いつも絶好調でなくてもいい

 明日は教会の集会があって、それから奉仕でお掃除をやる。考えてみればそれだけのこと。が、わたしは不安になってしまった。果たしてできるのだろうか、と不安になってしまったのだ。教会の集会は結構ハードで牧師がみっちりやるんだ。この前なんて、1時間半の時間のうち、残りの10分以外ひたすら牧師が喋っていて、参加者にも疲労感がつのり始めていた。そんなハードな集会の後に果たしてお掃除ができるのか。分かりやすいわたしはとたんにドツボにはまって、不安になってしまった。どうしよう。できなかったらどうしよう。長年(とは言っても2、3年)一緒にやってくれていたSさんが怪我で不在の今、急遽ピンチヒッターを買って出てくれたMさんの期待にわたしは応えることができるのか。結局、疲労困憊でできませんでした、とならざるを得ないのではないか。どうしよう、どうしよう。できなかったらどうしよう、と考えれば考えるほど不安は増幅していき、本日45分ほどパソコンをやったことも手伝って(15分にするんじゃなかったのかよ)不安は絶頂に。
 と、メンタル不調ともなれば、もう決まっておりますね。あの本の登場ですな、と行きたいところだけれど『いやな気分よさようなら』はうつとか怒りなどに焦点を当てた本なので、今回は少しばかり役に立つところがなさそう。で、取り出しましたは、デビッド・D・バーンズ『フィーリングGOODハンドブック』。この本はメンタル不調でももう少し広範に扱っていて、もちろん不安も扱っている。もう何年も前に買ってほとんど読まずに積ん読になっていたけれど、買っといて良かった。本っていつかは役に立つ時がくるものなのですね。
 で、読んで感想。「ありのままでいいじゃないか」。以上。チーン。てなだけでは手抜きも手抜きなのでざっくり概要をお伝えすると、別に常に完璧でなくてもよくね?、という話なのだ。
 不安を感じやすい人というのは真面目なのだ。いつもこうあるべきっていうのが自分の中にあって、それができなかったらどうしようと思うものだから不安になるらしい。
 バーンズ先生はたしかこんなことを本の中で言っていた。最悪の事態になったとして深刻な問題が発生するのか、と。
 考えてみればたしかにそうで、わたしが明日調子が悪くなって、集会に出席できなくなったり、集会の後のお掃除ができなくなったところでたかが知れているのだ。こういう言い方をすると真面目な人に怒られるかもしれないけれど、損害はあるものの、発生してしまうものの、微々たるものじゃないの。別にわたしがお掃除できなくなったとしても、いつもよりも教会が汚れているだけだし、極端な話、毎週誰かがお掃除してくれているわけだから、そんなに大きな汚れもないのだ。何もわたしが出席したり、お掃除したりができなくとも、何億円の損害が出るとか、人が死ぬとか、そういう話ではないのだ。いわば、ささやかな損害。たしかにお掃除ができなくなれば、Mさんが一人でやらなければならなくなって迷惑はかかる。でも、調子が悪いと言っている不調な人に「歯を食いしばって何が何でもやれ」だなんて言わないだろう。Mさんはそんな非情な人ではないし、まぁ何とかやりくりをつけてくれることだろうと思う。また、日曜日までにやればいいわけだから、わたしが自分で回復した頃合いに次の日とか土曜日にやるっていう方法もある。つまり、それほどの大問題ではなかったのだ。
 今回のことを通して気が付いたこともある。それは完璧主義は良くないということだ。調子が悪くなったらどうしよう、と真面目なわたしは不安になったわけだけれど、調子が悪くなったら悪くなったで別にいいじゃないの、と開き直れたのだ。不調というものは誰しも好き好んでなるものではないし、コントロールしようと努力していてもなってしまう時には不調にもなるんだ。完全無比なコンピューターじゃなくて、わたしは生き物なんだからそれは仕方がないことじゃないの、って思えてきたんだ。準備はする。不調にならないように努力もする。けれど、そこまで気を遣っても不調になることは誰しもある。そうなったら、「調子が悪いです」と自己申告して仕事なり何なりを免除してもらおう。ズルはしていないのだから、むしろ正直に不調であることを相手に伝えた方がいいと思う。
 わたしは少しばかり、いや結構強迫的な思考に陥っていたことにも気付かされた。わたしは「すべき」とか「ねばならない」が嫌いな人間だと自負していたくらいなんだけれど、それでも自分の中に課していたのだ。それらを。

 もしもあなたが、不安や動揺を感じてはならないと考えたり、自分が常に幸せであるべきだとか自分を常にコントロールすべきだと信じているならば、あなたは余計な問題を起こしているのかもしれません。なぜなら、どんな人も、常に幸せを感じたり、常に愛されていると感じたり、常に自信があると感じることはできないからです。(同書p321)

 わたしは常に快調でいなければならないものだと自分自身思い込んでいた。そのためにアーユルヴェーダをやり、ヨガをやった。何が何でも不調にはなりたくないものだと、まるで不調をバイキンか何かのように毛嫌いしていた。けれど、わたしの体調は生き物で調子がいい時もあれば、やはり悪い時もある。わたしは何もこうした快調に近付いていく行為そのものがすべて不毛だとか意味がないなどと言うつもりはない。でも、気付いたのだ。不調だってわたしの一部であって、大切な一部ですらあるんだ、と。できることなら不調を避けたい。避けることができるなら苦しいから避けたい。でも、こうした不調の一つひとつを愛おしむ視線で眺める時、不調も悪くないものだなと思う。不調は抹殺すべきバイキンではない。むしろ、わたしに大切なことを教えてくれる先生だ。不調があるからこそ、より健康になりたいという気持ちが持てるわけであって、いつも絶好調だったらそのありがたさだって薄れてしまうよ。
 さらにバーンズ先生はこんなことも言っている。当たり前のことのようだけれど、わたしには刺さってきた涙が出そうなくらい嬉しかった言葉だ。

 私たちは、欠点があって不完全であるために、愛されることができるのです。(同書p321)

 誰かを愛するっていうことは、その人の欠点も含めてその不完全さを丸ごと受け入れることなんだろうな、とこの言葉を読みながら思った。欠点を愛することができるようになるのはいつのことやら、と思いつつ不安は和らいできた。つまり、ありのままということかな。む、難しい。

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