聖書の賢人(コヘレト)も足るを知るを説いていた

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 何のために頑張るのだろう? そんなことを思ってしまうことが最近多い。わたしは仕事をしているわけではないし、周りから見たら何を悠々自適な生活をしていて不満があるのかと思われても仕方がない。けれど、わたしだって日々頑張っている。精神障害者にとって毎日の生活というのはなかなか思い通りにいくものではない。1年前にヨガと出会って体調が良くなってきたわたしであっても、自分はやっぱり精神障害者で統合失調症なんだ、と思わされる時がある。不調で調子が良くない時、そんなことを思う。だてに障害年金をもらっているわけではないのだ。
 何のために頑張るのかって、そんな青臭い青年期特有の悩みなんて仕事をしていないから浮かんでくるのであって、働きさえすればその問題は解消され解決される。わたしにある人はそう言った。でも、その解決方法は自分をだましていないだろうか。だまし、だまし考えないような忙しい環境に身を置き、そして考えないようにする。なぜ生きるのだろう、などと問うのは、問えるのはある意味余裕があるからだ。少なくとも考えるだけの余裕があるからだ。今日のご飯を得られるかどうか、その日、その日をまさその日暮らしをしていたらそんなことなんか考えていられない。だから、それは贅沢病なんだよ、と。
 たしかに贅沢病なのかもしれない。けれども、それが贅沢な悩みだとしてもその人は悩んでいるのだからやはり何らかの問題解決はしなければならない。だから、働け、と? だからそれはごまかしてるだけだって(繰り返し)。
 「何のために?」と考えて、どこまでも成長していきたいから、などと希望を持って答えられる人はいい。そういう人はどこまでも成長していってくれればいい。どこまでもどこまでも高い山を登り続けてくれればいいし、言うならば死後にさらに天国でも研鑽を積み、どこまでもどこまでも際限なく成長して伸びていってくれればいい。
 でも、わたしは普通の人だからそんな風には思えない。少なくともわたしは80歳、行って90、100くらいで死ぬのだからそれで人生は終わりだ。わたしはおそらく信仰が弱くてとてもではないけれど、天国でも無限の成長の階段をどこまでも上っていくのだとは思えない。わたしにとっての天国とは憩いと安らぎの場所であって決してさらにトレーニングをしていく所ではない。
 知の巨人と呼ばれた立花隆さんは自分がここまでたくさん本を読んで勉強しているのは単に純粋に知りたいからであって、自分が勉強して知ったことの多くは本に書かれることもなくお墓へと持って行くだけになるだろう、みたいなことを生前言っていた。わたしが彼のような生き方ができるかどうか、と言えばおそらくできないし、その考えによると自分が知ったことはまさに自己満足、自分の欲求を満たすためだけのものだったということになるから、何だか寂しく思えてしまう。けれど、そもそも人間の営みというのは無駄なものなのかもしれない。自己満足にすぎないものなのかもしれなくて、水と空気と食物を生きるために絶えず供給し続けて活動する、その営み自体が意味がないのかもしれない。
 わたしは何とも無気力な感じでいた。何のために頑張るのか答えが見出せないでいた。そんな調子で椅子に座っていたら、聖書のコヘレトの言葉の一節、「すべては空しい」を思い出した。このコヘレトの言葉を読めば何か開けてくるのではないか。そんなことをふと思い付き、その聖書の知恵文学を読んでみることにしたのだった。
 コヘレトはこんなことを言う。

 神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。(コヘ5:17)

 つまり、貪欲に飽くことなくどこまでもどこまでも物事を追求していけ、ではなくて足るを知って満足せよ、とのことのようなのだ。飲み食いしてそのことに喜びを感じる。自分が頑張ったこととその結果に満足する。足りない、足りないではない。このコヘレトの言葉はまさに「足るを知る」ということを中近東のユダヤの王様であったコヘレトが達観したということなのだ。幸福とは当たり前のことにしっかりと喜びを見出せること。自分が頑張ったことを人(他の誰かだったり過去の偉人の誰かなど)と比べるのではなく、とりあえず良しとすること。人生の日々は短いのだから完全になることも完璧になることもできない。有限な人間にできること、そして許されていることは日々を味わい、現状だったりその結果に満足することなのだ。でなかったらどこまで行っても現状に対する不満しか持てなくて幸福感を得ることはできない。コヘレトはまさに「足るを知る」ことを説いている。それこそが一番有効な幸福になるための方法のようなのだ。
 だから、もううんざりしているくらいお腹がいっぱいなのにそれ以上食べようとするようなあり方ではない。どんな美食も、どんなに勉強したいことや読みたい本であってもお腹がいっぱいなのであれば、頭が疲れるくらいいっぱいいっぱいなのであれば、もう今日はこれくらいにしておこうとやめていいのだ。それをもっと食べなければならない、もっと学ばなければ、読まねばなどと強迫観念に責め立てられてさらにやるようなあり方ではないのだ。どこまでもどこまでも足るを知らずに、満腹の状態であるにもかかわらず、それでもさらに食べなければならないわけではない。足るを知り、喜びを感じるくらいにしておく。なぜなら、食物も本も自分が消化できる以上にこの世界にはあるからだ。全部を消化、吸収しようと思ってもとてもではないけれどそれは無理な話。コヘレトはこれに関連したようなこんなことも言っている。

 書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。(コヘ12:12)

 そうなのだ。きりがないし、疲れるのだ。そもそも完璧にやろうなんて人生が何回あってもできることではない。世界中の書物をすべて読み尽くすことなどできないし、それができてその内容をすべて把握したとしても、その内容をすべて書物として記すことなどもできるわけがない。わたしたち一人ひとりは大海の一滴でしかない。そして、時間も空間も有限な中で活動して生きている。それだからこそ、足るを知って、飲み食いすること、自分が頑張ったことの結果に満足する必要がある。幸せとは今の自分の現状にYESと言えることなのかもしれないともわたしは思う。ささやかな日々の食事に喜びを感じられず、自分のやったことの結果に不満足でいたとしたらやっぱりそれは幸福だとは言えないのだ。
 わたしの幸福を阻害していたもの。それは満腹なのにそれでも自らに食べねばならないということと同じように、読書や勉強やヨガなどを強いてしまっていたこと。自分の腹具合、満腹かどうか、その自分の状態を無視してしまっていて、自分にやさしくなかった。読書だって勉強だってヨガだってやりたくなければやらなくたっていい。少なくともやりたくないとその時思うのであれば、やはり、やりたくはないのだ(すごく単純で当たり前のことだけれど)。だからお腹がいっぱいだったり、胃がもたれているように感じるのであれば、それらが完全に消化されて「食べたいな」と思えるようになってから食べればいいのだ。他の人がどれだけ食べているかとか、そんなことはそもそも関係なくて、何よりも自分の食欲があって食べたいと思えているかどうかが大事。本当にまた食べたくなるまで待てば自ずとまた自らに課するまでもなく食べているはず。
 満腹であるにもかかわらず、さらに食べねばと思って苦しくなっていたわたし。他の人がどれだけ大量の食物を食べていたとしても、わたしはわたしで自分の限界以上に食べることはできない。それをしようとするとどんどんさらに苦しくなっていくし、それでもそれをどこまでも続けていけば病気になってしまう。だから、無理をしないで食べたいと思う分だけ食べるようにする。そして、そのことに満足を見出す。足るを知る。それこそが幸せなあり方なのではないか。
 足るを知り満足する。幸せはとってもシンプルなもの。食べねばならないから食べるのではない。食べたいから食べるんだ。すべてのことに対してそんな姿勢で臨んでいけたらと思うわたしなのであった。

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