1/70億のチェリーパイとアップルパイ

 わたしが人間関係がうまくいかなくなると思い出す言葉がある。それはたしか高校の時、化学の先生が授業で言ってくれた言葉だ。
「みんなこれから恋愛とかで失恋することがあると思う。でも、絶対に死んじゃだめだからね。そんな時はこう考えるといい。日本に男と女がだいたい半々として6000万人ずついる。その6000万人のうちの1人にフラれただけなんだって冷静に考えてみるようにして。だから、1人にフラれただけなんだから、人生終わりではないんだよ。6000万人全員にフラれたなら仕方ないけど、それは物理的に無理だしありえない話だよ。だからもし失恋したらこの話を思い出してね。」
 その時はこの教師何言ってるんだくらいにしか思わなかったけれど、それから20年近く経ってもう40歳手前になったわたしには何だかこの言葉が人生の賛歌のように思えて、いいことを教えてくれたなぁって思うんだ。化学の授業がどんなだったかは何も覚えていないけれど、この話をしてくれた時の先生の表情は今でも記憶の中に残っているんだ。
 この先生の話をもっとスケールを広げて考えてみると、世界には70億の人がいる。それだけの人たちと知り合って関わり合いを持つようになるのは物理的には不可能だけれど、何だかそれがわたしには希望の光のように思えるんだ。
 わたしが人間関係がうまくいかなくて悩んでいるとしても、何だ、それは1/70億とうまくいっていないだけなんだと思い直すことができる。もしも、もしもだけど時間が永遠で世界中の70億人全員と会って話ができたとしたら、少なくともわたしと気の合う人が1万人はいると思うんだな。もしかすると、それでも少なく見積もりすぎているかもしれなくて、実際はそれよりも多くの人なのかもしれない。
 考えてみればわたしが出会った人なんて、この40年近い間だけであってもせいぜい数百人だろう。いや、もうちょっといって1000人くらい? その中で過去に友達になった人が数人いるのであれば、割合的に考えれば、70億全員のうち意気投合する相手というのは1万人なんてものではないかもしれない。
 だから、今のわたしの世界なんてものはすごくちっぽけなんだ。そのちっぽけな世界の中で一人とうまくいかない。で、悩んでる。何かわたしって小さい人間だな。
 考えてみればわたしは自由だ。どんな友達と付き合ってもいいし、どんな彼女がいてもいいし、一緒に生活する人だって自分で選べる。まさに自由。
 そのうまくいかない一人との関係にこだわるのではなくて、もっと目を見開いて広い世界の可能性を夢見てもいいのではないか、という気がしてきた。世界にその人とわたししかいなかったら、その人とうまくやっていくことを考えた方がいいんだろうけれど、現実はその人だけではない。
 ともすると人間関係で悩むときというのは、閉鎖的になりがちである。というのも、まるで世界に自分とその人しか存在しないように思えてきて、その人に嫌われることが破滅を意味するかのように。でも、決してそんなことはない。うまくいかなくなってしまったものの関係を改善したいと思う時には、自分自身が折れたり譲歩したりして歩み寄ることもいいかもしれない。でも、それでもうまくいかないとしたらこの関係を続けていくのか検討してみてもいいと思うのだ。
 人間関係というのは、好き嫌いが大きく影響してくるものだとわたしは思う。それはチェリーパイよりもアップルパイの方が好きだというような好みの問題だ。
 相手が自分にチェリーパイのようなあり方を求めたものの、わたしはアップルパイでしかいられない。だとしたら関係を続けていくには、わたしがチェリーパイになるか、相手に譲歩してもらってアップルパイでもいいと思ってもらうかの二者択一しかない。しかし、相手はチェリーパイの方がアップルパイよりも好きなのだからアップルパイであるわたしに合わせるのは大変だし、あるいはわたしが本来はアップルパイなのにチェリーパイになるのも一苦労を要するのだ。
 だから、チェリーパイでなければ嫌だという相手とどうしても今の関係を続けたいのであればこちらが折れるなり何なりすればいいのだけれど、そこまでして関係を続けたいと思えないのであれば、距離を置いたりして関係を見直してもいいんじゃないかって思う。世界は広いからわたしのアップルパイ的気質をありのままに受け入れてくれる人もおそらく探せばいることだろう。ただ、今のところ出会っていないだけでね。
 そういうわけで人間関係というのは好き嫌いの側面が強いから、どんなに紳士的で妥当性があって思いやりのある行動を取っても、それが気に入ってもらないということが往々にしてあるのだ。たとえわたしが万人受けする味のアップルパイだったとしても、やはり現実にはチェリーパイでなければ嫌だという人はいるし、りんごが嫌いだっていう人もいる。だから、難しい。が、だから、だからこそ、面白いと思う。
 万人受けする人がいるとしても、それはすべての人から受け入れられることを意味しないんだ。必ずそういう万人受けする人が嫌いな人が一定数いる。だとしたら、わたしにできること。それはわたしのありのままを認めて受け入れてくれる人を粘り強く探すことである。わたしの欠点をも許容範囲内として受け入れてくれる人を探すことである。
 ありがたいことにこの地球上にはたくさんの個性豊かな人たちがいる。それも70億人も。だったら、その全部と知り合うことは無理でも、できるだけ多くとコンタクトするのがいいんじゃないか。そして、わたしがアップルパイであることの長所と短所を受け入れてくれる気の合う仲間や伴侶を探すんだ。
 だから、たとえ誰かとの人間関係がうまくいかなくなっても人生の終わりではない。むしろ、新しい関係へと開かれていて、希望の光が燦々と降り注いでいるんだ。と言いながらももしかしたらこの人生の旅路でそうした人と出会えないかもしれない。でも、きっときっと「類は友を呼ぶ」との言葉通り神様から仲間や伴侶が与えられるのではないか。
 1/70億の少し自意識過剰なアップルパイのわたしがこれからどんな人と出会って、どんな関係を紡いでいくのか。そして、自分がアップルパイであることを肯定していけたらと思う。アップルパイはチェリーパイにはなれない。でも、だからこそ、アップルパイにはアップルパイの、チェリーパイにはない良さがあるのだ。

手放す

 わたしたちはともすると、何かを手に入れること、獲得することばかりに目が行ってしまい、足し算以外の発想ができなくなる。どうすればより多くのことができるか。どうすればより多くのものを手に入れることができるか。たしかに、こうした足し算の発想も悪いものではなくて、人生に刺激を与えてくれるものだし、足すことが何もない人生というのも寂しいものではないかと思う。何も刺激がない人生というものは、おそらく倦怠感に覆われた無気力なものとなることだろう。
 けれど、足し算ばかりではうまくいかないんだな、と最近わたしは気が付いた。人生には引き算も必要なんだ。これまでのわたしは足し算ばかりしてきたと思う。とにかく、プラス、プラス、プラスと足し続けなければ、つまり無限成長していかなければならないんだと思い込んでいた。
 そんなわたしに神様から与えられた言葉(すべては神様からのギフトだと思う)が「手放す」という核心をついた言葉だったのだ。この言葉と出会ってしばらくした時、衝撃が段階的にじわじわやってきたことを今でも思い出す。手放す? というか手放していいんですか? いぶかしげに思ったわたしである。この言葉がキリスト教的な言葉ではなくて、異教的なものであったことも一つの要因かもしれない。いわば東洋的な、インド的な発想。そういうわけか、最初はこの言葉となじめなかったわたしである。しかし、だんだんとヨガのDVDに収録されている瞑想に従って瞑想をやっていくうちに、何となくだけれどその意味するところがわかってきたのだ。
 わたしたちが何かの問題にぶつかって悩む時、解決法はいくつもあると思う。でも、そうした問題や悩みに共通して言えることは、そのことにその人が執着しているということなのだ。わたしはこのシンプルな原理は的を射ていると思う。怒りも、不満も、そうしたネガティブな感情も全部そうしたものに自分自身がしがみついているから、要するに執着しているから、とらわれているからそれらの感情に縛り付けられているのである。
 それなら、ただシンプルに手放せばいいんじゃないか。そんな気がしてきたのだ。
 キリスト教的にはこれらのネガティブな感情に対しては祈ることを薦めると思う。祈って、祈ってどこまでも祈って、神様に感情のすべてをさらけ出す。そして、その先に毒をすべて出し切ったすがすがしい自分がいる。神様に全部委ねる。任せる。気が付くと、自分の中であれほど渦巻いていた悪感情はどこかへ行ってしまっていて、残るのはすがすがしい気持ちだけ。祈り抜いた先に起こる奇跡と言ってもいいかもしれない。
 一見、キリスト教の方法とこの異教的な「手放す」という方法は違うように見えるかもしれない。けれど、どちらもわたしには手放しているように見えるのだ。方法こそ違えど、どちらも悩みや悪感情を手放せているのである。だから、「お好きなほうで」と言いたいところなのだけれど、わたしの場合、この異教的な瞑想の手放す方法のほうが手っ取り早いのだ。両方やってみて、明らかに瞑想で手放す方がわたしには合っていて楽なのだ。クリスチャンのくせに祈って解決しないのかよ、と言われるかもしれないが、まぁ、向き不向きはいろいろある。クリスチャンが瞑想するのもメリットが大きいのであれば十分ありだと思う。
 引き算の発想を得たことによって、わたしは自分自身が軽くなったような気がする。手放すという言葉を知って実践し始めたせいか心がより落ち着いてきたように思う。足し算ばかりだとどんどん体が重くなってくる。頭も重くなってくる。知識や物など、獲得した物で自分自身が圧迫されて、息苦しくなってくる。と言いながらも、何かわたしが大規模な断捨離をしたとかそういうことはないのだけれど、それでも瞑想するようになったことによって自由になってきた。瞑想というのは心の断捨離ではないかと思うのだ。自分の心の中にたまったいろいろな思いを整理して要らないものを手放す。その作業をしていると心地良くて頭がスーっと軽くなってくる。
 必要なものまで手放してしまうのはやりすぎだと思うけど、必要最小限でいいんじゃないのっていう気もするのだ。まだわたしは知識の断捨離をするまでのレベルには到達していないかもしれないけれど、もう必要なものだけでいいかなっていう思いも浮かびつつある。前に通っていた教会の牧師が物忘れの激しい信徒さん(この人は礼拝に来ても出席者名簿に自分の名前が書けなかったし、荷物をどこに置いたかいつも忘れてしまって毎回探し回っている人だった。それからしばらくしたらその人は介護施設に入所したらしい。おそらく認知症だったのだろう)にこんなことを言っていたのを思い出す。「イエスさまのお名前だけ覚えていれば大丈夫ですよ」と。
 だから、知識を求めて向上する心を持ちながらも、本当に自分にとって必要なことだけをインプットしていくくらいでいいんじゃないかって思うようになってきたんだ。別に歩く百科事典になれなくてもいい。ただ、しっかりと知りたいと思ったことは知っていく。そして、地道にコツコツと勉強して自分自身を高めていく。そして、要らないと思ったものは手放していく。そうすると洗練された人になっていくだろうな。自分が何かを知らないということも余裕を持って眺められるようになりたい。
 手に入れつつ、手放していく。足し算ばかりではなく引き算も時にはしていきながら。洗練されたしなやかな人になりたい。

健康は当たり前ではない

 風邪をひいたり、病気になったりすると思うこと。それは健康がありがたいということである。普段、言うまでもなくわたしを含めた多くの人にとって、健康は当たり前のものでまさに空気みたいなもので、そのありがたさをほとんど感じることがない。しかし、いったん、それが失われるやいなや、それがどれだけの恵みであったかということに気付かされる。こうしたことはみんな分かってはいる。けれど、常日頃からこのことを自覚している人というのは、少数だと思うのだ。
 どうしてこんなことを冒頭に書いたかと言えば、星が何か病気になったからだと思うのが自然だろう。けれど、そうではない。わたしはいたってピンピンしていて快調なのだ。じゃあ、どうして? 身近な人が怪我をしたからなのだ。
 その怪我をされた人は教会でわたしがお世話になっている方で、ここ2、3年だろうか。一緒に教会の奉仕としてお掃除をやってくださっていた方なのだ。奉仕予定表通りに3ヶ月に1、2回ある奉仕のお掃除をその方とわたしはやっていた。わたしが掃除機をかける係で、彼女はトイレを掃除する係。役割分担はバッチリで、それは気持ちよくお掃除をしてきたんだ。そんな彼女が先日大怪我をしてしまった。自宅の台所で転倒したらしく、足を手術が必要なくらい激しく骨折してしまったのだ。そして、今入院しているとのこと。
 そのことを牧師夫人から聞かされたわたしはあまりにも衝撃が大きすぎて、途中あたりからその話の内容が右から左へと流れてしまったくらいなのだ。驚きが大きいと、唖然としてその情報を受け入れるまでに時間がかかるものなのだ。言うまでもなく、それを現実のこととして受け入れるには少しばかり時間がかかった。現実感の欠如というか、何というか。あのSさんが。本当に? 本当なの? しかし、それは本当のことであって受け入れなければならない。その話を牧師夫人がわたしにしてくれたのは、6月の終わりにわたしとSさんがお掃除をする当番になっていたからだった、と回らない頭ながらもわたしは了解したのだった。そして、牧師夫人がわたしと一緒に少なくともその日の教会のお掃除は一緒にやってくれることになり、わたしは感謝の言葉を述べ、牧師夫人からの話は終わったのだった。
 教会の礼拝後の交わりも終えて、自宅にやっとついて、食事も終えて一段落して、もう午後の1時頃になっていただろうか。わたしはSさんに電話することにした。牧師夫人からの話の中で「手をついて」というワードがでていたようだったので、もしかしたらSさんは両手とも使えないのかもしれない。だから、電話することもできないか、難しくて出てくれないかもしれない。それでも、彼女のことが心配だったわたしは電話してみたのだった。ダメもと。話ができるといいんだけどな、と思いつつかけた。15回くらいコールしただろうか。出てくれない。やっぱり電話に出られるような状況ではないのだろうか。まぁ、着信履歴は残るからわたしが電話をかけたということ、彼女のことを気に掛けているということは分かってもらえるだろう、と思いながらつながらない電話を切った。
 それから15分くらい経った。彼女から電話がかかってきた。電話に出ると、彼女の声は想像通り浮かない感じだった(それは当たり前のことだ)。牧師夫人から話を聞いて驚いたことをわたしは彼女に伝えた。そんな彼女が何を言ったかというと、開口一番、教会の奉仕のお掃除ができなくなったことを申し訳ないとしきりに言うのだ。「好きで怪我したわけではないんですから」とわたしはフォローに回ったものの、律儀で責任感の強いしっかり者の彼女は「申し訳ない」と言う。そして、自分が大きな怪我をしていて大変だというのに、ほとんどかかりっきりでわたしのことを心配してくれて、逆にこちらが申し訳ないと思ってしまったくらいだったのだ。人間的に成熟している人というのは、こういう人のことを言うのだなと改めてわたしは彼女の人間性に打たれたのだった。
 そして何だかんだSさんと話をしていたわたしである。わたしは彼女が70代ということもあって、いつかお掃除を一人でやらなければならなくなる日が来ることを覚悟していたことを彼女に伝えた。まさかこんなに早く彼女と一緒にお掃除ができなくなる日がやってくるとはわたし自身思ってもいなかったからだ。考えてみれば、永遠にわたしとSさんが教会のお掃除をしていけるなんてことはなかったのだ。いつかはそれが続けられなくなる終わりの日がやってくる。その日がやってきたんだ。彼女と一緒にお掃除をしてきた日々を少し感傷的になりながらも思い出してみると、それは素晴らしい日々だった。彼女は教会のために、おそらくわたしとペアを組む前からお掃除をしてきたのだと思う。それも何年も、もしかすると何十年も。そんな彼女にわたしは頭が上がらない。そして、彼女とわたしの関係がどうなっていくのかは分からないけれど、それでもわたしはわたしなりに彼女に関わっていけたらなと思っている。できる範囲で無理をせず、ぼちぼちとね。
 Sさんの怪我を通して、わたしは健康のありがたさを感じた。健康って当たり前ではないんだな。歩けること、自宅で生活できること、当たり前のことが当たり前にできること。全部、当たり前のことではなくて恵みなんだ。本当、そう思う。
 近いうちにSさんは手術をする。わたしはそれがうまくいきますように、そして、その後のリハビリもうまくいって、また歩けるようになりますように、って祈っているところなんだ。
 わたしにできることと言ったら、Sさんに電話をすることと、祈ることくらいだけど、彼女の回復を本当願っている。

 神様。Sさんをお守りください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

言い返すのではなく

 今朝は5頃起きたものの、何もやる気が起こらず、頭の中で昨日の出来事をこねくり回していた。が、そうしても一向に事態は良くなるわけでもなく、ただどうしたものかとうだうだ考え続けていたわたしなのであった。
 わたしが人生で行き詰まったり、困ったりすると必ず開く本がある。デビッド・D・バーンズ『いやな気分よさようなら』である。この本は、特にうつになりやすい人にとって最適な本で、大抵のお悩みについていい処方箋を出してくれる。そんなわけで、今回もこの本を読んでみることにしたのだった。
 本を読む前のわたしの精神状態が10点中4点くらいだったとすると、それが7、8点にまで読み終える頃にはなっていた。ありがたい。この本との相性がいいこともあるかもしれないけれど、それにしてもこの本はよく効く。
 わたしが悩んでいたこと。それは自分に向けられた批判的な意見にどう対応するか、ということだった。先ほどの本を読むまでは、このブログで批判者に対して(いや、助言者とでも言う方が正確かもしれないが)大反論をしようかと考えていたくらいなのだ。そして、スカっとする。そんなことを考えていた。けれど、バーンズ先生の文章を読んだらそれが一番良くない対応の仕方だと言うのだ。どう良くないかというと、それをやってしまうと相手との人間関係が壊れてしまうし、何ら建設的な問題解決法ではないとのこと。

 批判的な意見に対し防衛的、報復的なやり方で自分を守っていたら、将来の建設的な関係はもちにくくなるでしょう。だから、怒りが爆発して一瞬気持ちよく感じるかもしれませんが、長い目でみれば良い結果は生まれません。それにどんな批判を相手が言いたいのかを学ぶ機会を失ってしまいます。そしてさらに悪いことには、あなたに抑うつのフラッシュバックが起こり、自分の感情を爆発させ自分を罰してしまう結果になります。(デビッド・D・バーンズ『いやな気分よさようなら』p147)

 まさにわたしは防衛的、報復的なやり方で自分を守ろうとしていたのだった。それではまずいとバーンズ先生は言うのだ。たしかに自分に置き換えて考えてみても、そうした態度を相手からされれば、よりこちらの攻撃もエキサイティングすることは言うまでもないことだし、建設的な話を相手としたり、良好な人間関係を発展させていくことは難しい。それから、相手の批判が適切なものだった場合、それを「何を言ってるんだ」と聞く耳を持たずにただ反発するだけでは、自分にとっての貴重な成長する機会をも逃してしまうことになる。せっかくのチャンスを失ってしまうのだ。だからこそ、開かれた姿勢が必要なのだ。批判に対して開かれているかどうか、というのは大きい。批判をすべて無視する時、人は独りよがりな独裁者となる。
 考えてみれば、批判というのは、相手を良くしようと思って向けてくれている言葉ではないか。批判の中でも助言を超えたクレームでさえも、相手にこうなってほしい、こうしてくれたら、という思いを込めて投げ掛けているものなのだ。だから、そうした言葉に対して「何言ってるんだ」みたいな言葉を返そうものなら、その場の雰囲気は険悪になって収拾がつかなくなる。それは相手の思いを無視したからだ。相手の希望、願い、思いを顧みることをしない。それはつまり、その批判している人を尊重できていないことを意味する。大切にできていないのだ。
 人は誰しも自分のことを大切にしてほしいと思う。大事に扱ってほしいと願う。それがなされない時、不満が生まれるんだ。もっと自分のことを大切に扱ってほしいという欲求がほとばしるんだ。だから、相手にこうしてほしい、これをしないでほしいと訴えるのだ。わたしはそれが批判であり、要求であり、クレームであったりするのだと思う。そして、その思いが無視される時、人はどのような行動を取るかと言えば、逃走か闘争をするのである。逃げるか、闘うか、のうちのどちらかを選ぶんだ。
 しかし、ここでバーンズ先生は第三の道があることをわたしに教えてくれた。逃げたり、闘ったりするのではなくて、相手と和解して共に歩んでいく道をである。批判を受け止めて、自分に貴重なことを教えてくれたことを相手に感謝し、むしろ自分が相手を傷つけてしまったこと、落ち度があったことを謝る。バーンズ先生はこうしてみたらどうか、って本の中で言うんだ。
 わたしは感動した。わたしがもし誰かを批判して、その人からこんな対応をしてもらえたらすごく嬉しいし、その人と今後も良好な人間関係を築いていきたいと思うよ。反対に、「お前は何言ってるんだよ。間違ってるのはそっちだろ」みたいな言葉を返されたらもうその人とは人間関係を終わらせたいなって思うだろうな。この対応の劇的な違いは一体何?、ってなくらいバーンズ先生の対応は良心的であって、優しさがあって、さらには建設的だ。
 この文章、彼も読んでくれてるかな。だとしたら、全部手の内を明かしてしまっていて、わたしの弱いところをさらけ出しちゃっているけど、まぁいいかなって思う。
 素晴らしい考え方ややり方があったら自分で独り占めしているのではなくて、みんなでシェアしたくなってくるんだ。そして、わたしの影響力は微々たるものだけれど、少しでも誰かが幸せになってくれたら嬉しいな。
 てなわけで、わたしのピンチを毎回救ってくれているこのデビッド・D・バーンズ『いやな気分よさようなら』。ぜひとも一家に一冊の名著であります。よかったら買ってくださいね(って最後に宣伝?)。いやいや、本当いい本ですから。読まなきゃ損損。

しみとくすみに接吻

 ポン、ポン、ポン、ポン。テレビの画面の向こうでは肌のしみとくすみに悩んでいるという女性がファンデーションをつけている。その顔はみるみるうちにきれいになっていく。その気にしていると言うしみとくすみは隠れていき、問題解決。
 いつまでも美しくありたい。特に女性はそのように強く願うようで、そのお化粧している様子をテレビの前で見ていて、大変だなと人事のようにわたしは思う。
 まるで美しくなければその人の価値が減ったりなくなってしまうかのような、そんな焦りと切迫感さえ、その通販番組からは伝わってくるのだ。
 それはともかくとして、なぜわたしたちは美しい人にひかれるのだろうか。どうして引き付けられるのだろうか。わたしが思うに、それには生殖が関係していると思うのだ。生殖、つまり子孫を残すこと。アイドルが男女とも大抵若者であることは、彼らが生殖能力があることを意味している。つまり、美しい人というのは優秀な子孫を残してくれそうな人だということだ。
 こう考えるといろいろなことがスッキリする。そして腑に落ちる。わたしを含めた障害者がなぜあまりモテないかと言えば、本能的にこの人との間にはいい子孫が望めないと相手が嗅ぎ取っているのだ。
 だから、反対に高学歴者やスポーツ選手はモテるんだ。この人となら、頭のいい子どもが生まれる。運動のできる強い子どもが生まれる。と言いつつも、中にはお金のことしか考えない人もいるけれど、今言っているのは美しい人になぜひかれるのか、ということだ。少し脱線。
 うむ。美しいというのは優れていることだと言い換えることができそうだな。
 では、閉経した年齢の女性であっても美しい人にひかれるのはなぜだろう。わたしが思うには、それくらいの年齢の男女ともなれば、内面的な美しさが重視されてくるような気がする。その内面的な美しさがにじみ出ていて、外面的な美しさにもつながっている。だから、それくらいの年齢の男女関係というのは、まだわたしは推測することしかできないけれども、性的な欲求からかなり解放された本当の大人の関係ではないかと思うのだ。
 アーユルヴェーダが考える美しい人というのは心も体も美しい人のことらしい。たしかに心と体はつながっていて、本当に美しい人というのは外面だけではなくて、内面も平安に包まれ満たされているように思う。本当の美人は心も美しい。いや、心も美しくなければ本当の美人ではないんじゃないの? あるいはもっと言うなら、どんなルックスだとしても心が美しければそれで十分だとも言える。
 わたしが7時くらいに朝散歩をしていて、すれ違うおばさま達は心が美しい人がほとんどだ。わたしとすれ違う時に、それは明るい表情でさわやかな挨拶をしてくれるんだ。もちろんシニアな方々だから、若い人と比べれば容色は明らかに落ちている。でも、それを補って余りあるくらい人として素晴らしいんだ。もちろん、ただ挨拶を交わしただけだから、その人の本当の人柄までは分からないんじゃないかと疑問をあなたは呈されるかもしれない。でも、あの挨拶を返されてみたら、そういった朗らかな年上の女性と人生を共に歩むのも楽しいんじゃないかなって気がしてくるのだ。わたしは母親が66歳なんだけど、70歳くらいまでだったら十分対象年齢ですよ。素敵な方だったらそれくらいでもOKです。ただ、80代だとちょっと一緒にいられる時間が短いからだいたい70歳くらいまでの人がいいな。もちろん60、70代の女性は閉経しているから自分の子どもを産んでもらうことはできない。でも、それならそれでいいし、まぁ、なるようになればいい。姑よりも嫁の方が年上というのもなかなか味があって面白いかもしれないな。
 わたしが生涯を共に歩みたいと思った相手なら、あばたもえくぼだろうから、しみとかしわとかくすみとか、そういった一般的にはネガティブなイメージを持たれがちなものに対しても愛おしめるんじゃないかって気がするんだ。ちょっとどうかしてると思う人もいるかもしれないけれど、そういったしみとかくすみに何度もわたしは接吻するかもしれないな。しわについてもあなたの生きてきた証だから、むしろ大切にしてほしいと言うかもしれない。そうなったら、ファンデーションなんかの化粧品も必要なくなるね。
 アンチエイジングをして長生きできるのであればやるのもいいと思う。でも、美容については、大切な人が特にわたしはそういったものを求めないよ、と言うのであれば別にこだわらなくてもいいと思うのだ。それよりも、自分との毎日の生活を幸せだと感じてくれていることの方が重要だけどな、っていう意見だな。わたしはね。どんなにその人が外見的に美しくても、共同生活が不幸そのものだったら、そんな美しさ要らないよ。ま、そうなったら飾っておくためのお人形さん、あるいは自分のアクセサリーみたいな感じでしかなくなってしまうね。
 しみとくすみに喜んで接吻できる男性が増えたら化粧品は売れなくなるだろうけれど、とても幸福度の高い夫婦が増えるだろうなって思う。で、そんな夫に妻もはげてきた頭をよしよしする。そして、お互いが年齢を重ねることを祝福し合えたら最高だよ。
 しみとくすみに接吻。うむ、いいコピーだ。自画自賛かな?

PAGE TOP