星の読書日記6冊目「自由やったらそれでいいんや」~駒澤真由美『精神障害を生きる 就労を通して見た当事者の「生の実践」』

星の読書日記
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 ふぅ~。読了~。やっと終わった。読み終えた。この本(駒澤真由美『精神障害を生きる 就労を通して見た当事者の「生の実践」』)、530頁くらいあるんだ。読み応えはバッチリで、今、わたしは大きな達成感を感じている。読むだけでこれだけエネルギーが要るのだから、これを書いた著者はどれだけのエネルギーを注いだことだろう。まず、著者に敬意を表したい。そして、素晴らしい本をありがとうございました、と言いたい気持ちだ。
 なぜこの本を読もうと思ったかと言うと、精神障害者のわたしがふと働いてみようかなぁと思ったからだ。が、あまりにも疎いというか何というか、世間知らずを通り越してほとんど無知。というわけで、「精神障害者 就労」というキーワードで検索してみた。で、ピンポイントのごとく出てきた、それも真っ先に出てきたのがこの本だったのだ。この本を読めば、就労、それも精神障害者が働くことについて無知なわたしでも一通りのことがわかるのではないか。そういう経緯でこの本と出会い、読むことへと至ったのだ。また、このブログ上でYという問題のある人物から働け、働けと言われたことがあり(彼は働いていないわたしのことを頭ごなしに批判してきたわけです)、精神障害者にとって働くっていうのはどういうことなんだろう、という疑問も持ってはいた。が、精神障害者と就労の関係については錯綜していて、とても自分一人では考えることができそうにも思えなかったので、じゃあこの際だからこの本を読んでまとまった知識が得られたらいいなと思ったのだ。
 この本を簡単に一言で要約すると、って乱暴だよなぁと思いつつも、次の言葉にまとめることができると思う。

 自分自身が自由やったらそれでいいんや(本書p421)

 この言葉は、インタビューを受けた精神障害のある当事者が精神科病院に入院していた時に、その病院でもう40年以上は生活しているというクリスチャンの方から言ってもらった言葉。わたしは500頁以上あるこの本の中でこの言葉が一番刺さった。そして、何よりも本質を射抜いていて、人生そのものについても的確に言い表している。
 自由。すべては自由のためにある。この自由は幸福とか幸せと言い換えてもいいかもしれない。自由、自由なんだ。自分自身が自由だったらそれでいい。何て鋭い言葉なのだろう。
 人は皆、自由を手に入れようと不自由になる。この本でいうところの働くことだって、自由になりたいから働くのではないか。束縛されることはされるのだけれど(時間的だったり肉体的な面で)、その結果自由になる。働くことでお金を手に入れようとするのもライスワークというご飯を食べるためとしての要素もあるけれど、それ以上にお金を持つことによって自由になれるだろうと思うからだ。逆にお金を手に入れることによって、かえって束縛されて不自由になるのだとしたら、どうして人は懸命に働いたりするのだろうか。労働というある意味、自分の時間を切り売りして、肉体的にもエネルギーを使うことを自ら進んでやるからにはそれ相応の理由があるはずだ。
 働くことによる不自由とお金などを得ることによって得られる自由。その両者を天秤にかけた時にお金を得て謳歌できる自由の方が優るから人は働く。あるいはお金はほとんど得られなかったり、全く得られなかったりしてもその仕事やボランティアなどをやることが自由に感じられてやりがいもあるのであれば、人はそちらを選択する。
 結局、というか人は自由を手に入れたくて悪戦苦闘する。どうすれば心の自由だったり、金銭的な自由が得られるのだろうと試行錯誤する。だから、極端な話、その人が他の人や自分自身を傷つけたりしていなくて、その今の状態に自由を感じているのであればそれでいいのだ。本書にも登場してくるリカバリー(回復という意味。パソコンをリカバリーする、みたいに障害などからの回復を指す概念)がどうだとか、専門家が提示するリカバリーに従わなければならないとかそんなことはないんだ。専門家だって所詮、知識を身につけたただの人でしかない。素人よりはいくらかは知識があっていろいろ知っているし、詳しい。でも、人がどう生きていったらいいか、とか、どう生きるべきか、なんてことは何も指し示せないんだ。強いて言うなら、それは宗教とか倫理とか道徳の領域であって、ただ専門知識を身に付けた専門職の人には到底扱える代物ではない。しかし、専門家というのはみんなから尊敬されて、先生と呼ばれたり、先生と呼ばれることはなくても専門知識を駆使してそれをもとに安定した収入を得ている。だから、どうしても「こうすべきだ」とか「こうした方がいい」とか言いたくなってしまう。でも、そのどうすべきかとか、どうしたいかというのは法律に違反でもしない限りは、その人の判断とか思いに委ねるべきだし、それに介入して無理強いしたり強制したりしてはならないと思う。
 そういうわけだから、みんな、リカバリーのゴールは違う。ある人は働くことかもしれないし、また別のある人は働かずにただ家でビールを飲んでテレビを見ることかもしれない。精神科病院に入院したままでいたい人だっていることだろう。あるいは支援者は顔をしかめるかもしれないけれど、女の子と遊ぶのがゴールなんだ、なんていう人もきっといるはず。それなのに、みんな違うのに、それを一般就労して真面目に目標を持って自己実現を果たしていくという一つの型に押し込めようとする。わたしはねぇ、40年近くも生きていると感じるわけなんですけど、結婚することとか、子どもを持つこととか、仕事をして普通に働いていることとか、車を持っていることとか、できれば新築の一戸建てのマイホームを持っていることとか、そうした無言の圧力を感じるわけです。社会というか何というか、誰と特定はできないのだけれど、いわゆる社会の普通になれ、お前も最低、これくらいのことをやれっていう空気を感じるんです。
 つまり、わたしが感じているのは社会や世間が思うところの自由なのだろう。でも、わたしはそれらが全然自由で幸せなことだとは思えない。どれもわたしを息苦しくさせて不自由にすることばかりで、何も心が踊らないし、ときめかない。だからこそなのだろう。自分自身が自由やったらそれでいいんや、という言葉に心の底から共感し、共鳴するんだ。だって、わたしの人生はわたしが生きるものだし、わたしのものでしょ? それはあなたも同じで、あなたの人生を代わりにわたしが生きることはできないんだ。同様に、あなたがわたしの人生を生きることもできない。それなのに、ああしろ、こうしろ、とか指図する資格あるの? こうすればきっと幸せになるだろうからこうしなさい、とか言えるだけの資格だったり権限なんてあるの? わたしはないと思う。と言いながらも一つ例外があるとすれば、指図をするのであればわたしの人生を全部背負えるの、とか、全責任取れるの、ってわたしは言いたい。そんなの無理。絶対、無理。
 ここまで書いてきて、この文章で果たしてこの本の読書感想文になっているのかな、という懸念はある。精神障害者が働くことについての細かい話は本の中で事細かに語られているし、説明されている。でも、それらもすべては自由になるため。そして最終的には幸せになるためにある。そこのところ、一番肝心要なところさえ忘れなければ、ブレずにこの人生という荒波を泳いでいけるのではないか。だから、「自分自身が自由やったらそれでいいんや」なのだとわたしは心の底から思う。逆に、自分自身が不自由だったらそれは良くない。実にシンプル。でも、多くの人がこのことを見落としているんじゃないか。そして、迷子になっているんじゃないか。
 自分自身が自由かどうか。人生というものは意外とシンプルなものなのかもしれない。すべてはこのためにある。それがこの本を読んで分かった大切な大切なこと。著者には感謝したい。ありがとうございました。



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