無意味かもしれない人生というドタバタ劇を生きていくにあたって

いろいろエッセイヨガ
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 最近、創刊されたばかりのヨガの雑誌を読んでいたら、自分が狭い世界で生きているなぁと思った。20歳の時に宮崎へと旅立って大学生をしたものの、それからはずっと地元の静岡にいる。別に何が何でも静岡にいなければならないわけではない。離れたければ離れてもいいし、どこで誰とどのように暮らすのかはわたしの自由。
 が、自由に生きるためにはお金がやっぱり必要なのだと身につまされる。そのヨガ雑誌に登場している人たちはみんな多かれ少なかれ自分の仕事を持っていてそれなりにお金に困るような生活はしていない。ハッピーライフには金がかかる、のかもしれないなと現実を突きつけられるわたし。
 でも、冷静になって考えてみる。そんな幸せなヨガ的な暮らしを本当にしたいのだろうか。本当に望んでいるのだろうか、と。公民館のような場所で行われているヨガ教室には行っているものの、ほとんどDVDで独学のような感じでヨガをやっている。そんな今の経済状態。その自分の今の暮らしと雑誌に登場している人たちの暮らしでは断然彼らの方が自由にいい暮らしをしているように見える。
 とやっぱりここで頭を真っ白に、白紙にしてみる必要がある。誰々さんがこうしている。こんな暮らしをしていて、ヨガを教えながら自然の中でナチュラルライフを送っている。それは分かる。いいなぁとも思う。一旦、そういった情報をなかったことにしてみよう。本当に頭の中を真っ白にして自分自身に問うてみるんだ。「あなたはどんな人生を送りたいの?」って。「どんな暮らしをしたいの?」って。
 自分に必要なものって何だろう? 人からどう思われるかとか、そういったことを抜きにして本当は自分はどうしたいのだろう? まわりからの情報にばかり影響を受けてしまっていて翻弄されてしまっている。誰々さんが幸せに暮らしていてわたしもそんな風に生きたい、と思うのはもっともなことではある。でも、「幸せそう。いいなぁ」とみんなから思われたとしても何もわたしはそのために生きているわけではないんだ。みんなから羨望のまなざしで見られるために生きているわけではないんだ。そうではなくて、自分が、自分が生きたいように生きたい。
 今のわたし、自分が生きたいように生きられている? 本当にこれでいいの? 明日死ぬとしてもう悔いとか何も残してない? 
一つのことを除いてはわたしの人生においてもう悔いはない。その一つのことをやりさえすればもういつ死んでもいい。ヨガを極めたいとか、ヨガを広めたいとか、ヨガの先生になりたいとか、そんな欲望もない。この世は、そして世界は過ぎていき、ただただ過ぎていく。それだけのことであって、わたしが何かをしたところで良くなることはあったとしても、それでも過ぎて、過ぎ去っていくのみ。まるでそれは国破れて山河ありの境地のようで、あれだけ全盛を誇った平家が今はもはやないように、今、令和を生きる人たちも忘却の彼方へと消え去っていくのだ。過ぎて、過ぎて、過ぎ去っていくだけなのだ。時間が100年経ち、200年経ち、あの21世紀を生きた人たちももうみんないないね、となるだけなのだ。もちろん、ビッグなことをやった人なんかは後世に名を残すことに成功するけれど、それだって2000年、3000年というスパンで時間が過ぎていけばおそらく歴史に埋もれて忘れられてしまう。それにもし仮にそんなことにはならずに名前が残ったとしても、それが一体何なんだろう。○○という人はこんなことをしてこんな生涯を送ってその生涯を終えました、とちょっとふれられるだけで別にそれ自体何なのかと言えばただそれだけのこと。
 となると、今、こうして生きていることそのものが意味がないのか、という激しい問いかけがなされることになる。どうせ死んで、どうせ骨になり、どうせ忘れられて、どうせ忘却の彼方へと消え去るだけ。天国とか来世などという観念がなかったとしたらわたしはたけり狂っていることだろう。
 ともかく、わたしは何のために生きているのだろう? いや、目的なんてそもそもないのかな? ただ生まれて、ただ生きて、ただ死んでいく。それだけなのかな? 何かをこの世で成し遂げたところでそれが何、と言ってしまえばそれだけのことのようにも思える。
 すべては意味がなくて無目的でただ単にあって、そして終わっていく。もしかしたらそれだけなのかもしれない。すべての営みはただのエネルギーの浪費なのかもしれない。
 100年後には今生きている人たちはみんな死んでいる。だったらなぜ生きるのか? なぜこうもあくせくして生きているのか? いや、生きていかなければならないのか?
 この青臭い問い、どう処理しよう。どう解決しよう。根源的すぎてわたしには手も足も出ない。解決するには来世を持ち出したり、永遠の命を持ち出したりする以外に方法がないことはたしかだ。
 わたしはこの自分の生、自分が生きているとうことに揺らがない絶対的な確証がほしいのかもしれない。意味がほしいのかもしれない。青臭い。本当、青臭い。青臭すぎてとてもではないけれど、もうじき40になる人間とは思えない。
 神様や仏様などの宗教抜きでこの問題を考えようとすると途端に座礁する。となれば、平穏さを保つために神仏にすがるしかないのか。
 が、一方で、別にいいじゃないのとも言える。人生に意味がなくてもそれが何? それがどうしたの? 意味はもともとないんだから、それで悩むだけ時間の無駄だよ、と切り崩すこともできなくはない。とにかく、今こうして生きていて、人生という時間を与えられていて、ともかく生きている。それだけでいいんじゃないの、という考え方。別に意味など何だのと難しいこと言わなくても、毎日を楽しめばそれでいいじゃないの。毎日楽しんで生きられてそして苦しむことなくポックリ逝けたらそれでいいの。それ以上のことを求めたり、人生に何か意味のようなものを求めたりするから話がややこしくなるのであって、最初からそんなものはないと割り切ったほうが生きやすくなるし、それが事実なの。意味を感じようとも見つけようとも人はいずれは死ぬの。だから、死ぬ間際に後悔しないようにそれまで楽しくやりたいことをやって生きることがすごく大切。
 そんな言わば開き直りとでもいうような考えをもっともかもしれない、と思いつつ毎度毎度のように自分軸のないわたしはその考えごとにたしかに「それはそうだ」と納得してしまう。
 もしかしたらこの人生に意味とか価値などといったものはなくて、それらはただ拵えられた人間の思いなしに過ぎないのかもしれない。そして、絶対的な意味でのいい人生も悪い人生もない。ただあるのは、この生のみ。そして、いつかは死ぬということ。
 だとしたら一番つらいのは死ぬ間際に「あぁ、俺の人生何だったんだろう」と後悔してうなだれることなのかもしれない。
 わたしが明日死ぬのだとしたら何を思うのだろう。やっぱり最期には死後の幸福という希望にすがるのだろうか。天国、来世というものに。そして、それが欺かれているだけなのかどうかというのは死ぬまでは分からないわけだけれど、人間には死の鎮痛剤としてこうした観念が必要なのだと思う。
 死ぬまで何をやろうか。何をやっていこうか。ヨガをやっていきたいとは思う。読書もしていきたい。それらが言うまでもなくただのエネルギーの浪費だったという可能性は最後まで残り続ける。でも、そこまで言ってしまうのなら全部無駄じゃないか。この世での人間たちの営みも動植物、昆虫たちの営みも逐一すべて。すべて無意味なのかもしれない。意味なんてないのかもしれない。けれど、みんな懸命にドタバタ劇を生きている。ああでもない、こうでもないと生きている。そうした言ってみればどうでもいい無駄なような無意味なような、そうした営みそのものが実は意義があって価値があるのかもしれないなどと思いもする。だって、神様がこの世界を、万物を造られたのだから、神様は決して無意味なお遊びはなされないはず。って結局最後は神様とかになるわけね。というわけで教会から離れてもやっぱりキリスト教徒な星。だてにクリスチャンではございません。
 この人生という無意味かもしれないドタバタ劇。それでもゆるりゆるゆる楽しく生きていけたら、などと思ってみたりする。ドタバタ、ドタバタ。この先に何が待っているのだろう。つづく(期待)。

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