お掃除ってすごい

 今日は何だか気持ちがいつもよりもスッキリとしている。それもそのはず。お掃除をしたからだ。
 家中、掃除機をかけたんだ。それとトイレ掃除もした。
 恥ずかしながら、掃除機かけるの何日ぶり? 下手したら何ヶ月ぶり?、てなくらい。星さんが掃除機をかけると雪が降るんじゃないかしら、ってなくらいこれはレアなことなのだ。自分でこういうことを言うのは何だけど、家の中が汚れていてもそんなに気になるほうじゃなくて、まさにほこりまみれな中、動じることもなく生活していた。
 そんな無頓着で無神経なわたしがなぜお掃除をする気になったのか。しようと思い立ったのか。それはヨガの影響なのだ。ヨガの教え。それは心と体を清浄に保ちなさい。そして、そのためには自分の身の回りの環境もきれいに清潔にしていなさい。そういった教えというか、精神を実践してみようと決意したのだ。たしかに、ヨガをやったり、瞑想したりしても、家の中がほこりだらけ、ごみだらけだったらどんなにそれらをやっても限界があることだろう。きれいにしていること。特にお掃除をして身の回りを整えておくことにはすごい力があるのだ。
 で、だいたい40分か50分くらいかかっただろうか。慣れない掃除機がけを汗だくになりながらやって、きれいになった我が家。
 と、な、何か頭の中がスッキリした。家の中のほこりがなくなっただけなのに、何か頭の中がスーッとスッキリしたような感じがするのだ。いや~、不思議だな。掃除機かけただけでしょ。そもそも、住環境と脳って直通ではないはずなのに、まるで直接つながっているかのように家の中が小綺麗になったら、頭の中も軽くなったような気がするのだ。マジで? マジらしい。星さん、正直今までお掃除をナメておりました。掃除なんかしたって何も変わらないよ。ただ家の中がきれいになるだけでさ、などと思っておりました。でも、違うのです。家の中がきれいになると、頭の中もきれいになるようなのです。これってミラクル起きてるっぽくないですか?
 頭の中がスーっと澄んでいるような感じと形容したらいいだろうか。ともかく、そんな感じなのだ。
 ま、毎日お掃除やろうかな(ポツリ)。毎日は無理でも3日に1回くらいはお掃除することにしようかな(またまたポツリ)。
 当たり前のことを当たり前にやる。これってとても大事なことなんだなって痛感したよ。お掃除、部屋の整理整頓。この地味で当たり前のぱっとしないこと。でも、このさり気ない日常の所作が、心の状態や具合に大きく影響してくる。そう言えば、お寺のお坊さんは何をおいてもまずは掃除をするんだったな。特に禅宗なんかだとお掃除はとても大切な修行の一つで、欠かせないものだったと思う。禅もヨガも似たようなものだから、やっぱりお掃除をして心、体、身の回りを清浄にしておくべし、ってなわけなんだな。
 今日、お掃除をしてみて、すごくいいことに気が付いたなって思うんだ。体と心を清浄にするためには、お掃除をしたり、洗濯をこまめにしたり、整理整頓をしたりして身の回りもしっかりと整える。それらを適当にしていて、ヨガや瞑想だけやって自分自身が整うはずがやっぱりないんだ。
 お掃除って面倒くさいイメージがわたしの中にはあるけれど、そう言わず思い切ってこれからこまめにやっていきたいな。今日、この記事をきれいになった部屋で書いているわけだけど、いつもよりもスッキリとした頭で執筆に向かえていると思う。はかどる~っていうのが正直なところだったりする。
 ヨガは、ヨガマットの上でポーズをとったり、瞑想したりすることだけではなくて、毎日の生活自体がもうすでにヨガの一部みたいなものなんだろうなって思う。お掃除するのも、整理整頓するのも、お料理するのも、勉強するのもまぁ、言ってみれば修行みたいなものだ。つまり、人生のすべての物事を修行だととらえるなら、ヨガの実践とはヨガ的な生き方をすることで、何も狭義のヨガをすることだけではない。
 そうだった。わたしはしなやかな人になりたいんだった(って以前の記事にも書いたと思うけど)。しなやかな人ってお掃除とかしっかりサボらないでやるよね。何ヶ月もお掃除をしていないしなやかな人なんて想像できないし、それはしなやかではないと思うよ。心と体が清浄でしなやかになれている人というのは、もちろん身の回りもきれいに整えているはずだと思う。
 あぁ~、何か今日の我が家からはすがすがしい空気を感じる。居心地がいいのはもちろんのこと、スッキリとしていて心も洗われるんだ。
 もうこれからお掃除はヨガの修行だと割り切ってやっていくことにしようっと。面倒で大変かもしれないけれど、「これも修行だから」と思えばおそらく続けていけるよね。これからぼちぼち、ぼちぼちお掃除をやっていく。そして、いい空気に包まれながら生活していくんだ。贅沢なことは何もしていないけれど、これが本当の贅沢な暮らしではないかしら、ってな気がする。
 お掃除、ぜひとも続けていきたい。自分を律してやっていくぞ~。エイ、エイ、オー!!

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わたしの信仰の形

 この前の日曜日も教会へ行ってきた。クリスチャンになって4年目になろうかというところだけれど、わたしの中に確実に変化が起こってきている。礼拝の説教を聞いていたものの、どこか物足りない。説教の内容が悪いとか下手だとか、そういうことではなくて、おそらくわたしが変わってきたのだろう。わたしは変わってきた。たしか5月頃からヨガを始めるようになり、それからほぼ毎日のように欠かすことなくヨガマットの上でヨガのポーズを取り続けてきた。正直に言うと、マンネリ化してきたようなキリスト教と違って、新しい取り組みであるヨガなどの思想やインド哲学はわたしにとってとても新鮮だった。そんなわけで最近はキリスト教の本はほとんど読まず、ヨガとかインド哲学とかの本ばかり読んでいる。
 神様はこの今のわたしのことをどう思われているのだろうか。異教に迷い始めている羊として悲しまれているのだろうか。それとも「いいじゃないの。どんどん道を求めていきなさいよ」とばかりに祝福してくださっているのだろうか。それは正直なところ分からない。悲しまれているかもしれないし、反対に喜ばれているかもしれないし、中立的なまなざしで見守られているだけなのかもしれない。それは神様に聞いておくれ、ってな話である。わたしは神ではないのだから、正直なところは分からない。でも、ヨガをやるようになって肉体的にも精神的にも鍛えられてたくましくなってきたと自分でも思う。体がほどよく筋肉質になってきて、しなやかな感じになってきたし、心だって波風立つことは立つけれど、それでも絶不調に陥ることがほとんどなくなってきた(それは最近のわたしがあの毎度恒例の「ぐだぐだ不調日記」を書いていないことからも明らかだろう)。嫌なことがあっても、持ち直すまでの時間が早くなってきた。もちろん人間なのだから、波風が立つのは当たり前だ。機械とかロボットじゃないんだから。その心の波風をどのように処理したらいいのか、という指針をわたしはヨガをやる人の必読書の『ヨーガスートラ』から教えてもらっている。クリスチャンだから異教的なものは一切タブーだなどと言っていたら、わたしの読書などは禁書だらけみたいなものだろう。それはともかくとして、この『ヨーガスートラ』がわたしに与えたインパクトというか衝撃はとても大きい。目からウロコが落ちまくりと言ってもいいような、そんな読書体験をしている。
 『ヨーガスートラ』、今半分くらいまで読んで折り返し地点かな、というところなんだけれど、ここまでの内容を一言で無理矢理要約するなら、自分の肉体、心、考えと本当の自分を混同することが悩みや苦しみの原因だということ。本当の自分というのがわたしは分かりそうで分からなくてとてももどかしいのだけれど、こんな風にたとえてあった。それは本当の自分とは空(そら)なのだと。そして肉体や心や生じてくる考えはそこに現れる雲やお日様の光や雨などのお天気なのだ、と。空はまったく動かないし、どんなものからも影響を受けない。雨が降ろうと風が吹こうと暑くなろうと寒くなろうと、そういったことに影響されない。お空はお空で、ただ天気をお空に映し出している。ただそれだけのこと、それだけのこと。お空は不変で不滅だ。それが自分自身なのだとこの本の解説にはあった。
 この考えを知って、何だかすごく心が楽になった。怒りや悲しみなどが台風のようにやってきたとしても、それは流れていくお天気でしかないのだ。わたしは、本当のわたしである自分自身はいつも変わらずにいる。何者(ならびに何物)に影響されることもなく、ただただそのお天気を映し出している。他のたとえとしては占いなんかに使う水晶みたいなものだとも本の中ではたとえていたけれど、それが本当の自分であり、自分の本質なのだとヨーガスートラは言う。だから、その現象(この言葉も何かわたしにはしっくり来る)はわたしではないのだから、それに振り回されてその流れていくものを自分だと思ってしまうのは誤りらしいのだ。
 とここまでヨガの思想的な内容に少しふれてきた。わたしの課題。それはこのインド的な思想とキリスト教をどう調和させるのか、ということだ。なかなかこれが難しそうだけれど、人任せながらも先人にこれをやってのけた人がいるので、その人の書いた本を読むなりして、知恵を拝借したいなとわたしは思っているところだ。そもそも、純粋なキリスト教なんて存在しないと思う。十人十色とはうまく言い得たもので、十人いればみんなそれぞれ違うのだから、同じものに触れても取り入れ方や解釈の仕方はまちまちだし、まぁ、キリスト教の大枠から外れていなければいいんじゃないの、っていう話だと思うのだ。それに、もしも万が一、わたしのキリスト教理解や信仰が大枠から外れてしまったとしても、それはキリスト教の正統派から見た時に異端なだけで、だからと言ってそれを何が何でも信じてはならない、ということはない。自分や誰かを傷つけたり、人に迷惑をかけたりしなければ、わたしが何をどのように信じようとそれはわたしの自由だからだ。
 わたしはヨガや瞑想をしながら、なおかつキリスト教信仰を持ち続ける方向でいけたらというのが希望だ。仮にそれが邪道であり、異端的なものだと誰かが言おうとも、ヨガはわたしを心身共に元気にたくましくしてくれたし、瞑想から何度持ち直す力を与えてもらったか分からない。でも、そういったものすらも神様の大きな大きなみ手の中にある。それがわたしの拙いながらも正直な考えなのだ。偉大な先人たちがキリスト教にアリストテレスやプラトンなどを取り入れたように、わたしもインド的なものを調和させたい。そして、そういった動きは少数派ながらもあることにはあるらしい。だったら、わたしはその道を模索する。模索して自分の信仰の形に出会えたら嬉しい。まぁ、すべては神様が用意してくださる。すべての物事は起こるべくして起こっているというインド的な考え方もあるように、すべては神様が与えてくださるのだ。だから、大丈夫だと大船に乗ったつもりでいる。
 これからが楽しみ。ま、なるようになるさ。

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Yは困っている人なのだろう

 さっきまでわたしはアティテューディナル・ヒーリングの本を読んでいた。『怖れを手放す』という本なのだけれど、何もこの本を皆様に勧めたいとかそういうことではないんだ。そうではなくて、もうこの本、読むの4回目か5回目くらいだけど、はっとしたんだ。そのことについてあまり長くならないように自制しながら書いていきたいと思う。
 わたしはYのブログを読んで自分が攻撃されたと思った。だから、生物が攻撃された時の本能的な反応である反撃か逃走か、のうちの反撃のほうを選んだ。そのことは、昨日アップした記事を読んでもらえば分かることだろう。
 わたしがはっとしたのは、「怒っている人というのは困っている人だ」という本のくだりでYはわたしを批判しながら敵意と怒りを向けている。つまり、だ。わたしが攻撃されたのではなくて、Yがただ単に困っていただけなのだ。何だ、そういうことかと一気に腑に落ちたわたし。
 Yが困っているだろうことはいくつかあると思う。
 ①仕事がきつくてやめたいと思うこともあるだろうこと。
 ②自分が必死で苦しくて大変な思いをして働いているのに、その一方で星という仕事もしていないくせに悠々自適な生活を送って、幸せそうな人間がいることが許せなく思ってこころが平和でなくなっているだろうこと(楽しておいしい思いをしている幸せな人間が許せない)。
 ③星に仕事をすることの意義や価値を否定されているようで、そのことが許せなくてこころが平和でなくなっているだろうこと。
 ④星に自分の人生(ならびに思想や生き方)を否定されているようで、そのことが許せなくてこころが平和でなくなっているだろうこと。
 ⑤(これは想像だけれど)母親と楽しそうに暮らしている星に嫉妬していて、こころが平和でなくなっているだろうこと。
 つまり、Yはわたしのことをずるいと思っている。働きもしないくせに幸せそうなわたしが面白くないのだ。もしもYが本当に心身共に完全に幸福感に包まれていて、「何てわたしは幸せなんだろう」と思えていたら、こんなにわたしにつっかかってこないだろうし、むしろわたしの幸福を手放しで祝福してくれるはずだ。それがそうなっていないのは、やはり現状、つまり今の生活とか人間関係とかその他もろもろの境遇に不満があるからなのだろう。鬱積した不平・不満があるのだ。
 だから、Yはアティテューディナル・ヒーリング的な解釈をするなら、困っているのだからわたしが反撃しても事態がよけいこじれるばかりで、一向に良くはならないだろう。わたしがYにできることはたかが知れていてわずかかもしれないけれど、反撃したり攻撃することではないのは明らかだ。
「Yさん、あなたは大変なんでしょう。苦しいんでしょう。つらいんでしょう。星という存在が許せなくて仕方ないんでしょう。幸せそうな星が頭にきてどうしようもないんでしょう。大変ですね。不平不満がおありなんですね。本当、困っておられるのですね。わたしにできることは皆無かと思いますが、何かあったら言ってくださいね」とまで寄り添うかどうかは別としてもこうした対応が必要だったのだ(他には、見守ったり、様子を見るという姿勢をとることもできる)。それを星ときたら反撃してしまった。あなたが大変で困っているのにわたしは攻撃をしてしまった。申し訳ない。すみません。お詫び申し上げます。あなたの幸福を神様にお祈りしたいと思います。平安がありますように。アーメン。

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だから爪切れってば

 わたしの文章なんて誰も読んでくれない、などと最近の記事でもぼやいたりしているけれど、そんなことはないのだ。このブログだって何だかんだでアクセス数はゼロにはなっていない。それに、というかわたしの旧ブログ(Jugemブログの「1ヨハ3:16」)がどうやら好調なようなのだ。わたしが過去に書いた記事が皆様に読んでいただけている。ありがたい。実にありがたい。
 けれど、この新というか今のブログがアクセス数が今一つ伸びない。なぜだろう、と考えてみると、旧ブログには笑いとほろりがあったからだということに気が付いた。モンシロチョウについての記事なんて、我ながら読み返してみると、よくあれだけふざけることができたもんだと感心するくらいだ。それから、しんみりといい話。ほろりとさせるようなジーンとさせるような話が結構ある。それに比べたら、今のわたしの新ブログの記事のほとんどは堅苦しくて、ほろりとするような話もほとんどなくて、ほぼ真面目一辺倒。これじゃあ、また読みに来たいって思ってもらえないなって何だか身につまされてくる。
 というわけで前置きが長くなったけれど(え? 前置きは要らないって? すまん、すまん。ついおしゃべりしたくなるのが星の悪いクセね)、ここから何か面白い話ができたらと思う。うーん、どんな話をしましょうか。
 そうだな。うちの猫のルルの話をしよう。ルルさんはね(猫なのにさん付けしたくなるような気品にあふれている。いや、ルルさまってお呼びした方がいいだろうか)、後ろ足とかお尻をさわられるのが本当に嫌なんだ。特にルルさんがリラックスしてくつろいだりしている時なんかは、そこをさわるのはまさに厳禁で、こちらがふざけてさわろうものなら、新幹線よりもおそらく速い猫パンチが飛んでくるんだ。しかも、その猫パンチね、本当来た瞬間寒気がする。どうしてかって言うと、爪を切ってないから。爪切ってないから、まさにルルさん、いやルルさまの高貴な御足には鉤針状とでも言うべき凶器が備わっているわけ。だから、目にも止まらない早さの猫パンチが飛んできたのをこちらが認識した瞬間、サーっと血の気が引いてヒヤっとするわけ。
 ルルさまのおくつろぎタイムを妨害すると「何よ」とでも言うばかりに彼女(注:ルルさまのこと)は怒って不機嫌になる。猫パンチ後のルルさまはまさに不機嫌のかたまりで、もうそうなると頭をさわられるのも拒否するし、もう目に映るすべてのものが不愉快になる。で、ルルさまのおくつろぎタイムをぶち壊した張本人のわたしは「ルルちゃん、怒ると体に悪いよぉ」などとへらへらして一向に反省している気配などない。
 リラックスタイムを邪魔すると怒るのはもちろんのこととして、機嫌がいい時であっても、山の天気のように変わりやすいルルさまのお心はとたんに雷雨になることもある。特に猫パンチを回避することが難しいのは、機嫌がよさそうに頭やあごの下などを下僕のわたしになでてもらっている、と思いきや、急に何の前触れもなく「もういい。うざいのよ」と気分が急変するような時だ。これには小さい頃から猫と一緒に暮らしてきたまさに師範代とでも言うべき上級者の母も何度かざっくりやられている。師範代は猫の扱いがうまいのだが、それでもかわしきれない時というのがある。で、ざっくりとやられてしまい出血する次第なのだ。師範代の母のすごいところは、その手のかわし方。身のこなしならぬ、手のこなし。手さばき。ひょいひょいひょいとルル5段の攻撃をほぼ見事に処理してかわすのだ。白帯のわたしなら確実にやられているような状況であっても、母は何事もなかったかのように済ませてしまう。が、そんな師範代の母であっても不意打ちはやはりかわせない。それに師範代といえども油断している時もある。そんな時、多くはルルさまをかまいすぎた時などにざっくりとやられてしまうことが多い。「もういいのよ。あんたうざいのよ」てな具合に手が早いルルさまは間髪入れずに猫パンチをかましてくるのだ。
 変わりやすいもの。それは山の天気と為替相場とルルさまのご機嫌。
 とここまで恐怖の猫パンチについて書いてきたけれど、こう思われた方もいることだろう。ってか普通こう思う。「爪切ればいいんじゃないの?」その通り!! 爪を切れば万事、問題は解決。ルルさまの爪という凶器を無力なものにしてしまえば、新幹線の刃が飛んでこようが何もこわくない。が、ルルさまは爪を切られるのが大層お嫌いで切らせてはくれないのです。と思いきや、案外渋々ながらもおとなしく切らせてくれるのです。だったらなぜ切らない? 切れるのに切ってないってこと? そ、それは……。口ごもり始めるわたし。これには深い深い意味がござりましてな。
「だってめんどくさいんだもん」
 ま、まさに怠慢。ということはそれだけのために時々、ざっくりとやられておりまするのだ。
「だってめんどくさいんだもん」
 重ねて言います。
「だってめんどくさいんだもん」
 これが、真相だった~!!
 リピート・アフター・ミー。
「だってめんどくさいんだもん」
 Datte mendokusaindamon.
覚えましたか? ここ大事ですよ。
「だってめんどくさいんだもん」
 テストに必ず出ますよ。覚えておきましょうね。
 今日もへらへらと一向に反省する気配もなくルルさまのおくつろぎのお時間を妨害する傍若無人な星。今のところ、師範代の母直伝の受け流しを駆使して大事には至っていないものの、いずれ手負いになることは確実で、それはまさに時間の問題だろう。っていうか爪切れよ。めんどうとか何とか言わないで爪切れよ。ごもっとも。でも、重要構文で新学期のテストに必ず出題されるであろう「だってめんどくさいんだもん」ってことなんだろうな。つまりは。でも、爪切ったらもっと星の妨害は過激化するよ。というわけで爪を切らないことによってルルさまとわたしの絶妙なバランスが保たれているので、ま、現状がいいってことになるのかな?(よく分かんない理屈だねぇ)
 ルルさまと白帯の星(もう茶帯くらいの実力ついたかも)の攻防は今日も続くのであった。ってやっぱ爪切っとこうかな。大地38歳、ヒヤヒヤする~~。だから爪切れってば。

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みんな泥まみれ

 わたしのこのブログのアクセスログによると、あるサイト経由のアクセスがとても多い。で、考えたんだ。これって何のサイトなんだろう。詳細までは分からない。けれど、やっと紆余曲折を経て分かったのだ。Yだ。Yのブログからだ。
 はじめて見るYのブログ。まるで怖いもの見たさのようなそんな感じで恐る恐る覗いてみたのだった。で、感想。探さなければ良かった。見つけなければ良かった。そして、読まなければ良かった。この三拍子がわたしの感想。でも、読んでしまった。
 わたしのことが徹底的に批判されていた。まぁ、いい。Yのことだからそれは批判くらいすることだろう。けれど、その批判はこれでもかというくらい身も蓋もないくらいに容赦ないものだった。読了後、わたしは気が滅入ってしまった。幸い、死にたくはならなかったけれど、それでもダメージは受けた。
 彼のわたしへの批判は、おもに聖書の教えに従って生きることができていないことへの批判。それから、わたしの生きることは仕事ではないか、生存は労働ではないかという思想への批判。さらには、わたしが料理をしたり、ゴミ出しをしたり、勉強していることは仕事でも何でもなく普通のことでしかなくて仕事などではない、といった批判。
 その批判を受け止めてわたしが思ったことはいくつかある。けれど、わたしはYと論争をしたり、議論をしたいわけではない。そんなことは不毛なばかりでほとんど意味がないし、おそらくやり取りは平行線のままだろう。でも、あそこまで言われて、言い返すわけではないけれど、わたしの意見を曲がりなりにもこの場で表明したい(って結局言い返しているわたしがここにはいるのだけれど)。
 わたしが十戒の仕事をしなさいという掟を守れていないということについては、百歩譲って仮にそのことを認めたとしよう。でも、そうなるとYは途端に窮地に立たされることになる。聖書の教えを守る、それも字句通りに守り従うということがどれだけ難行であることか、とYに同情したくなってしまうくらいなのだ。いや、難行どころか多大な問題をはらむのだ。
 まず安息日の掟。たしか破ったら死刑だったよね。安息日って厳しいんだ。だったら、日曜日に仕事をしている人たちを見過ごせないよね。少なくとも彼らは安息日に仕事をしてしまっている。それを一人残らず処罰しなければならないことになるけれど、そんなの現実的ではないよね。
 この調子で律法をすべて守るとしたら厳格なユダヤ教徒のような生活をしなければならない。もちろん、豚肉もダメだし、ありとあらゆる決まり事をすべからく守らなければならない。それやってる? できてる? Yはわたしが仕事をしていないと槍玉に上げるけれど、そういう自分は完璧に聖書の言葉を実行できてるの? できてるわけないよね。そんな人間、地球上に一人もいないから。
 これらは旧約の話だけれど、新約のイエスさまの掟の隣人愛。これ、完璧にできてるの? できてるわけないよね。神様を徹底的に愛せてるの? これも地球上に未だかつてできた人はいないよね。
 だから何というか、少し泥まみれじゃない人がより泥まみれな人を裁いて「お前汚いな」って言っているようにわたしには思えるんだ。自分が聖書の言葉に従えていないことは棚に上げて、少しばかり自分よりも従えている程度が低い人を批判する。これってダメな人がよりダメな人を批判しているだけだと思うんだ。聖書にもある通り、正しい人は一人もいないんだ。みんな罪にまみれていてまさに泥まみれ。それなのに俺は正しい生き方をしているんだぞって誰かに誇示する。神様の前で誇る。それってどうかと思うんだけれど、Yはそのことにおそらく気がついていない。自分は正しい。少なくとも星よりは正しい。何かつまらない話だなぁって思う。
 生きることは仕事です。これはわたしの変わらない考え。料理をつくることも、ごみ出しをすることも、勉強することも立派な仕事です。この考えはどんなに批判されても変わらないだろうと思う。Yにとっては生きることは仕事なんかじゃなくて当たり前の普通のことかもしれないけれど、少なくともわたしにとっては仕事です。お金になることだけが仕事だとYが思っていたいのであれば、それでかまわない。でも、お金にならない当たり前の普通のこと、生きていることだって立派な仕事なんです。それを仕事じゃないとか言わないでもらいたい。それはこの生きるという仕事をしている人に失礼です(と言えば、そういうお前こそ汗水たらして一般的な意味での仕事をしている人たちに失礼だとYは言い返してくるだろうけれど)。
 今は普通に生活できているわたしも、二〇代のころは普通に憧れていた。普通になりたかった。いや、普通になれない自分を何てダメなんだろうと否定さえしていた。
 二〇代のころ、こんなことがあった。わたしはさば缶がどうしても食べたかった。だから、一人で遠出をしてスーパーへ缶詰を買いに出かけた。レジで支払うところまではできた。けれど、途中で猛烈に調子が悪くなってきてしまい、買った缶詰を買い物袋に入れることができない。一人で顔を青くして困っていたら、見かねたどこかのおばさんが缶を袋に入れてくれた。そして、何とか自力で家まで死ぬような思いで帰った。
 今も時々、その時のような感覚になって困ってしまうのではないかと不安になる時が実はある。けれど、Yはもちろんこうした話は知らない。だから、一見すると調子が良さそうなだけに見えるわたしをズルをして働かないでいるなどといった感じで平気で批判する。人はね、言わないだけでその人しか知らない苦労を抱えているものなの。
 それと、またいつ死にたくなってしまうだろうか、というまるで爆弾のようなもろさもわたしは抱えている。それをYはいい年した大人が意気地がないと一蹴する。
 最初の話に戻るけど、そういうあなたの態度が果たして隣人愛を完全に実践できているって言えるの? 少なくともわたしはあなたからは温かいポカポカした心は正直なところ、感じられないなぁ。イエスさまのすごいところっていうのはね、急所を外さないところだよね。いろいろ言っているようだけど、じゃあ、あなたは自分を愛するように隣り人を愛せているのですか、と来るわけだ。そう言われちゃったらぐうの音も出ない。こんなことを書いているわたしだって隣人愛の実践なんてほとんどこれっぽっちもできてなんかいやしない。
 それはみんな同じ。だから、誰が正しいとか間違っているとかそんなまるでどんぐりの背比べをするんじゃなくて、同じように泥まみれだってことを認めたほうがいいと思う。
 わたしにはあなたが律法学者やファリサイ派に見えてしまうんだ。イエスさまには彼らも泥まみれだってことが痛いほど分かっていたと思う。そして、自分たちは正しいんだって主張することをおそらく残念に思われていた。だから、あれだけイエスさまは手厳しかったんだよ、きっと。

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