはキラキラしていた? キラキラに憧れつつもいろいろ考える星なのであった。

 色がある。ものには必ず色があって、バラエティーに富んでいて、見ているととても楽しい気分になってくる。もしも、世界に色が一色しかなかったら、と思うと残念に思えてくるし、そんなの面白くない。
 ものに色がいろいろあるように、人にも色がある。これは礼拝の説教で牧師が語ったことの受け売りではあるのだけれど、人によって色が違うらしいのだ。みんな違う色をしている。もちろん、似たような感じの色の人たちもいることだろう。そうした人たちはお互いに波長があって、話が弾むのだ。それとは反対に、色が違いすぎると話をしても噛み合わなくて平行線ということが多そうだ。それはともかくとして、人には色がある。その色は一卵性双生児といえども、同じではなくて、一人ひとりが違うのだ。
 そう考えていくと、わたしは何色なのかな? 黒っぽい感じの色? それとも白っぽい? 暖色系? 寒色系? わたしは自分では明るめの暖色系だと思っているのだけれど、みなさんの目には星が何色に見えるだろうか? 意外にもクールな感じがして暗い寒色系に見えているのかもしれない。
 その人の色は瞬間ごとに変わり続けているものじゃないかって思うんだ。次の瞬間に黒が白に変わる、なんて大きな変化はなかなか起こらないけれど、それでも微妙に色は変わり続けている。だから、その人の色というのは、一期一会なもので、その人が全く同じ色になることはもうないんだな(限りなく近い色になることはあるだろうけどね)。この色は生きていて、常に変化し続けている。変わり続けているんだ。
 わたしもあなたも変わり続けている。変わる程度はその時、その時によって違って、大幅に色が変わる時もあれば、わずかにしか変わらない時もある。色が大きく変わる時というのは、何か人生でビッグイベントが起きた時だろう。最愛の家族が亡くなったとか、結婚したとか、子どもが生まれたとか、マイホームを買ったとか、そんな大きな出来事。少ししか色が変わらない時というのは、いつも通りに時間を過ごしたりしてあまり生活に変化がなかった時じゃないかな。
 ともあれ、そんなわけでわたしも色が変わり続けている次第であります。自分のことをカメレオンみたいだな、って思う。何だかそれは自分にしっかりとした軸がなくてブレまくっているようだけれど、本当、カメレオンみたいだなって思うんだ。読む本、体験すること、それらによって色が本当によく変わる。コロコロ、コロコロ、寒色系が暖色系に急変するほどの変化ではないものの、それにしても色が変わるんだよ。ブレない軸がほしいと思いながらも、なかなかこの影響の受けやすさは変わらないな。もちろん、イエスさまを信じているという軸は変わっていないけれど、それでも自分にとっての信仰の形は日々アップデートされていると思う。基本線は変わっていないけれど、それでも今日の信仰と昨日の信仰では姿勢において、若干違うような気がするんだな。「それでいいんかい?」とつっこまれそうだけど、まぁ、わたしがそういう感じなんだから仕方がないんじゃないの?、としか言えない。
 わたしが今どんな色なのか、大雑把なことは分かっているつもりだけど、それでも自分で自分の色をはっきりと見ることはできないと思う。この色を一番正確に把握しておられる方は神様だ。まぁ、家族もわたしの色を把握していると言えば、そう言えないこともないものの、それは不正確なものだ。人間は全能ではないから、限られた認識しかできない。ゆえに偏り見ることしかできないんだ。いわゆる偏見でしかものを見ることができない。そんな偏りなどない存在と言えば、もう神様しかおられないでしょう。てなわけで、神様だけがわたしの正確な色を、それも本当の色を見ることがおできになる。
 神様だけがわたしの本当の色を理解していてくださっている。何という慰めなのだろう。わたしをわたし以上に理解してくださっているお方。それが神様なのだ。だから、わたしのちっぽけな自己愛をはるかに超えた愛がそこにはある。わたしの色はドロドロしていて醜いことだろう。ここには書き尽くすことができない醜さがわたしにはある。そのくすんだ腐ったような色であるにもかかわらず、神様はそれでも愛してくださっている。きれいな色とか美しい色とか、そういうものを愛するのは人間でもできることだ。でも、人間には難しかったり、できないことは、汚(けが)れている存在を愛することではないだろうか。さきにわたしは自分のことを明るめの暖色系ではないか、と書いたけれど、本当の色はどぶのような泥のような、どう見ても美しい色だとは呼べない、それはそれは見る者をぞっとさせる色なのではないか。
 上から厚塗りされていて、ごまかしてある色も神様には透けて下の本当の色が見えていることだろう。それでも、神様はそんな色のわたしを全身全霊で愛してくださっている。何という恵みなのだろう。
 瞬間、瞬間ごとに新しくつくり変えられているわたしの色。その色が深みのあるものになっていったらいいなとわたしは思う。深い、深い、簡単には出せない味わい深い色。でも、そんな色を出せたかどうか、といったこととは関係なく神様はいつも共にいてくださっているんだ。いい色が出せたらと欲を出しながらも、出せないからといって失望するのではなく、自分らしい色を出せたらなと思う。というか、その色がたとえどんな色であっても、それがわたしの色なんだ。ありのままでいいとは思えなくて、あいだみつをの書にもあるように、トマトをメロンに見せようと必死になっているだけなのかも。と、なかなかまとまらなくて、ブレているのが見えみえだけれど、まぁ、やれることはやって、あとは神様に委ねようと思うんだ。神様は悪いようにはなさらないさ。
 でも、いい色出したいなぁ(って委ねるんじゃなかったんかい!)。

粗探し

 人間とは探し続ける存在だと思う。真理を? 理想を? 希望を? たしかにそれもそうなのだけれど、粗(あら)をである。
 人はことあるごとに粗探しをしてしまう存在なのだと思う。わたしも油断すると、ついつい良くないところ、改善すべき点などを、つまりは粗を探してしまうのだ。
 で、粗を探してどうするかと言えば、不平不満を言うのである。ここが気に入らない。あれが気に入らない。もっとこうしてくれ。
 たしかに物事を良くしていくためには粗を探すことに意義がある場合もある。現状に満足していては、進歩や向上はないからだ。しかし、それが当たり前のことになってしまうとどうなるか。途端に、人生はつまらないものになってしまう。喜びがなくなってしまって、感謝する心もどこかへ行ってしまって、まさに不満合戦。
 今年の2月の終わり頃に亡くなった祖母がまさにそんな人だった。最期は感謝の人になって、別人のようになって天国へと旅立って行ったことはこのブログにも書いたけれど、そうなるまでは本当にひどかった。故人をけなすのは良くないと重々承知の上でだが、それはまぁ何とも粗探しをする人だったのだ。彼女にかかればどんなに嬉しいことや楽しいことも大したことではなくなってしまうし、普通なら気付かないちょっとしたことも不平不満の大合唱のもととなってしまうのだった。だから、祖母と一緒にいると楽しくない。いつも口にするのは、不平不満と誰かの悪口。祖母はそうしたものから出来ていると言っても過言ではないような、そんな人だったのだ。粗探しの達人と言ってもいい祖母。そんなわけで彼女は毎日ひたすら粗を探して見つけて文句を言う、を繰り返していた。
 そこまでは行かなくても、それに近い人を時折見かけることがある。そうすると、何だか気の毒に思えてきて仕方がないのだ。この人はおそらく満足するとか、足るということをほとんど感じることができずに人生を終えていくのだろうなと思うと、他人のことながらも不憫に思ってしまう。
 粗探しをする人というのは、別の言い方をすれば、満足できない人とも言えるだろうと思う。どんな状況になっても決して満足することができなくて、粗を探すことをやめられないからだ。
 と言いつつも、それならどうしてわたしの祖母は粗探しをする人を卒業することができたのか。それは文句を言うことができないくらいの好待遇を受けることができたからだろう。そして、それらを通して家族の愛を感じることができたからではないかと思う。祖母は輸血のための通院ができる施設でなければならなかった。だから、結構いい施設に入ったのだ。祖母の今までの生活レベルからしたら、まるでホテル暮らしのような、そんな夢のような生活をわたしと母はさせてあげたのだ。もうそうなったら、あの不平不満をグチグチ言う祖母も人が変わってしまう。「こんないい所にいてもいいのかしら」と自分の妹に言っていたくらいだから、それはそれは夢のようだったことだろう。わたしと母は二人で協力して祖母のために一肌脱いだのだ。今思うと、いいことをしてあげられたなってしみじみ懐かしいよ。
 でも、そこまで物質的に満たされなくても幸せになることはできる。祖母の場合は、という話をしてきたのだけれど、別にそこまでしなくても、してもらえなくても幸せというものは感じられるし、手に入れることができる。その方法は実に簡単なことである。粗探しをやめること。そして、今自分が与えられているものに満足して感謝することである。とてもシンプルじゃないですか。とてもとても単純な、でもなかなか多くの人ができないこと。幸せになりたいのなら粗探しをやめて、感謝すればいい。うむ、真理だと思うな。これは以前、わたしのブログ記事「感謝すれば愚痴は出てこない」に書いたことと同じことなんだな。感謝すれば粗は出てこなくて、その結果幸せになれる。
 粗ではなくて、感謝できることを探す。それがいいと思うな。ともすると粗探しをしがちなわたしたちだけれど、それをやっても幸せにはなれなくて、逆に遠のいてしまう。
 粗探しをすると無数に粗が見つかるように、感謝できることを探しても同じように見つかるだろうと思う。何に視線を向けるかによって、ここまで見える世界が変わってしまうのだからおそろしいものだとさえ言える。不平不満の人で終わるか、それとも感謝の人になって幸せいっぱいで終わるか。どちらにしろ、人生はいつかは終わるのだから、感謝して嬉しい気持ちで心の平安と共に過ごせた方が断然いいんじゃないかって思う。「わたしの人生、全然足りない」と嘆いているのと「わたし、満たされていて満足してる」では雲泥の差がある。わたしもいつも笑顔で心の平安を体現したかのような、教会員のOさんのようになりたい。いつもOさんはわたしに「神様に感謝して委ねることが大切」と何度も何度も言ってくれる。
 わたしの人生は30代になるまではまさに粗探しの人生だった。でも、それをやっていても幸せになれないことが分かったのだ。粗探しではなくて、幸せ探しをするんだ。していくんだ。自分がどれだけ恵まれていて、満たされていて、幸せなことかと自覚していくんだ。住む家もある。ご飯もある。着るものもある。障害はあるけれど、それでも元気に過ごせている。家族もいる。教会の人々とのつながりだってある。そう考えていくと、何という豊かな恵みが自分には与えられているのだろう、って思えてくる。もちろん、足りないことは探そうと思えば無尽蔵に見つけられる。でも、あえてそれをしようとは思わない。それこそ、粗探しなのだから。
 新しい一歩を踏み出そう。粗探しじゃなくて、ね。

自分を死刑にする必要はなかった-上島竜兵さんの死を悼む

 母から聞いて驚いた。上島竜兵さんが亡くなったらしい。新聞を見てみると、終わりの方の紙面に控え目に載っていた。上島さんが、あの上島さんが亡くなったのか。驚きと同時に胸がざわざわし始めた。
 上島さんは多くの人を幸せにしてくれた。いつも笑いで癒してくれた。そんな彼がもういない。テレビではもう彼の最新の姿を見ることはできないんだ。
 わたしが小学生くらいの頃から上島さんはテレビの人だった。当時、NHKの教育テレビで「天才テレビくん」っていう番組が人気があったんだけど、その番組に上島さんは出られていて、それはそれはとても面白かったんだ。役柄は「パーたん」だったと思う。どんな風に面白かったのか、具体的な内容は覚えていないけれど、何だかすごく楽しかったことは覚えている。
 志村けんさんのバカ殿では家臣役をつとめられていて、それもすごく良かった。何というか、一つひとつがプロだったなぁって思う。体を張る役回りが多くて、あまりのきつさにわたしは見ていて「かわいそう」と思ってしまったくらいだった。でも、それをまた上島さんは上手にやるんだ。とにかく名脇役。上島さんが引き立てると、引き立てられた人が本当に輝くんだ。それが魔法みたいだったな。
 と上島さんのことを思い出していたら、とても寂しくなってきた。何で上島さん、死んじゃったの? 上島さんが80歳くらいになってお笑い界のレジェンドとして、若かりし日々を語る様子が見たかったな。それがもう見れないのか。
 もう一度、「くるりんぱ」を見たいよ。ダチョウ倶楽部の3人でしょうもないおふざけをやっているところをもう一度見たいよ。
 わたし自身もすぐ死にたくなる方なので、上島さんのことが他人事のようには思えない。もしかしたら、上島さんが死ぬ前にわたしがもうすでに一歩間違えていたら死んでいたかもしれないからだ。わたしには過去に自殺未遂歴があり、こういう人間は要注意なのだ。自殺未遂歴がある人というのは、何度も同じ事を繰り返しがちで、既遂に終わることが少なくないようなのだ。
 わたしは死にたくなると、今の苦しさから解放されるには死ぬしかないと思ってしまう。そして、あれこれ死ぬ方法とか考えて、計画を練ってしまう。
 でも、今回の上島さんの自死を通してやっぱり、というか思ったことがある。それは自殺は最善の問題解決法ではない、ということだ。自殺しても問題は何も解決しない。むしろ、かえって残された人々を苦しめて、問題を広げてしまい、大きくしてしまう。だから、決していい解決法だとは言えない。
 わたしには今、心に決めたことがある。それはふと鶴見俊輔さんの言葉を思い出したからだ。人間には自殺をしてもいい時がある、と彼は言う。それは戦争に引き出されて敵を殺せと命令されて自分はしたくないと思った時と女性を強姦したくなった時だ、と。この言葉がずしりとわたしの心にのしかかっている。それほどのことでない限り、自殺をしてはならない。だったら、生きようじゃないか、とわたしは思うのだ。
 自死とは自分を殺すことだ。つまり、自分で自分を死刑に処することだ。だから、死にたいと思った時に自分自身を反省する必要がある。自分は死刑になるほどの大罪を犯したのか、と。客観的に見て自分はそれほどの罪を犯したのか、と自分自身を見つめ直すのである。そうすれば、死刑になるほどの罪は犯していないことが多くの場合、明らかになることだろう。
 自殺を既遂で終える人というのは、何らかの精神疾患であった可能性が高いらしい。だから、いわば病人なのだ。このことは、病人がその病気のゆえに生きていてはならない、ということがあってはならないのだから、死ぬ必要はそもそもないのだ。(肺の病気の人がそれが理由で死刑にならなければならない、ということがないのと同じで)おそらく、うつ病の人も多いことだろう。だったら、なおのこと病人なのだから、いたわってあげなければならないと思う。病人はいたわって治療してあげなければダメだよ。だから、優しくしてあげようよ。病人の自分をいたわってあげようよ。
 また、死にたいという気持ちは典型的なうつ病の症状だとも言えるから、やっぱり治療しなくちゃね。お薬を飲んで、安静にして休んで、病気を治すんだ。その病気が良くなってくれば、また生きたいと思えるようになる。だから、そういう意味でも死にたくなったら精神科を受診した方がいいんだ。精神科医に「死にたいです」と訴えて「じゃあ、死んだら」とか言わないから大丈夫。最善を尽くして生きていくための方法を一緒に探してくれるよ。
 上島さんは人を殺してもいなければ、女性を犯してもいない。客観的に見て、重罪人として死刑に処されなければならないだけの悪いことはやってないんだ。だから、重すぎる処罰を自分自身に課してしまったことになる。
 もしも、だけと上島さんが死ななければならないとしたら、つまり死刑に処されなければならないとしたら、一体どれだけの人が死ぬことになるのだろう、と考えると慄然とする。少なくとも日本人だけで数百万人とか数千万人の人たちが処刑されることになってしまうだろう。そんなのは、言うまでもなくおかしいし、絶対に不合理だ。そんなことがあってはならない。だから、そういう意味でも上島さんは死ぬ必要がなかったとわたしは断言できる。そう考えていくと、わたしも死ぬ必要がないし、これを読んでくださっているあなたも同じだろうと思う。
 生きよう。わたしたちは死刑になるほどの悪いことはしていない。だから、生きよう。生き延びよう。

 神様。どうか、上島竜兵さんの魂が天国で安らかな安息に与れますように。主イエスのみ名によって祈ります、アーメン。

*鶴見俊輔さんの言葉の引用が不正確で間違っておりましたので訂正しました。申し訳ありません。(5/13)

星料理長?

 人間が生きていく上で欠かせないもの。それは食事である。何を当たり前のことを、と思われたかもしれないが、これはすごく重要な事実だと思う。平均的な日本人であれば、三度三度のごはんが必要なのだ。
 食事をする。それもおいしいものを食べる。すると、何というか、とても満たされた気持ちになってくる。心が充足するというか、ほんわかあったかい気持ちになるというか。とにかく幸せな気持ちになれるのだ。そのことは北海道浦河のべてるの家のワーカーの向谷地さんがメンバーから「死にたい」と投げ掛けられると、「お腹すいてない?」とその人に訊ねるという逸話からも伺える。人生は戦(いくさ)ではないけれど、腹は減っては、との通りなのだ。お腹がすいていたり、インスタントな食事ばかりでちゃんと食べていなかったり、無理なダイエットをしていたりすれば、そのことは精神状態にも直結してくる。心の安定のためには、しっかりとした食事をすること。これなのである。
 わたしの暗黒時代と言ってもいい大学生のころ(宮崎時代)、わたしは食生活に無頓着だった。カップラーメンと野菜ジュース、以上。そんな感じの日々だった。もちろん、そんな食生活を送っていれば、メンタルは不安定になるし、しまいには湿疹のようなものが出てきてしまっていた始末だった。
 それと比べて今は、と言えばまさに雲泥の差ではないかと自分でも思うのだ。ほぼ毎日何か料理をしていて、それはそれはおいしくいただいているのだ。母と二人暮らしのわたしだけれど、お料理は原則、わたしの担当なので(たまに母も作ることがあるけれど)もっぱらわたしが作っている。
 お料理。それが楽しいんだよ。日に日に上達してきているのが自分でも分かるんだ。前、60分かかっていたのが45分でできるようになっているっていうこともよくあることだし、料理の出来映え自体も経験を積むごとにクオリティーが上がってきているんだ。自分でも分かる。だんだん料理がうまくなってきているって。
 お料理ってやっぱり慣れだなって思う。やらないことにはとにかく上達しない。やるのみ。やっていけばそれだけうまくなっていく。
 まぁ、料理に時間を割くのは得策ではないから、簡単に出来合いのお弁当とかで済ませるよ、という人もいるかもしれない。でも、自分で作ることのメリットはおいしいものが我が家にいながらにして安くできることじゃないかなって思うんだ。
 最近はパスタに凝り始めていて、連日少なくとも1日おきくらいにはパスタだ。で、さけのクリームパスタとミートソースのパスタを作ったんだ。この2つなんだけど、もううますぎて店レベルなんだ。下手したらそこらへんの店よりもうまいんじゃないかっていうレベルで、それはそれは美味しくできたんだ。
 これらをもしも店で食べたら、一皿1500円くらいはするんじゃないかな。いや、もっとするかもしれない。それくらいの絶品パスタ。それがおうちで作ると2人分で1000円もかからず作れてしまう。や、安い。
 さらには、外食だと塩と油がどっさり入っていることが多いんだけど、自分で作ればそれを加減することができる。調整できるんだ。これ、とってもいいよ。安くおいしいものが作れるだけじゃなくて、健康に配慮することもできるんだ。まさにこれこそ、おうちごはんのメリット。
 そんなわけで料理はわたしにとって生活の一部となりつつある。思うんだけど、やっぱり自分を粗末に扱ってはダメだよ。中には、自分にとってカップラーメンが最高の食事だから、それを毎食365日食べたいんだという変わった人もいるかもしれない。でも、そういう人はほとんどいなくて、おうちで心を込めて作った手料理を食べたいなって思うんじゃないかな。出来合いのお弁当とかも悪くないけれど、もっとそれ以上に愛情が感じられるもの。それが「おうちごはん」なんじゃないかって思うんだ。自分に素敵な食事を用意する。自分を大切にするという意味でも必要なことだよ。と言いつつもわたしだって完璧に自炊はできないから、加工食品を食べることだってある。でも、この手作りの料理の素晴らしさに開眼してしまった以上、できるだけ自分で作っていけたらなって思う。
 星の料理のレパートリーはまだまだ少ないけれど、その一つひとつがキラキラ光っているんだ。リア充を目指すには、お金をかけた高級レストランへ行くという方法もあるけれど、そうしなくても十分、いや十分すぎるほどにおうちごはんはまさにリア充の象徴だな。質の高い生活を送ろうという気持ちが全面に現れていて、とても意義があるよ。
 わたしたちは食事をする。死ぬまでにあと何回食事ができるのだろう、と考えてみると意外と少ない。1年でだいたい1000回だから、わたしの場合はあと少なくとも42年生きると見積もって4万回くらいか。死ぬまでにそれだけ食事ができるなら、その時間を有意義なものにするのはまさに人生の質を高めることだ。泣いても笑っても4万回。だったら、おいしいものを食べた方がいいじゃないですか。楽しんで充実させた方がいいじゃないですか。ま、健康を害さないように美食ばかりはやめとこうとは思ってるけど。
 それと、わたしたちの体と心は食べたものによってつくられているから、食べ物は薬のようなものだ。
 だから、おいしくて、経済的で、体にいい食事を心をこめて作ることができたら最高だな。で、そういう食生活を送って、健康的になれたらなお良し!
 というわけで母命名の星料理長(母はわたしのことを料理長とも呼ぶんだ)は今日もおいしいごはんを作るのであった。そして、料理長の称号に負けず劣らずのそれはそれはおいしい料理の数々。「シェフになるのもいいかも?」とまた地に足のつかないことを言い始めた星だけど、それもいいかもね。って満更でもないのかも。ま、言うのは無料だし、自由だからね。星さんの作る料理はおいしいぞ~。
 料理ができる男になりたい。それがわたしの願いである。

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