星の読書日記3冊目~水島広子『自分でできる対人関係療法』

星の読書日記
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 精神的な不調。わたしは精神障害者だからよく不調には見舞われる。と言っても大抵はパソコン絡みの不調であって、この本が言うところのような対人関係がうまくいかないことによる不調ではない。が、よくよく今までの不調、その中でも特に過去の激不調を振り返ってみると、あぁ、人間関係が大きく関係しているなということに気付かされる。
 わたしが自殺未遂をしていた頃を思い出してみると、あの頃はとても孤独だった。今は母と強い絆で結ばれているけれど、あの頃は母ともそんなに親密ではなかったように思う。人間関係において一番大切な関係。それは重要な他者なのだと本書(水島広子『自分でできる対人関係療法』)では力説されている。この核とでも呼ぶべき一番親密な、親、パートナーなどとうまくいっていない時、人の精神状態は不安定になり荒れ狂う。
 この考え方を知った時、もっともだって思った。まわりを見回してみても家族関係だったり夫婦関係がうまくいっている人というのは大抵、精神状態が安定していて、心にも余裕があって人にやさしく振る舞える。反対に、こうした関係が荒れまくって疾風怒濤の大波状態にある人というのは、心が平和ではないんだ。もっともというか、たしかにそうだよ。この法則が100%すべての人の精神状態にあてはまるかどうかと言えば、そうとは言い切れないかもしれないけれど、大方のところは的を射ていて、多くの人が実感するところだと思う。っていうか、認めざるを得ない。
 話を戻して、わたしが自殺未遂をしていた頃、こうした重要な他者との関係がうまくいっていなかった。と言うよりも重要な他者がほとんど不在だったように思う。一応、両親と弟はいたけれど、全然あの頃のわたしにとっては重要な他者とはなっていなかった。また、それだけではなくて、わたしは父と弟から「これからどうするんだ?」と繰り返し言われていたんだ。それも相手を追いつめるような口調で頻繁に。その頃のわたしは今よりも吃音(きつおん)がひどくて相当どもっていて、とてもではないけれどこの状態では働くなんて無理だなと思っていた。それなのに彼らはわたしに社会常識的なものを押しつけて「どうするんだ?」と質問してくる。この質問は要するに、「働け」って言っているようなものでわたしをとことん追い詰めたんだ。あの頃は大学をたしか中退したばかりだった。どうするんだ、とか言われなくてもどうにかしなければならないことは分かっていた。それなのに彼らはじりじり、じりじり来るんだ。って精神科に通院している患者にこの仕打ちはないんでないの、って今なら思えるし、その問題点を指摘することもできる。でも、その当時のわたしは毎日死にそうな顔をしていたし、メンタルもほぼダウンしていて暗さ全開で、そこまで機転を効かせた反論ができるわけもない。だから、まるでサンドバッグか何かのように殴られるがままだったんだ。
 要するにわたしは働きたくなかった。そして、学校に行くなどして勉強する気も起きなかった。が、彼らはわたしに自立することを求めてくる。つまり、この本で言うところの「相手とのズレ」がある状態だった。あることをやりたくない人と、それをその人にやらせたいと思っている人。このズレが大きくなればなるほど問題はこじれてくる。だから、本の中ではこのズレを少なくするように会話をして妥協点のようなポイントを探っていくことが大事だという。当時のわたしは言うまでもなく父と弟とほとんどコミュニケーションらしきものを取っていなかった。わたしは、上から目線でまるで自分の方が偉いかのように接してくる彼らには何を話しても無駄だと思っていたし、ともかくそういうわけでズレたままだったのだ。その時のわたしは本当に仕事をやりたくなかった。と言うよりも絶対無理だと思っていたし、それも理由として大学をやめたところもあったくらいだから、本当に無理だと思っていた。それは生まれつきだったり、羽を怪我して飛べなくなった鳥に飛べと言うようなもので完全に無茶な話だった。で、結論。死のう、となったのだった。
 ここまでの不調ではなくても、最近のプチとでも呼ぶべきわたしの不調を振り返ってみると、それについても対人関係療法的に説明することができそうなんだ。たとえば、ブログのアクセス数が少なくてイラついたり怒りがわいてくるということは、不特定多数の人々からの評価を重要な他者からの評価と混同、あるいは同一視してしまっているということなのだと思う。本来はブログの読者の皆様、というのはこう言ってしまうと何だけれど、あまり重要な人たちではない(稀少な読者が離れそうでこわいな)。だから別に彼らの評価が高かろうが低かろうが、そんなにダメージを受けないものなんだ。けれど、わたしはそのブログの読者という人々をまるで自分にとっての重要な他者であるかのように扱って見なしてしまっていた。重要な他者から評価されない、認めてもらえないということはすごくダメージを受けること。あぁ、そうだったんだ。どうでもいいって言ってしまうと怒られそうだけれど、円の一番外側の人たちなんだから別に彼らからの評価が低かろうが気にする必要はそもそもないんだ。それよりもそのわたしの日々の言動にしろ、ブログの文章にしろ、重要な他者からしっかりと評価してもらって認めてもらうことの方が大切。円の一番外側の人とは当たり障りのない関わり方ができればそれでいいわけであって、何もイラついたり怒る必要なんてなかったんだ。
 ところで、この本で大切だと言っていることは他にもある。何か相手に要求する場合にはしっかりとストレートにあいまいなぼかした言い方をしないこと、だそうだ。自分が疲れているから食器洗いをしてほしいならそうはっきりと言う。それをぼかしてしまうとそのものズバリが伝わらなくて、相手に誤解されてしまうおそれが出てくる。そして、さらに良くないのが言葉を用いないで不機嫌な態度を取ったりすることで、それでは不満があることは分かっても何に不満があるのか相手には伝わらない。日本人特有の察する文化というものはあてにはならないのだ。しっかりと言葉でそのものズバリを伝えなければならない。言わなくても分かるなんてことはありえないとこの本の著者は言う。その中でも一番良くないのが黙り込んで沈黙してしまうことのようで、これこそが最悪なコミュニケーションで破壊的でさえあるとのこと。沈黙は金なりではなくて、沈黙は相手とのズレを埋めることに全く貢献しない。機嫌が悪くなるとすぐ黙り込む人というのは、いわば相手とのコミュニケーションを放棄している人なのであって一番良くないのだ。やはり、話をしなければ分かり合えない。超能力者ではないのだから。言葉というものは相手とのズレを小さくするためにあるのであって、言葉を使わないコミュニケーションではやはり無理なのだ。
 しかし、リアルな相手にこうしてほしい、ああしてほしいと要求すること、ならびに自分にどうしてほしいのか、何がまずいのかと訊ねることはなかなか高度な技だと思う。それができたら苦労しないよ、という人も多かろうと思う。そんな時には手紙を書いてみたらどうかと著者は言う。流暢によどみなく相手と会話をしてそのお互いのズレを解消できる人というのは上級者の中の上級者であって、普通の人にそこまで求めてしまうのは酷な話だ。だから手紙を書く。思っていることをぼかさないではっきりと簡潔な分かりやすい言葉で書く。口べたな人であっても手紙だったらできそうだと言う人は案外いるのではないかと思う。それに手紙は書くという作業を通して書く方が冷静になれるし、読む方だって同じように落ち着いた心やタイミングで読むことができる。古くさい方法のように思えるけれど、たしかに手紙もありかもなと一つの方法を教えてもらえてとてもわたしは参考になった。言いにくいことがあったら手紙で。その手紙が深刻な状況を改善するための突破口となった事例が本の中に紹介されていたのも印象的だった。
 重要な他者としっかりと会話をしてその人と自分との間のズレをできるだけ小さくするように努める。著者は言う。植物もまめに世話をしてあげなければ枯れてしまうのと一緒ですよ、と。だから、最も中心の一番大切な人たちとはこまめに話をすることが大切なんだ。そして、核となる人との関係がうまくいっていれば精神状態も安定して落ち着いてくる。そうなれば、物事が好転し始める。すべてがいいように、いいように回っていく。
 かなり本の内容を端折ってしまったような気がしないでもないけれど、本の要約ではなくて読書感想文のつもりだから、まぁ本の中身がよく分からなくても大目に見てほしい。あなたが自分にとっての重要な他者との関係を見つめ直すきっかけにこの文章がなったら幸いであります。
 あなたは大切な人とうまくいっていますか?



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