天の邪鬼

いろいろエッセイキリスト教エッセイ
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 先日、「ヘブライ語の難所の前で」という記事を書いた。読んでもらえば分かると思うけれど、わたしがヘブライ語で前回挫折したところにまた再びやってきて、諦めることなく頑張っていきたい、みたいなことを書いた。Twitterでその記事を拡散したら結構手応えがあって、なかなか自分でもいい記事が書けたんじゃないかと思っていた。
 と、その記事に一つのコメントが寄せられた。また例のごとくYさんで、以前の記事でわたしに貴重な時間を使うよりも、ご自分のために使った方が生活の質も上がりますし、などと書いたにもかかわらずコメントが来た。また働けなどと言おうものならもう言うまでもなく空気が読めない人確定だけれど、どうやらそういうわけでもないらしい。何でも、わたしの文章は話し言葉と書き言葉の区別ができていなくて、だから自分がその文章の一部を添削してみたということらしいのだ。
 有り難いか有り難くないか、と言えば正直有り難くはない。わたしの記事を読んでもらえば分かるとおり、わたしはあえて意図的に文章を崩している。何の前触れもなく「です・ます」が飛び込んでくるようにしているし、ムズいだの何だのと明らかに口語的な表現もふんだんに盛り込んでいる。わたしはですね、そこまで無知じゃないですよ。静岡県の公立高校の入試では国語で必ず作文的な問題が出題されるのです。だから、わたしは「です・ます」調だったら、それで統一しなければ減点されてしまうことくらいは知っているのです。正しい文章、減点されない文章というものがあることはしっかりと知っているのです。でも、あえてわたしは自分のブログの文章を崩したり、ルールから逸脱するようなことをしている。なぜかと言えば、その方がわたしの思いが伝わるから。時々、「です・ます」を使うのはやっぱりその時の感覚とか感情的なものがその表現だとぴったりくるからなのだ。
 てなことはまぁいいとしよう。とりあえず意識的な逸脱ね。意図的なんですよ。
 で、Yさんのこれらの行動について、この人は何でここまでしてわたしに関わろうとするのだろうと考えてみたんだ。そうしたらあることに気が付いた。それはYさんはわたしに関心があるということだ。好きにしろ、嫌いにしろ、ともかく自分の中でその人に対する感情が生じるというのは、やっぱりその人に関心があるんだ。そうでなかったら景色に溶け込んで見えなくなってしまういわばモブのような人でしかない。少なくともYさんはわたしに関心がある。
 そんな風に考えていったらあることが見えてきた。もしかしたら、もしかしたらだけれど、Yさんはわたしと仲良くなりたいんじゃないかなってね。あぁ、そういうことか。それだったら今までの一連の行動がつながるなってね。でも、本人はそれを真っ向から否定するかもしれない。でも、まぁ、仲良くなりたいわけではないとしたら、何でここまでわたしに関わろうとする? 絡もうとする? 本当にわたしのことが嫌いだったらそんな文章の添削なんてそもそもしないし、「はい、さようなら」で去っていることだろう。しかも、あのYさんのコメント、その日に書いた記事についたものだぞ。ってことはよく分からんけれど、Yさんはわたしのブログの記事をよく読んでくれていて楽しみにしてくれているんじゃないかな。もしかしたら、常連の熱心な読者さんなのかもしれない。星の書いた記事、最新のものには全部目を通しているとかね。当たっている? それとも的外れな邪推? でも、もうわたしのこのブログを読む価値がないと思われるのだったら、いつ去ってくださっても構いませんよ。読みたい人が読んでくださればいいので。
 何だかこう考えると、Yさんという人がいじらしい人として姿を現してくる。よくいたじゃん。クラスに一人くらい、好きな女の子に天の邪鬼な態度を取ってしまう男の子ってさ。本当は仲良くしたい。振り向いてほしい。好かれたい。そう思っているのにそれを素直に表現できなくて意地悪してしまったりする男の子が。もちろん、わたしは女の子ではないからそうした恋愛感情が屈折したものではないことだろう。けれど、もしかしたらYさんはわたしと親しくなってできることなら友情を育みたいくらいなのではないか。あ、もちろん違うなら違うでいいですよ。わたしは何もだからと言って困りませんからね。俺は星のことが嫌いで嫌いで、憎くて憎くて仕方がないんだ、っていうことでしたら無理にわたしのブログの記事など我慢して読んでくださることもないので、退出してまた別の面白いブログでも探してくださいませ。自分の意志で読む、読まないを決めてくだされば結構です。
 以上、書いてきたことがご名答なのか、大外れなのか、それはYさんが一番よく分かっていることだ。まぁ、ともかくわたしはわたしでやることをやっていくだけだ。わたしにはわたしの生活があり、暮らしがあり、人生がある。Yさんとこれから関わりを持って交わることになるのかどうか。それは分からない。でも、この紆余曲折ありの人間関係も神様が与えてくださったものだと思うのなら、何かこの関係にも意味があるのではないかと思えないこともない。ま、なるようになるさ。なるようになっていくさ。無責任なようだけれどそれが真実ではないだろうか。
 神様、わたしに豊かな人間関係をさらにお与えください。

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