寄り添う

キリスト教エッセイ
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 寄り添うことは大切なこと。しかし、なかなかこれができないんだ。わかってはいて、頭の中ではせねばって思っているのに、寄り添うの「よ」の字すらできていない。
 世の中が殺伐としてきている。何か、こう自分が大切にされていないように思えて仕方がない。今の日本はネットで情報化社会で、物はあふれるようにあって、それはそれは幸福なはず。物質的に豊かになりさえすれば幸せになれると思っていたわたしたち。
 今の社会はすれ違い社会と言っても差し支えないと思う。みんな、自分のことを大切にされたいと思っているのに、誰も自分のことを大切にしてくれない。関心を向けてくれない。どこまでも、どこまでも無関心。それでたまに声を掛けてくれるかと思ったら、ああせよ、こうせよのお小言ばかり。そんなんだったら誰だって嫌になるよ。
 成熟するということ。それは人に寄り添えるようになることだとわたしは思う。自分が、自分が、というレベルのあり方から一段ステップアップして大人になるんだ。自分病を卒業して寄り添えるようになる。これは難しいことだけれど、深みのある人間になるには必要なことだ。
 ある方からこんな話を聞いた。ある牧師の話なんだけれど、その牧師が言うには「人は悩んでいると2時間話します。もっと悩んでいると4時間話します」とのことで、その牧師は悩みを抱えた人の話を4時間も聞いてくれるそうで、わたしは驚いてしまった。わたしは誰かの話を1時間は聞いたことがある。しかし、2時間とか4時間は未体験の長さだ。牧師でも何でもないわたしにはそうした機会はほとんどないが、それでもこの牧師の言葉には打たれるものがあった。話を聞く時間の長さではないと思うものの、長さもやはりあるんじゃないか。人の話をじっくりと聞く。そして、相手に寄り添う。何かその牧師のあり方から真骨頂を学ばせていただいたように思う。
 わたしたちはともすると、ネット社会に毒されていて、効率至上主義に染まっていて、何かと急いでいることが多い。そして、そんな感じでは相手の話をゆっくりと聞いていられるだけの余裕もなくて、ひたすらカリカリしている。たとえ10分、いや3分であっても相手のために時間を割くのが何か無駄なことであるかのように思えてきてしまうのだ。
 が、逆にこうした世の中だからこそ、ゆっくりと人の話を聞いて寄り添う営みは尊く大切なものになってくるのではないかと思うのだ。みんな急いでいる。みんな焦っている。追い立てられている。だからこそ、まずは自分が相手の話をジャッジせずにただただ聞けるようになりたい。裁かずにゆっくりと話を落ち着いて聞く。そんな小さな運動を始めていって、それが広がっていって大きな運動にまで発展したら、食事中とか話をしている時にスマホを見たりする人が減るんじゃないかな。そうして多くの人が相手に寄り添えるようになっていくんじゃないかなと思うんだ。
 まずは自分の大切な人の話をいつもよりも5分でも10分でもいいから、落ち着いて聞くようにしよう。自分が、自分が、と自分病が出てきそうになっても、相手の話をまずは聞こう。聞いた上だったら過剰にならない程度で自分の話をしてもいい。こうしたことを続けていけば、その外側の人へとも広がっていく。そうして、みんな自分の話を聞いてもらえるようになって、世界は平和になっていく。マザー・テレサだってあれだけ口を酸っぱくするかのように「家庭の平和」を説き続けたじゃないか。
 自分が話を聞いてもらえるということ。それは自分が大切に扱われているということでもある。自分がまずは大切に扱われていないと、人にも優しくはできないよ。自分が大事にされていなければ、誰かを大事にすることはできないんだ。
 小さな運動を広げていく。それこそ、平和活動だ。わたしは母の話を聞くこと、それから教会の人たちの話を聞くことくらいの範囲でしかないけれど、それでもこの活動をやっている。まさに草の根運動だけどね。
 わたしはまだ未熟なので、自分に批判を向けてきたり、敵意を向けてくる人に対しても愛を向けるというレベルの高いことができない。ま、これは生涯かけてやっていくテーマですな。
 以前、このブログでわたしを批判してきたYも愛に飢えているのかな。人を批判する人って基本自分が満たされていないと思う。わたしも自分自身が荒廃していた時なんかは、多くの人に言い掛かりをつけたし、その最たるものとして神様に悪について説明しろと迫ったくらいなんだ。もちろん、正しい批判というものもあるとは思う。しなければならない批判というものもある。けれど、そういったものとは呼べない言い掛かりをするのは、やっぱりどこか心が渇いている証拠なんだろうな。だからむしろ、そうした何かと批判的な態度をしたり、敵意を向けてくる相手っていうのは保護して憐れむ必要のある人なのかもしれない。攻撃って自己防衛の意味合いが強いらしいから、攻撃せずにいられないっていうのはその人が困っていたり追い詰められているってことなんだろう。でもなぁ、そういう人を愛するのって本当難しいよ。心理学の勉強をもっと深めていけば、そこんところの対処ができるようになっていくのかな。
 本当の意味での「寄り添う」とは、悪態をつかれても、拒絶されても、それでもその人を見捨てないことでもあるのかもしれない。もしそうだとしたら、わたしはなーんにもできていない。ただ、自分に好意的な人、大事にしたい人に寄り添っているだけ。でも、一方でそういった人にさえも寄り添わない人はいるから、まぁ、わたしも捨てたもんじゃないなとは思うけど。
 わたしの人生における大きな目標ができた。それは、寄り添えるようになること。しかも、それも無差別に、である。む、難しい。果たしてわたしにそんなことができるようになるのか、心許ない話ではあるが、方向性としては間違えていないと思う。これはまさに茨の道でもある。みんながみんなできるっていうことでないのは明らかだ。でも、やるんだ。その方向で歩んで行くんだ。この方向性はイエスさまが指し示された道でもある。イエスさまは言われた。「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい」。素晴らしすぎる、厳しすぎるイエスさま。まさにロックな教え。
 イエスさまの道は限りなく厳しいものではあるけれど、あきらめずにひるむことなくやっていきたい。寄り添うのって難しい。うん、本当難しい。

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