何だ、お前かよ

キリスト教エッセイ
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 今日は日曜日。教会の礼拝へ行ってきた。それも母も一緒に、なのである。
 母と一緒に教会へ行く。これはわたしが待ち望んでいたことだった。昨年の11月を最後に母の体調が悪化して、それからというもの、一人で礼拝に出掛けていたのだ。だから、こうして二人で教会へ行けることはまさに恵みとしか言いようがない。
 教会へ行くと、多くの教会員が母のもとに来てくれて、母が久しぶりに教会へ来れたことを喜んで祝福してくれた。ありがたい。本当にありがたい。その優しい心遣いが母のことではあるものの、まるで自分のことのように嬉しかったわたしなのであった。
 調子が悪くて来れなかった、まさに失われた羊を本当に気遣ってくれる教会の人々。イエスさまが真ん中にいてくださっているがゆえだな、とイエスさまへの感謝の思いがふつふつとわいてくる。
 が、その一方で母には声を掛けているのに、わたしには一言もノータッチという人もいて、わたしはとても失望させられた。わたしはお呼びじゃないの? 母は大切だけれど、わたしはどうでもいいの? 毎週来ているから希少価値ゼロ? それともわたしよりも母の方が人望があるの? 憶測は憶測を呼び、わたしの豆腐メンタルはまたささくれてきて、波立つのであった。
 その人はわたしには一瞥もしないで、礼拝が終わってからも自分が交わりたい好きな人とだけ話をしている。
 そう言いながらも、わたしだって人のことは言えないかもしれない。結局、いつも同じ人とばかり話をすることになってしまい、かなり人間関係が固定されてしまっている。もしかしたら、わたしも誰かを顧みないことで傷つけているかもしれない。邪険には扱わないけれど、それでも人間関係に濃淡がありすぎるのかもしれない。だから、わたしにだって言えたものではないのだ。
 神の家族のはずなのに、この疎外感は一体何なのだろう、と考えているとみんな、どんどん帰って行った。
 わたしはそもそも無理なことを要求してしまっているのだろうか。みんな仲良くだなんて無理なのだろうか。でも、あの人のわたしへの態度は本当に傷付く。
 この前だったかな。その人にわたしはいつもの調子で教会の出入り口付近で顔を合わせたから挨拶したんだ。そうしたら、その人は「何だ、お前か」みたいなリアクションを取ってくるんだ。わたしは傷付いたよ。何か迷惑そうで嫌そうなんだよ。別にわたしに満面の笑みで挨拶してくれなくてもいいから、もう少し嬉しそうな反応をしてくれてもいいんじゃないの。だって、わたしのこと好きじゃないんだから仕方がないだろ、などと言われようものならもう返す言葉はないけど。
 でも、それにしてもこの態度はひどいと思う。その人ってわたしと視線を合わせようともしないんだ。わたしはその人と仲良くなりたいからアイコンタクトを試みるんだけれど、いつもそれは失敗に終わる。
 わたし良く思われてないのかな。最近、失礼なことをした覚えもないし、喧嘩をしているわけでもない。
 もうこうなったらその人とは波長が合わないのかもしれない。そう考えるしかない。でも、何だかわたしだけが除け者にされているようでつらいよ。でも、これはわたしだけではなくて、きっと同じ思いでいる人は少数派なのかどうかは分からないけど、きっといるだろうと思う。
 それとわたしが感じることとして、教会にまで来て、今度は教会カーストですか(スクールカーストならぬ)、という思いがある。わたし、おそらく下っ端だと思う。まだ教会へ行くようになってから4、5年しか経っていないし、年齢だって最年少だし、だからおそらく下っ端。うちの教会の最下層に位置しているんじゃないかなって気がする。
 人間は平等のはずなのに、とぼやいても現に教会の中には力関係がある。それがカーストを形成していて、人間関係を規定している。表向きはないことになっているんだけど、やっぱりあるんだな。気のせい? 星の気にしすぎ? いやいや、ある程度はあると思いますよ。
 そういうわけで星の教会生活は前途多難なのである。母と一緒に教会に行けるようになって、最高に嬉しいはずなのに、このことがあるばかりに信仰生活は曇り始めて、今まさに雲行きが怪しくなってきている。
 コロコロ変わる、まるでジェットコースターのような、はたまた言い換えれば山の天気のような星の精神状態。どうにかしたいもんだと思いつつも、こればっかりは出たとこ勝負なんだな。『いやな気分よさようなら』の本を片手に認知療法でもしっかりと実践していけば、振れ幅が小さくなっていくのかな。とりあえず、この安定しないメンタルをどうにかしたい、というのがわたしの当面の目標だ。
 以前、その人との関係について認知療法をやってみた時には、その人はわたしのロボットじゃないんだから思い通りには動いてくれないよ、という言説を得てある程度は納得できたのだが、しばらくやらないでいるとまた揺らぎ出すのだ。やっぱり、しっかりと認知療法やった方がいいかもな。
 わたしのロボットではないんだから、ね。分かっている。分かってはいるんだけど、わたしはその人に愛されたい。わたしはその人にとって関心のある存在になりたいし、わたしのことを大切にしてもらいたい。でも、それは無理な話なのかな。別に恋愛関係とかじゃなくて、ただある程度のところまでわたしに好意を向けてほしいだけなんだけど。要するにその人に「何だ、お前かよ」というようなわたしへの態度をやめてほしいのだ。そして、少しでもいいからせめて最低限の付き合いはしてほしい。
 でも、それを相手はおそらく無意識のうちに拒否している。わたしと懇意になりたくないのだ。わたしに優しい言葉をかけたくないのだ。わたしとは要するにあまり関わりたくないのだ。だったら、それを追うのはやはり得策ではないだろう。それでも追い続けたら、しつこい人としておそらく認定されてしまう。わたしがうっとうしい人になってしまう。自分が関わりたくない人から優しくしてほしいって寄ってこられたら、それってやっぱり迷惑だよな。自分の場合に置き換えて考えるとそれははっきりとすることだ。
 そうだな。わたしは相手に自分への思いを強要することはできないし、相手には相手としての拒否したり、距離を置いたり、拒絶する権利がある。相手の自由を束縛すること。それこそ、やってはいけないことであって、それが男女のもつれとなるとストーカーとかになってしまうんだ。
 だから、そうではなくて、相手が幸せになるためにわたしには何ができるだろう、という視点から考えていった方がいい。相手を幸せにするためにわたしができること。それはもしかしたら、いや、もしかしなくても手を引くことかもしれないな。
 そう考えるなら、相手はわたしとの関係を「何だ、お前かよ」的な感じで継続させていきたいと思っているだろうから、それを無理に変えさせることは相手の自由を侵害することになるな。
 ここまで読んでこられてあまりにもウダウダしている文章に呆れられているかもしれない。でも、このまとまらない文章が今のわたしの率直な気持ちであり、今のわたしの錯綜した頭の中でもあるのだ。
「何だ、お前かよ」みたいな態度を取られることはつらいけれど、強くなっていくんだ。星さん、タフになれるよう頑張ろうと思います。でも、嫌なものはやっぱり嫌だから自分に正直にありたいな。って書くとどっちなんじゃい、って感じだけれど、つまり自分の感情は認めて素直に受け入れた上で、流せるものは流してスルーしていく。そんな受け流せる能力の高い人になれたらなって思う。「何だ、お前かよ」には「わたしですが、何か?」と切り返せるくらいになりたいな。この切り返し方、最強。しっかりこれだと受け流せてるね。
 豆腐メンタルを厚揚げメンタルにしたいな。微妙なところだけど。衣でコーティングされている分だけ豆腐よりも厚揚げの方が丈夫なのだ、って両方豆腐みたいなもんだけど。目指せ、厚揚げメンタル? 豆腐を卒業する日ももうすぐ? いや、まだまだだな。

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