8月16日、森の公園にて

いろいろエッセイ
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 早朝、わたしが森の公園にて綴ったメモをここで皆さんとシェアしたいと思う。

 6:27
 馬鹿だった。本当にくだらない小さなことにこだわって道を踏み外そうとしていた。何て馬鹿なことを考えてしまっていたんだろう。
 公園へ来る途中で鳥を見た。鳥を見て思ったことは、自分の方が偉いだの特別だのなどと威張って肩をいからせたところでたかが知れているということ。お金がある人もない人も、偉い人も偉くない人も、強い人も弱い人も同じ空気を吸って、食物を食べて、同じ太陽の光の下、生きている。ただそれだけ。ただそれだけのことなんだ。どっちの方が偉いとか偉くないとか、上とか下とかそんなものはそもそもなくて同じように今生きていて、その意味では少なくとも平等ということなんだ。もちろんお金があった方が快適でいい暮らしはできるし、社会的な地位や立場のある人の方が人からほめられて自尊心を満たすことはできるだろう。しかし、本質はそこではない。本質は、命は等価、生き物として生きているという意味では同じように尊く価値があるんだ。
 公園の道にセミが一匹死んで転がっていた。わたしもいずれはあのセミと同じようにコロリと死ぬ。そうなったらそうなったでもうそれでいいじゃないか。生まれ、生き、死んでいく、でいいではないか。どんなに生前裕福に暮らそうと素晴らしいものに恵まれようと、反対に窮乏に苦しんで死んでいこうとも同じ命であることに変わりはなく優劣も最初からそこにはない。
 タダ働きのように思えてしまったブログの記事を書くことも、お料理も家事も、それをやれるということは本当に尊く価値があり、自己成長や生活の質の向上につながっているのだから決して無駄な労力ではない。ブログだって少数ではあるものの人々のためになっているかもしれないし、料理や家事については自分と母の幸福感を確実に高めている(特にお料理)。生活の質だって上げているのだからやる意味はしっかりとある。役に立っていることは事実だ。お料理を作ることも家事をやることもそしてブログを書くことも人のために生きていることの一つと言えるじゃないか(ブログは読者に喜んでもらえているか少し自信がないけれど)。ささやかではあるけれどこれらの活動は人のためになっている。だからわたしは全くすべて自分のためだけに生きているような利己的で自己中心的な人間ではないのだ。ちゃんと自分以外の誰かのために生きることができているのだから(ささやかだけれど)。
 考え事をする時には家の中ではなくて自然の中で考えた方がいいな。いい方向に考えることもできるし。

 このメモからも分かる通り、精神的にやつれ始めてしまった時には自然の中へと出掛けることが何物にも代え難い癒しになる。人に自分の胸の思いを聴いてもらうことも必要。けれど、自然はそれと同じかそれ以上にわたしたちの心を包み込んでくれる。そして、自然の中でたくましく生きる動植物を見ることによって、大切な本質的なことを感じることができる。自然は先生かもしれない、と思う。いや、「かもしれない」ではなくて立派な先生だ。この自然の営みから外れて人工的な狭い世界に閉じこもってしまう時、人間の思考はしなやかさを失い、しょうもないこだわりだったり執着だったりにがんじがらめにされてしまう。本当はそんな小さなことにこだわらなくてもいいのに、それだけが全てのように思えてしまうのだ。自然の中へと出掛けていくことによって、その自分自身のゆがみのようなものがしっかりと見えてくる。
 あれだけ元気に鳴いていたセミが今日にはもう道端にコロリと死んでいる。この当たり前のことに目を留める時、自分もセミのような存在だということに気付く。わたしたちは人間であってセミと同じではないけれど、同じ死すべき有限な生を生きる者としては同じだ。わたしたちもいつかは夏の終わりのセミのようにコロリと死ぬ。だったらどう生きるのか? どう生きていきたいのか?、ということへと話はつながっていく。それは一人ひとり違うだろうとは思う。けれど、わたしたちはともすると自分は永遠に死なないかのように錯覚してしまっていないだろうか。この錯覚は自分が永遠に今のままであるかのような錯覚で、なかなかそれが錯覚であることに気付くことができない。
 わたしは今朝、朝散歩に出掛ける前にはかなり精神的にやつれていた。が、帰ってきた時にはすがすがしく爽やかな気持ちになっていた。自然の中で過ごす時間が本当にかけがえのないことを痛感させられる。
 あの道に死体として転がっていたセミはわたしに尊いことを教えてくれた。それはまるで「死を忘れるな」とでも言ってくれているかのようで、本当に意義深かった。
 死後に天国や地獄があるのか、それとも来世があってまた生まれ変わるのか、それは分からない。ただ少なくとも言えることは、今の姿をとった現在の自分がいずれはこの世からいなくなるということだ。生まれ変わるにしてもそれは別の肉体を取るわけだから、もうこの今の体を持った同じ自分としてもう1回生きるなどということはないのだ。そういう意味で輪廻転生を信じるとしても、自分が必ず死ぬということには変わりはない。この生はこの生として一回きりなんだ。
 森の公園は高い山のような場所にあって、そこからは町の様子が見える。その町の様子を見下ろし、眺めていると、大きなビルを建てても、大きな家に住んでも、それさえもたかが知れているなぁという思いに駆られる。だからそれが何なんだ、という気持ちになってくる。どんなに億万長者になっても「だからそれが何?」って思えてくる。お金が欲しくないと言ったら嘘になる。でも、公園からその町の様子を見ているとこの小さな建物の中で小さな人間たちが「俺の方が年収が上なんだぞ」「あたしの方が高学歴よ」「俺はイケメンなんだ」「わたしは美人でモテモテなの」などと小さなことをピーチクパーチクさえずっているんだなということを感じることができる。それらが無意味だとか言いたいわけではない。ただ、結局それもある種類のこだわり、要するに執着であって、一番大切な本質ではないんだ。一番大切なことはわたしが思うには、みんなこの地球という同じ星の中で同じ空気を吸って同じ太陽の下で生きているということ。そして、みんないつかは必ず死ぬということ。この2つが本質だと思うのだ。だから、俺の方がすごいとか、あたしの方が上なの、とかそんなことはどうだっていいことなんだ。このシンプルな本質に気付けるかどうか。それによってそれぞれの人の人生は大きく変わっていくし(それも好転していき潔い生き方ができるようになる)、その本質から外れなければ道を踏み外すこともおそらくないことだろうと思う。
 そういうわけで朝散歩(そして森の公園へ行くこと)を続けていけたらなと思っている次第であります。皆さんも気持ちがくさくさしたり、やつれてきたら自然のある場所へと行ってみてくださいね。何か気付きが得られたり、絡まった糸が少しほどけるかもしれませんよ。



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