星さん猿の信仰あれこれ問答

キリスト教エッセイ
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 昔むかし、あるところにお猿さんたちが暮らしておりましたそうな。お猿さんたちはとても敬虔なお猿さんでして、今日も集まってはその中でも飛び抜けて信仰深いお猿さんから教えを受けておりましたそうな。彼らはそれからも信仰篤く生き、そして死んでいったそうな。めでたし、めでたし。

 今日はおそらく個人的な悩みがあってか、自分がそのお猿さんであるかのような感じがしてきてしまい、どうも教会の集会だというのに身が入らなかった。飛び抜けて信仰深いお猿さん、つまりは牧師から説明を受けているわたしたち。が、その牧師が語っていることが本当のことなのだろうか、という素朴な疑いが出てきてしまった。本当はそのお猿さんたちのように、神様なんてそもそもいなくて、ただそういった観念を自分たちで作り出してありがたがって拝んでいるだけ。そんな風に思えてきてしまったのだ。
 牧師猿の言っていることは正しいのだろうか。それともそれらは単なる作り話なのだろうか。と言いつつも結論は出ない。ただ、そうした考えや思いが2000年の間語り継がれてきて、そして体系立てられたり形が整えられてきたりしたことだけは事実。が、それらもすべては観念であっていわば作り話でしかないのか?
 自分を突き放して眺めてみる。それが自分をお猿さん、あるいは集団であればお猿さんたちと考えてみることだと思うのだ。この視点はマルクスの宗教を見る目と近いのではないかと思う。ただ、ありがたがって拝んでいる。それが存在しないものであるのに、必死に、一生懸命に、と。
 どうこう言うまでもなく、わたしは一匹のお猿さんのようなものでしかない。どんなに信仰深くなっても、学問を身につけても、資格やら何やら取ったとしても、所詮は猿。何だかそう考えたらとても気持ちが楽になってきた。楽になってきたって自虐的でそんな気持ちになれないよ、という声も聞こえてきそうだ。でも、わたしは、少なくともこのわたしは自分自身を突き放して、距離を置いて見ることができた。
 もしかしたらだけれど、わたしたちキリスト教徒たちは2000年前から現在までありもしないことを信じ続けて、時間とお金と労力をただひたすら浪費してきたのかもしれない、なんて言ってしまうとわたしに神の怒りが来そうだけれど、もしかしたら事実は、本当のところはキリスト教が考えてきたようなものにはなっていないのかもしれない。
 わたしは問わずにはいられない。本当のことって何なのですか? 事実は、本当の真実は一体どうなっているのですか、と。今でもキリスト教の内部ではありとあらゆる立場や考え方が対立して、そしてその対立のまま本当のことが知らされる日がやってくるのを待っている。事実は、真実はヴェールで覆われている。人間に分かること、分かっていることはほんの一部分にすぎず、そこから先はまさにブラックボックス。
 キリスト教徒のわたしがこんなことを言うのは不信仰なのかもしれない。しかし、分からないことは依然としてたくさん山のようにある。その様々な人間の思いなし、つまりは思想がその正しさを証明される時がやってくるのか、こないのか。それすらも危うい。だから信じるしかない。
 お猿さんたちがありがたがっている神様とやらがいるのか、いないのか。いたとしたら、それはどんな神様なのか。お猿さんたちが聖書と呼ぶその書物に詳細が記されている。が、その聖書ですらお猿さんの先人たちによるものだから、結局お猿さんの手によるもの。だったら何を信頼しろ?、と。お猿さんが言う神様は本当におられるのか? ただありがたがっているだけで妄想しているだけではないのか?
 そこまで考えた上で、じゃあわたしという星さん猿はどういう態度を取るのか、取っていくのか。最後はそこにかかっている。そして、星さん猿は何を考え、何を信じ、何を頼りに生きていくのか。待望の長編、ここに完結、てな具合にこの人生を生きていくしかないのだ。
 あと30秒で30分。今日も思いをありのままに書けました。じゃあね、またね。ご自愛くださいませ。あったかくなったり、寒くなったり温度差が激しい今日この頃です。

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