苦難の意味-悪の問題についての考察

 人間誰しも欲望があり、それは歯止めをかけないと、どこまでも際限なくエスカレートしていき、貪欲に飽くことなく要求し続けることになる。
 事あるごとにわたしたちは神に要求する。
「お金をもっとくれ」
「病気を治せ」
「痛みを与えないでくれ」
「死にたくない」
「不老長寿にしてくれ」
「永遠に生きたい」
 そして、極めつけは、
「なぜ最初から天国にしてくれなかったんだ」である。特に一番最後の要求はクレームの中でも特大のものだ。神様の万物創造という行為を否定しているのだから。この要求は核心をずばりと突いている。神様であってもおそらくこれに応答することは難しいだろうと思う。人間の知恵が究極まで高まったがゆえに可能となった要求とも言える。
 しかし、わたしたち人間にこの要求をする資格があるのかどうか、というと無いのではないかという気が最近してきた。理屈としては一本通っている。けれど、人間の立場というものをわきまえていないような、神への謙虚さがまったく感じられない暴挙に出てしまっているような、まさに思い上がっているのである。
 神がどのようにこの世界を創られようとそれは神の自由であり人間がとやかく言うべきことではない。それと同様に、被造物をどう創られようとそれも神に委ねられていることなのである。
 たとえば、二人の人間がいるとしよう。一方は頭脳明晰だが、他方は一般的な人々よりも劣っている。この場合、神は平等に二人の人間を創造されるべきだったのだろうか、という問いが発生するのだが、それは神の領域であって人間がとやかく言うべきことではない。そこには神の深い意図や人智を超えた思いなしがあるのではないかと推察すべきところである。神のなさったことを否定して、神はこうすべきだったと人間の「べき」を主張すること自体が傲り高ぶっているのだ。「神が創造された。以上」。なのではないか。もちろん人間には不満がある場合もあることだろう。しかし、人間の「べき」の方が正しかったと声高に言うことは一体創られたものの取る態度としていかがなものなのか。
 悪の問題についてもこのような態度で臨むことが望ましいのではないかと最近のわたしは思う。神が全宇宙を支配し治めておられる。この素朴な信頼に立つ時、すべての出来事が意味を帯び始める。
 出来事においても到底容認できないような事柄がある。東日本大震災の津波などはその典型であろう。しかし、わたしはそれに深い神の思いなしがあったのではないかと思うのである。無理があることは重々承知である。その上でそのおびただしい死に何らかの意味があったのではないか、と思いたい。そうでなければ彼らの死が無意味だったということになってしまう。そんなことはあってはならないし、あるはずもない。だから、神にとってその死には意味があって、それがわたしたちには隠されてはいるものの無意味だということはないのである。
 意味はわたしたちには隠されている。けれども、何らかの意味があったことは確実である。なぜなら、神は愛であるからである。愛のお方が罪もない人々を津波で流し去る。矛盾している。たしかに矛盾してはいる。しかしながらそこに何らかの意味はあった。人間の快・不快、善・悪、生き死になどの価値観そのものを超えた何か深い思いなしがそこにはあったのだ。神は人間の思いなしや理屈を超えられている方ではないかと思うのである。
 わたしが大切な人を亡くした時にこの理屈を受け入れることができるかどうか、というのはまた別問題である。ショックのあまり神を呪ったり、もしかすると信仰を捨てることになるのかもしれない。しかし、そこに、その死に何らかの意味があるということを信じる時、わたしは自暴自棄になることなく、神を呪うこともなく、救われるのではないかと思う。その時になってみないとわからないが、そこに信仰を持つ者の強さがあるのではないだろうか。と述べながらもわたしが家族を津波で亡くしたとしたらこのように思えるのか、それは定かではない。けれども、人間にとって意味があるかどうかというのは死活問題である。意味をそこに見つけることができれば苦難に遭っても耐えていけるのではないだろうか。
 そして、最終的にこの覆われたヴェールは終末に最後の審判においてイエスさまによって明らかにされる。そこでようやく苦難の意味が解き明かされる。わたしはその時を心待ちにしている。すべてがわかるのだから。それがいつ来るのかどうかわからないのが難点だが、それでもいつかは世の終わりがやってくる。
 苦難には意味がある。そして、その意味は終末に解き明かされる。わたしはこれだけで今すぐ苦難の意味がわからなくてもいいんじゃないかという心境に変わりつつある。少なくとも苦難が無意味でないことがわかっただけでも、以前のわたしとは大きく異なっている。
 そうなのだ。苦難には意味があるのである。あとはイエスさまにすべてを委ねようと思う。決して悪いようにはされないはずだ。そこにわたしの希望がある。


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苦難の効用

 苦難。できることなら大きな苦難に襲われることなく、平穏無事に過ごして暮らしたい。誰しもがそう思うのではないだろうか。苦難なんて無い方がいいに決まっていて、いいことなんて何もない。ただ苦しいだけ。そんな風に捉えている人が多いのではないだろうかと思う。
 けれども、今回我が家の一連の出来事を通して苦難にもプラスの意味合いがあるということがわかってきたので、そのことを書きたい。
 最近の記事にも書いたが、おじいさんが腸捻転になり緊急手術となって命は長らえたものの施設に入所することになった。さらに、おじいさんだけではなく、おばあさんも骨髄の重い病気にかかっていることがわかってあと一年も生きられないと医者から宣告された。祖父母ともダウンに近い状態になったのである。
 この事実だけを聞けば、そこには不幸のみがあって明るい側面が何もないかのようについ思いがちだが、そうではないのである。
 物事は必ず悪い面だけではなく、いい面もある。と言うよりもこれらの苦難がわたしたちにある効用をもたらしたのである。
 効用として感じているのは、人間関係の改善である。これらの苦難が訪れるまでは、わたしと母は祖父母をはっきり言うまでもなく無視していた。以前の記事にも書いたのだけれど、祖父母ともクセのある人たちでわたしたち親子はほとほと彼らに嫌気がさしていた。言うことなすこと最低まではいかないが問題ありなのである。本当、荒んでいるというか綺麗事の一つすら言わない。言うことはほとんどが下品なことで人格を疑うようなことさえも時折口にするのだった。だから、同居しているのに挨拶さえ交わさなかったし、そっちがその気ならという感じで向こうもわたしたちから距離を置いていた。
 そういうわけで、祖父についていたケアマネージャーから母が祖父のことをどうするのか聞かれても「好きにやってくれればいいと思います。わたしは関わりたくありません」と母は答えていた。それくらいの仲だったのだ。
 それが今回、祖父が激しい腹痛を訴えて腸捻転の緊急手術となり入院してからというもの、母がキーパーソン(中心人物)となり動いてくれている。あの「関わりたくありません」と言っていた頃の母とはまるで別人のように精力的に祖父母のことをやってくれている。病院からの電話連絡、ケアマネージャーとのやりとり、施設からの電話連絡、祖母のフォローなどなど細かなことがざっくざっくあるのだが、それをおもになってやってくれているのだ。
 これが苦難の効用ではなくて何であろうか。それから、わたしたち親子は朝も祖母に挨拶するようになったし、何よりも画期的なことは話をするようになったことだ。苦難の効用。そんなものがあるのか、と思う人はいるかもしれないけれど、たしかにある。苦難の効用はたしかにあるのだ。
 母は祖母があと一年も生きられないということを知ってから「放っておけない」と言う。以前だったらそんなこと言うわけなかった。それが苦難がやってきてからというもの、人間関係が円滑に回り出して助け合うようになってきたのだ。
 もちろんそれは母だけではない。わたしにもあてはまる。わたしも祖母のことをうざいと思ってしまうことは今もあるけれど、何かあと一年以内に死ぬ人を邪険に扱うことができない。祖母は相変わらずである。相変わらず自己中だし、自分の一方的な話ばかりするし、相手に自分の考えを押しつける。でも、それすらも「あぁ、この人は一年後にはいないのだ」と思うと帳消しにはならないが、少しわたしの中で寛容な心が動き出すのである。
 祖母に残された時間は短い。だから後悔のないように生きてほしいし、わたしも祖母に対して後悔のないように接することができたらと思う次第だ。
 人間の命は有限でいつまでも生きられるわけではない。でも、でも、だからこそ、限りがあるからこそ輝いてくるのではないだろうか。
 苦難の効用。苦難は悪いことばかりではない。いい面もある。それが苦難の効用なのである。


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子育てをする前に何かを育てる経験をしておいた方がいいのではないか

 星さんちのモンシロチョウ祭りも8匹の蝶が誕生して巣立っていき一段落となった。そして、今、第二陣としてまた卵からモンシロチョウを育てる営みが始まった。そういうわけでモンシロチョウ祭り第二弾なのである。
 そんなわけでモンシロチョウを育て続けているわたしなのだが、ふと思ったことがあるので書きたい。これはなかなかいい気付きだと自分でも思ったので皆様と共有できたらと思った次第である。
 わたしは未婚の独身だ。それなりに独身生活を謳歌していて、自分の好きなようにやらせてもらっている。ふと思う。子育ては大変なのだろうか、と。女性とお付き合いしたことさえないのに、子育てのことを考えるのは飛躍し過ぎているのかもしれないが、考えてみたりするのである。それで考えてひらめいた。何をひらめいたかと言うと、「子育てをする前に何かを育てる経験をした方がいいのではないか」ということなのだ。
 何かを育てる経験。わたしは人間の子どもを育てた経験は皆無なのだけれど、このことを母に言ってみたら、「その通りだと思う」とのことだった。何かを育てる経験もなしで、人間の子育てをする。これはステップが急すぎるのではないかと思うのだ。何にせよ、育児放棄に児童虐待が起こっている昨今である。これはわたしの推測だが、何かを育てるという経験が不足したまま、子育てに突入する人が多いのではないか、と思う。だから、うまくいかなくなってしまうのではないか。
 育てる。それは楽しいこともあるけれど、楽しいことばかりではない。モンシロチョウの飼育で言えば、幼虫さんたちが葉っぱをムシャムシャおいしそうに食べているのを見るのは楽しい。だけど、うんちもたくさんして汚れるから、タッパーの中に敷いてあるティッシュを交換しなければならない。キャベツがなくなればなくなったで、新しいキャベツの葉を投入しなければならない。手間がかかる。悪く言えば面倒なのである。でも、モンシロチョウたちのためには、やりたくない時であっても重い腰をよいしょとあげて、オーバーに言えば一肌脱がなければならない。何かを育てるというのはそういうことなのだ。その育てている対象(というと少々堅苦しいが)に労力を注いである程度の時間を割かなければならない。つまり、大人になるということなのだ。子どもみたいに自分のことだけ考えているのでは何かを育てることはできない。世話をするためには大人にならなければならないのである。
 もちろんみんなそれぞれやりたいことがあって、自分のためにできることなら時間を使いたいものだと思っている。でも、そこをこらえるというか大人になって育てている対象に時間を使うのである。
 それから、育てるということには「責任」も発生する。わたしがモンシロチョウのうんちをそのままにしてティッシュも交換せずに放置しておいたら、タッパーの中がカビだらけになり、幼虫さんたちは体がかびたり腐ったりして死んでしまうだろう。キャベツの葉っぱがなくなったのに、新しい葉っぱを入れてあげなかったら餓死することだろう。高温多湿の場所にタッパーを置いておいたら高温になって次々に死んでしまうことだろう。幼虫さんの生き死にはすべてわたしにかかっているのである。だから、もしも幼虫さんを死なせることにでもなったら、それはわたしの責任なのである。これは言うまでもなく当たり前のことだ。
 モンシロチョウだったら、と言うと幼虫さんたちに怒られそうだが、仮にわたしの世話の仕方が悪かったり怠ったりしたために彼らを死なせてしまったとしても日本の法律としては罪に問われることはない。虫を殺すことはよくない。けれど、逮捕されるとか、懲役になるとかそういうことにはならない。しかし、人間の場合だったらどうか。逮捕されるし殺人として懲役○年になる。虫と人間では大切さが違う。人間の方が比較できないほど大切だ。だから、もちろん死なせてしまった場合には人生が大きく変わってしまうし、そうした場合の罪ならびに責任は言い表せないほど重い。
 だから思うのだ。人間を育てる前にまずは人間以外のものを育てる経験をした方がいいのではないか、と。植物でも虫でも動物でも何でもいい。(でも、動物は責任が重いからまずは植物や虫ではじめてみる。)とりあえず何かを育てる経験を積んでおくことが必要ではないだろうか。山にたとえるなら、人間の子育ては富士登山だろうか。いきなり富士登山をするのはきついだろう。まずは、町内の坂道をのぼることくらいから慣らしていった方がいいのではないかと思う。だんだんと負荷をあげていけば、気が付くと富士登山ができるくらいの体力になっていることだろう。まずは、植物や虫を育てることから。そして、ステップアップしていく。いきなり人間の子育てをすることに比べたら、この段階的な取り組みには無理がない。
 以上、モンシロチョウを育ててみてわたしが得た気付きである。子育てをすることについて不安のある人はまずは人間以外の何かを育てる経験をしてみてほしい。そうすればきっといい方向へとつながっていくことだろうと思う。
 育てる。楽しいことばかりではないけれど、育てることには無上の喜びがある。

 個人的にはプランターにキャベツを植えて、それからモンシロチョウを育てることを強く強くおすすめする次第であります。(星の個人的意見)あなたも何かを育ててみませんか?


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神様、マジですか

 今週、我が家では急展開があった。ショッキングな出来事があり、しかもダブルで来たのだ。
 「神様、マジですか。」
 本当にそう思った。その衝撃に押しつぶされそうになったわたしだった。でも、マジなのだ。まるで現実ではないような、そんな現実感さえないような急展開。
 ここまで書けばだいたい予想がつくだろう。そう、祖父母のことなのだ。
 星さんのじいさまは腸捻転で緊急手術をして大変だったとさ。で終わった前々回の記事だったが、あれから祖父はどうなったかと言うと、生きております。生きておりますよ。精一杯命の限り生きております。近況としては、あれだけの急展開だったからだろう。せん妄になった。そして、これは急展開とはあまり関係はないが、体が弱ってほぼ歩けなくなったのだ。これではおそらく以前のように自宅で生活することは無理だろうと思われるほど体が弱ったのだ。昨日、病院で特別に祖父と面会させてもらえたのだが、せん妄だとされる症状をひたすら訴える祖父にわたしたちは驚かされた。現実にはありえないような知覚体験をしているのだった。「そんなことあるわけないよ」と禁句を連発する祖母の隣でわたしと母は必死の思いでフォローに回ったのだった。「ばあさん、ぶち壊しにする気か?」とあきれとかすかな怒りが交錯していたわたしと母だった。
 祖父と話をして思ったことは、過去には機嫌が悪くなると平気で悪態をついたりしたこともあったが、何か憎めない人だなぁということだった。どうやら祖母が家出して行方不明になったという妄想を抱いているらしく、しきりに祖母のことを心配していて、警察から自分のところへ連絡が来るのではないかと思っていたようなのだ。それから、わたしと母のことも心配していて、自分は元気にやっているから大丈夫だと言って、自分のことよりも家族のことを考えて思案し心配していたようなのだ。何て家族思いの人なのだろう。自分が苦しい状況にありながらも、せん妄になりながらも、自分のことよりも家族の心配をしている。そんないじらしい祖父を見ていたら、何かじんわりした温かい気持ちになってきて、たしかに今こんな状態だけれど、生きていてくれてよかったなぁと改めてわたしは思ったのだった。
 それから祖父は自宅へ帰りたいというところが本音なのだろうに、祖母が体調が悪くて面倒をみられないから施設へ移ってほしいというわたしたち家族の願いを嫌がることなくすんなりと受け入れてくれたのだった。この時にも自分のことではなく、祖母のことを考えている祖父なのだ。あれだけいつも夫婦喧嘩が絶えなかったのに、小競り合いばかりだったのに、祖父は祖母のことを愛しているのだ。それがひしひしと伝わってくる。それにひきかえ祖母ときたら、言うことなすことすべて五歳児よりも悪い。精神年齢が幼すぎるのだ。小さな子どもがおばあさんになったような、そんなわがままで自己本位な祖母なのである。
 ショッキングな出来事の二つ目は、祖母の命があと一年ももたないと医者から宣告されたことだ。これはわたしが祖母と一緒に病院へ行って医者から直接聞いたので、伝聞などではないからわたしにとってもショックは大きかった。星さんのばあさんは一年以内に死ぬんだとさ。マジか!?それを医者から聞いた直後はあまりのショックに現実感があまりなくて打ちのめされなかったけれど、帰りの電車で「この人はもう一年後には生きていないのだ」と冷酷な現実を喉元につきつけられてだんだん実感として心に衝撃がじわじわ広がってきたのだった。祖母は人間として成熟していなくて、まるでちっちゃい子どもみたいな人なのだけれど、いつまでも生きているものだと勝手にわたしは思っていた。これからもこれからも祖母は死ぬことなく生きているんだ。まるで空気のようだった祖母の余命宣告だからだったのか、妙な違和感を感じたのだった。この現実をまだ受け止め切れていないような感じである。医者はああ言っていたけれどそれが現実には起こることがないようなそんな受け止め切れていない感じである。人はみな死ぬ。いつかは死ぬ。それは言われるまでもなく知っていることであり、わかっていることだ。でも、実際に「一年以内」と現実をつきつけられるとどう対応したらいいものか言葉を失う。祖母の死はこうしている間にも一刻一刻と近付いている。
 祖母の死が近いことを受け止め切れていないわたしだが、それでも祖母には真面目な顔をして「残された時間をどう生きるかですよ。後悔のないように生きてください。」と懇願するのであった。もう治療をするという段階ではない祖母であるとわたしは思う。残されている治療は輸血くらいしかないのだ。それか、苦しむこと確実の化学療法をして一年あまり長く生きるか。しかし、祖母はもう90歳である。医者も90歳の人に延命として化学療法をすることをおすすめできないと言う。しかも、化学療法をするとなると家族の全面的なバックアップが必要になる。そこまでやって一年どうしても長く生きたいのか。その場で即答できなかったわたしたちは「考えておきます」と言って病院を去ったのだった。
 こんな祖母だから状態の悪くなった祖父を介護できるわけもなく、また精神疾患のあるわたしに介護ができるわけもない。だから、祖父は施設に入所することになったのだ。
 これら二つの衝撃的な出来事について書いてきた星である。なかなか今回のことはインパクトがあって自分の中でまだ消化しきれていない。
 でも、生きていかなければならない。どんなに我が家に急展開があり、苦しくなろうとも愛猫ルルはカリカリを食べ、昼寝をし、うんこをしている。そうだ。そうなのだ、わたしたちもルルと同じように生きていかなければならないのだ。それが生活というものであり、人生なのであるから。

 神様。神様はわたしに何を教えてくださろうとしているのでしょうか。何か言葉では言い尽くせない大切なものを教えてもらっているような、神様からの最高の授業を受けさてもらっているような、そんな気分です。
 神様、わたしはそれでも生きていきます。力を与えてください。導いてください。


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誰もほめてくれなくても神様はすべてわかっていてくださる

 わたしは人からほめられるのが好きだ。と言うよりも、その原動力によって生きていると言ってもいいかもしれないくらい、他人の承認や賞賛に依存している。
 多くの人が他人からの承認を求めて日夜苦闘していることだろうと思う。他人から「いいね」「すごいね」「さすがだね」「よくやったね」と言われたい。それが人間としてのさがのようなものではないか。
 でも、わたしは一大決心をした。SNSをやめたのだ。Twitterにブックメーター。両方やめたのだ。検索エンジンで「星大地 キリスト」と検索すると、過去のTwitterとブックメーターの情報がもうアカウントは削除したのに出てくる。それらを見て、「あぁ、わたしはSNSを卒業できたのだ」と我ながら思う。もちろん一抹の寂しさを覚える時もある。しかし、やめたのだ。やめて、新しく歩いていくのだ。
 わたしがSNSをやめたのは、それらに費やしている時間がもったいないと思えてきたのがまず理由の一つ目。二つ目には他者からの承認に依存することから脱却したいというのが理由である。
 考えてみれば他者からの承認に依存するということは、他者からの評価がすべてであって、自分の価値がそれによって変動し続けることを意味する。それがもっと病んできて徹底されると、他者に迎合する生き方をするようになる。つまり、いつも自分がどうしたいかではなく、他人からどう思われるか、どう見られるか。それが人生の基準になってしまうのだ。「インスタ映え」という言葉があるけれど、自分がこれをやりたいからやるのではなく、人から羨ましがられたりするためにやるのである。
 最近驚いたのは何と「インスタ映えする家」というキャッチコピーがのったチラシが入ってきたことだ。そう、インスタグラムを研究して、どういう家が一番映えるか研究して、そんな家を売り出しているのである。こうなったら世も終わりではないが、何か倒錯した欲望をそれからわたしは感じる。自分がこういう家に住みたいから自分好みの家を建てるならわかる。けれど、そのインスタ映えする家は自分の満足もあるのだろうけれど、眼目は人に見せることにあるのだ。わたしは幸せですよアピールをして多くの「いいね」を押してもらうために家を建てるのだ。それって一体幸せなのだろうか。わたしはそこに疑いのまなざしを持ってしまう。
 わたしは変わりたいと思った。承認欲求をすべて完全に葬り去ることは到底できないけれど、すこしはそれへの依存度合いを減らすことはできるのではないか、と。
 変わるにはどうしたらいいのか。どうすればいいのか。冴えない頭で考えていたらこんなことを思い付いた。
 他者からの承認欲求を、他者でありながらも神からの承認欲求に置き換えればいいのではないか。こんなことを考えてみた。正直言うとわたしは最近信仰が弱くなってきている。一応、というか毎週の礼拝と教会での集会には欠かさず行くことができてはいる。けれど、何か冷めているというか、中途半端というか、中だるみというか、とにかくはっきりとしないのである。
 要するにわたしには祈りが足りないのだ。神様のことを毎日一分くらいしか考えていない。一日は二十四時間もあるのに一分しか考えていない。何ていいかげんな信仰なんだろうと自分でも思う。でも、時間が長ければいいというものでもない。いかに心をこめて神様に向き合うことができるか。すべてはここにかかっている。
 ともかく承認欲求を人間ではなく、神に向けるのだ。神様に認めてもらうという、承認していただくということなのである。神様。神様はわたしを丸ごと承認してくださっている。しかも、人間だったら絶対に受け入れてくれないだろうわたしの醜い部分や欠点なども、それすらも受け入れてくださっている。人間の承認は気まぐれだ。してくれる時もあればしてくれない時もある。でも、神様はいつだってわたしを全面的に全存在をかけて承認してくださっている。神様はとてつもなく優しくて、とてつもなく大きくて、とてつもなく器が大きい。クリスチャンによっては、神様というのは厳しいお方で罪を犯すと罰せられるお方だということを強調する人もいるけれど、たしかにそういう面もある。厳しさもある。けれど、それを含めて神様は愛のお方である。
 人間はいつもわたしが承認してほしい時に承認してくれるわけではない。特に承認してほしくなくても、ほめてくれるときもある一方、承認を渇望している時に限って、喉から手がでるほど承認がほしいのに一向にしてくれなかったりする。人間の承認は気まぐれだ。だから、これをすべてにしてしまうと他人にどこまでもどこまでも振り回されることになる。だからこそ、人から承認を求めること自体を全面的に否定するわけではないが、それに依存することは考えものなのである。
 承認を他人に求めながらそれが得られない時、いや他者から承認されてもされなくても、神様はあなたのことを全面的に承認してくださっている。それでいいじゃないか。
 そもそも人間の承認は感情によって左右される移ろいやすいものだし、わたしのことを、わたしがなしたことを本当の意味でわかってくれているかどうか、と言えば実のところ怪しかったりする。もちろん、深い理解による人間による深い承認があることもわたしは否定しない。しかし、神様からの承認はもっと深いものなのだ。いいとか悪いとか、快とか不快とか、そんなつまらない次元ではないのだ。無償ではかりしれないほどの愛をわたしに注ぎ込むかのように承認してくださる神様。圧倒される。その次元の違う承認に圧倒される。だから、大丈夫。全世界敵に回しても神様はあなたの味方なのだから。これ以上心強いものはない。
 と書いてきたわたしだが、このことを理屈としてはともかく実感できていることが最近少なくなってきている。
 「神様からの承認があれば人間からの承認なんて要らないよ」とまで言い切ってしまうのは言い過ぎだが、何となくその気持ちもわからないことはない。世を捨てて神様からの承認だけで生きる。そんな世捨て人の気持ちがほんの少しわかるまではいかなくても感じることができたように思う。
 だから、ほどほどに人間からの承認も求めながら、でも基本は神様から承認されているから大丈夫。そんな姿勢で人生に臨めたらと思う。人からの承認に依存しすぎることなく、神様からの承認に依存して、とは言うものの世捨て人にはならないようにしながら。立ち位置が少し難しいが、こんな風にわたしは思っている。
 今回は、人からの承認と神様からの承認について考えを深めることのできた有意義な執筆となり、気づきもたくさんあって良かったと思う。
 もっと祈ろうと思う。そして、神様からの承認を、それも本当に深い承認を味わうことができたら人生はもっとより良いものになっていくのではないだろうか。そんな気がする。


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