あなたに合った水やりをしてほしい

 植物に水やりをする。いろいろな植物があって、それぞれ種類ごとに水やりの仕方が違う。水をあげる頻度、回数、それから水の量。みんな違っていて、それを守らないで一様にやってしまうと、やっぱりうまくいかない。
 こんな当たり前のことは言われるまでもなく分かっていることだ。でも、それが人間の場合、その中でも自分にあてはめて考えてみるとどうなのか、といったことに無関心で来てしまったように思う。
 このことに気付かせてくれたのがアーユルヴェーダの本だった。アカリ・リッピー『アーユルヴェーダが教えるせかいいち心地よいこころとからだの磨き方』を読んでこのことを知り、まさに目からウロコだった。
 このアーユルヴェーダの本では、みんな違うんだから、画一的にその人の体質などの個性を無視して、流行りの健康法、食事法、サプリメント、美容法などを自分に無理にあてはめようとしてもうまくいかないことの方が多いだろう、といったことを教えてくれている。そうだ、そうなのだ。その通りなのだ。で、アーユルヴェーダでは一人ひとり違う人間にどうすればいいと教えているかというと、人間を大まかにいくつかのタイプに分けて、そのタイプにあてはまる食事法、生活法、美容法をやっていくように勧めるのである。そして、さらに、そのタイプに沿った生活をしながらも、自分に合わない食べ物だったり、生活習慣を一つずつやめて引き算をしていく。その結果、本当に自分にとって心地良いものだけが残る。その残ったものこそが、その人にとって最適な水やりなのだから、それを大切に続けていく。しかし、人間というものは常に変化し続けている生き物だとアーユルヴェーダでは考えるから、自分の心と体からの声を常に聴くことができるよう、感覚を研ぎ澄ましていき、変化に対してきめ細やかに対応していく。
 このことは毎日の生活すべてに言えることだと思う。わたしたちは日々、何かをして生きているわけだけれど、その一つひとつがわたしにとって最適なものであるためには、やっぱり試行錯誤して心地良いものを見つけていかなければならないのだ。
 このアーユルヴェーダの教えを知って、わたしは勉強法も勉強時間も自分に合ったものでいいんだなって思えた。今までは、誰か目標になりそうなすごい人の真似をして、その人と同じことをすればいい、と何の根拠もなく思っていたけれど、それもやめた。もちろん、参考にすることは一応する。でも、自分で試してみてそれでうまくいかなかったら、やっぱりそれは合っていないのだ。
 誰かが毎日6時間勉強した方がいい、と勉強法を掲げても、みんながみんな6時間できるわけではない。それでは大変すぎて無理だという人もいれば、いやいや8時間くらいやらないと物足りないよ、という人もいることだろう。
 また誰かが、本の内容を頭に入れるには7回速読するのがいいよ、と提案したとしても、それがみんながみんなに最適とは限らないのだ。ゆっくり2回読めば頭に入る人もいれば、文章を書き写さないと頭に入らない人、あるいはとにかく書き殴って書きまくらなければうまく記憶できない人などと多様だと思う。
 だから、勉強法にしても10人いれば10通りの勉強法があると思うし、それでいいと思う。それを何が何でもこの方法でやらなければ駄目なんだとガチガチに考えて、自分には明らかに合っていないのに、その方法に固執するのは賢明だとは言えない。
 何かすごく気が楽になってきたわたしである。みんな違うんだから一つのやり方にこだわらなくていいんだ。そのやり方を試してみて合わなかったら別のものにしてもいいんだ。すごく気持ちが解放されません?
 うまくいっている人の話というものにも普遍性がある場合もあるけれど、それでもそれは一人もしくは何人かの成功体験でしかない。それがこの独自の個性を持ったわたしに合うのかどうか。それは実際に試してみなければ分からないのだ。
 納豆とか魚が体にいいから、と言っても、それが多くの人にとってはそうであっても、このわたしにも合っていていいものなのかどうか、というのは実際にわたしがそれらを食べて実験してみなければ分からない。仮に統計とかで健康にいいことが証明されたとしても、やっぱりそれでもわたしには合わないということはあると思うのだ(ま、多くの人にとって良かったものは大抵わたしにとってもいいことは多いけれど)。
 だから、自分で試してみて、その時の自らの体の反応とか調子とか感覚を観察する。そうして、自分にとっての合わないものを見つけていって、それらをやめていく。アーユルヴェーダって「生命の科学」っていう意味でもあるらしいんだけど、ものすごく合理的だなぁって思う。そうだよな、自分に合わないものをやめていけば体調だってきっと良くなるわな。自分に合わないものをやめて、合うものに絞っていく。うむ、実に合理的。
 わたしはこの考え方に従って、実験をしていった結果、食べ物や飲み物で工夫するようになったことがある。それはコーヒーの飲み方で、1日あたり450mlを超えないようにしているんだ。それを超えると体調が悪くなると自分で実験してみて分かったからだ。そして、飲むタイミングも朝と昼だけにしていて、出掛ける(歩く)直前には飲まないように気をつけている。もちろん、夕食後などに飲もうものなら、目が冴えてしまって確実に夜眠れなくなる。でも、飲む量とタイミングをしっかり守れば、程良い刺激となって活力がわいてきて、頭の回転数も上がる。
 それと以前の記事にも書いたけれど、空腹時に葛根湯と白い食パンを食べても不調になることが分かったから、それと同じ状況を再現しないようにも心がけているんだ。
 ここでは2つあげたけれど、その他にもこれをやると調子が悪くなるっていう大まかなリストがあって、それを参考にしながら不調にならないようにしているんだ。体調が上がったり、気分が良くなることを積極的にやるのもいいけれど、それ以上にこれをやると調子が悪くなるなっていうのをやめていく方が大切だとわたしは思う。
 わたしも自分に合うものと合わないものを実験してさらに探していきますので、あなたもぜひ自分にとってのベストチョイスを模索していってくださいね。
 当たり前のことながら、見過ごしがちなことに気付かせてくれたアカリ・リッピーさんに感謝しつつ、今回の記事を終わりにしたいと思う。
 あなたに合ったベストな水やりをぜひ見つけてください。以上。

ぐだぐだ不調日記第5弾「葛根湯と食パンにやられた男」

 どうもー。星です。毎度恒例のぐだぐだ不調日記のお時間がやってまいりました。今日も、レッツぐだぐだ。というわけで不調と共にお送りしたいと思います。
 今日は何と、午前中2時間ほどパソコンをやっておりました。パチパチパチパチ~(って何でやねん)。
 さて、トーンを少し抑えるとして、と。その素地があったからかどうかは分からないけれど、それも相互に複雑に影響して今の不調になったのだと思う。で、今回の不調のトリガー(引き金)は葛根湯と食パン。
 雨降りの中、スーパーへ食料の買い出しに行ってきた星さんはお腹をすかせて帰ってきたんだ。で、食べましたのは食パン。一斤(かな?)97円の食パンを2つ買ってきた星さんはそれを2枚ほど食べました。6枚切りのやつを2枚ね。そして、さらにやる気を出そうと葛根湯を飲んだ。
 それからなのです。調子が悪くなってしまったのは。何かあの気分がモアーっと悪くなる感じに襲われたのだ。全身が不快なヴェールに包まれるみたいな、あの感じ。お分かりいただけます?、って分からないだろうと思うけど。逆に「そうだね、あれでしょ」とか言われると何気に当惑するけどね。
 おそらくだけど、食パンをお腹がすいている時にドカ食いしたもんだから、血糖値が急上昇しちゃったんだと思う。そんでもって、ただでさえそんな状態なのに、それに葛根湯を追加すれば血圧上がるし、気分だって悪くなるよ。葛根湯ってある意味、ハイにする薬だよね。食パン食べて上がった血圧を、葛根湯でさらにドーンみたいなところだろうと思うんだ。まぁ、全粒粉の食パンだったら問題なかったと思うんだ。でも、そんなのわたしがいつも行っているスーパーにはないし、あったとしても高級品だよね。じゃあ、玄米にしといてもよかったかもね、って反省してる。炊飯器の中には玄米粥があったんだ。それを食べればよかった~。くそ~。チョイスをしくじったぜ。でも、これからに生かすんだ。失敗は次に生かすためにある。星さん、偉いぞ。失敗を次にぜひとも生かしてくれ。人類の未来のためにもこの経験を決して無駄にしてはならないんだ。星の失敗によって人類は新しいステージに突入しようとしている。これは画期的なことであって、未来はどこまでも限りなく明るい、な~んて真面目くさったご冗談はこれくらいにして、次に進もー。
 って今日のネタってこれだけだよね。

 星が買い物行ってね。
 (あいよー。)
 お腹すかせててねえ。
 (あいよー。)
 食パン2枚を食べて葛根湯を飲んだんだとさ。
 (あいよー。)
 それで調子が悪くなったんだとさ。
 (あいあいさー。)

 で話が終わってるじゃないすか。うーん、ここからどんな話を持ってきたらいいのか。悩むところだ。もう話はだいたい終わってるじゃん。
 でも、付け加えるなら、今回のぐだぐだ不調日記で画期的なのは、今までにない不調のパターンを展開しているところではないだろうか。葛根湯と食パンで不調になるなんて、わたしにとっては前代未聞のいわば初体験だし、新パターンの到来じゃないすか。これは画期的、と思いきや、今回だって実は同じようなものなのだ、とふと気付かされる。やっぱり、パソコンなのだ。わたしが不調になる時のほぼすべてにおいて、パソコンが絡んでいる。逆に言えば、わたしはパソコンをやらなければ基本、不調にはならないようなのだ。(あ、それとパソコンやらなくてもテレビとかの視聴もね)だ・か・ら、同じことのく・り・か・え・し。成長してねー。全然成長してねー。結局いつも同じパターンで同じように同じ不調に陥る。自分で掘った穴にいつも落ちているようなお間抜けさんだね。パソコンという穴を掘りさえしなければ、だいたい落ちることはないのに。これじゃあ、進歩がないよ。新パターンの到来かと思いきや、実は同じことを繰り返しているにすぎなかったことが発覚して我ながら自分に呆れてしまうよ。でもね、これは新パターンなんだよ、と一方で反論したくもなるんだ。だって食パンと葛根湯が引き金になっているんだからね。って言い訳もほどほどにしろって思うよね。「どちらにしろ、パソコンやってたんだから、そこは素直に自分の非を認めなさいよ、まったくもー。」叱られちゃった。美人に叱られちゃったよ。ってこの調子だと星は全然反省しているようには思えないよね。
 でもね、星はね、これでも反省しているんだ。やっぱりパソコンは長時間やっちゃだめなんだなって身につまされてるんだ。いかんなぁってそれはそれは反省しているんだよ。日光猿軍団のお猿さんが反省するような様子で反省しているんだ。これはもう反省してるでしょ? えっ? してない? そんなわけないよ。だってお猿さんたちは真剣に反省しているんだからね。(やっぱりお猿さんたちは反省していなくてバナナのことでも考えているのかなぁ)。反省(心の声:「バナナ食べたいなぁ。早く終わらないかなぁ」)。
 というわけで決めました。パソコンはブログの更新以外やらないようにして、やっても15分にする、と。星さん、偉いでしょう? 誰も言ってくれないから自分で言っちゃいますよ。「よしよし、よしよし、いい子、いい子。」
 ぼうや~♪よい子だ、ねんねしな~♪あいよ~♪(?)
 なぜか子守歌に突入して眠くなってきたところで本日はお開き。また来週。(って笑点?)

わたしのことを忘れないで

「わたしのこと忘れないでほしい。」
 忘れられること。自分がすべての人の記憶から忘れ去られる日がいつかはやってくる。自分が死んで30年後?、50年後?
 こんなことをふと思ってしまったのは、バッハを聴いていた時だった。バッハは偉大な人で今でも人々に覚えられている。わたしはバッハがうらやましくなってきた。しかし、次の瞬間、うらやましいと思ったその次の瞬間には「そうでもないか」と気を取り直した。なぜなら、バッハだっていつかは人々から忘れ去られるからだ。
 時間というものに思いを馳せるとき、どうしてもわたしは宇宙の時間を考えてしまう。そして、それを考えるとき、人間がまるで砂粒のような、瞬きのようなそんな感覚に襲われるのだ。
 宇宙が誕生してから100億年以上はゆうに経っているらしいけれど、その最初から現在までに一体どれだけの人々が生まれては死んでいったことだろう。そして、その膨大な人間たちの数々の生涯には一体どれほどの意味があったのだろう。そんなことをわたしは考えてしまう。
 みんな一生懸命生きたのだろう。石器時代の人々は彼らなりに毎日獲物をつかまえたり、木の実をとることに大忙しだった。そして、生まれては死んでいき、生まれては死んでいき、を繰り返して現在2022年の4月。かなり端折ったけれど、いつの時代にも人々は懸命に生きていた。が、その中で今でも人々の記憶に残っている人というのは何人くらいいるのだろう。
 自分自身に問い返すなら、何でそんなに誰かの記憶にあることにこだわるのだろう、と不思議にさえ思う。まるでそれではインスタ映えを狙っている人たちと対して変わらないじゃないの。記憶に残ることがそんなに大切でそんなに大事なの? 記憶に残ったかどうかじゃなくて、今生きている一瞬に熱い火花をほとばしらせたかどうかの方が大事なんじゃないの?
 人間って線香花火みたいなものだと思うな。それはそれは美しい線香花火。でも、それだとみんな寂しいから、その線香花火の火花を少しでも長持ちさせようとする。
 わたしも文筆活動をしながら、何のために書いているのだろう、と自分に問いかける時がある。書きたいから書くのさ、と以前には答えたように思うけれど、それ以外にも本当のところは自分が生きた証を残したいという気持ちもあるんじゃないか、という気がしてきた。
 生きた証か。何だか切ない話になってくるな。わたしは思うんだけど、何をやっても生きた証は残らないよ。どっちみち遅かれ早かれ忘れられる運命は待っているんだからさ。でも、そう言い切ってしまうと寂しいので、短い間だったら有効な証は残ると思うよ、と訂正しておきたい。わたしのことを知っている人、覚えてくれている人が死んだとき、わたしの生きた証も消えるんだ。そして、発掘されることがまれにあるとはしても、そうでもない限り忘却の彼方に完全に追いやられる。
 そんな悲観的な話を逆転させるようなことがあるとしたら、それはキリスト教でいうところの最後の審判であり、復活であり、天国への希望だと思う。今までの話はすべて無神論的な考えが正しかった場合のことで、キリスト教の希望が実現すれば、そこでどんでん返しが起こるのである。
 こうなったらもう「わたしのこと忘れないで」とか何とかは全部吹き飛んでしまう。だって、もう天国では永遠に生き続けるからだ。忘れないでも何もなくなるのは明らかだろう。
 天国という場所がどのようなところで、どのような生活が待っているかということは聖書にも詳しくは書かれていないけれど、それでもまぁ、お楽しみといったところでわたし自身、とても楽しみにしている。天国の住まいって5DKくらいですか?、とか野暮なことは聞くまでもない。とにかく神様は快適なところを天国に用意してくださるだろうから、安心して赴こうではないか。わたしが思うには、現在の全宇宙と同じかそれ以上の広さ(?)を用意してくださるだろうな。そして、楽しい天国ライフが始まるんだ。以上、めでたし、めでたし、だね。
 わたしたちが神様抜きで自分が死ぬことを考えるとき、そこには虚無感だけが漂う。自分が死んでいき、そしてすべての人から忘れ去られる冷徹な運命のもとにあることを直視せざるをえなくなる。でも、神様ありで、天国ありで考えるとしたら、そこには希望しかないんだ。そうなったら、もう忘れられるとかどうとか、うだうだ考えなくて済むんだよ。わたしはこのキリスト教のいわば反則技(?)に救われている人間で、もしもこれがなかったら今ごろ絶望して自ら命を絶っていてもうこの世にはいないかもしれない。それくらいこの教えには救われている。
 で、もしもキリスト教の教えが単なる作り話で事実でなくて、最後の審判も復活も天国もなかったとしたら、その時はただただ残念に思うまでもなく、ただ無として無のままひたすら無でいることになるだろう。もうそうなったら、仕方がないと思っている。それに無は無でまた満更悪いものでもないかもしれないしね。だから、どちらにしろわたしにとっては問題がない。
 でも、わたしのこと覚えてくれている人がいたとしたら、それはそれで嬉しいね。それは否定しないよ。

無人島に1冊だけ本を持っていけるとしたら

 欲深い執着だらけの毎日を送っております星です。などと自己紹介にもならないような言葉を発して、今日は何のお話かというと、無人島に1冊だけ本を持って行けるとしたら、というお話なのだ。
 この質問はなかなか、その人の本性というか本音が見えてくるから面白いよね。どんな本を選んで持って行くかによって、その人の大切していることなんかも丸裸になるし、もう逃げも隠れもできないよ。
 で、星の場合はね。もうパッって浮かんだ。これにしよう、っていうのがパッと浮かんだんだ。だけど、それが2冊なんだよね。最終候補に残ったこの2冊、どっちにしようかと最後まで絶対悩むと思うんだよな。しかもそれが両極端というか、真北と真南くらいかけ離れたものなんだ。でも、人間というものは自分の中に天使と悪魔が住んでいるようなものだから、極端なのも無理はない。結局それかい、って感じで自分でも笑っちゃったよ。本当、笑えるから。でも、笑っちゃだめだよ。あなただってきっと同じようなものなんだからさ。
 さぁ、発表。と思ったけれど、これって発表しちゃっていいのかしら。わたしのイメージダウンにつながることうけあいの星の無人島に持って行きたい本2冊。ま、でも今まで読者の期待を裏切るかのような残念な記事も書いてきた星だから、もうこれ以上はイメージダウンしませんな。大船に乗ったつもりでドーンと行きましょう。
 わたしがどちらを持って行くか迷っている本は、聖書(しかも引照つき)とエロ本なのだ。なーんだ、って思った人多いんじゃないかな。聖くありたい真面目な星さんと男としての本能丸出しの星さんがせめぎ合っておるのです。いやぁ、これって究極の二択じゃない? 本当だったら「聖書に決まっているじゃないですか」とビシッと格好良く決めたいところなのは山々なのだけれど、わたしの中で迷いがどうしても生じてしまうんだ。葛藤が起こるんだ。
 無人島ってことは自分以外の人間がいないってことでしょ。だって無人島なんだから。その孤独の中で最後に寄り頼むもの、それが何かっていう問いなんだよね、つまりは。うーん、聖書ってズバッと即答できない自分が情けな~い。そんでもって恥ずかし~い。いや、でもね、それが人間ってものですよ。聖書かエロ本か最後の最後で決めかねて悩む。それが人間ですよ。
 って言い訳だな。最後の最後でエロ本を選ぶのって神様に対して失礼なのは分かっている。けれど、エロ本選んで、かつ信仰生活続けます、じゃだめなの? おそらくだめでしょう、はい。 
 聖書は神様からのメッセージであり、ラブレターでもあってまさに信仰生活に必須のアイテム。それなのに、エロ本を最後に選ぶ? うーむ。
 無人島に1冊だったらってことだけど、それ2冊にしてもらえません? って結局エロ本持って行くんかーい。もうこれ読んでくださっている方はとっくに呆れていることだろう。星ってそんな奴だったのか、って興ざめしていることだろう。でも、わたしはそんな奴なのだ。でも、好意的に受け止めていただけるのだとしたら、正直な奴だと思っていただけないだろうか。最後の最後で聖書でなくてエロ本を持って行くかもしれない星。でも、そこに人間臭さというか、人間としての生きていることの実感がこもっていないだろうか。ま、これも言い訳ですな。
 ここまで自分のことを書いてきたけれど、あなたは無人島にどの本を1冊持って行かれるのだろうか。アイドルが死ぬほど好きな人だったらそのアイドルの写真集とか、その人が書いた本とかを持って行くだろうし、ともかくそれぞれの人が思いおもいの1冊を持って行くことだろう。
 みんな人それぞれ大切な価値観や信条や信念がある。だから、誰かが周りから見て実にくだらない本を無人島に持ち込もうとしていても、それを優しく容認しなければならない。その、くだらないように見える本がその人にとっては宝物なんだろうからね。
 今回のテーマについて考えて、改めて思ったことは、あぁ、死ぬ時には何も持って行けないなぁということだった。この場合、無人島には1冊本を持って行くことが許されているけれど、天国には何も持参することができないんだなってしみじみと思う。裸で生まれて裸でこの世を去っていくんだ。わたしが生きている間に脳味噌にインプットした情報が天国へ持ち越せるかどうか、それは分からないけれど、それが可能だとしたらわたしの記憶を持って行きたい。自分が死んで天国に思いを馳せる時にはエロ本だの女体だのは脇へ置かれるんだなと厳粛な思いになる。つまり、生きている間は聖書かエロ本か迷うけど、死後にはもうエロ本は必要なくなるようだ。だから、わたしが本当に純粋な気持ちになった時、持って行きたいものは自分の記憶だけなんだ。この結論に到達して、何だかわたしはほっとした。わたしは天国で美女たちと性的な交わりを持ちたいとか思わない。ただ、安らかな安息に包まれて神様を礼拝する生活を送れたらと思っているのだ。その生活はきっと性欲などとは比べ物にならないくらいの充足感、満たされている安らぎそのものであって、それはそれは幸せなんだろうな。わたしは天国というものをそんな場所だと夢想している。幸せな天国。
 ここまで書いてきて、いい話になって終わろうとしているところ、ぶち壊すようだけど、やっぱり無人島に持って行く1冊が決められないな。(えっ? この期に及んで?)というわけで未だに決められない星。1冊じゃなくて2冊にしてくれぇぇ。でもやっぱり聖書にしておきたいと思います。うんうん、そうしよう。みなさんも無人島にはエロ本ではなくて聖書を持って行ってくださいね、ってここまでの文章からすると説得力全然ないけど、ま、聖書の方がいいと思うな。ページ数も多いし(それが理由?)。いやいや、聖なる書物だからですよ。無人島には聖書を持って行きましょう(ってここまでどっちにしようか迷ってたお前が言うなよ)。
 というわけで、わたしは無人島には聖書を持って行きます。これでスッキリしたぁ。

まず相手を認める

「あなたのようにはなりたくない。」
 このブログのコメント欄に以前、わたしはこう書いた。わたしは本当にそう思っていた。Yのようになりたいとは思えなかった。
 Yは本当に偉い人だ。自身もわたしと同じ統合失調症だというのに、障害年金ももらわないでクローズド(障害があるということを伏せて働くこと)で働き、経済的にも自立している。そんなわたしから見たら障害者の鏡と言ってもいいようなY。
 でも、そんな素晴らしい人であるはずのYのようにはなりたくない。なぜか。それはわたしを尊重してありのままを受け入れようとはしてくれないからだ。彼はわたしを批判する。批判して働きなよと忠告を通り越して、彼曰くそれはそれはありがたい警告をしてくれるのだ。
 Yの生き方。仕事をしていることは素晴らしいと思う。わたしなどのように働きもせず、好き放題に気ままな生活をしている人間とは雲泥の差なのかもしれない。
 わたしは思う。Yが何もわたしに働くように言わず、ただ彼の背中を見せてくれていたらどんなにわたしは尊敬できたことだろうか、と。もしかしたら、わたしだって「それだったら働いてみようか」と心を動かしていたかもしれないのだ。しかし、「北風と太陽」という童話(だったかな?)のごとく、強い風で吹きまくられたわたしはコートをしっかりとつかんで、「絶対に脱ぐものか」と意固地になってしまったのだ。
 わたしはYのようにはなりたくないのだけれど、彼のように働きたくないのではなくて、彼のように働くことによってそうしない相手を見下したり、批判するようなそんな人物にはなりたくないということなのである。まぁ、一言で言えば働かない人間を見下すような人にはなりたくないのだ。
 Yから見たらわたしなんて、どうしようもない困った人なんだろう。ああでもない、こうでもないと無駄な理屈ばかり並べて一向に働こうとはしないからだ。でも、でも。わたしの、わたしなりのささやかな頑張りを認めてほしいのだ。
 みんな頑張っていると思う。Yから見たらわたしなんて何も頑張っているようには見えないことだろう。働いていない人間がどうしようもなく駄目に見えることだろう。怠けていて、たるんでいて、頑張りが足りない。でも、わたしも含めてみんな頑張っているんだ。みんな多かれ少なかれ重さは違うけれど、重荷をかかえていて、それでも精一杯生きているんだ。それを「お前の頑張りは全然足りない。もっと頑張れ」と否定的な言葉を投げ掛けるのって残酷だと思うんだよ。まずはね、相手の重荷を認めることから始めた方がいいんじゃないかな。たとえそれが自分から見て指先一つで動かせるほどの重さだったとしても、その人にとってはなかなか重かったりすることってあると思うんだ。だから、自分の基準で「お前の重荷は全然重くない」とか判断しないでもらいたいんだ。世間から見て何もできていない人、俗に言う駄目な人だってその人にはその人なりの悩みや迷いや葛藤があって、それでも懸命に生きているんだよ。だから、まずはそれを認めること。そこから始めなきゃ話が始まらないと思うんだよ。だから、働いていない人に対しては「働け」一択ではなくて、その前に「大変そうだけど大丈夫ですか?」とか「何か困っていることはないですか?」から始めるべきなんだ。あるいは、もっと相手の希望とかニーズとかそういうものを詳しく汲み取った上で、その人が働きたいと心の片隅で思っているようだったら、「働いてみるのもいいと思うけどな」とさりげなく提案する。わたしの言ってることはおそらくYにとっては甘くてゆるすぎるようにしか見えないだろうけれど、それくらい慎重にやさしく話を進めていったほうがいいとわたしは思うんだな。ましてや過去に自殺未遂歴があるわたしのような人に対してはやさしく接しなければまずいとも思うんだ。甘いのかな? わたしの言ってることって甘ちゃんで軟弱でどうしようもないのだろうか。でも、これが分からないようだったら返す言葉がないな。分からないようだったら臨床心理学とかカウンセリングを一から勉強してみるのがいいと思う。何というか、とても繊細な世界が展開されているから、わたしの言おうとしていることがあながち的外れではないと理解してもらえることだろう。
 と、もっと相手にやさしくしなさいと言っているわたしだけど、批判しているY自身ももしかしなくても大変なんだと思う。統合失調症を抱えながら、クローズドで病気を公表もせず、障害年金すらもらっていない。で、ひたすら健常者と同じように仕事。大変なことだろう。Yも大変なんだ。だから、楽をしているように見える人間を見ると許せないんだ。俺はこんなに頑張って、こんなにやっているのに、お前らと来たら働きもせずぐだぐだ過ごしているだけ。ちっとは働け。そんなYの心の声が聞こえてくるかのようだ。
 わたしがYに何か言えるとしたら、オープン(障害があることを公表して働く)で働いたらどうですか。障害年金もらったらどうですか、くらいだろうか。Yは自分で自分を苦しい状況へと追い込んでしまっている。だから、今言ったことを変えてみるといいんじゃないかって思うんだ。実際、統合失調症で障害があるんだから、公表して働いた方が必要なサポートが得られやすくなるし、障害年金だって立派な権利なんだから、何ももらうことに引け目を感じる必要はない。
 これらを自分で辞退して自分で自分の首をしめながら、それらを受けている人に批判を加える。これってまさにブルーハーツの歌にもあるように、弱い者がさらに弱い者を叩いている構図だよね。
 Yのように、さらに弱い他者を見下したり、批判したりするような人にはなりたくないけれど、一日も早く彼の潰されそうなくらいの重荷が少しでも軽くなることを祈り求めずにはいられない。
 わたしのブログ、もう読んでくれなくてもいいとコメント欄に書いたけれど、もしこれを読んでくれているようだったら、あなたの苦しさ、大変さに寄り添えなくてごめんね、とわたしは謝罪まではいかないけれど、申し添えておきたい。
 Yも大変なんだ。でも、だからって人を見下したり批判したりするのは良くないけどね。

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