掃除機つまって遠心力で解決

 昨日はブログの記事が書けなかった。というのもアクシデントが発生したからだ。
 母が近日引っ越しをするとのことで、そのための片づけやら何やらをやっていた星さん親子だったのですが、順調に物事が進んでいくかと思いきや、何と母が掃除機をつまらせたのです。それも話によると靴下を吸い込んでしまったとのこと。マジで? マジかよ。マジらしい。マジなもんはどうにかこうにかするしかない。
 というわけで、掃除機救助隊の星隊長1名が任務についたのであります。
 というものの、どうすれば掃除機のホースにつまった靴下を取り除くことができるのか、隊長でありながらも未踏の領域でしたのでまずは情報収集。今はネット社会で便利だもんね。きっと、ネットにはこうすべし。ビシィィィ!! っと鮮やかな解決策を教えてくれるサイトがあるに違いないとまだ見ぬ親切情報サイトに期待しつつ情報収集を始めたのです。
 掃除機のホースがつまったら。ワードを入れて検索すると出てきました、出てきましたよ。何でもモップの柄を突っ込んで押すといいとのこと。試す。少し動いた。が、決定打にはならない。掃除機のホースにつまった黒い靴下はしっかりとはまっていて、そう簡単には外れそうもない。もう手前まで来ているのに、もう少しなのに。決定打が。決定打が欠けるんだ。
 そんなこんなで1時間ほど経過しておりました。必死で掃除機を救助しようと試みるものの、あともう一歩のところでできない。もうホースの入り口付近まで来ているのに。決定打がほしい。が、○イックルワイパーの柄で押してもガチガチになっていて、もうウンともスンとも言わない。このまま力任せにやることもできるけれど、もしこの力が変な方向に行ってしまったら、掃除機のホースが壊れてしまう。掃除機も一応家電なんだ。だから、繊細に扱うところは気を付けて扱わないと大破損になりかねない。
 と、さっき見たサイトに「お庭のある方は掃除機のホースを手で持ってブンブン振り回してみてください」とあったのを思い出した。遠心力。遠心力なんてたかが知れてると思って試してみなかったものの、溺れる者は藁をもつかむ、ではないけれど、疲労困憊で焦りさえ出始めていた星隊長はこの遠心力というあまり頼りにはなりそうもない代物に賭けてみることにしたのだった。
 ブンブンブンブン。隣の家の人が見てたら、星さんのお兄ちゃんたら何やってるんでございましょう、てな異様な空気さえ漂っていたけれど、もう人目なんか気にしちゃいられない。目指すは掃除機のつまりを解消すること。この一点しかない。
 4回くらいブンブンしたらつまっている靴下がどうやら遠心力で動いたらしいことが分かった。いや~、星さん38年生きておりますけれど今まで遠心力というものをナメておりました。あんなにモップの柄でうんうん押してもダメだったのが、たった数回ブンブン回しただけで動いたのです。
 それでもこれではまだ回し方(ブンブン回すのが)が足りないだろうと思った星はそれからさらに十数回手で持ってブンブン回しました。
 そして、ホースの中を見ました。もうそこまで来ているではありませんか。まさにこれはウルトラマンレオの二つ目の主題歌の「レオはそこまで来ている~♪」のあの歌の通りではありませんか。靴下そこまで来ている~♪ 星さん喜びあ・ふ・れ・る♪
 星隊長殿はさらに仕上げのブンブンをしました。ブンブンブンブン、カナブンではなくてブンブンブン。とカナブンしましたら、いえ、ブンブンしましたら指が届く位置まで靴下キタ~~。そして、そして、それを渾身の力で引きずり出す。レスキュー完了~~!!! 任務完了!!!! 「!」をいくつ連ねても足りないくらいの感動がそこにはあったのです。
 そして、玄関で待機していた母にそのつまっていた黒い靴下を誇らしげに見せながら、「もう面倒だからつまらせないでよね」と明るい嫌みのない調子で一言。母はわたしに何度も礼を言うと、「これ、便利屋さんに頼んでいたら何千円もかかってたよ。今度、お礼にお寿司おごらせて」ととても嬉しそうに興奮気味に言ったのだった。
 気が付くと、母が「つまらせたみたい」と言ってから悪戦苦闘で2時間が経っていた。それが始まったのが午後の3時頃だったのだけれど、実は「ぐだぐだ不調日記」を書いてもよさそうなくらい調子が悪かったのだ。だから、これから不調日記でも書こうかなと思っていた矢先だったのだ。このことにかかりっきりで時間を使ったのでブログが書けなかった。そして、1時間くらいかけてヨガをやろうかなと思っていたもののできなくなった(結局全部終わって5時半頃から30分だけヨガはやったけどね)。でも、この達成感とやりきった爽快感はハンパなかったな。もうダメだと何度も思った。しかし、遠心力が、今まで完全にナメ切っていた遠心力に救われたのだった。神様はこのことを通してわたしに何かを教えてくださろうと思われたに違いない。自分のことをやる時間はほとんどなくなったけれど、なぜかそれがとてもすがすがしい夏の日の出来事だった。
 それにしても遠心力はマジですごかった。遠心力、あなどれない。
 掃除機がつまったらブンブン回すのがいいと分かった38歳の夏でした。

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値札

 人間の価値があるのだとすれば、それはいかに偉大な業績を成し遂げるか、だ。そうした大きな偉業を成した人というのは、人間として価値がとても高い。いわば社会に、もっと言うなら人類にいかなる貢献をするか。できたか。
 わたしはそうした価値観を疑うことなくやってきた。しかし、はたと気付いたのだ。それって本当なのかな、って。
 つい先ほどまでわたしは、人間には価値の値札があると意識の上にはのぼらせなかったものの、漠然とではあるがそう感じていた。その一人ひとりの人間につけられている値札にはしっかりと数字が記入されている。高学歴者、お金持ち、社会的地位の高い人、容姿が美しい人、運動神経が優れている人、おもしろおかしいことが言える人、ユーモアがある人、おしゃれな人、優しい人、機転が利く人、などなど。その数字が高い人、つまり高値がつけられている人ほど人間として価値が高くて、みんなから重宝されて、愛されて、尊敬されて、幸せになれる。
 だからだろう。わたしは今までその価値の値札の数字を上昇させることに心を砕いてきた。その数字を上げれば、上げさえすれば、わたしの価値も上がっていくと信じていたからだ。自分がやりたくないことであっても、自分の価値を高めるために我慢して取り組む。そうすれば、わたしに付加価値が加わって、ポイントは上昇していく。インスタ映えな人生は空しい、とことあるごとに力説しているわたしではあったけれど、この自分につけられている値札の数字を上げていくというゲームに今まで完全に絡め取られていたのである。
 そういうわけだから、とても単純なのだ。要するにわたしの商品価値をどこまでも高めていこうとする営みだと言っていい。そのためには今よりももっと頭が良くなった方がいい。運動をして体を美しくした方がいい。清潔感を出すために頻繁に入浴する。食事も気を付けて美ボディを目指す。
 たしかに自分の価値を高めようとしていくことは素晴らしいことではある。そうすることによって自分自身もブラッシュアップされて向上していくからだ。
 でも、それが本当にわたしの価値なのだろうか。頭が良くなって、イケメンになって、好青年になることがわたしの本当の価値なのだろうか。それはわたしの本当の価値ではなくて、単に商品価値と言えるだけのものでしかないのでは? つまり、わたしを売った時にどれだけのお金になるか、という指標なのだ。頭がいい人は高く売れるだろう。なぜなら、頭がいいことによって多くの財をなせるからだ。容姿が美しい人も高く売れるだろう。それによって収入さえ得ることができるからだ。実際には人身売買はしないけれど、それでも自分という財をアピールして、切り売りすることは間違いない。
 一方で、この考え方のこわいところは、自分の商品価値がなくなってしまったら価値自体もなくなってしまうと思えてくることだ。頭が良かったことを誇りにしていた人が何らかの病気や障害になり頭が悪くなってしまう。そうなったら、自分は価値ゼロなのだ。容姿が美しいことを自分の価値だと思ってきた人が事故などで顔に傷を負ったり、歳を取って容色が衰えたりすれば価値はゼロだ。自分の商品価値というものは常に変動しているものだけれど、それが一挙に失われれば、待っているのは絶望だけなのだ。もう誰も自分に価値を見出してくれる人はいないとおそらく自暴自棄になることだろう。
 しかし、わたしははたと気が付いた。それって単に商品価値でしかないだろ、ってね。この考え方を押し通そうとするなら、次のようになる。ここにお金持ちのAさんと貧乏なBさんの二人の人がいます。どちらが人間として価値が高いのでしょうって。答えは単純明快。金持ちの方が人間として価値があるんだ。なぜなら、お金持ちのAさんはお金を生み出す能力があるのだから、明らかに商品価値が高いんだよ。だから、人間としても価値が高い。
 ってそんな馬鹿な話があってたまるか、と思われたことだろう。けれど、わたしたちはお金の力にはめっぽう弱い。一日あたり1ドル以下で暮らす人と億万長者を前にすると、カネの力で億万長者の方が価値があるように見えてしまうし、思えてしまう。でもね。それは誤り。人間は平等であって、みんな無上の価値を持っているんだ。神様によってね。
 もしも人間の価値があるのだとすれば、それを知っているのは神様だけじゃないかってわたしは思うんだな。この人は価値があって、この人は価値がない、とかもうそれは神様の領域でしょう。人間はそういう神聖な領域に立ち入るべきじゃない。
 だから、「商品価値=人間の価値」というのは人間による現世的な価値判断でしかないんだ。カネになるかならないか、みたいなね。
 何かスッキリした。商品価値が人間の価値だという何の根拠もない価値観に従っていきたい人は勝手にやっててくれればいいって思えてきた。わたしには価値がある。たとえ、商品価値が限りなくゼロに近付いたり、ゼロになったとしても価値がある。だから、安心して歩んでいきたい。この呪縛から解き放たれて気持ちが楽になった。神に感謝、感謝。

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幸福な世界観

 わたしは小説をあまり読まないほうなのだけれど、読むといつも驚かされることがある。それはあまりにも作家によって世界観が違うということだ。
 ある作家にとっては世界とはハッピーな場所で安心できる安全な場所。と思えば、ある作家はそれとは真逆な世界観を持っていて、世界とは混沌と混乱と破壊がはびこる醜悪な場所としてとらえている。はたまたある作家にとっては、世界とはとても不思議な場所でまさに不思議の国。
 同じ世界がこれほどまでに異なる様相を呈するのは、面白いとも言えるけれど、同時にこわさすらあるとわたしは思う。ある人にとっては天国でも、ある人にとっては地獄。同じ世界のはずなのに、見る人が変わればそれはたちまち色を変えてしまうのだ。
 最近、わたしが時々読む本に認知療法の本があるんだけれど、これによると世界というものは自分で作り出しているものらしい。たしかに、外界というものはあるものの、それを解釈しているのはまぎれもないその人であって、解釈しだいで世界は全く変わってしまうというのだ。この考え方は一本通っていて、わたしの目の前にリンゴが一個あるとして、このリンゴをどう解釈するかというのが大きいのだ。「大きいリンゴだな」「小さなリンゴだな」「形がいびつなリンゴだな」と一個のリンゴをめぐる解釈だけでもいく通りもある。はたまた、目の前にリンゴがあるにもかかわらず、リンゴが目に一切入らなくて、リンゴの周りにあるものにしか目が行かないということもあることだろう。あるいは特殊な例だとは思うけれど、リンゴというものを見たこともなく知らない人にとっては、このリンゴもリンゴとして認識することはできない。ただ単に丸いものがあるな程度の認識になることも十分考えられる。だから、極端なことを言えば、目の前にはリンゴという物体があるだけで、それをどう解釈して判断するかはわたしたちに委ねられているのだ。
 この解釈がわたしたちの気分、つまり感情に与える影響は大きくて、ポジティブな感情を引き起こすような解釈をすれば気分は明るくなるし、反対にネガティブな感情を招くような解釈をすれば気分は暗くなり落ち込む。その証拠に誰か人が亡くなったとしても、普通は悲しみがやってくるものだけれども、とらえかた次第では前向きな気持ちになることもできるのだ。唯物的? 唯物的すぎるかな? でも科学的に感情を考えるならこうなるんじゃないかって思うんだ。
 そういうわけだから、世界が暗くて絶望しかないと思っている人は自らネガティブな情報を集めてしまっている。もちろん、ネガティブな情報も安全に生きていくためには必要なものではある。「石橋を叩いて渡る」という言葉のように、自分が進もうとしている道ややろうとしていることが安全かどうか確認する作業は必要だ。わたしたちがネガティブな情報に敏感なのも、自分の身を危険から守るためなのだ。いわば本能と言っていい。
 しかし、行きすぎたネガティブさは得てして自分を息苦しくする。世界には暗さもあるけれど、明るさだってしっかりある。わたしたちはコロナの情報とか、自然災害の情報に敏感で極度に恐れる。でも、考えてみればコロナだって自然災害だって全人口のほぼ100%を死滅させるような被害は出していない。もちろん、それらのことが軽いとか大したことないとか言うつもりはない。言うつもりはないのだけれど、冷静にこれらの出来事を眺めてみれば、これらが世界のほんの一部でしかないことに気付かされることだろう。もしも、これらが世界のすべてだとしたらこの世は終わっているようなものだし、明るさなんてひとかけらもないよ。
 この世にはたしかに闇がある。暗さがある。でも、それ以上に明るい光の世界もあるんじゃないか。だから、「この世界はすべて闇です」とか「この世は破滅しています」などといった極端な思想は、ネガティブな側面を拡大して見過ぎているように思うのだ。言うのもはばかられるような凶悪事件は日々起こっている。けれど、それがすべてではない。平穏に幸せに暮らしている人はたくさんいるし、問題はありながらも何とかやっていけている人だって大勢いる。
 ネガティブな情報は黒い一滴のインクのようなもので、それが水の中にたらされると一気に水を真っ黒にしてしまう。でも、水自体がすべて真っ黒なインクかと言えばそうではない。染まるまではきれいなきれいな水だったのだ。水は一滴のインクで黒くなってしまうけれども、水自体がすべてインクではないのだから、浄化すればまたもとの澄んだ水になる。
 だから、わたしは世界は終わりではないと思う。完全に破滅しているわけではないと思う。闇があれば、それを照らす光が必ず射し込んできて、この暗さを明るくしてくれるはずだと信じている。ポジティブ過ぎ? 楽観的すぎる? 実情に即していない?
 わたしは世界というものは、そのどこを見るかによって見えてくるものが大きく変わってくると思うんだ。わたしたちは人間なのだから、この世界を公正中立な偏りのない目で見ることはできない。どんなに見識を広げていっても神様の視点を得ることはできないと思うんだ。わたしたちの生きることのできる人生はもちろん有限な時間であって、それを能力も知識も有限な存在であるわたしたちが生きる。だとしたら、得られるもの、つまりは見えるものだって限られたものでしかないと思うけどな。神様みたいに全知全能になれたらどんな風にこの世界が見えてくるのか、立ち現れてくるのか。わたしたちは有限な思考や思いでそれに思いを馳せることしかできないんだ。
 だとしたら明るいほうを見ていた方がいいんじゃないか。暗いほうも見なければならないかもしれないけれど、明るいほうに視線を送った方がいいんじゃないか。
 ネガティブな情報に向き合うことも必要ではある(たとえば、世界の貧困・飢餓の問題とかコロナの問題とかウクライナでの戦争とか)。でも、それが世界のすべてであるかのようにとらえてしまうのはやっぱり行き過ぎているんじゃないかって思うんだ。それが大問題であることは認めつつも、わたしは自分が置かれているこの場所に感謝しつつ歩んでいきたい。幸せをしっかりとかみしめて味わっていきたいんだ。だから、世界にネガティブな問題があるから自分は幸せを感じてはいけない、ではなくてしっかりと自分の幸せも追求していくんだ。
 世界観。それにはその人自身の人生観、ものの見方、価値観や倫理規範などが如実に現れる。だからこそ、わたしは幸福な世界観を持てたらいいなと思っているのだ。脳天気? 楽天主義? 自分のことしか考えていない? わたしに向けられてくる批判はどれも的確で素直なわたしはそれもそうかもなと思ってしまう。でも、その批判をまともに真正面から受けて、いつも暗い顔をして「何で世界はこんなに悲惨で残酷で不条理なんだ」と悲しげな顔をして毎日を無為に過ごすよりは、そうした問題を受け止めながらもわたしはわたしとしてやれるだけのことをやった上で、自分の幸せも手放さない、という方が建設的であり、前向きではないかと思うのだ。もちろんわたしは社会問題や世界の問題を解決するために尽力されている方々には頭が上がらない。しかし、わたしにはわたしの分があり、わたしはわたしなりにやれることをやっていけばいいのだ。
 類は友を呼ぶ。だから、ネガティブな人間の周りにはネガティブな人間が集まってよりネガティブになっていくし、その逆は逆でしかりなのだ。だから、明るい光のほうを見るようにした方がいいのではないかってなおさらわたしは思うんだ。転ばないように石が転がっていないかと下を見ることも必要。でも、いつも下ばかり見ていたら下を見ているだけで人生が終わってしまうよ。下も時々見ながら前をしっかりと見る。さらには上の大空も眺めながら、ね。幸福な世界観、持ちたいなぁ。

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いつも絶好調でなくてもいい

 明日は教会の集会があって、それから奉仕でお掃除をやる。考えてみればそれだけのこと。が、わたしは不安になってしまった。果たしてできるのだろうか、と不安になってしまったのだ。教会の集会は結構ハードで牧師がみっちりやるんだ。この前なんて、1時間半の時間のうち、残りの10分以外ひたすら牧師が喋っていて、参加者にも疲労感がつのり始めていた。そんなハードな集会の後に果たしてお掃除ができるのか。分かりやすいわたしはとたんにドツボにはまって、不安になってしまった。どうしよう。できなかったらどうしよう。長年(とは言っても2、3年)一緒にやってくれていたSさんが怪我で不在の今、急遽ピンチヒッターを買って出てくれたMさんの期待にわたしは応えることができるのか。結局、疲労困憊でできませんでした、とならざるを得ないのではないか。どうしよう、どうしよう。できなかったらどうしよう、と考えれば考えるほど不安は増幅していき、本日45分ほどパソコンをやったことも手伝って(15分にするんじゃなかったのかよ)不安は絶頂に。
 と、メンタル不調ともなれば、もう決まっておりますね。あの本の登場ですな、と行きたいところだけれど『いやな気分よさようなら』はうつとか怒りなどに焦点を当てた本なので、今回は少しばかり役に立つところがなさそう。で、取り出しましたは、デビッド・D・バーンズ『フィーリングGOODハンドブック』。この本はメンタル不調でももう少し広範に扱っていて、もちろん不安も扱っている。もう何年も前に買ってほとんど読まずに積ん読になっていたけれど、買っといて良かった。本っていつかは役に立つ時がくるものなのですね。
 で、読んで感想。「ありのままでいいじゃないか」。以上。チーン。てなだけでは手抜きも手抜きなのでざっくり概要をお伝えすると、別に常に完璧でなくてもよくね?、という話なのだ。
 不安を感じやすい人というのは真面目なのだ。いつもこうあるべきっていうのが自分の中にあって、それができなかったらどうしようと思うものだから不安になるらしい。
 バーンズ先生はたしかこんなことを本の中で言っていた。最悪の事態になったとして深刻な問題が発生するのか、と。
 考えてみればたしかにそうで、わたしが明日調子が悪くなって、集会に出席できなくなったり、集会の後のお掃除ができなくなったところでたかが知れているのだ。こういう言い方をすると真面目な人に怒られるかもしれないけれど、損害はあるものの、発生してしまうものの、微々たるものじゃないの。別にわたしがお掃除できなくなったとしても、いつもよりも教会が汚れているだけだし、極端な話、毎週誰かがお掃除してくれているわけだから、そんなに大きな汚れもないのだ。何もわたしが出席したり、お掃除したりができなくとも、何億円の損害が出るとか、人が死ぬとか、そういう話ではないのだ。いわば、ささやかな損害。たしかにお掃除ができなくなれば、Mさんが一人でやらなければならなくなって迷惑はかかる。でも、調子が悪いと言っている不調な人に「歯を食いしばって何が何でもやれ」だなんて言わないだろう。Mさんはそんな非情な人ではないし、まぁ何とかやりくりをつけてくれることだろうと思う。また、日曜日までにやればいいわけだから、わたしが自分で回復した頃合いに次の日とか土曜日にやるっていう方法もある。つまり、それほどの大問題ではなかったのだ。
 今回のことを通して気が付いたこともある。それは完璧主義は良くないということだ。調子が悪くなったらどうしよう、と真面目なわたしは不安になったわけだけれど、調子が悪くなったら悪くなったで別にいいじゃないの、と開き直れたのだ。不調というものは誰しも好き好んでなるものではないし、コントロールしようと努力していてもなってしまう時には不調にもなるんだ。完全無比なコンピューターじゃなくて、わたしは生き物なんだからそれは仕方がないことじゃないの、って思えてきたんだ。準備はする。不調にならないように努力もする。けれど、そこまで気を遣っても不調になることは誰しもある。そうなったら、「調子が悪いです」と自己申告して仕事なり何なりを免除してもらおう。ズルはしていないのだから、むしろ正直に不調であることを相手に伝えた方がいいと思う。
 わたしは少しばかり、いや結構強迫的な思考に陥っていたことにも気付かされた。わたしは「すべき」とか「ねばならない」が嫌いな人間だと自負していたくらいなんだけれど、それでも自分の中に課していたのだ。それらを。

 もしもあなたが、不安や動揺を感じてはならないと考えたり、自分が常に幸せであるべきだとか自分を常にコントロールすべきだと信じているならば、あなたは余計な問題を起こしているのかもしれません。なぜなら、どんな人も、常に幸せを感じたり、常に愛されていると感じたり、常に自信があると感じることはできないからです。(同書p321)

 わたしは常に快調でいなければならないものだと自分自身思い込んでいた。そのためにアーユルヴェーダをやり、ヨガをやった。何が何でも不調にはなりたくないものだと、まるで不調をバイキンか何かのように毛嫌いしていた。けれど、わたしの体調は生き物で調子がいい時もあれば、やはり悪い時もある。わたしは何もこうした快調に近付いていく行為そのものがすべて不毛だとか意味がないなどと言うつもりはない。でも、気付いたのだ。不調だってわたしの一部であって、大切な一部ですらあるんだ、と。できることなら不調を避けたい。避けることができるなら苦しいから避けたい。でも、こうした不調の一つひとつを愛おしむ視線で眺める時、不調も悪くないものだなと思う。不調は抹殺すべきバイキンではない。むしろ、わたしに大切なことを教えてくれる先生だ。不調があるからこそ、より健康になりたいという気持ちが持てるわけであって、いつも絶好調だったらそのありがたさだって薄れてしまうよ。
 さらにバーンズ先生はこんなことも言っている。当たり前のことのようだけれど、わたしには刺さってきた涙が出そうなくらい嬉しかった言葉だ。

 私たちは、欠点があって不完全であるために、愛されることができるのです。(同書p321)

 誰かを愛するっていうことは、その人の欠点も含めてその不完全さを丸ごと受け入れることなんだろうな、とこの言葉を読みながら思った。欠点を愛することができるようになるのはいつのことやら、と思いつつ不安は和らいできた。つまり、ありのままということかな。む、難しい。

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ぐだぐだ不調日記第10弾「おそらくソフトクリームにやられた」

 好き好き大好き、ソフトクリーム。みんなから愛されているソフトクリーム。食べるとみんな笑顔になる魔法のような、ソフトクリーム。
 のはずだったのに、今回はそれを食べたら不調になったのだ。え? 不調の原因はパソコンじゃないの? だいたい今までのパターンのほとんどすべてはパソコンとかからくる不調だったよね。新パターン到来? おそらく新しいやつなんだろう。自分でも驚いている。今日はパソコンとか何もやってないからさ。マジで? マジよ。星さん、うそつかない。冗談は言うけどうそつかない。インディアンうそつかない、を完全にパクりながらも自分自身、未だに信じられずにいる。パソコンをやらなくても不調になることってあるんだ、ってね。
 それはそうさ。不調にもいろいろな種類がある。今まではたまたまパソコンをやった時になる不調だったんだよ。今回のは不調の症状は似ているけれど、違うんだ。原因が違うんだよ。
 と、完全にソフトクリームが原因と断定している星でありますが、それ以外にも要因として考えられることってない? そもそも、ここまでの文章で不調になったいきさつには一切ふれてなかったよね。やはり、それにふれないことには原因をこれだと断定することはできないだろう。そして、断定することを差し控えるべきだろう。
 いきさつ、いきさつ。
 今日はね、駅前に用事があったんだ。だからバスに乗って駅前に出掛けたんだ。で、二つあった用事のうち一つを済ませました。そこまでは良かったのだ。と、歩いておりましたら一軒のソフトクリーム屋さんがあるんです。星さん食べたくなったので食べた。そこまではいい。それからだ。急に体が重くなってきて、だるくなってきて気持ちがどんよりとしてきた。今日のお天気自体も曇っていて蒸し暑かったから、この気候のせいだろうなって思っていたけれど、とにかくだるい。二つ目の用事を済ませるためには往復で15~20分程度歩く必要があって、とことこ歩いていたんだ。どんどん体がだるく、重たくなってくる。しまいには一緒にいた母(一緒にお出掛けなのだ)のささいな言動にもいつもだったら何とも思わないのに、イラつき出す始末。わたしの左手にかかっていたトートバッグが結構重かったこともあったのか、疲労はどんどん蓄積してきて、だるさはどんどんどんどん増していく。ここ数日お散歩をさぼっていて心肺機能が落ちてきていることもあったのかもしれない。とにかく、だるくて仕方がない。けれど、このだるさは熱っぽいとかそういう感じではなくて、ただだるい。明らかに風邪ではなくて、とにかくだるかったんだ。
 で、帰りもバスに乗って帰ってきた。が、食べるものを買いたいと思ってスーパーに寄る。ってやめておけばいいのに、と今では思うけれど、それでも寄ったんだ。限界まで来ているわけではないものの、それでも相変わらず気持ちに清涼感は1ミリもなくて、ただただだるい。
 帰宅。やっと家に着いた。こういう時はどうするべ、と思ったわたしはアーユルヴェーダの本を開いた。「疲れる、疲れやすい」という項目を開いてどうすればいいのか知ろうとしたわたしである。ふむふむ、この項目は何度も開いて読んではいたけれど、豆乳にターメリックとしょうがとシナモンを入れたものを飲むといいらしい。で、即実行。飲む。そうしたら急に食欲がわいてきた。本当は疲れている時には良くないと分かってはいるんだけれど、さきほどスーパーで買ってきたカレーパンをパクリ。半分のつもりがおいしかったので全部食べちゃった。カレーパンを食べながらNHKの朝ドラを見ていたわたしである。そして、朝ドラ今日の分終了。と気が付いてみると、あんなに倦怠感に包まれていたのが完全ではないにしろ霧がパーっと晴れているではないか。カレーパンが効いたのか。それとも特製ドリンクが効いたのか。それとも両方効いたのか。あるいは朝ドラがリラックス効果をもたらしたのか。分からないがその三者が複雑に絡み合ったか何かして、わたしの不調はおおかた消えてしまったのだった。
 原因を探ることももちろん必要だけれど、どうしたら回復するかっていうことを知ることはもっと大事だと思う。
 わたしたちの世界は複雑にいろいろなものが絡まり合って原因と結果をつくりだしているんだ。だから、何かこれひとつが原因だと思ったとしても、それ以外にも要因が重なり合っていたり、組み合わさっていることによって問題が発生することだってあるんだ。だから、今回の不調はおそらくソフトクリームだと思う。けれど、どうやら今回のはそれ以外にも、天気、気温、体の調子、荷物の重さ、などが複雑に作用しているように思えてならない。ソフトクリームだと大方目星は立てながらも断定することはできない。そんな感じである。
 が、それにしてもアーユルヴェーダの力はすごいなって思う(って今回のが100%アーユルヴェーダのおかげだとは言い切れないけれど)。ピタリと不調を治しちゃうんだもんな。少なくともわたしにはアーユルヴェーダが合っているようで、不調になり始めたらアーユルヴェーダのケアをしていけたらと思う。
 今回は不調日記と言いながらも、正確には不調「後」日記って言ったほうがいいかな。だから、今回の記事は割合落ち着いていると思う。っていうかいつものが奇をてらいすぎて、異様な空気すら出してたからね。今回のはかなり真面目だったかも。何だ、真面目か、などと落胆せずに今後もぐだぐだ不調日記を楽しみにしていてくださいませ。あんまりこの日記は書きたくないけれど、苦い不調も他人のことなら蜜の味?、てなわけで第10弾はこれにてお開き。お付き合いありがとうございました。拍手~!!、してくださいな。パチパチ~!!。

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