苦難の意味-悪の問題についての考察

 人間誰しも欲望があり、それは歯止めをかけないと、どこまでも際限なくエスカレートしていき、貪欲に飽くことなく要求し続けることになる。
 事あるごとにわたしたちは神に要求する。
「お金をもっとくれ」
「病気を治せ」
「痛みを与えないでくれ」
「死にたくない」
「不老長寿にしてくれ」
「永遠に生きたい」
 そして、極めつけは、
「なぜ最初から天国にしてくれなかったんだ」である。特に一番最後の要求はクレームの中でも特大のものだ。神様の万物創造という行為を否定しているのだから。この要求は核心をずばりと突いている。神様であってもおそらくこれに応答することは難しいだろうと思う。人間の知恵が究極まで高まったがゆえに可能となった要求とも言える。
 しかし、わたしたち人間にこの要求をする資格があるのかどうか、というと無いのではないかという気が最近してきた。理屈としては一本通っている。けれど、人間の立場というものをわきまえていないような、神への謙虚さがまったく感じられない暴挙に出てしまっているような、まさに思い上がっているのである。
 神がどのようにこの世界を創られようとそれは神の自由であり人間がとやかく言うべきことではない。それと同様に、被造物をどう創られようとそれも神に委ねられていることなのである。
 たとえば、二人の人間がいるとしよう。一方は頭脳明晰だが、他方は一般的な人々よりも劣っている。この場合、神は平等に二人の人間を創造されるべきだったのだろうか、という問いが発生するのだが、それは神の領域であって人間がとやかく言うべきことではない。そこには神の深い意図や人智を超えた思いなしがあるのではないかと推察すべきところである。神のなさったことを否定して、神はこうすべきだったと人間の「べき」を主張すること自体が傲り高ぶっているのだ。「神が創造された。以上」。なのではないか。もちろん人間には不満がある場合もあることだろう。しかし、人間の「べき」の方が正しかったと声高に言うことは一体創られたものの取る態度としていかがなものなのか。
 悪の問題についてもこのような態度で臨むことが望ましいのではないかと最近のわたしは思う。神が全宇宙を支配し治めておられる。この素朴な信頼に立つ時、すべての出来事が意味を帯び始める。
 出来事においても到底容認できないような事柄がある。東日本大震災の津波などはその典型であろう。しかし、わたしはそれに深い神の思いなしがあったのではないかと思うのである。無理があることは重々承知である。その上でそのおびただしい死に何らかの意味があったのではないか、と思いたい。そうでなければ彼らの死が無意味だったということになってしまう。そんなことはあってはならないし、あるはずもない。だから、神にとってその死には意味があって、それがわたしたちには隠されてはいるものの無意味だということはないのである。
 意味はわたしたちには隠されている。けれども、何らかの意味があったことは確実である。なぜなら、神は愛であるからである。愛のお方が罪もない人々を津波で流し去る。矛盾している。たしかに矛盾してはいる。しかしながらそこに何らかの意味はあった。人間の快・不快、善・悪、生き死になどの価値観そのものを超えた何か深い思いなしがそこにはあったのだ。神は人間の思いなしや理屈を超えられている方ではないかと思うのである。
 わたしが大切な人を亡くした時にこの理屈を受け入れることができるかどうか、というのはまた別問題である。ショックのあまり神を呪ったり、もしかすると信仰を捨てることになるのかもしれない。しかし、そこに、その死に何らかの意味があるということを信じる時、わたしは自暴自棄になることなく、神を呪うこともなく、救われるのではないかと思う。その時になってみないとわからないが、そこに信仰を持つ者の強さがあるのではないだろうか。と述べながらもわたしが家族を津波で亡くしたとしたらこのように思えるのか、それは定かではない。けれども、人間にとって意味があるかどうかというのは死活問題である。意味をそこに見つけることができれば苦難に遭っても耐えていけるのではないだろうか。
 そして、最終的にこの覆われたヴェールは終末に最後の審判においてイエスさまによって明らかにされる。そこでようやく苦難の意味が解き明かされる。わたしはその時を心待ちにしている。すべてがわかるのだから。それがいつ来るのかどうかわからないのが難点だが、それでもいつかは世の終わりがやってくる。
 苦難には意味がある。そして、その意味は終末に解き明かされる。わたしはこれだけで今すぐ苦難の意味がわからなくてもいいんじゃないかという心境に変わりつつある。少なくとも苦難が無意味でないことがわかっただけでも、以前のわたしとは大きく異なっている。
 そうなのだ。苦難には意味があるのである。あとはイエスさまにすべてを委ねようと思う。決して悪いようにはされないはずだ。そこにわたしの希望がある。


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