幸せは近くにあった

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 今日は元旦。2023年が始まった第一日目。そして、日曜日で教会へ行ってきた。
 が、何だか不安になってきた。教会へ行ってきて不安になるなんてそんなことなさそうだけれど、実際不安になってきたのだから仕方がない。で、何に不安になったのか? それは本当にこの道でこの生き方でいいのか、という不安であり迷いだ。
「何言ってるんですか、星さん。あなたはもう自分の人生をこう生きていくんだ。イエスさまに一生従っていきますと誓ったんでしょう? 何を今さらそんなことを言っているんですか。あなたは本当にそれでもクリスチャンなんですか?」
 うー。あまりにその指摘がその通り過ぎてぐうの音も出ない。何を隠そう、わたしは洗礼を受けている。だから、こうしたどう生きていったらいいのか、そのことが不安なんです、なんていう悩みからは卒業しているはずなのだ。が、また再燃し始めている。
 わたしの悩みというのは贅沢なもので、今のところうまく行きすぎているからこそ不安なのだと思う。母も受洗し親子共々クリスチャンとなり、もう心配することもない。祖父が亡くなってしまったのは悲しいけれど、それだって天国へ旅立ったのだと解釈しているからそんなに激しい絶望とか悲壮感もない。じゃあ、何で? 何というかうまくいっているがゆえに陥るふっとした不安なのだ。
 わたしの絡まった不安をほどいていくと、いくつかのものに分けられる。まず、このキリスト教的な生き方でこのまま突き進んでいっていいのかという宗教的な不安と、それから、自分自身の職業というか、仕事をどうしていくのか。するのか、しないのか。するとしたら何をやって、しないとしたら現状を変更することなくこのままやっていくのか。そこんところがまだはっきりと決まっていなくて不安なのだ。具体的には放送大学をどうするか、ということももちろんある。放送大学、どうしようかねぇ。全然、ちむどんどんしないのです(ちむどんどんってもう古いですねぇ)。でもだからと言って、ええいやめちまえぇと退学してまた元の無職に戻るのも何だかなぁ。心細いなぁって思うんだ。
 要するにわたしの生き方はこれです、っていうぶれない軸がまだないのだ。どうも、わたしの人生においてこれをやっていこう。これに自分の人生の多くの時間を費やしてやっていこうというのが決まっていないのだ。
 わたしよ、どうなりたいんだ? 作家になりたいとかブログのプロフィール欄に書いているけれどどうなんだ? えー、まぁ、そこんところが微妙なんですよね。なりたい気もするんだけれどなったところでそれが何なんだ。どうなんだ、みたいな気もする。作家としてビッグになって多くの人に自分の文章を読んでもらって多くの人に幸福感を与えられたらいいな。そう思わないこともない。でも、それにどれだけの価値があるのだろう、とももう一方では思う。ビッグになって大物になって、影響力を持つようになって、お金もたくさん稼いでリッチな生活をして、みたいな。でも、それをやったところでそれが幸せなのかねぇとも思ってしまうのだ。よ・う・す・る・に、自分軸が定まっていないのでしょうね。人から何と言われようと、自分はこういう生き方をしていくんだ、していきたいんだみたいなものが固まっていない。だから、あっちにぶれぶれ、こっちにぶれぶれ。見たもの、聞いたもの、知ったものに振り回されっぱなし。こういう人って騙されやすいよな、本当。ってこれは蛇足。
 こうした不安定な感じのところにヨガ哲学もやってきて、さらにかき回す。人間てさ、悟らない限り輪廻を繰り返すんだよね。だから、たぶんこの生が終わったらまた生まれ変わって前世の記憶は消えているだろうけれど、また地球上のどこかで生きていると思うよ。それだったら悟ることを第一にした方がいいわけ? 人生の至上命題を解脱(悟りを得ること)することに置いた方がいいわけ? とそこにわたしの信じているキリスト教の神様とイエスさまがやってきて、それは違うよ。人生というのは一回きりなんだよ。だから、生まれ変わらないし、輪廻なんてそもそも間違い。死んだら天国か地獄へ行くだけ。それで終わりであとはその場所に永遠にいるものなの。
 完全に間に挟まれて板挟みのわたし。うむ、どっちが本当なの? ヨガ哲学はわれが真理なりと言い、キリスト教のイエスさまはわれが真理なりと言って譲らない。
 でもどちらにしろ、この世は、現世は束の間なんだ。それはどちらを信じるにしろ言えることであって、だからこの現世しかないという唯物的な生き方ではないんだ。少なくともわたしは唯物的な生き方は取らないし、それは信じていない。カネ、物、女みたいな生き方はしようとは思わないからね。
 だとしたらこの束の間の人生をシャカリキになって全力疾走で突き抜けようとするのはわたしのとる道ではないことになる。じゃあ、星よ、星さんよ、どう生きたいんだ?
 えーとね、星の希望としてはね。とにかく心穏やかに過ごしたいんだ。笑いながら毎日を楽しく幸せに感謝しながら過ごしていきたいんだ。苦しかったり、痛いのは嫌だな。病気も嫌だし、怪我も嫌だし、誰かと四六時中戦っている、争っているなんていうのも嫌。それから自分の関心のあるテーマについてぼちぼちマイペースに勉強していきたい。ヘブライ語もできるようになりたいし、ゆくゆくは聖書を旧新約ともに原典で読みこなせるようになりたい。で、この自分が勉強したこと、知ったこと、心動かされたこと、感動したことなんかを誰かと共有していきたい。だから、大金持ちになりたいとかそういうのとも違う。有名になりたいとか、それを第一の目標とする感じとも違う。慎ましく、でもきちんと毎日を暮らしていて豊かで満ち足りている。そんな日々を送りたい。
 ってそれって今の暮らしじゃん。放送大学をやめるかどうかはともかくとして、それって今の暮らしじゃないですか。やりたいことができている平凡だけれど慎ましい生活。何だ、今やっていることを続けていけばいいんだ。何も特別な新しいことを始めたりとかする必要なんてなかったんだ。
 こういうことを言うと、星って進歩がない人間だなって思う人もいるかもしれない。でも、これこそがわたしが望んでいる生き方なのだ。この記事をここまで書く前には、何だか新しいことをたくさん始めたり、ビッグなことをドッカン、ドッカンやらなければこの不安は払拭できないものだと思っていた(結婚して大家族を築き上げるとか、フルタイムで正社員として会社で働くとか、作家として成功するとか、サーフィンを始めるとか、でっかい家を建てるとか)。でも、書きながらようやく自分の本心というか、望んでいることが見えてきた。
 そうか、今のままぼちぼちやっていけばいいんだ。いや、むしろ、今の生き方こそがわたしの望む生き方なんだ。そのことが分かって頭がスッキリしたわたし。でも、もうちょっとお金があった方が行動範囲が広がるだろうとは思うから、状況を見ながらぼちぼち現金収入につながることはやっていけたらなとは思う。
 無理をすることはない。ゆるやかにおだやかにやっていけばいい。あせっても急いてもきっといいことはないだろうから。
 心穏やかに毎日をていねいに生きていく。それこそがわたしにとっては平安であって、それこそが望む生き方なのだ。でも、時々刺激的で激しい道にひきつけられそうになる。劇的な現状変更をしたくなってくる時もある。でも、そんな時はこの原点に戻ってきて考え直す。そして、「それがわたしの本当に望む生き方なのか?」と自らに問うのだ。キリスト教的ではないけれど、自分自身に瞑想でもしながら聞いてみるのだ。それでも分からなかったら神様にも聞いてみる。って神様だけに何でしないかって? まぁ、そこんところがぶれている証拠なんでしょうな。ま、ご心配なさらずに。わたしの人生なんですからわたしが決めます(って全然キリスト教的じゃないけど)。
 心穏やかに毎日を幸せに送っていけたらと思う。何だ。幸せはもう近くにあったんだね。

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