教会を離れてみて思うこと

キリスト教エッセイ
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 突然ですが、急に気持ちが滅入ってきた。教会が毎月発行している機関誌を母の読んでいる後ろから何気なく覗いてみたんだ。そうしたら心がかき乱された。この期に及んで教会はわたしの心をかき乱してくる。せっかく平和な日々を送っていたのに。こうなることが分かっていたら機関誌とか教会の近況なんて聞くんじゃなかった。
 何に心をかき乱されたかということの詳細はここではあえて触れないけれど、何か自分がいなくなっても教会は何の問題もなく回っているんだなぁっていうのが(ま、当たり前だけどね)カチンと来る。わたしはもっと必要とされたかったのかもしれない。「星さんなしではやっていけないよ」とか「星さんが来なくなってから本当寂しいよ」なんて言われてみたかったのだろう。でも、わたしにはそこまでの人望はないし、結局の所、役員でも何でもなくただの平信徒でしかなかったし、人間関係が広いわけでもなかったから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。とは言っても母が教会へ行くとわたしのことを心配してくれる人がいるそうだ。それはありがたいこと。でも、それでは物足りなさを感じてしまう、ってワガママですね。ワガママ言いました。反省。
 また、教会から離れたにもかかわらず、いまだに牧師からダメ出しされているように思えてしまう。別にその機関誌がわたしを名指しで批判しているとか、そういうわけではない。ただ、牧師の文章のちょっとした言葉がいちいちひっかかってくるんだ。コンプレックスを刺激してくるんだ(わたしが神経質で過敏なだけ?)。
 でも、いい。もうわたしは教会を離れたんだから。維持献金だって納めていないから、もう外部の人間で教会員でもなくなったんだ。わたしが考えるべきこと。それは教会のことではない。いかにして毎日を楽しく充実させるか。そして、最終的にはいかに幸福を感じるか。ただそれだけのことだったりする。教会の皆さんは教会の皆さんで達者にやってください。わたしも達者でやらせてもらいますから。
 教会を離れて分かったこと。それはわたしはあまり多くの人間関係を必要とはしない、ということ。こういうことを言うと「寂しいことを言わないでよ」って言われてしまいそうだ。でも、人間関係がたくさんというか、広くなると結構ストレスだったりする。教会って人が数十人はいるでしょう。だから、その人たちと付かず離れず適切な人間関係を保たなければならない。それが今思うと結構そのことで神経質になって消耗してたなぁって気がする。わたしの場合、みんなにいい顔をしたくなって、みんなから愛されたくなってしまう方だからやっぱりそうした人間関係から離れてみてとても解放されたような気分なんだ。ほっとしたというか、あぁ、気を遣わなくて済む、みたいな。そうしたことに気を揉んでいるよりも、自分で読みたい本を読んで自分自身の世界を広げたりする方が性に合っているんだなぁって気付くことができた。それにわたしの人間関係の取り方って、人間関係を狭く深く取るようで、表面的な世間話というのがあまり好きな方ではない。それよりは何か深い話とかためになる話をするのが好きで、中身のない話はあんまりしたいとは思えないんだ。
 教会を離れた。教会の規範というか、こうあるべきというものから自由になるとその自由をどう謳歌していいか分からないという人、結構いるんじゃないかと思う。わたしの個人的意見ではやっぱりやりたいことをやるのが一番(ただし、公序良俗に反しない、法律に違反しない範囲で)。やりたいことをやる、で決まりでしょう。こういうことを言うと無責任なことを言っているように思えてしまうかもしれない。でも、人生の主役はわたしにとってはわたしだし、あなたにとってはあなたなんだ。そのことさえ忘れなければブレずに生きていくことができると思う。だから、自分で決める。考えて決めていい。何も神様のお言いつけ通り生きなくてもいい。神様だって自分の言うとおりに生きてくれれば嬉しいかもしれないけれど、それによって不自由になってその人が苦しくなることはきっと望んではいないと思う。でなかったら、人間に自由に考えて行動できる自由意志なんて与えなかっただろうし、そんな回りくどい自由を与えるよりは人間を神様ロボットにでもしておくことを選んだことだろう。
 教会へ行くのをやめるかどうか考えている人に言いたいことは、もし教会という場所が嫌な場所だったら何も無理してまで行く必要はないということ。嫌なことをやっているほど人生は長くないし、救いだったり心の充足を求めて、いわば幸せになるために教会は行くものなのだから、それによって気持ちをかき乱されたり、気持ちが滅入ってしまうのだとしたらあえて行く必要なんてない。教会へと行けば行くほど精神状態が悪くなり、不幸になるようなら考え直した方がいい。
 もしもあなたがもう既に洗礼を受けていてクリスチャンであるのなら、たとえ今日から教会へと行かなくなったとしても、天国の指定席はもう確保されているのだから心配しなくてもいいと思う。もちろん、50年とか60年教会へと通い続けることができるのであればそれは素晴らしいしとても尊いこと。でも、それができなかったとしても、そんな小さなことにいちいち神様が目くじら立てて怒られるなんてことはないはず。もっと大らかに信仰していい。
 あと、評論家でカトリックの若松英輔さんも言うように、神様はお金を必要とはしない。だから、教会へお金を捧げていなければバチが当たるとか怒りを買うのではないかなどと悩む必要もない。もし、今まで教会に捧げていた献金をこれからどうしようかと考えているのなら、ユニセフでもプランインターナショナルジャパンでも国境無き医師団でも、とにかくしっかりとしたところに寄付するのがいいと思う。そうすればお金だって生きるし、こういう使い方を神様は誰よりも喜んでくださるはず。
 とまぁ、いろいろ書いてきたけれど、最後は自分がどう生きていきたいか。それも神様との関係も含めてどう生きていきたいか。これに尽きると思う。神様とよりお近づきになりたいのであれば接近すればいいし、距離を置きたいと思うのであれば距離を置けばいい。何もこうあらねばならないなんていうことはない。たしか聖書でもパウロが言っていたと思うのだけれど、自分で考えて判断しなさい、とある。どんなに神様があれをやれ、これをやれと命じたとしても最後にそれをやるかどうかは自分次第。神様に自分のすべて(心と体)を乗っ取られでもしない限り、そこには自分で考えて決める余地はしっかりとある。だから、安心していい。自分で考えて、自分で判断して、自分で決めていい。そして、神様がムチャクチャなことを要求してくるなら拒否したっていい。その自由はわたしたちにはちゃんとある。
 教会を離れたくらいのことで見捨てるような神様は神様ではない。だから、わたしは教会には行かなくなったけれど、安心して日々暮らしている。



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