ていねいに生きるということ

いろいろエッセイ
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 その人の暮らしている場所の様子を見ればその人のことはだいたい分かる。
 誰が言ったのか、そんなことを言った人がいたと思う。誰が言ったのかは思い出せない。でも、これってすごく的を射ている。って、はいはーい。それはわたくしのことで~す。
 自慢にも何もならないけれど、わたしのお家は散らかっている。物は置きっぱなしだし、脱ぎっぱなしに、やりっぱなし。決してきれいだとは言えない我が家。物が大量にあって、いつもブログでは執着を手放していきたいだの何だのと偉そうなことを書いているけれど、まずはお片づけから始めましょうね、なのだ。
 万年ジャージのわたくしといったところなんだけれど、そのジャージだってまめに洗濯しているわけでもない。本当に何日も着て、そして気が向いたらようやく洗う。ってそんなんでいいのか。もう年齢的にはおじさん。おじさんと言うよりは、「汚じさん」といった方が適切で散らかった汚い家の中で汚い汚れたジャージを着ている。
 もう一度言う。こんなんでいいのか? 良くないとは思っている。けれど、長年染み着いた生き方というか習慣はそんな一朝一夕では変えられないのだ。
 でも、今日思い切って洗濯してみた。シーツ、枕カバーとして使っているバスタオルなどなどを洗ってみた。で、今干してある。我ながらこれは画期的な試みで久しぶりの洗濯に何だか心も体も浄化されていくかのようだった。
 ヨガのヤマとニヤマというすべきこととすべきではないことのセットがあるんだけれど、身の回りの清潔を保つということもその中にきちんと入っているんだ。ヨガでポーズを取る前にまずは掃除、洗濯だろ、ということ。自分自身とその周りの環境が汚いのに精神統一なんてできるわけがないし、ヨガだってそんなんでは覚束ない。
 今日、洗濯して思ったこと。もっと洗濯しよう。もっと部屋も片付けよう。きれいにしてきれいなお家で暮らそう。そんなことを思った。
 かなり前にラジオからこんな言葉が聞こえてきた。「ていねいに生きていきたい」。ある方がこの言葉が好きだと紹介していた。ていねいに生きる、か。本当、耳が痛い。でも、「ていねいに」という言葉が何よりもいい。ていねいに生きていったらきっと心も穏やかになるだろうし、かき回されることもないだろうなと思う。ていねいに落ち着きをもって一つひとつを心を込めて生きるということ。ていねいに、ということはやることはやることも意味しているように思える。ていねいに生きていくのだとしたら、毎度毎度のことで面倒にも思えるお料理だってちゃんと作るし、家事全般もていねいに一つひとつやっていくし、何よりもそのたたずまいに気品と美しさがあふれてくる。何か今のわたしに一番足りないことじゃないですか。ていねいに生きるって、本当。
 きっとわたしは問われているんだろうな。あなたは高尚な思想を述べるけれどちゃんと生きているんですか。ちゃんと生活してていねいに生きることができているんですか、って。
 まず、何よりも基本であることはお掃除、お洗濯、お料理、部屋の片付けといった日々の当たり前の営み。それをちゃんとやって初めてわたしの言葉は説得力を持つようになるし、重みが出てくる。もっと言うなら働いてしっかりと稼ぎを得る。その当たり前のことをやった上でいろいろなことがその上に乗っかってくるんだろうなって思う。でも、まぁ働くことはとりあえず置いておくとしても、毎日普通にちゃんと暮らす。そして、それもていねいに暮らす。それをやらないでより高みを目指そうとしてもそれは土台をいい加減にして家を立てようとするものでしかない。生きるということの最も基本的なところをちゃんとやる。でも、面倒くさいんだよなぁ。一言で言ってしまうと面倒くさい。それ言ったらもうそこで終わってしまうでしょう。分かっている。分かってはいるんだ。だから、こうした当たり前のことをきちんとやる。まずはそこから。そこから始まっていくんだ。
 ていねいに生きる。それはまるで道のような言葉で、どこまで行ってもていねいに生きることに終わりはない。まぁ、まずは最低限度のていねいさを目指していきたい。ちゃんと家事をやってちゃんと暮らす。それがまず最初のステップだ。
 どうしても気が付くとていねいではなくて雑に生きてしまっているわたしたち。ていねいに、ていねいに、当たり前のことを大事にしていきたい。その先に落ち着いた穏やかさがきっと待っていることだろう。
 ていねいに生きていきたい。うむ、いい抱負だ。

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