たとえもうじき死ぬとしても

キリスト教エッセイ
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 どうもー、星です。みんな元気にしてますか? わたしは元気に毎日を過ごせていて、調子も良く、頭も冴えていて快調です。幸せいっぱい、夢いっぱい。そんな感じの毎日です。
 と言いたいところなのだけれど、この平和が長く続かないかもしれないのだ。のっけから読者の皆様の意表をつく展開。星さんのブログはそんなに単調なものではないのです。必ず、一ひねりか、二ひねりくる。ニヤリ、なわけなのです。
 何があったかと説明すると、もう2ヶ月ほど前でしょうか。夢を見たのです。夢。分かり切っているようでいて、未だに人間には解明されていないもの。それが夢。心理学でも夢は扱われていて、これはこういうことだみたいなものがあるけれど(ユングとかね)、その夢でこんな夢をわたしは見た。それはわたしが死ぬ日を予告する夢。その夢によるとわたしはどうやら2月某日(夢では具体的な何日という数字が示されたのだけれどここでは伏せておく)に死ぬらしいのだ。死ぬ? わたしが? まだ40歳にもなっていなくてお肌が20代の頃よりはガサついているものの、それでもまだまだ若いのに。やりたいことだってたくさんあるのに。人生これからだというのに。
 その夢を見てからの数日間、本当に焦った。本当に自分は夢で告げられた通りにその日に死ぬのか。そして、その運命(と言ったらいいのだろうか)は変えることも回避することもできないのか、と。何しろ、これは夢の話なのだ。だからまるでどんなにあがいても、その日、お家でおとなしくしていて外出なんかもちろんしないで、ヘルメットとかかぶって(完全防備?)も、どんなにそれに抵抗しようとしても、その日に何かが起こってわたしは死んでしまう。もう自分には王手がかけられていて、もう詰んでいる(って将棋の話持ち出したけど分かります?)。どんなに持ち駒を投入しようとも、どこへ逃げようとも詰んでいるわけだから確実にやられてしまう。まさに逃れられない運命としか言いようのない事態、なのかもしれない(まぁ、夢だから何とも言えんのだ)。
 けれど、それからどうしてか夢のことをきれいさっぱり忘れていた。毎日の勉強とか生活に忙しくて、脇へ行ってしまっていたのだ。だから、その間は平和な日々が続いていた。が、また思い出したのだ。その2月某日が近付いて現実のものとなるかもしれないのが迫ってきて、またはたと思い出したのだ。
 というわけで(どういうわけで?)、昨日からもしかしたら起こるかもしれない、起こってしまうかもしれない自分の死の準備を始めたのだ。
 って、星さんねぇ。あなた末期がんになって余命宣告されたとかそういうわけではないでしょ。たかが夢ごときでオーバーなんだよ。
 何とでも言ってくれ。しかし、わたしはマジなのだ。真剣に自分が死んでしまうかもしれない事態のことを考えていて、そのために備えているのだ。そういうわけでエンディングノートを買った。自分が死んだ後に母が困らないように、小さなことから大きなことまで要望や希望を書き記しておきたいと思ったからだ。まだエンディングノートは書いていないけれど、そのわたしが死ぬらしい日までには間に合うようにしておくつもりだ。
 わたしの希望としては直葬なんかも考えたけれど、やっぱり教会で葬儀をしてほしいなというところで落ち着いた。クリスチャンらしく、そして教会員らしく教会で皆に見送ってほしくなったのだ。
 自分の葬儀の準備を始めたわたし。昨日は「故人から皆様へ」という自分の葬儀で読んでもらうための文章もしたためた。本当、わたしって用意周到でしょう。普通、故人が挨拶を述べる(もちろん死んでいるから代読してもらうけれど)なんてないでしょう? いやはや、ユニークな星さんの葬儀。そして、参列者の皆様(あんまりいないと思うけれど)にはわたしが多くの時間をかけて書き上げたブログの文章と小説のテキストデータをCDかUSBメモリに入れたものをお渡しする。あと他にもこうしてほしい、ああしてほしいということがあるから、そのことはエンディングノートにしっかりと書き残しておくつもり。
 そんな感じで予告されている日に間に合うように自分の死後の準備をぼちぼちしながらも、わたしにはやっていきたいことがある。それは今まで通りの生活だ。普段通りの生活。何ももうじき死ぬのだからと飲み食いしようではないか、ではなくて普段通りの慎ましい生活を送る。ヨガをする。料理をする。勉強をする。読書をする。母といつも通りに楽しく話をする。猫のルルの傍らでしばし過ごす。この当たり前のこと。これがわたしにとっての幸福なのだと今回死ぬかもしれない事態になってみて改めて思った。何も豪華な御馳走を食べまくるとか、高価なものを残りのお金を使って買いまくるとか、そんなことはわたしには必要ないし、やろうとも思えないのだ。当たり前の普段通りの、平凡でありきたり(と言ってしまうと語弊があるけれど)の生活を続ける。何も難しいこととかする必要はない。ただただ、いつも通りに過ごすだけ。この普段通りというのがもしかしたら近日、死ぬかもしれないわたしにはキラキラ輝いて見える。だから、2月に死ぬとしたらヘブライ語の旧約聖書を原典で通読するという夢は叶えられなかったものの、それでもわたしはヘブライ語の勉強を今日も明日も明後日もやる。やりたいのだ。もうじき死ぬのだから何をやっても無意味だと思うのではなくて、わたしは死後にも生前身につけた知識や技能や人格は持ち越されると信じているから(信じたいと言った方が正確だろう)、やれる限り、死ぬ直前まで学んでいたいのだ。2月某日に何が起こるのだろうと考えるとすごく不安になる。でも、それはそれとして受け入れて、今自分ができることをやっていく。そして、今から死ぬまでの期間、および時間が短かったとしてもその営みは決して無駄にはならない。その営み、過ごした時間は天国へとつながっている。
 そしてまた、わたしにとっては天国での新たな生活が始まる。だから、恐れることは何もないのだ。と自分自身をいかにも制御して納得させているかのように見えるわたしだけれど、一方では一抹の不安もある。もしかしたらキリスト教的に事が運ばないかもしれないという不安自体はやはりあるのだ。でも、それは仕方がない。わたしはまだ死んだことがないし、死んで戻ってきた人というのは基本的にいないのだから。
 自分が死ぬということ。それは怖いことではあるけれど、キリスト教的には喜ばしいことなのだ。新たな出発。新たな門出。新たな歩み。つまり、旅立ち。たしかに母のことを思うともちろん親よりも先に亡くなるということは親不孝なことであって、望ましいことではないかもしれない。けれど、自殺したいとかそういう話ではない。ただ、わたしが2月某日に死ぬかもしれないというだけの話なのだ。だから、神様にある意味逆らうような自死によって最期を迎えようとしているわけではない。最期が安らかなのか。それとも苦痛を伴うのか。2月某日に何が起こるか全く予想ができないから(何も起こらずわたしは何事もなく生きているかもしれない)それは何とも言えない。でも、どちらにしろわたしはイエスさまと神様、ならびに天国の存在を信じているから死ぬことに対して虚無に沈むようなイメージはないのだ。むしろ晴れやかに旅立っていくそんなイメージ。今、この瞬間にも共にいてくださっているイエスさまが「大地よ、恐れるな」とわたしの心に語りかけてくださっている。 
 数週間後、わたしは生きているのだろうか。それとも死んで天国へと旅立っているのだろうか。夢のことでここまで心配していることが取り越し苦労であってほしいと思う。でも、死んでしまったのならもう死んだのだから仕方がない。それが神様のご計画であり御心なのだから従うより他に道はないのだ。死ぬとか死んだとか、事実はそうなのだろう。しかし、死ぬことは天国へと旅立っていくことだと前向きにとらえるようにしたい。
 今までこのブログを読んでくださっていた読者の皆様。星は天国へと来月旅立つのかもしれません。もし、そうなりましたらわたしのブログとその思い出を皆様の心の片隅に刻んでいただけましたら嬉しいです(と言いながらも来月になっても星が死なない可能性ももちろんありますが。むしろ、その可能性の方が常識的に考えるなら高い)。星大地という一人の青年(中年? もう40だしね)がここにこうして確かに存在していましたことを来るべき未来に思い出していただけましたらと願います。とりあえず、ブログの更新はできる限り続けます。それまでお楽しみいただけたらと思う次第です。

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