心の平安

いろいろエッセイアーユルヴェーダ
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 今朝は早く目が覚めてしまって、起きたのが2時半だった。朝っていうか、夜中じゃないの? そんな声が聞こえてきそうだ。それでも、今こうして過ごせているわけだが、睡眠時間が少ないと、体が少しばかりキリキリしてくるな。血圧が上がってきて、ピリピリするというか。キリキリ、あるいはピリピリ~。星さんは大丈夫なんですかい? 大丈夫。今日は早めに寝るから。
 そんなわけで夜中の2時頃に起きたわたしは、少しばかり倦怠感を感じながらもアーユルヴェーダ的なルーティーンを開始したのだった。で、シャワーを浴びたら、もう次はヨガなんだ。2週目に突入したヨガはさすがに前にも書いた通り、ポーズがきついんだけど、何とかついていけてる。
 いつもだったら、終わりのリラクゼーションが済むとDVDを再生停止にしてテレビを切る星である。けれど、今日はかなり早起きしたから、まだ時間的に余裕があって、続きの片鼻調気法と瞑想ができそうだ。というわけで、このDVDの中に収録されているこの2つをやってみることにした。
 片鼻調気法は人生初体験で、とてもユニークな呼吸法だ。片方の鼻ずつ順番に呼吸をしていくというもので、最初のうちは不思議な感じがした。でも、やっていくうちにこういうものもあるのだなと了解した。これはこれで気持ちが落ち着く。まだ始めたばかりなので、マスターするまでには時間がかかりそうだけど、それでも第一歩を踏み出したという感じだ。
 次にやったのが瞑想。今までに挑戦したこと自体はあったものの、今一つ要領を得ることができなかった。だから、今回再挑戦なのである。DVDから師匠のHIKARUさんの指示が聞こえてくる。たしか、いいことも悪いことも手放すように、といった指示だった。手放す。わたしが最もできなくて苦手なこと。それが手放すこと。いわゆる執着から自由になるということなのだと思う。その執着を本当に手放すことができた状態というのがおそらく悟りなのだろう。悟りであり、解脱なのだ。でも、わたしはクリスチャンだから悟りとか解脱といった雰囲気に今一つ親しむことができないし、そうすることに異教的なものを感じてしまうため、今まで距離をとってきた。でも、宗教とかそういった狭い考えなしに、自分の執着を見つめ直すということが必要ではないかと思えてきたのだ。
 わたしが執着しているものはたくさんある。捨てられないものだって山のようにあるし、自分の心の中も荷物でいっぱいなのだ。それを現実的にすっきりさせるのが最近はやりの断捨離なのだと思う。でも、こわい。断捨離して、やっぱりあれをとっておけば良かったなって後悔するのがこわい。その恐怖感とまでいかなくても、後からやってくる後悔を考え始めてしまうがために、わたしはいろいろなものを捨てることができないのだ。まぁ、捨てるのはいつだってできる。行動に移すのは考えてからにしよう。
 瞑想をDVDの指示に従ってやってみた星だけれど、始まってから1分くらいでムズムズし出してくる。何もしないで座っているという体験をほとんどしてこなったせいか、ものすごく違和感を感じるのだ。そして、浮かんでくる雑念が次から次へとひっきりなしにやってくる。こんなにわたしの心は思いなしや思考や思い煩いでいっぱいだったのかとびっくりさせられる。まさに煩悩の固まりの星殿。でも、ぼちぼちやっていこう。煩悩の矢を抜くかどうかはともかくとして、やっていけば師匠のHIKARUさんに精神面でも近付いていくよ。まだ瞑想始めて1日目じゃないですか。まだまだ、これからですよ。星のすすのような汚れはこれからきれいになっていくんだ。
 足がムズムズしながらも、どうにかこうにか所定の瞑想の時間が終わり、DVDを再生停止にした。テレビが映る。通販番組らしい。知らないおじさんが運動器具をさかんにすすめていて、「これをやれば毎日元気になるよ。絶対いいから」と太鼓判を押している。顔は脂でみなぎっていて、いかにも元気そうで活力に満ち溢れていた。でも、わたしは何だかそれが本当の心の平安とはあまり関係がないもののように思えてならなかった。直前まで瞑想をしていたからだろう。静かな場所から急に人混みに出たような、雑踏に出てきたようなそんな軽いめまいを覚えたのであった。
 チャンネルを変えた。ニュースでウクライナのことが取り上げられている。何で世界はこんなに争いに満ちているのだろうと思えてくる。
 世界には瞑想が、あるいは祈りが足りないんじゃないか。そんな風に感じた。それは激しくわたしを首肯させる説得力に満ちていた。みんなが瞑想をしたり、お祈りをしたりして他者のことを思いやれば、戦争なんて起きないよね。そう思った。まずは自分の心の平安を得ることから。そして、一人ひとりが平安に包まれて、平和の炎が各自のろうそくに灯されていけば、世界は絶対に良くなる。
 わたしはクリスチャンだからお祈りをするんだけど、お祈りと瞑想って逆(かな?)のことをしているように思うんだ。クリスチャンの祈りが神様との対話であるのに対して、瞑想は自分自身を浄化していく作業。と言いつつもわたしの神様へのお祈りも研ぎ澄まされていけば、自分自身を浄化していく祈りへと成長していくのかな。まだ未熟なわたしにはそこんところが分からない。でも、行くところまで行ったら、同じ聖なるものへと向かっていくのかもしれない。それがわたしは神様だと信じているのだけれど、まぁ、難しいところですな。
 わたしの場合の瞑想の方向性はもしかしたら神様との一体感を得る方向へとむかうんじゃないかなとも思ったりする。それが東方教会で言われるところの神化だということになるのかもしれない。なかなかわたしのようなビギナーには雲の上の話になってきた。ともあれ、瞑想を続けていくことによって、より一層心の平安に近付いていけたらと思っているのだ。
 みんなも瞑想やってみて。すごくいいよ。

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