読書? 飽きっぽくて移り気なんです

 ブログのアクセス数が閑古鳥ということはなくなってきた。新しい記事をアップすると10人から15人くらいの人が読んでくれる。時々、ヒットがあると30~40。そんな感じで細々としたブログである。アクセス数がゼロだとしんどいものがあるが、毎日誰かが読んでくれている。本当にありがたい。
 わたしが更新をしない時は、大方、多忙か、読書に入り浸っているか、のどちらかである。昨日は読書をしていた。放送大学の試験が近づいているというのに一向にやる気がしない。そんなわけで、ダラダラと本を読んでいた。
 最近読んでいたのは、J.W.メイランド、M.クラウス『相対主義の可能性』。これはムズい。どのようにしてこの本にたどり着いたかというと、きっかけは老子の思想にふれたことだった。この相対主義についての重厚な本を読む前には、野村総一郎『人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える老子の言葉』を7割くらい読んだところだった。野村総一郎はうつ病の権威で、わたしが20代の前半頃にうつ病と診断されていたころ、本を買って読んだことがあったので、この老子の思想のガイド本のような彼の本をアマゾンでたまたま見つけた時は、何の抵抗もなくKindleに入れた。ちなみにこの本はアマゾンのPrime Readingの本で、Prime会員の人ならただで借りて読める。
 わたしはとにかく上昇志向の前のめりで社会的成功を目指して努力してやっていきたいと思っていたから、真逆のことを説くこの老子の思想には面食らわされたのである。と同時に何か肩の力が抜けて楽になるようなそんな解放感も覚えた。で、老子の思想にある程度ふれたら、老子が相対主義をとることから、相対主義に興味がわいてきたのだ。相対主義について中学生並の知識しかないわたしである。だから、『相対主義の可能性』を読み始めたら新しい発見の連続だった。だが、骨が折れて疲労困憊になったのだった。アカデミックな固さにやられたのだ。そんなこんなでこの本を読むことが大きな負担になっていたわたしなのであった。
 そして、この本を読み終えていないわたしだったが、関心がまた別なところへと飛んだのであった。教会の聖書研究会で牧師が「原理主義」について説明したのがきっかけで、今度は原理主義への興味・関心が再燃したのである。わたしは何て移り気なのだろう。それで、以前買ったまま積ん読していたヴェルナー・フート『原理主義 確かさへの逃避』をまた最初から読むことにしたのだった。そして、さらにどういう経由かは忘れたが、原理主義絡みとして、大田俊寛『現代オカルトの根源(ちくま新書)』も読みたいと思いKindle本を購入。本から本へと次から次に飛び移っている。そんな感じである。それから、「まだあるのかよ?」と思われているかもしれないが、聖研で牧師がルターの魅力を滔々と語るものだから、ルターもまた読みたくなって、積ん読していた『ルター著作集第一集第1巻』も読み始めたのだった。
 ここまで読んでいただいていかにわたしがブレまくりの人間かということがわかっていただけたかと思う。でも、これがわたしなのだ。興味があっちへ行ったかと思うと、またこっちへも行く。これこそ、一つの道に通ずることなく、中級者の壁にすらたどりつけない人間の典型のようだが、まぁ、いいか、と思う。それに読んだものは決して無駄にはならないし、自分の頭のどこかには残っていることだろう。
 今のわたしにとって学ぶことは楽しい。興味をかきたてられて、とても充実している。でも、4時間超えるとしんどくなってくる。それが自分の限界なんだなと思う。4時間しかできないのか、と思い悩むこともあるが、4時間もできる。ありがたいと発想を転換して感謝しながら毎日を過ごしていきたい。
 わたしの日々の読書が文筆に生かされているのなら本望である。というよりも文筆と知的欲求のために読書をしている。読書をして勉強をして日々バージョンアップしながら、自分らしさ、つまりは自分の個性を育んでいきたい。それが願いである。


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生きよ

 大切なのは人からどう思われるか、じゃなくて、自分がこの人生を納得できたかどうか、ということじゃないのか。
 わたしは死ぬ前に「あぁ、いい人生だったな」と後悔することなく安らかに死んでいけるのか。
 わたしがやりたいこと。それは文章を残すこと。自分の存在意義をそこに示すこと。
 仮にわたしが文章を残したとして、それが一体何になるのか? だから何? それがどうした? という話になるのかもしれない。
 人生はある意味、割り切って考えてしまうなら自己満足なのかもしれない。
 だから、「それが何なの?」と言われてしまうとどうしようもないのだ。
 生きた証なんて残したところで意味がないだろう、と反論してくる意地悪な人もいるのかもしれない。
 たしかに1億年後にはわたしの文章は残っていないだろう。あの芥川でさえもおそらく残っていない。だとしたら、何のために心血注いで文章を紡ぎ上げるのか。すべては無駄なのか。意味がないのか。1億年後に残っているものなんて、そんなものない。
 わたしたちは何のために今日もこうしてあくせく生きているのだろう。この巨視的な視点から考えると分からなくなってくる。
 すべては、すべてのものは無意味なのか?何のために人類は存続しているのだろう。分からない。
 わたしたちはともすると、近視がちになって数十年という枠組みの中で物事を考えてしまう。でも、それで本当にいいのか。もっと広く見渡すことも必要なのではないか。
 この世がとても不可解なものに見えてきた。
 どうせいずれは滅亡するのにあくせく生きている人間たち。天文学的な時間が流れればすべてが忘却の彼方。それでも人間は生きる。何のために? 何で絶望しないでやっていけるの? 現実を見ろってこと?
 天国という観念もこれには役に立たない。まるで現世が天国に入る前の茶番のような、そんな感じがしてくる。前置きはいいから、とにかく天国にしてほしい。
 人生百年時代と言われて久しいが、何のためにこの数十年を生きるのかがわたしには分からない。
 何のために生きるのかみんな分かっていないのに、思考を殺して、今を懸命に生きている。仕事して、結婚して、マイホーム建てて、子どもを持ってと夢を思い描いて生きている。でも、それって何のため? 何のためにそんなにあくせく頑張ってるの?
 目的。目的がなければ何かをなすのは無意味なのだろうか。目的がなければいけないのだろうか。
 意味のない人生は意味がないのか。価値がないのか。
 意味とは誰かにとっての意味である。
 意味。それは自分で見出すものだ! あるいは神様が決定されることだ。
 自分で自分の人生に意味がないと思えば、意味がない。(わたしにとっては意味がない。)誰かがわたしの人生に意味がないと思えば、意味がない。(その人にとっては意味がない。)多くの人がわたしの人生に意味がないと思えば、意味がない。(多くの人にとっては意味がない。)
 だから、世界中の自分以外のすべての人がわたしの人生を意味がないと断定したとしても、わたしがそれに同意せず「わたしの人生には意味がある!」と叫んだなら、わたし以外の人にとっては意味がなくても、わたしには意味があるのである。
 だが、たとえ自分を含む世界中のすべての人がわたしの人生を意味がないと思ったとしても、神様だけはそれに対して力強く「否!」と言ってくださる。わたしは神様がお造りになられた作品だ。だから、その作品であるわたしをけなすことは造り主の神様をもけなすことになるのだ。誰が何と言おうと神様だけはわたしの存在価値を全肯定してくださる。それだけで十分じゃないか。全知全能の存在がわたしの人生を意味があると言ってくれているのだから、その判断は絶対的に正しいだろうと思う。
 神様がわたしに「生きよ」と言ってくださっているような、そんな感覚に包まれている。
 あくせく生きている人間たちをお造りになられたのは神様だ。だから、神様は人間が生きることを、つまりは人類が存続していくことを絶対に望まれている。でなかったら、旧約聖書の創世記の洪水の出来事みたいに滅ぼしてお終いにされていることだろう。神様の御手の中にいるわたしたちなのである。つまり、神様はこの世界が続いていくことを願われているのだ。
 わたしの人生は短いが、意味があるということがはっきりとしたので意気揚々とこの人生を生きていきたい。そして、苦しくなったらこの文章を読み返すようにしたいと思う。
 自分の人生に意味があると思えることはとても大きい。
 わたしの人生には意味がある。そして、あなたの人生にも意味がある。だから、上を向いて歩いていこう。きっといいこと、あるから。


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いい文章を書くにはどうしたらいいのか考えてみた

 石田ゆり子さんのエッセイを少しばかり読んでみて、気付いたことがあった。それは、勉強だけしてもいい文章は書けないんじゃないかということだった。文章というものはその人がストレートに現れる。文は人なりという言葉を思い出したわたしだった。
 たたずまい。石田さんの文章にはたたずまいがある。やわらかいたたずまいと気品があるのだ。物腰と言ってもいいかもしれない。言葉の一つひとつにその書き手の品のようなものが出てくる。だから、その人のすべてが文章には筒抜けになる。芝居をすることもできるだろうが、ふとした言葉から本音が見え隠れしてしまう。隠し通すことはおそらくできない。
 生き方。文章にはその人の品はもちろん、生き方が如実に現れる。毎日どのような生活を送っているか。どんなことを日々考えているのか。生計はどうやって立てているのか。そうしたまさに生き方が文章からどうしてもにじみ出てしまうのである。だから、良くない生き方をしている人間には基本的に良い文章は書けないことだろう。どうしてもボロが出るだろうと思う。(出ないとしたら芝居の達人だろう。)
 こうしてダラダラとぐるぐるした文章を書いているわたしだが、わたしに足りないもの、それは物事についての知識の乏しさもそうだが、人生経験が圧倒的に不足していることではないかと思うのだ。いいところに気が付いた。石田さん、気付かせてくださってありがとうございます。
 わたしの世界は本当に狭いと自分でも思う。わたしがでかける場所といえば教会と病院とスーパーマーケットと近所の散歩道くらいしかない。
 人生経験の不足。それを補う方法としては、実体験が最強であるものの、読書も疑似体験として有効であると思う。なかなか実体験を広げるというのはわたしにとってはハードルが高くて難しい。わたしにまずできそうなことは疑似体験を読書を通してたくさんすることではないか。本を通していろいろな人の考え方にふれる。まずはそこからやっていきたい。
 いい文章、おもしろい文章を書けるようになりたい。だから、まずはいろいろなジャンルの本を読み、人間としての幅を広くする。もちろん、キリスト教、心理学、社会福祉など関心のある分野は専門家顔負けなくらいまで高めたいと思っている。
 だから、いい文章を書くにはわたし自身をもっと磨いて魅力的な人物にする必要があるのだ。と言ってしまうとウケ狙いみたいでひかれそうだが、そう思うのだ。
 素敵な人を目指してやっていきたい。そして、素敵な文章をいつの日か書けるようになりたい。
 わたしが生きた証を文章として残せたらと思う。夢は大きく、志は高く。


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わたしが死ぬまでにやりたいこと

 わたしには死ぬまでにやりたいことがある。それは何かと言うと、文章を書くことである。文章を書きたい。そして、それを自分の生きた証として残したい。そんな思いがある。
 だから、もうわたしはやりたことをやっているし、やりたいことに向けて動き出している。
「もう星さん、記事もいくつか書いてるし満足じゃないですか?」
 そう聞かれるとまだまだ書き残せていないと答えざるをえない。まだまだ、まだまだ。
 わたしの目標。小説200作にブログ記事1万記事。これだけ書けば満足して安らかな眠りにつけると思う。
 だから、わたしの目的意識はとても明確だ。すべては文筆のためにあるのである。勉強するのも、本を読むのも、すべてはいい作品を書くためなのだ。こういう奴ってもしかしたら嫌われるかもしれない。でも、いい。わたしがやりたいのだから。
 うーん、どうしても普通にこうして文章を書いていると根が真面目だからだろうか、真面目な文章になってしまう。飽きました? うーん、どうしたもんかねぇ。だいたい今回書きたいことは書いてしまったし、どうしたもんかねぇ。
 わたしが望むこと。それはわたしの死後100年後の未来の人々にわたしの駄文を読んでもらうことだったりする。それで、「この人あんまり面白いこと書けてないねぇ。」と一言ぽつり批評してもらえればそれで満足なのだ。もちろん、「この人なかなかうまいこと言ってる」とか「なかなか面白いんじゃない?」と言ってもらえたら光栄なのだが。
 只今のわたしの思想の総量ははPomeraとパソコンに保存されているテキスト2メガバイトである。これをもっとたくさん書いていって増やしていきたいと思っている。
 わたしはまだ独身で子どもがいないから、正直自分の子供ってどんな感じなのか分からないけれど、今のわたしにとっては文章たちが子どもみたいになっている。とっても大切な存在なのである。
 未来に自分の文章を残すためにどの方法がいいかといったことも研究したいと思った。Pomeraが100年後に動くとはとても思えないし、パソコンだってそれくらい年月が経てば厳しいかもしれない。そういう耐久性の高い半永久的にもつ記録媒体ってあるのかなぁ。うむ、研究してみたい。
 それからそれから、わたしの野望は本を出すことだ。これはわたしにとっての大きな憧れだ。いつかは本を出したい。そして、わたしの文章を読者と共有したい。そして、(そしてが多いけれど)そのわたしの文章が、わたしの言葉が誰かを元気にできたら、と思う。それがわたしのささやかだが大きな夢である。
 わたしはまだ30代後半で人生の折り返し地点にも到達していない。だから、またやりたいことが変わってくる可能性も十分にある。でも、その時はその時だ。なるようになるし、やりたいことが変わってくるのも人間らしくていいと思う。
 神様との関係ではそれを神様がわたしに望んでおられるかどうかということは分からない。わたしの思いばかりが先行してしまって、神様の思いをくみとれていないのかもしれない。しかし、きっと神様がわたしをなるようにならせてくださるだろうし、わたしが方向転換した方がいいと思われたなら、力ずくでも持っていかれることだろう。だから、心配はしてない。
 「何とかなる。」この一見いい加減なようでいて核心をついている言葉を頼りにしているわたしなのである。そして、「神様が何とかしてくださる。」とも思っている。だから、何とかなるのである。
 あなたが死ぬまでにやりたいことは何だろうか。死から逆算して今を考えるとやりたいことが見えてくるのではないかと思う。どんな下世話なことでもいい。高尚なことでなくてもいいんじゃないかとわたしは思う。いつかバケツ一杯くらいのプリンを食べたい、でもいいし、とにかく人に迷惑をかけなければどんなことでもいい。(あと自分を害することでなければ)
 人間いずれは死ぬ。いつかは死ぬ。だからこそ、後悔のないように生きていった方がいい。死ぬ間際になって「あれをやっておきたかった」と後悔するのはつらすぎる。
 「いい人生だった。」そう思いながら死んでいけるとしたら、最高の人生だったんじゃないかと思う。わたしはそんな生涯の終え方をしたい。


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ここで一句。「静けさや星さんブログ閑古鳥」

 星さんは最近、放送大学のテキストを読んでまとめ記事を書いていたとさ。んで、そのまとめ記事が大変反響が悪くて、まさに閑古鳥が鳴くようだとさ。(記事のアクセス数1だからね。1。で、その1は母がアクセスした1だった。)だから、星さん、やる気がなくなってきてるとさ。そんで、ブログの方向性を考え直してるとさ。
 てなわけで、わたしの放送大学のまとめ記事、非常にウケが悪いのであります。まずタイトルからして面白くなさそうだと。工夫のないタイトル。かたそう。難しそう。つまり、とっつきにくくて面白くなさそう。こうしたいかにも敬遠したくなる要素にあふれているわたしの記事はやはり敬遠されたのだった。
 みんな、どんなものに興味があるのだろう?この初歩的なことを何も考えずにただ書きたいものを書いてきた。うーん、だからウケないんだわな。
 でも、「ウケるものを書こうとして迎合しまくるのって一体どうなの?そんな自分が書きたいわけではない記事書いてウケたところで嬉しいの?」などと孤高の陶芸家みたいなことを言ってる星さんなのだが、「人からの評価も必要なんじゃないの?」とつっこみが来そうだ。孤高の陶芸家だって誰かに壷を買ってもらってはじめて生活できるのだ。
 わたしはどうなりたい?要は人気者になりたいの?そんでもってちやほやされたいの?
 痛い質問だ。チクチクチクチク来る。
 わたしの願い。それは多くの人にブログを読んでもらって、多くの人から「元気が出たよ。ありがとう。」と感謝されることだ。それが一番の理想の姿だったりする。
 でも、「多くの人」という言葉がくせものだったりする。それが一人ではまずいのか?たった一人でも心の底から「いい文章だった。ありがとう。」と感謝されればそれでいいんじゃないか。数ではない。と言いながらも数を無視できない現状もある。けれど、わたしの方向性はふと冷静になって考えてみると、多数の支持を得ることにはない。もちろん多数から支持されれば嬉しい。でも、それが目的となってしまった時、そのわたしの文章はそれでも輝き続けていられるだろうか。
 たしか、ドリアン助川さん(で合ってるのかな?)が作品を一人の読者のためだけに書いているといったことをテレビで言っていた。みんなのために書いていると思うとき、その言葉は伝える力を失ってしまうんじゃないか。まぁ、作家さんでもみんなのために書いてます、って人もいるけれど、誰か一人のために書くのには敵わないんじゃないかと思う。
 数。本当は一人ひとり固有の個性ある人間が集まるから、数が生まれるんだけど、数として表現してしまうと、何か違うんじゃないか。よく、新聞に死者が○人とか書いてあるけれど、実は数字で表してしまうと、その人が立ち現れなくなってしまうとわたしは思う。固有名詞で表現してはじめてその人が立ち現れてくる。だから、アクセス数が10だとして、それはAさんとBさんとCさんと・・・、といった具体的な人間なのである。うーん、うまく言えないけれど、とにかく数に置き換えてしまうと、何か違うのだ。数にして表現した途端に表現された彼らの息吹が消えて無機質になってしまうというか。
 と気が付くと、またいい話をしようとしとる~。星さん、いい話をしてもアクセス数は増えないよ、多分。読者はいい話を求めてるんじゃないと思う。
 もっととっつきやすくて清涼飲料水みたいにシュワ~っと爽快になる話。そんな話を求めてるんじゃないかと思う。
「じゃあ、清涼飲料水みたいに万人ウケするようなとっておきの話をしようか。星さんにはとっておきの話があるよ。おもしろいよ~。」
「ってさっきしていたいい話と全然言ってること今違うだろ。誰か一人のために書くんじゃなかったのかよ。星、お前なぁ、完全に立ち位置見失ってるよ。一本芯を通せよ。芯を。」
「だってだってアクセス数がほしいんだもん。増やしたいんだもん。いっぱいいっぱいアクセスしてもらって人気者になってちやほやされたいんだもん。」
「だそうなので、星さんは大衆ウケする路線を突っ走るそうです。」
「そ、そ、そんな軽薄な男じゃないよ、星さんは。前言撤回。大切な一人の読者のためだけに書こうと思います。」
「アクセス数と自分のポリシーとの両立に悩んでるな、星は。」
 本音と建前、出尽くしたところで今回はお開きとしたい。最後まで読んでくれたあなたに感謝。ありがとうございます。


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