祈るだけで終了?

キリスト教エッセイ
この記事は約4分で読めます。

 美しい言葉がある。その言葉は本当に美しくて、聞く者を惚れ惚れとさせる。それどころか、惚れ惚れを通り越して恍惚状態へと導いていく。
 聖書を開けば、特に新約聖書の福音書や手紙などを見てみれば、美しいまるで宝石のような言葉が所狭しとわたしたちの前に現れてくる。キリスト教は言葉の宗教だ。そして、言葉の力をどこまでも信じていこうとする。聖書の一字一句そのままが神のことばだと言うのは、ちょっと無理があるんじゃないかとわたし個人としては思うのだけれど、聖書は聖なる書物なのだということには疑うことなく同意できる。
 でも、厳しい現実に直面するような時に、こういうことを言うのはクリスチャンらしからぬ不謹慎なことではあるのだけれども、どこか聖書が綺麗事を並べているだけのように思えてきてしまうことがあるのだ。
 「神は愛」「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。」などなど。極めつけは、わたしの旧ブログ名でもある「1ヨハ3:16」である。

 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(ヨハネの手紙一 3章16節)

 キリスト教は綺麗事を並べているに過ぎないのか? 阪神・淡路大震災、東日本大震災、なくならない犯罪、交通事故、病、障害。神が愛であるはずなのに次々と起こる不条理な出来事。
 そんな時に、美しい言葉が役に立つのか。果たして、東日本大震災で亡くなった方の遺族に「神は愛です」と胸を張って言うことができるのだろうか。
「神が愛ならなぜこんなことが起きるのか?」
「神が愛だからです。」
 どうもしっくりこない。
 神の愛は人間の愛を超越したものだからと弁解したところで、到底受け入れることは出来ないだろう。
 また、わたしがクリスチャンをやっていて、これってどうなんだろう、と思う時がある。それは教会で皆で礼拝の中で祈りを捧げる時のことである。「教会の祈り」という時間があり、牧師が祈りを教会の祈りとして皆で捧げるのである。わたしはこれ自体は決して悪いことではないと思う。むしろ、いいことだ。虐げられている人たちや困難に直面している人たちのことを覚えて祈りを捧げる。それ自体は無関心で素通りしてしまうことに比べたら関心を持ち続けているわけだから、雲泥の差がある。無関心が一番良くないとたしかマザー・テレサも言っていたと思う。
 けれど、わたしはこれって綺麗事言ってるだけじゃないのか、と思えてきてしまうのだ。二人または三人が集って祈りを捧げれば神様は願いを叶えてくださる、と主イエスも言われている。わたしはそのことを全面否定したいわけではない。ただ、祈るだけで完結してしまって、実際に具体的な行動に移さずに満足してしまう、そのあり方は明らかに問題だと思うのだ。
 わたしは熱海で豪雨による土砂災害があった時、何も寄付などしなかったから何かを偉そうに言える立場にはない。そんな人間であるわたしなのだが次のように思うのだ。
 そう、熱海のことについて教会で教会の祈りを皆で捧げた時、教会にいた人たちが皆、寄付などをしていたのであればもう言うことはない。けれども、寄付も何もせずに祈って自己満足してしまうだけであったのだとしたら、それはどうかと思うのだ。それだったら祈らなくても同じ、とまでは言わないけれども、どこか無責任なように思えてきてしまうのである。
 ここでわたしの短歌を一首。

 アーメンと祈り捧げて満足だ祈れば何もしなくてもいい

 ナイチンゲールは環境を人間の力で変えることが必要だと力説する。彼女は劣悪な衛生環境の病院を改善して、死亡者を激減させた人物である。救いにおいては神様に全面的に委ねるとしても、それ以外のことについては人間の力も必要なのではないかと彼女の文章を読んでいると思えてくる。(F・ナイチンゲール『真理の探究』)できないことは神様に委ねなければならないけれど、できることは人間が取り組んで、人間の力によって改善して良い方向へと持って行くのである。
 あるクリスチャンの医師は重傷の患者の家族にこんなことを言ったそうだ。「やれることはやりましょう。そして、神に祈りましょう。」
 やれることすらやらないで、全部神様任せというのは無責任ではないだろうか。だから、やれることをやった上で神様に委ねたいとわたしは強く思う。
 熱海の災害のことで言えば、自分たちができる範囲内で寄付をするとか、やれることをやった上で祈りを捧げるべきだと思うのだ。「べき」という言葉はあまり好きではないけれど、わたしはそうすべきだとあえて書きたい。
 だから、世界の貧困問題に胸を痛めるのであれば、関連団体に寄付をする。日本のコロナ問題で苦しんでいる人のことが気にかかるのであれば、コロナ患者を受け入れている病院に寄付をする。
 わたし一人の力では無に等しいことくらいしかできないけれど、それが1万人、10万人、100万人と支援の輪が広がっていけば凄まじい力となる。
 祈りも大切だけれど、やるべきこと、できることをやる。それから祈っても決して遅くはないんじゃないか。むしろ先に現実において行動に移すべきではないかと思う。溺れている人がいるとして、具体的な助けを何もせずに祈っているだけというのは滑稽な話であるから。
 そういうわけでここまで偉そうに一人前なことを語ってきた星なのだけれど、遅ればせながら募金をしようと思う。
 こうした小さなアクションを皆がとることによって世界は良い方向へと確実に変化していく。世界は捨てたものではない。世捨て人のように祈るだけというのはやめて、この世界を、そして現実をわたしたちの手によって変えていこう!!

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました