礼拝の説教の感想「素敵なおじさまクリスチャンを目指して」

 今日は日曜日。というわけで、恒例の礼拝の説教の感想を。と行きたいところだけれど(「と」が多いな)、実は説教中に睡魔が襲ってきて眠ってしまい、ほとんど聞けなかったんだ、などというのは嘘で、最初から最後まで星さん、それは熱心に牧師先生から一瞬たりともほぼ視線を逸らさないで熱心に聞いておりました。が、何やら今日の説教難しくてほぼ理解できなかったんです。うむ、だから感想を書こうにも書けないんだな、これが。「サクサク○リンキー新発売、ジャン!!」というのは冗談だけど、書けない~。どうしよう。困ったな。そうだな、説教の感想を書けないのなら、教会へ行ってきてほとばしり出た星の思考を少しばかりご開陳することにしようか。うん、ま、それなら教会の感想だし。説教の感想ではないけどね。ただ、毎週もしかしたらこの調子になってしまうんじゃないか、と思うと少し先行きが不安になってくるものの、ま、いいでしょ。というわけで行ってみよー。
 思ったこと。人のふり見てわがふり直せ、って言うけど、まさにそのことについて考えさせられたんだ。ある人がわたしに淡泊な態度を取るんだ。取ってくるんだ。別の人にはフレンドリーにこれでもか、これでもかってなくらいに話しかけてにこやかに話をするのに、わたしにはまったくもってしてノータッチ。朝のあいさつ「おはようございます」は普通に返してくれるけれど、それ以上の会話は何もなし。わたしも距離を置かれてるのが分かっているから、話しかけるタイミングが取れずじまいで結局、今日も何も会話はしなかった。こんな調子でもう2、3年になる。もちろん、相手には相手の好みがあって、わたしのことを「ちょっとなぁ~」って思っているのかもしれない。でも、その淡泊な態度がわたしは寂しいんだ。むしろ、わたしはその人と仲良くなりたい。くだらない話だってお互いしたいし、信仰の話だってお互いできたらなって思ってるくらいなんだ。でも、とてもそんなことができるようになれる雰囲気ではないし、わたしとその人との間には高くて厚い壁ができあがっている。
 まぁ、言われるまでもなく分かってはいる。つまり、わたしとはその人はできることなら関わりたくないと思っているんだ。わたしが以前、その人にアプローチした時にもその人はどこか冷淡で嬉しくなさそうだった。要するに、仲良くなりたくないってことなんだろうなと推察するしかない。
 ここまで書いてきて、これはわたしの一方的な片思いだということが見えてきた(恋愛の片思いではないやつね)。一方が仲良くなりたいと思っても、その思いが受け入れられずはねつけられることだってあるんだ。はねつけられるまではいってないけれど、まぁ、向こうはそういう関わり方をしたいわけなんだろうな。それにもしかしたらだけど、過去に何か深い傷を負っていて、それがまだ癒えていないのかもしれない。わたしがその人の心の古傷をなでつけている可能性だってあるかもしれないし、それは分からない。
 クリスチャンであろうと、所詮はただの普通の人。弱さがあり、欠けがあり、もろさがあり、とてもではないけれどイエスさまの精神なんてこれっぽっちも体現できていない。そう、それはわたしも同じ。だから、人のふり見てわがふり直せ、なのだ。相手にこうしてほしいとか、こうあるべきだとか言いながら、その言っているわたし自身が何にもできちゃいない。イエスさまが説かれた隣人愛の精神にのっとるのであれば、その人は失格だろう。でも、わたしだってそれに負けず劣らず失格なのだ。失格者同士、不適格者同士。だからこそ、イエスさまに従っていくんだ。隣人愛を完全に実践できているのなら、もう教会になんて行く必要なんかなくて、自分が教祖さまにでもなって新しい宗教でも始めればいいんだから、ね。
 わたしはおそらく、その人とは親しくなれないことだろう。この他人行儀な距離感のまま、お互いこれからもやっていくことだろう。でも、わたしはその人の幸福を神様に祈り求めたいと思う。そして、陰ながらその人のことを遠くから見守っていきたい。
 その人からしたら、今くらいの距離感がわたしとの間ではちょうどいいのかもしれない。だから、それを強引に縮めようなどと強攻策に出ることなく、おだやかに平和な態度でいけたらと思う。わたしはその人と親しくなりたい。でも、その人はそれを望んでいない。だったら、相手のことを尊重するには今の関係性のまま行くのがいいんじゃないか。無理に自分の希望を押し通すばかりがすべてではないのだ。で、もしも何かの機会にむこうの気持ちが変えられて、わたしとの距離が縮んだら、それはそれで「わたしの願いをかなえてくださりありがとうございます」と神様に感謝する。でも、それがかなえられなかったとしても、それが神様のみこころなのだろうから、それはそれでよしとしたいと思う。
 人間に成熟した態度があるとしたら、それは何から何まで全部自分の思い通りにすることではないことは明らかだ。それは未成熟な小さな子どものわがままな態度だ。そこを一歩こらえる。こらえて、ひく。押すばかりではなくて、ひくところで思慮分別を発揮する。それが成熟であり、大人の態度だと思う。この記事を書くまでのわたしは今のわたしよりも青かった。何から何まで全部自分の思い通りにしようとしていた。そして、それがかなわないことに腹さえ立てていた。でも、こらえるんだ。ひくんだ。大人になるんだ。
 星の精神年齢がすこし上がって大人になりました? 子どもっぽさはまだまだ抜けないけれど、素敵なおじさまクリスチャン目指してやっていけたらと思う。
 って今週、こんな感じでいい?
 星がおじさまクリスチャン目指してるんだってさ。ま、あたたかい眼差しで見守っていてくだされ。乞うご期待。

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わたしのプロセス

 本などの著者略歴を読むたびに、以前のわたしはため息をついていた。彼らの華々しいプロフィールとは裏腹に、わたしが実にパッとしない人間であることを思い知らされていたからだ。わたしが読む本の著者たちは、東大、京大、慶応、早稲田、名だたる学校の出身者。わたしはと言えば、高卒、現在放送大学在籍中。うーん、パッとしないんだなぁ。
 しかし、最近何かそうした学歴主義から解放されつつある。うらやましいことはいまだにうらましいのだけれど、それでも何かわたしの中に変化があって、それはそれで置いておこうと思えるようになってきたのだ。
 そもそも人生は比べるものではない。わたしとAさんを比べて、どっちの方がいい人生を送ったか。送っているか、とか比べるのはそもそもナンセンスだし、意味がないということに気付いたのだ。わたしにはわたしの人生がある。わたしにはわたしの歩みがある。人生のプロセス(過程)があって、歩むスピードがあり、置かれた環境があり、ここまで背負ってきた過去の歴史がある。わたしの人生はわたし独自のものだし、似ている人はいたとしても、わたしとすべて同じという人はいない。わたしの人生は世界に一つだけのものであって、そしてわたし以外にわたしの人生を代わりに生きてくれる人はいない。
 だから、「あなたの生き方って価値がないね」とか、「あなたの人生って無意味だったね」と他者が決めつけてジャッジするのは一番やってはいけないことなのだ。もしも、そう判断してしまえるとしたら、それは実に軽薄なものの見方だと思う。その人のことなんてほんの一部しか知らないのに、たったそれだけの断片だけで判断をくだして、総括して悦に浸っているからだ。
 誰かが「星ってダメだよな。何にもできてない。まず働いてないし、結婚さえできていないし、マイホームを築けていないし、子どもだっていないし、車の免許さえも持っていない。俺と比べて本当お前はダメな奴だよ。俺を見習ってまずは働いてみろよ」と言ったとして、たしかにその指摘にもその観点から見るなら一理ある。批判者が言うように、わたしは何にもできていないのかもしれない。ダメなのかもしれない。でも、わたしにはわたしなりの歩幅というものがあると思うのだ。進んでいく、歩んでいくペースというものがあると思うのだ。たしかに批判者から見たらわたしにはやる気がないように思えてしまうかもしれないし、まさにダメ人間の典型として映ってしまうのかもしれない。批判者の基準、世間一般の基準に照らし合わせると、全然そのラインにまで到達できていない、ということなのだろう。でも、その基準って絶対的なものなの? 批判者や世間が決めた基準のラインって絶対なの? 70点以上が合格のテストで50点を取ったらそりゃあ不合格だ。合格点に達していないのだから。でも、だからと言って、その人がダメだということにはならないんじゃないかなぁ。ただテストで点が取れなかっただけ。合格できなかっただけ。それなのに、その人自体が何か劣った存在であるかのようで、反対に合格できた人や合格どころか満点を取った人が人間的に優れているかのように思ってしまう。そんなことないのに。
 何かで読んだんだけど、日本人って能力と人格を結びつけがちなんだそうだ。能力的に優れている人っていうのは人格的にも尊敬できる、というように錯覚してしまうらしいのだ。でも、冷静に考えてみればそんなことはない。テストで100点とかそれに近い点数を取った人を手放しでそのまま尊敬できるかと言えば、そうは言えなくて優秀だけれど人格が荒んでいる人というのはいる。逆にテストはできないけれど人格的に素晴らしい人もいるんだ。
 わたしたちはともすると誰かと自分を比べてしまう。そして、気持ちを激しく落ち込ませてしまう。しかし、どんなに他の人の人生が素晴らしいものであるかのように思えたとしても、それはその人の人生なのであって、わたしの人生ではないのだ。うらやんだり、嫉ましく思ったところで、わたしの人生に何か変化が訪れるわけではない。わたしは思う。そんな自分の気持ちを沈ませるネガティブな感情に支配されているよりも、自分の人生を豊かにすることにつながっていくことを何かやる方が建設的ではないだろうか、と。自分よりも高い場所にいる人をひきずり下ろしたところで自分が向上するわけではない。うらやましい、ねたましいと思ったところで、それだけではこれも同じく自分は上昇していかない。
 わたしにはわたしの人生のプロセスがあって、AさんにはAさんのプロセスが、BさんにはBさんのプロセスがあって……、と一人ひとりにはそれぞれの過程があるのだ。だから、それを全然できていない、とか遅いとか、もっと速くとか言わないほうがいい。うさぎのようにピョンピョン、どんどん前へ進んでいく人もいれば、亀やかたつむりのようにゆっくりゆっくりと進んでいく人だっている。そのどちらが優れているとか劣っているとかジャッジする必要はそもそもない。それをしてもいいのは神様だけだとわたしは思う。神様は全部のことをご存知なのだから公平で正確なジャッジがおできになる。だから、これは神様だけの特権(というか万物は神様が造られたのだからね)。神様だけが行使していい権限。
 わたしのプロセス。誰かのプロセス。プロセスを大事に、大切にしていけたらと思う。それこそ必要なことではないかなぁ。

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礼拝の説教の感想「世界をポカポカに」

 今日は日曜日なので、教会の礼拝に行ってきた。そして、一休みしてあともう少しで午後の2時といったところ。それにしても暑いですね、と言いたくなるほどの快晴。お天気日和まっただ中である。
 今日は平和主日ということで、いつもの福音書ではなく、ミカ書4:1-5が本日の聖書の箇所だった。
 平和主日。平和って一体いつになったら実現されるのだろう。剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すって今日の箇所では言っているけれど、そんなこと実現できるのかな? そもそも、人間が生きている限り、争いごとはなくなる気配はまったくないし、現にウクライナでは今も戦争が行われている。そんな調子で今日の説教は始まったと思った。この状況下で、平和とか何とか言うのが綺麗事ではないのか。牧師は広島の話を中心にして、現実がドロドロしていることをこれでもか、というくらいにわたしたち信徒に突きつけてくる。そんなこと言われてもどうしたらいいんですか? 良心的な信徒である(自称)わたしはやはり困り始めてしまった。
 わたしはどうも、戦争の悲惨さを語ろうとする人が苦手だ。その人のことが嫌いなわけではなくて、単に途方に暮れてしまうからだ。
 で、結局というか、この厳しい現実を前にして何ができるか、ってなった時に牧師はまとめるかのように祈り求めていきましょう、とたしか結んだ。わたしたちって実に無力。教会に来て「世界が平和になりますように。アーメン」と祈るのだけれど、そんなことは関係ないかのように、世界では戦争や紛争などが起こる。それも立て続けに起こり続ける。わたしたちのアーメンはどこへ行ってしまったのだろうか。神様だってこういうわたしたちの平和を求める祈りはかなえてくださらない理由なんてないよね。却下したり、拒否したりするなんて愛の神様だったら絶対なさらないはずだよね。でも、そんな優しい神様のはずなのに、一向にわたしたちの平和を求める祈りはかなえてくださらず、実際物理的な力や行動などが幅をきかせている現実。
 ここまでの話を踏まえるなら、牧師が祈り求めていきましょう、というのが一牧師、信徒たちの限界ではないかと思えてくる。でも、わたしはここから一歩踏み出したい。何も目新しいことを言うつもりはない。もうすでにわかりきっていて、そんなの言われるまでもないよ、っていうことをあえて(?)言おうかと思う。
 わたしたち一人ひとりが心の平和を求めていけばいいと思うのだ。何だ、そんなこと言われなくたってやってるよ。そう言いたい気持ちも分かる。でも、究極的にはこれしかないんじゃないかって今日の説教を聞き終えたわたしは思うんだ。「一人ひとり」というのがミソであり大切なポイント。これは大統領も、総理大臣も、お偉い政治家も、はたまた権力を何も持っていないスラム街で暮らす人も、日本人もアメリカ人も、大人も子どもも、男性も女性もそのどちらでもない人も、ありとあらゆる人のことを言っているのだ。
 ひとつ確実に言えることは戦争を始める人っていうのは絶対に心が平和ではないと思うんだ。心が平和なのに軍事侵攻するなんてそんなバカな話があるわけがない。アティテューディナル・ヒーリングの人間観で言えば、人間は二種類しかいない。ポカポカしたあたたかい心でいる人と恐怖などの怖れにとらわれていて助けを求めている人の二種類。だから、戦争を仕掛ける人というのは怖れに支配されてしまっている人なんだ。こうした人はもちろん悪者扱いされるけれど、実は困っている人であって、助けてくれ~って叫んでるんだ。
 だから、世界を平和にする方法はわたしが言うこの方法しかない。一人ひとりが自分の心を平和にしていくんだ。そして、実現不可能ではあるけれど、すべての人の心が平和になった時完全な平和になり、多くの人の心が平和になった時にはおおむね平和が達成される。
 もちろん、そんなことは不可能で絵空事でしかなくて、今日のミカ書の4章にもある通り、それは世の終わりにならなければ実現しないことなんだ、というのはもっともだ。でも、世界を1ミリでも良くしていくことには限りない意義があり、れっきとした価値がある。そう考えていった時、このわたし、そしてわたしたちにできることは自分の心を平和に整えていって、少しでも平和の循環を促進していくことではないだろうか。まずは自分の心を平和にする。そしてさらには自分のまわりの人たちへと影響を広げていく。そんな調子で多くの人が心の平和を実現していけば、きっとこの世界は1ミリずつでしかないかもしれないけれど、確実に良くなっていく。身近な人の話をアドバイスや批判などをしないで、ただただあたたかいポカポカした態度で聴く。ポカポカは広がっていく。それは平和が広がっていくということだ。だから、何も難しいことをすることだけがすべてではない。専門的な知識が必要なことは専門家に任せておいて、わたしたち凡人はただただ自分のポカポカで身近な人をあたためていくんだ。
 ポカポカした人がどこまでも増えていった社会はきっとあたたかいのだろうな。そうした世界はとても居心地がいいだろうな。冷たい怖れか、それともポカポカの愛か。世界を単純化しすぎているきらいはあるかもしれないけれど、要はそういうことなんじゃないかなって思う。
 わたしの心をまず平和にする。これ世界規模の運動にしたらいいと思いません? 絶対効果あると思う。世界をポカポカにする運動。以上が礼拝の説教の感想。某時間テレビも言っているように愛(ポカポカ)は地球を救うはずなのです。きっと。

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人の評価がほしいのは自信がないから

 Twitterがあれほど自分には合わないと言いながらも、それからちょくちょくやっていたわたしである。
 ある時、わたしはこんな内容のツイートをした。「パッとしないブログに、パッとしないTwitter……」などと自身の置かれた状況を少し悲観しているかのようなツイートをしたのだ。何も期待していなかった。いわば、一種のグチ吐きとかウサ晴らしと言ってもいい。こんな一方的なツイートに返信が来るだなんて想像すらしていなかった。が、来たのだ。
「パッとするってどういうことですか?」みたいな意味深なリプが来た。たしかに、わたし自身、パッとするとかしないとか言っているけれど、その意味しているところをあまりよく分かってはいなかった。わたしはこのある意味、哲学的というか鋭い返答からその人物に期待した。「何か有意義なものが得られるかもしれないぞ」。そして、わたしは答えた。「お金をたくさん得るとか、人気者になることです」と。そうしたら、彼は次のように返してくれた。Jさんとしておこうか。Jさんはこう切り返す。人気などを自分の中心にしていると安定しない。そういうものではなくて、自分の内側を満たした方がいいんじゃないか。自分はクリスチャンでヨギー(ヨガをやっている人)です。ヨガをして、お祈りして、一日を始めて一日を終えます。
 ふむふむ、わたしと共通点が多いぞ。男性でクリスチャンでヨガをやっている人って滅多にいないんじゃないかな。しかも若そうだ。
 と彼のリプを読んでいたら衝撃的なまさに核心をついた言葉にわたしは目を見開かされた。「人の評価がほしいのは自信がないからです」。ズドーン。わたしのハートのど真ん中をJさんは射抜いたのだ。わたしが、わたしが今、一番必要としていた言葉。それを彼はこともなげにさらっと言うのだ。このJさんのこの言葉、10回くらいは読んだだろうか。と、何だか魂の解放というか、オーバーに聞こえるかもしれないけれど決してオーバーでなくて、わたしの苦しみの氷が一気に氷解したのだ。
 わたしの苦しみ、葛藤の原因。それは自信がないから。自信がないから、小・中学校時代、勉強して成績を上げて人から評価されようとした。いつも真面目に親の期待に背くことはしないで「よい子」でやってきたし、あろうとした。それも人から評価されるため。社会的に成功して売れっこ作家になりたい。それも根本的なところは自分に自信がないから。みんなから「すごい」とか「えらい」とか言われることによって、自分の自信がないことを補おうとしていた。
 あやうく、あやうくだけど、このJさんの一言がなかったらわたしは一生、人からの評価を求めて、ほしがって、全面的に自分の中心にしてそれに依存していたことだろう。でも、気付いた。たしかに人から評価されることはわたしの気分を良くしてくれるけれど、それを中心にしてしまったのでは、いつもゆらゆらと安定することなく揺れ続けるんだな、と。評価が得られれば天にも上る思いで絶好調になり、少しでもけなされれば絶不調になって底をはう。自分の気分を人任せにしていて、気分を良くしたり悪くしたりするリモコンを自分以外の人たちに委ねてしまっている。
 Jさんはわたしに押しつけがましい調子ではなくて控え目にこんなことを書いてくれた。練習(おそらくヨガのことだろうと思う)をしていって少しずつ、少しずつ自分の内側を満たしていったらどうでしょうか、と。今のわたしに必要なこと。それも一番必要なこと。それは社会的な名声とか名誉を手に入れることではなくて、それらに依存しないで生きていけるように自分の内側を少しずつ満たしていっぱいにしていくこと。人の評価に翻弄され続けるのではなくて、どっしりと自分軸を持ってしっかりと立つこと。そのためのヨガなのである。
 ヨガをやる目的って何だと思います? 何のためにヨガってやるものなのか。ズバリ、一言で言うなら、自分の心をベストな状態にして安定させること。いたってシンプルだけど、難しいポーズができるようになるとか、体の柔軟性を極限まで高めるとか、そういうことではないんだ。すべては心の平安のため。心の平和を得るため。この一点に尽きる。(まぁ、この意見に同意できない人もいるかとは思うけど。)
 神様は本当にわたしに最良のものを与えてくださるんだなって今回のことを通して思った。これからJさんとどんなやり取りがあって、どんな関係が発展していくのかわたしには予想できないけれど、神様は出会うべき時に出会うべき人を与えてくださるんだなって思わずにはいられない。死ぬまで、一生涯、人の評価を得ることだけに翻弄されて流され続けていただろうわたしに、「いや、こうする方がいいんじゃないですか」とJさんを通してお導きを与えてくださった神様。恵みだな。本当、恵みだと心の底から思うよ。
 人の評価に一喜一憂されることから卒業できた先にはどんな世界が広がっているのだろうか。さぁ~、ぼちぼち今日も夕方からヨガをやろう。そして、神様にお祈りをしよう。人生の方向性を示してくださった神様、ならびにJさんにオーバーではなくて、感謝、感謝な星なのでした。Jさんとの出会いをきっかけに新しく目の前が開けていくといいなぁと願いつつ。

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礼拝の説教の感想「わたしが、わたしが」

 只今の時刻は午後1時かといったところ。今日は日曜日で教会へ行ってきた。礼拝なのだ。というわけで、礼拝での説教の個人的な感想をまとめてみたいと思う。
 今日の聖書の箇所はルカ12:13-21。なかなかイエスさまは厳しいことを言われているところで、身が引き締まる思いがする。
 牧師はこんなことを説教で語った。この箇所を原典で読むと、「わたしの」とか「わたしが」というのが逐一書かれている、と。この日本語訳の聖書ではそれを書くとくどいから省略されているのだ、と。わたしの倉、わたしの穀物、わたしの財産、といった調子でギリシア語では書かれているらしい。わたしはそれを聞いて、確認しようにもギリシア語はさっぱり分からないので確認しようがないものの、それが本当だとしたら、ここでイエスさまがたとえで語られている愚かな金持ちはひたすら「わたしが」「わたしの」と自分中心な単語を連呼していることになる。自分がどうか、どうするか、どうしていくか。自分しかその金持ちには見えていなくて、彼の視点はとにかく自分だ。
 そこからさらにイエスさまがわたしたちに教えてくださった主の祈りへと話は及んでいく。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ6:11)」であって「わたしに必要な糧を……」ではないと牧師。「わたしたち」であって「わたし」ではないのだ。イエスさまが教えてくださったこの主の祈り。何にも考えずに祈ってきたけれど、イエスさまはみんなに糧が与えられることを祈り求めなさいと言われているのだ。自分が、自分だけが良ければそれでいい、などとはおっしゃられなかったのだ。だから、今日の箇所の愚かな金持ちはイエスさまの主の祈りの精神と真っ向から衝突するのだ。わたししか見えていないこの金持ちと、わたしも含めたみんなに視点を及ばせなさいと教えられたイエスさま。
 このイエスさまの視点。ついわたしは忘れてしまって、わたしが、わたしが、ってなってしまうんだけれど、それではダメだとイエスさまははっきりと言われているのだ。まさに富や資源や土地や食糧などを独り占めしようとする現代社会の申し子たちへの痛烈な批判である。自分さえよければ他人なんてどうだっていい。そんな自己中心的なあり方ではダメなのだ。それは隣人愛とも真っ向から対立するあり方だ。そうではなくて、みんながハッピーな世の中になるよう、視点を自分中心から解放してみんながどうかというところまで広げていく。だから、行動においても、祈りにおいても自分中心を卒業する。自己中心的なあり方から脱却していくのだ。多くの人がそうしていったらもっと世界はハッピーになるだろうな。
 でも、これはわたしの個人的な意見だけれども、人のことを考えるにはまずは自分を満たすことだと思う。自分がカラッカラで荒廃していて、余裕なんてひとかけらもない。そんな状態では誰かに愛を注ぐことなんてできない。だから、わたしはまずは自分を充実させて満たしたい。そして、できることを人々に奉仕していけたらと思っている。
 わたし自身、ヨガをやり元気になってきた。精神疾患からの影響を受けている時間もだいぶ減ってきて安定してきた。あともう少し。あともう少ししたら誰かのために本格的に何かできるかもしれない。今のところは人の話をおだやかにあたたかい心と態度で聞くとか、毎日を楽しく健やかに普通に暮らすとか、おいしい食事を作るとか、それくらいのことしかできていないけれど、一歩ずつ前進しているように思う。わたしにとっても、自分のためだけでなくて他の人のために生きる方向性がしっかりと立った時にこの長い青年期が終わりを迎えるのだろう。
 また、説教中に牧師がこんなことも言った。牧師は、この説教が信徒のある人にとって人生で最後の説教になるかもしれない、という緊張感を持って語っている、と。たしかにその通りで、特に高齢の方にとってはこれが最後の説教になるのかもしれない。でも、牧師はおそらく人間はいつ死ぬか分からないということも含めた上で言っているのだろう。「これが最後の説教かもしれないと思って聞いてほしい」と語ったのだ。わたしは明日も明後日もそれから先もおそらく死ぬことなく生きているだろう。でも、その保証はどこにもない。明日死ぬかもしれないからだ。だから、今日の夕食だって最後の晩餐になるかもしれず、今夜だって最後の夜になるかもしれない。それは分からないものの、そう考えるとこの一瞬がとてもかけがえのないものに思えてくる。
 以上、自分中心からの脱却についての話と、これが最後の説教だと思って聞いてほしい、との2つの話が今日の説教でわたしが一番印象に残ったことだ。これからまた一週間、世に送り出されたわけだが、この2つを心に留めながらさらにていねいに毎日を生活していきたい。神様、ありがとうございます。アーメン。

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