今日、聖書研究会で学んだこと(12月8日)

キリスト教エッセイ
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 今日のテーマは罪を滅することについて。仏教、それも浄土真宗でそのことについてどのように考えているのか牧師が解説してくれた。その解説自体はしっかりとしたもので、ここに再掲してもいいとは思うのだけれど、それだとただ牧師の言ったことの口移しになってしまう。というわけで、今日の話を踏まえてわたしが思ったこと、感想のような文章を書いていきたいと思う。
 キリスト教にしろ仏教にしろ、人間というものは罪というものを考えるのだけれど、罪って目に見えないんだよね。たしかに目に見える様々な行為は存在するし、確認することができる。でも、じゃあ、罪ってどんな形をしていて、どれくらいの大きさで、どれくらいの広がりがあるものなんだ? わたしに見えるように罪というものを示してくれよ。そんな風に言われても誰も罪というものを明確に見える形あるものとして示すことはできない。
 じゃあ、というか、そもそも罪って存在するのか、という話にもなってくる。罪っていうのは人間の観念なんじゃないの? 人間が頭の中で拵えただけのものでしかないんじゃないの? そんなことさえ言い出す人が出てきそうな、そんな始末に負えなさそうな人が出てきてもおかしくない。
 真面目に罪というものを考えていくと、たしかに何か悪いことをして良心の呵責に苦しむ時には罪があるようにも思える。でも、罪は目に見えない上に大きさも何もかも、五感で感じることのできる要素は何もない。でも、だからと言ってここまで論調が来てしまったように何もわたしは罪の存在を否定したいわけではない。そうではなくて、何だか罪について議論するのが決着が付かないような、どこまで議論してもらちが明かないような、そんな気がしてならないのだ。
 だから、今日取り上げられた念仏を一回称えれば罪がなくなる、といった話にしても、議論することはどこまでもできるものの、決着が着かないのではないかと思ったのだ。
 こういうことを書くと、星は何やら中立的な立場にいる感じで気取って自分の立場を表明することを避けているような、そんなずるい立ち位置にいる、と批判されそうだ。でも、分からないじゃないですか。端的に言ってわからないと思うんですけど。
 逆に、罪というものは絶対に念仏の一声で解消されて消えてなくなってしまうものなんだ、と断言して言い切ってしまうほうが問題なんじゃないかとさえわたしには思える。また、それと対立する立場として念仏なんて一切無効なんだ、とか、いや、それ以前に救われているのだからそういう感じで念仏を道具にしてしまうのは良くないと思うよ、絶対に。などとともかく人間には知り得ないことについて断定してしまうのが問題なのだ。人間に分からないこと、知り得ないことの前では沈黙する。分からないんだ、知り得ないんだと素直に認める。強がらずに意地を張らずに認める。そうした姿勢が大切なんじゃないかって思うんだ。
 もちろん、人間にすべてのことが100%明晰に分かるわけではない。この世ははっきり言うまでもなく分からないことだらけなんだ。分かっている。これは言うまでもなく分かっているんだと思っていることであっても、「それって本当に分かってるの?」と突っ込まれると途端に答えに詰まるものなのだ。何しろ、今こうしてわたしたちが現実だと思っているこの世界だって本当にあるのか、と聞かれるなら「おそらくある。多分あるのだろう」としか答えられない。それを絶対にあるんだ。誰が何と言おうとこの世界は実在するんだと言い切ってしまうのは謙虚さがないとわたしは思う。
 だから、目に見えないいわば宗教的な領域についてはもっと分からない。もっと断定したり断言できないと言わなければならない。その断定できない、はっきりとしたことが言えないということを認めた上で、それでもわたしはこれを信じているんです、というのが信仰ではないかと思う。
 わたしは神様を信じている。イエスさまを信じている。神様がおられないなんてことはない。イエスさまの復活も事実だと信じているし、十字架の出来事だって本当のことだと思っている。けれど、弱気になるわけではなくて、それは信じているという話であって、だからと言って神様は絶対いると断言できる、とかそういうのとは違う。わたしの信仰というものはギリギリのところで、「分からない。もしかしたら違うかもしれない」というある意味冷めた目も含んでいる。わたしの場合、信仰とか信じているというのは「そうあってほしいな」という願望とも言い換えることができる。神様がおられると信じているとは、言い換えれば神様がおられることが事実であることを希望して望んでいるということでもあるのだ。
 真相は分からない。もしかしたら神様はおられないのかもしれない。わたしがただキリスト教という詐欺師に騙されて、うたかたの夢を見ているだけなのかもしれない。キリスト教の信者同士で共同幻想に陥っているだけなのかもしれない。それは、その真相は誰にも分からない。牧師だって神父だってそれは分からないだろうとわたしは思う。神様がおられるのだとしたら、牧師や神父だって人間でしかないのだから、人間が知り得ない領域や事柄についてはやはり無知なのだ。本当の究極的な真実を知っておられるのは、人間には秘められている領域の事柄について知っているのは神様だけなのだ。わたしたちは自分がただの人間でしかない、神様ではなないということを謙虚に、しかしまっすぐに受け止めなければならない。
 以上、ここまでのことを踏まえると、救いについても自力派と他力派の両者の決着が着くのは世の終わりではないかと思うのだ。あるいは自分が死んでみて、それから初めてわかることなのかもしれない。自力で救いを獲得できるという考えと、いやいや他力で救っていただかなければ救われないんだと主張する両者がいるとして、その決着はこの世ではつかないことだろう。すべてが終末に明らかになるのか、そのことさえもそもそも終末は本当にやってくるのかと疑うことはできるのだから定かではない。しかし、もしも終末が、世の終わりがやってくるのだとしたらその時にはじめてそうした隠されていた秘められていた事柄が明らかになり、この世で平行線のまま終わっていた議論に終止符が打たれるのではないか。
 罪についても然りで、牧師がカトリック教会は善行のポイント制をやったという話を持ち出したけれど、罪と善行のプラス・マイナスのポイント制が本当の真実で真理だったということも十分にありうる。それをどうして100%間違いだなどと断定できるのだろうか。地獄や天国についても然り。もしかしたら地獄や天国などという場所は実在しないのかもしれないし、いやいや、実在するんです、というのが真相だったなんてこともあるかもしれない。つまり、人間には知り得ないことがある。だから、何を信じるかは自由だけれど、それは信じている事柄に過ぎないわけであって、それが必ずしも事実かどうかと言えば、それは断言できないんだということをわたしは言いたいわけなのだ。それにこうしたことを証明することはできないしね。人間のうち誰一人として罪や天国や地獄などを肉眼で確認した人なんていないし、そもそも目に見えるものでさえも実在するかどうか怪しいのでしたからね。
 でも、そこまで疑っても、デカルトが言ったように「われ思う。ゆえにわれあり」なんだ。少なくともわたしの意識が実在しているかどうは別としても、わたしが自分がいるということは思っている。思えている。他のすべてのものが不確かなものだとしても、それだけは確か。最終的にはこうしたギリギリのスレスレの話になってくる。今、わたしの意識はある。そして、自分はあるんだなぁって思っている。それだけは確かなんじゃないか。デカルト、鋭いなぁ。本当、鋭いよ。と言いつつも、この自意識さえも幻かもしれないけどね。
 こんなことを考えていると世界がぐらぐらしてくる。でもいいんだ。このぐらぐらしている世界が今のところは続いているのだから。そして、このぐらぐらの中を生きていくんだ。夢なのかもしれなくて、幻なのかもしれない。長い夢だなぁ。リアルな夢だなぁ。やけに鮮明な幻だな。しかし、日常はそんなわたしの思いとはよそに今日も続いていく。
 まぁ、キリスト教的世界観や終末観や来世観が全部まやかしだったとしたら、欺かれて騙されたってことになるけれど、その時はその時。ま、なるようになっていくだろうし、やれるようにやっていくしかない。自分がジタバタしたところでどうこうなるもんでもないしね。
 全部疑った。目に見えるものでさえも疑っている。目に見えないものはなおのこと。でも、信じます。信じたいんです。で、いいんじゃないかなって思う無責任なわたし。というか、それ以上のことはわたしには言えませんよ。以上、お粗末。クリスマスが近くなってきました。

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