仲間-Twitterで「聖書を通読する会」を立ち上げて

 聖書。この本は旧約続編を入れなければ単純に2000ページくらいある。だから、とてもではないが一日では通読できない。だから、日々コツコツ、コツコツと読む必要がある。
 だが、一人で読んでいるとなかなか読むのが続かないのだ。最初の一週間くらいはまぁ何とかなる。が、それ以降となると聖書を読むのが面倒になり億劫になり、しまいには聖書って最近いつ読んだっけみたいな感じになってしまう。で、最初に立てた聖書を通読する計画は無惨にも消滅してしまい、立ち消えになってしまうのだ。
 そんな聖書通読が続かないわたしは考えた。何せ意志が弱く続かないわたしである。こうなったら仲間を作ってお互いに励まし合うし合うしか方法がないのではないか。要はやる気が下がって続けられそうもなくなった時に、それでもみんなもやっているのだからといわばストッパーのような人間関係を作っておくのだ。
 で、Twitter上でサークルを立ち上げて、仲間を募集した。サークルの名称は「#聖書を通読する会」で、いわば自分のツイートにこのハッシュタグをつけてもらって、今日聖書のここを読み終わりました。あるいは読んだ箇所の内容をまとめたり、その箇所を読んだ感想を述べたり、とにかく割合ゆるめの感じで参加を求めている。共通点は聖書を通読することを目指している、ただそれだけ。みんな読んでいる聖書の訳も違えば、読んでいる箇所もバラバラ。でも、仲間としてつながっている。そんな会というほどの会でもないけれど、とりあえずつながりのようなものなのだ。
 規模は小規模である。参加人数は実質4~5人といったところ。わたしもそれほどフォロワーがいるわけではないので、わたしが立ち上げたところで大規模になるわけはないのだが、それでも何か連帯感があって楽しいし嬉しいし励みになっている。
 そして、わたしにも変化があった。FEBCの聖書通読表に従って読み進めているのだが、何か聖書が自分の中に染み込んできたのである。それもそのはずだろう。何せ、毎日少なくとも30分以上は聖書を読んでいるのだから。さらにこの学びを有意義なものにしようと、註解書の『新約聖書略解』『旧約聖書略解』も同時にその日の箇所を読むことにしたのだ。それだけ聖書を読むことに時間をかければ理解が進むのはもちろん、信仰も深まっていくのは自然な流れである。(信仰深まってるって言ったけど、実際深まっているといいな。)
 クリスチャンは聖書を読む。それも熱心に読む。って言うけれどなかなかこれができないのよ。どうしても一人では楽な方、楽な方に流れていってしまう。だから、だからこそ仲間を作ることには意義があるのだ。仲間を作って励まし合って、お互いに同じ目標に向かって進んでいく。これっていいよ。本当いい。わたしにはヘブライ語の勉強仲間もいるのだが、仲間がいるとやっぱり違う。気持ちに張り合いが出てくるしもちろんサボれなくなる。そして、どんどん向上しているし、目標にも着実に近付いている。以前は、わたしは仲間なんか作っても意味ないよね。と仲間を作ることに否定的で自分で孤独に勉強していたのだが、北海道の精神障害者のコミュニティ「べてるの家」でも仲間の大切さを言っていたことの意味がようやくわたししにも理解できるようになってきたのだ。
 一人だとはっきり言って折れる。目標に向かって何かをやるにしても、大抵折れてしまう。でも、仲間がいると違う。仲間。それがさらにもっと同じ目的に向けて結束が強まると同志になるのではないかと思う。仲間と同志。この両者のどこに境界線を引けるのか曖昧なところだが、それでもこうした仲間や同志の存在は支えになる。
 それに人間は脳科学的にも仲間がたくさんいて、日々多くの刺激があった方が脳が発達して活性化するとのこと。反対に、仲間がいなくて一人ぼっちで孤独で、ただ毎日何もない部屋で天井を見て寝ているだけだとあらゆる脳機能が低下する。つまり、良い刺激が脳を育み人間を活き活きとさせるのだ。
 わたしには仲間がいる。つながりがある。その恵みは本当に尊い。神様がわたしのために用意してくださった仲間たち。それも素晴らしい仲間たちを神様は与えてくださった。感謝したい。
 わたしの聖書通読表を印刷した紙には赤ボールペンでたくさん丸がついている。読んだところに丸をつけているのだ。10月15日から始まったその丸はもう1ヶ月以上も続いている。たくさんの丸を見るたびに、よくやれてるなぁ。よく続いているなぁ、と自分でも感心する。これもひとえに仲間のおかげ。仲間による恩恵。そして神様からの恵み。20代後半、底を這いずり回るような思いもしたわたしが、今は仲間にも恵まれ活き活きと楽しくやることができている。ありがたい。何てありがたいんだろう。すべてはイエスさまに出会ったところまで遡ることができる。イエスさまに出会ってからすべてがうまくいくようになった。と言いながらも抱えている問題はあるのだけれど、それでも大方うまくいっていて上向きになっている。ありがたい。
 仲間と神様に感謝しながら毎日をさらに充実させていけたらと思う。神様、さらに豊かな恵みをわたしに与えてください。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。(マタイ7:7)

聖書通読で赤丸いっぱい

祖母の入所先が決まった

 この1ヶ月というもの、祖母に退院許可が下りたため、転院または入所先を母とわたしで必死に探していた。とは言えどもわたしたちは素人である。だから、今祖母が入院している病院の医療ソーシャルワーカーにおもに探してもらい、その中で候補に挙がった病院などへ申し込みに出掛けたりした。
 しかし、なかなか転院先、入所先となる受け皿が見つからない。なぜかと言えば、祖母の場合、状態が特殊だからである。
 まず、祖母には輸血が必要である。だから、輸血ができるところを探さなければならない。となると候補はかなり限定されてくる。これが輸血を必要としないのであれば、かなりの数の中から選べるのだが、とにもかくにも輸血しなければならないのでわがままは言っていられない。その限られた中から選ばなければならない。そして、金銭的な問題である。高齢者の介護施設というのは、まさにピンからキリまであって、お金を出せばどこまでもいい所へ入れるのだが、お金がないとそうとも言っていられないのだ。わたしたち親子の所持金は限られていて、無尽蔵には祖母のために出すことができない。つまり、この二点。輸血ができて、しかも高くないところ。この条件を満たすところをわたしたちは探していたのだ。
 というわけでまず第一に候補に挙がったのが輸血ができる療養型病院である。二つの病院が候補に挙がった。一つは自宅まで来てくれてスタッフと話ができたが、もう一つはその病院まで行かねばならなかった。まず、前者。断られた。自宅で話をしている時には転院時の当日の話まで出たくらいだったのに、判定会議で受け入れが認められなかった。なぜか。理由は祖母が身体的には元気だったからだ。身体的って血液の病気で余命半年とか言われているのに、それでも元気なの? 祖母はたしかに血液の病気だけれど、自分で起き上がれるし、自分で歩けるし、自分で食事もできるし、とすこぶる体の機能的な面においては元気なのである。だから、要介護かどうかと自立度を聞かれたら、要支援2か行って要介護1くらいなのである。それに対して療養型病院という所は原則として寝たきりとか重度の医療的な処置が必要とか、本当に病んでいる重度の人を優先的に受け入れるところだと言うのだ。そこに歩ける祖母である。だから判定会議で却下されたのだ。まぁ、考えてみればもっともな話ではある。そして、後者。後者も断られた。理由は同じである。けれど、この病院は片道30分も電車を乗り継いで行ったのだ。それだけに断られた時には母とわたし、共にとても落胆した。病院のワーカーが大丈夫だみたいな空気を漂わせていただけに落胆の度は大きかったことを記憶している。
 で、最後に残された選択肢。それは医療型介護付き高齢者向け住宅である。ただ、これを選ぶと月4万か6万くらいさきに落とされた療養型病院よりも高くなる。神様はわたしたち親子になかなか過酷な試練を与えられるものだと思った。でも、逆に言うなら4万か6万くらい払ってでも祖母のためにやってあげなさい、ということなのだろうかと神様の御心を想像してみたりしたのだった。あまり好きではない人のために自分の大切なお金を使う。それは母もわたしも同じことで、なかなかの試練である。しかし、イエスさまだって正しい人を救うために来られたのではなくて、どうしようもないろくでなしな人々を救うために来られたのだ。そして、正しくない人のために十字架で血を流され死なれたのだ。イエスさまとわたしたちを比較するのはおこがましい話だけれど、つまりしょうもないどうしようもない人のために一肌脱ぎなさい、ということではないかと思えてきたのだ。わたしは祖母を尊敬できない。カレーを作って食べさせてあげたり、京都のお豆腐を取り寄せてあげたりしたけれど、だからと言って祖母のことが大好きだというわけでもない。どちらかと言えば、苦手でネガティブオーラ全開の祖母に嫌な気持ちにさせられてきたことが多く、わたしとしては微妙なところなのである。でも、そんな祖母のためにお金を使う。あまり使いたくはないけれど使う。それこそ、キリスト教的な発想でいうところの、両親を敬い大切にするということではないだろうかと思う。
 思い出してみれば、わたしは祖父母にはとても世話になってきたし、なっている。行く場所がないわたしを祖父母が二人で暮らすために買った家に置いてくれたし、光熱費も払ってくれたし、何とある時期は食費まで出してもらっていた。だから、お世話になりっぱなしなのだ。そこまで世話になったのだ。これからは恩返しをしようではないか。与えてもらったものをお返ししようではないか。
 で、その4万か6万くらい高くなる高齢者住宅に祖母が入居することが先日決まった。あとは必要な書類を書いて、来週には祖母を病院まで迎えに行ってその施設に入ってもらうだけだ。
 長かった。この1ヶ月本当に長かった。でも、神様は落ち着くべきところに落ち着かせてくださった。そして、お金をケチるわたしたち親子にそれではだめだとダメ出しをしてくださったのだ。神様からのダメ出し。そんなわけないじゃん。入れるところがなかっただけだよ。たしかにそういう唯物論的な思考もあることだろう。けれど、わたしは何かこの一連の出来事に神様の御手が働いてくださっていたように思えてならないのだ。逆にわたしたち親子にキリスト教的な信仰や思想や発想がなかったらもっと精神的に荒んでいたことだろう。「4万とか6万多く出すなんてやってらんない!!」と怒り心頭でキーキー言っていたことだろう。マルクスは宗教はアヘン(麻薬)だと言ったけれど、たしかにそういう側面もあるかもしれない。でも、そうではない。少なくともわたしたち親子は今回の出来事においてキリスト教に救われているし助けられている。そして、いい方向に進むことが出来て上々なのである。わたしたち親子が尊敬してやまない教会員のOさんもこのことを聞いたら心から喜んでくれるに違いない。にこやかな笑顔で「いいことをしたね」と言ってくれそうな気がする。Oさんは以前このブログでも取り上げた「感謝すれば愚痴は出てこない」という名言をわたしに教えてくれた聖人のような人物である。
 お金の使い方。そこにははっきりとその人の人柄が現れる。思想も現れるし、人間関係も現れるし、信念や信条のようなものももちろん顕わになる。だから、人を判断する時にはその人のお金の使い方を観察するのが一番いいと思う。的確だし、誤魔化しようがないからだ。そのお金の使い方が雑だったり、いい加減だったり、自分中心だったり、無駄遣いだったり、最悪の場合、誰かを傷つけるものだったらやっぱりそれは良くない。良くないお金の使い方をする人は良い人とは言えない。だから、自分のお金の使い方を今一度見つめ直すのもこの機会に良さそうだなぁと思ったりもする。
 祖母の入所先が決まりほっと一安心。神様に感謝しつつ、日々を大切にじっくりと味わいながら歩んでいきたい。そして、キャベツの前に佇む時間と祈りの時間を大切にしながら心の平安を神様に祈り求めていきたい。

 神様、わたしたち家族の健康をお守りください。アーメン。

聖書を原典で読めるようになりたいとヘブライ語とギリシャ語を勉強中

 数日前からヘブライ語の勉強を毎日1時間くらいしている。もちろん日曜日はお休みにしているのだけれど、それにしても毎日1時間というのは、なかなか上達するものである。
 8月から本格的に始めたヘブライ語も5ヶ月目に突入。あと1ヶ月でもう半年になるわけだ。早い。時が流れるのは本当に早いものだと痛感せずにはいられない。
 最近、ヘブライ語が上達したものだと我ながら惚れぼれするのは、前よりもヘブライ語を読む速度が上がっているからだ。最初のころは、はっきり言うまでもなくよたよた読んでいた。一文字読むのに4、5秒かかっていたと思う。けれど、それが今ではスッと読めるのだ。もちろん、ヘブライ語の朗読CDのスピードで文字を追っていくまでには上達していない。それはネイティブレベルだ。そこまではまだ行っていない。そこまでは行っていないけれど、それでも前よりは読むスピードが上がってきていて、スッと行ける。これってすごいんじゃありません? よく己に勝てとか、自己新記録を目指せとか言うけれど、まさにわたしの場合、自己新も自己新。何せ読む速度が確実に上がってきているのだから。
 こういう経験って本当に嬉しいし励みになる。考えてみれば、みんなこうしたことを多かれ少なかれやってきたのだ。わたしは日本語のネイティブだが、それでも日本語のひらがなを初めて覚えようとした時のことを思えば、みんな最初はよたよたなのだ。よたよただったのだ。みんな、最初はよたよた。覚束ない足取りで文字を必死で読もうとする。よたよたどころか、読み間違えたりもする。それでも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが少しペースアップしたよたよたになる。そして、それからも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが二段階速度が上がったレベルになる。こうして、こうして、あきらめずに読むことを続けていくと、読もうとしなくても自動的に読めるようになる。もうそうなれば、よたよたではない。その状態になるまでには相当の年月の努力が必要だけれど、やっていけば、あきらめないで堅実に続けてさえいけば、いつかは分からないけれども、いつかはそうなるのだ。そのレベルに到達する日がやってくるのだ。
 わたしのよたよたヘブライ語が少しましなよたよたになってきた。続けることの力を知るのである。
 こうなってくるともう嬉しくて仕方がない。さらに勉強したい気持ちが湧いてくる。そして、こうした成功体験はわたしをやればできるんだと思わせてくれる。わたしも捨てたもんじゃないな。結構いけるじゃん。やればできるじゃん。
 ヘブライ語の勉強仲間のFさんに最近こんなことをわたしはTwitter上で言った。「8月頃にはFさんもわたしもヘブライ語のアレフベートをやってたじゃないですか。それを思えば今のわたしたちはものすごく成長してますよ。ものすごい成長して進歩してます。」Fさんは「そうですね。そうだったですね」と話を受けてくれた。Twitter上でヘブライ語の勉強仲間を募集したらFさんがダイレクトメールをくれたのだ。そこからわたしたちの励まし合いながらのヘブライ語の勉強が始まったのだ。ちなみに以前、ブログの記事でもふれたTさんは、と言うと、ヘブライ語の入門テキストを通読されたらしいのだが、彼には彼の方向性があるらしく、日本語訳聖書と英語と日本語の対訳の聖書をじっくり読みたいとのことで、その方向性を尊重したいとわたしは思っている。
 たしかに聖書の原典を読めるようになりたいと原典の言語を学び、それを読む方向に持って行くのも一案であるとは思う。けれども、聖書を原典で読むことだけがすべてではないのだ。人それぞれ聖書に対する姿勢や取り組み方は異なるし、実際異なっていてもいい。むしろ違うからこそ面白いとも言える。でも、わたしが思うにいずれTさんも聖書を原典で読みたい、となるんじゃないかと期待している。まぁ、彼がいつそう思うようになるかは彼と神様のみが知ることだけれど。
 人生は長い。極端な話、80代からヘブライ語を始めてもいいのだ。80歳からヘブライ語を学ぶ。いいなぁ。そう思えば、30代、40代でヘブライ語をやらなくたって別にいいじゃないか。楽しみは最後にとっておく、というイチゴのショートケーキのイチゴを最後まで残しておくような人もいることだろう。
 聖書を原典で読むこと。これはとても意義があることだとわたしは考えている。だから、ヘブライ語をやっているわけなのである。ヘブライ語をやっていて感じることは、中東の息遣いってこれなんだよなぁっていうことだ。パレスチナの乾いた砂漠の言葉のように感じるのだ。
 そういう意味ではわたしはアラビア語にも興味がある。ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、とやったら次はぜひともアラビア語を学んでみたいと思っているくらいだ。
 ヘブライ語で旧約聖書を読む。ギリシャ語で新約聖書を読む。ラテン語でウルガタ聖書を読む。そして、アラビア語でコーランを読む。あ、それから忘れてた。ドイツ語でルター訳聖書を読むんだった。それだけやれば上等だろう。文句なしだろう。
 原典を読むことはまさにその息遣いにふれることではないかと思う。おそらく日本文学の芥川とか太宰とか漱石を英訳とか外国語訳にしてしまっては、あの味わいは出てこないだろう。ましてや、詩とか短歌とか俳句となればなおさらのことである。俳句の英訳ってあるらしいんだけど、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」をフロッグ何たらにしてもきっと味わいが出ないだろうなぁ。
 まぁ、ネイティブでない人間に外国語が分かるのかという難しい問題もあることはあるけれど、それでも原典で読むことは翻訳されたものを読むよりも、その原典に近付けるだろうことは確実ではないかとわたしは思う。たとえばシェークスピアを理解したいと思ったら、それも深く理解しようと思ったら自然と英語の原典へと向かわないだろうか。それと同じように、聖書を理解しようと思ったら自ずと原典へと引き寄せられていく。わたしは原理主義者ではないけれど、原典を読むことによって聖書の息遣いを感じることができると思っている。そして、それが神へとさらに近付いていく一つの方法なのではないかと思えるのだ。もちろん聖書を読むことよりも無心に祈ることをした方がいいという信仰篤い方の御意見もあることだろう。けれど、それも一つの方法ながら、聖書の息遣いを感じることが出来るように原典に取り組むのもいいのではないかと思うのだ。
 聖書がどこまで神の言葉か、というのは難しい問いでキリスト教陣営においても二つに分かれてしまっているくらいなのだから、拙速に回答を出すことはできない。でも、わたしは少なくとも聖霊の働きが聖書には及ぼされていると信じている。逐語霊感説まではいかなくても、少なくとも聖書には聖霊の働きが豊かに注がれている。それを信じる時、その聖霊を受けて書かれたものは、その書かれた言語の形式によってまとめられているのだから、少なくともその形式について学ぶことは意義のあることだと思えるのである。
 そういうわけで、やる気満々のわたしは何とヘブライ語だけではなくてギリシャ語もやることに決めたのである。二兎追う者は一兎も得ず? いやいや、追って得てみせますよ。星さん、二兎追いながら十兎くらい捕まえてみせますよ。豪語した。豪語してしまった。前言撤回するなら今のうち、とばかりに撤回はいたしません。(笑)
 ヘブライ語を学んで旧約聖書を原典で読む。そして!! 新約聖書を原典で読むためにギリシャ語を学ぶのだ。
 で、ギリシャ語始めたのだけれど、このギリシャ文字って数学で出てきませんでしたか? アルファ、ベータ、シータ、ガンマなどなど、出てきましたよ。たしか。それで、たしか放射線もアルファ線、ベータ線、ガンマ線とあったよね。もしかして、ギリシャって数学と縁が深かったりして。(予想)だから、数学でギリシャ文字がたくさん登場してきたんだろうなぁって思うわけ。(予想)
 未知の分野のギリシャ語。何でも語順はどうでもいいとか、よくないとか。あんまり適当なことを言うのは良くないので、ギリシャ語についてはこのあたりにしたい。
 ヘブライ語とギリシャ語。二刀流でやっていきたい。

 追伸
 注文しておいたギリシャ語の入門テキストとギリシャ語の新約聖書(原典)とそれの朗読mp3CDが先日届きました。ギリシャ語の新約聖書をパラパラ~と読んで猛烈に感動しました。この中にイエスさまのことが書いてあるんだと思うと感動せずにはいられないのです。これが原典か、と感動です。そして、朗読CDを聞いてみて、またもや感動。やりがいあります。新約聖書、3年以内に読めるようになってみせます。目標、3年です。

祖母の転院で四苦八苦

 祖母について書きたい。
 8月の段階で余命一ヶ月と医者から宣告された祖母だったが、それからもう11月になるというのにまだ健在である。要するに医者の余命宣告がいい意味で外れたわけだ。
 この数ヶ月、いろいろなことがあった。余命いくばくもない祖母のために京都の美味しいお豆腐を取り寄せたことは、このブログにも以前書いたと思う。そんなこんなで祖母と二人暮らしをしていたわたしだったが、祖母が高熱を出して突如入院。それから祖母はまだ入院していて、今、わたしは母との二人暮らしの生活を送っている。
 で、動きがあった。祖母が何でも退院するらしいのだ。祖母が入院している病院は急性期病院なので、病状が回復したら退院しなければならない。だから、その退院後の行き先を必死でわたしと母で準備している。そんな状態なのである。
 一番祖母にとってベストな選択肢は、帰宅して誰かに生活の面倒をみてもらいながら、週一くらいの頻度で輸血をしに入院していた病院の外来へ行くこと。これが一番、祖母にとって長く生きる上でベストな選択肢。けれど、これができない。わたしと母ではとても祖母の介護はできない。何しろ自分が生活するだけでも精一杯なのだ。祖母のために三度三度のごはんを作ってあげて、身の回りの世話もして、買い物も行って、洗濯もして、そして長時間かかる通院に付き添うことなどがわたしたちにできるわけがなく、この選択肢はあきらめたのだった。
 自宅でみられない。となったら、施設とか病院しか選択肢はなくなってくる。で、どうしたものかと病院のワーカーと相談しながら検討しているところなのだ。輸血ができ、かつ金銭的に可能なところを探すと候補は指を折るほどしかなく、その少ない中から決めざるをえないのが現実なのである。候補に挙がったところは、何だかんだで月20万円くらいかかる。なかなか金食い虫ですな~と冗談を言わなければやっていられないほど、この金額はわたしたちにとってシビアだ。20万円から祖母の毎月の年金を差し引くと14万円。それを何とかしなければならないのだ。偉そうなことばかり言ってビタ一文すら出さない弟は論外として、親戚にも頼れそうな人はいない。親戚の人はまた彼らとしてやっていくのが大変な様子で、毎月いくらお願いします、とは言えそうもない。それでどうなったか。わたしと母で不足分を払うことに決まりました。とりあえず、祖父母の貯金を切り崩して、そしてそれが尽きそうになったら、わたしと母が出動てな具合。
 これだけやっているのにおそらくあの祖母のことだから、わたしたちが決めた病院に入るにあたって不平不満や文句を言うことだろう。でも、それならそれでいいじゃない、とわたしたち親子は開き直ることにした。きっとじゃなくて、もうすでに神様はわたしたちのことを見ていてくださっている。だから、きっと神様は報いてくださるだろうし、悪いようにはなさらないんじゃないか。そんな風に思っている。ま、何とかなるさ。
 祖母があとどれくらい生きるかは神のみぞ知ることだ。神に祈り求めながら、今できる最善のこと、つまりベストを尽くしていきたい。祖母が転院してこれから新しい暮らしが始まるかどうか、というところ。

神様、わたしたち家族に豊かな祝福を与えてください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

ヘブライ語、ぼちぼち難しくなってきましたな

 ヘブライ語。やればやるほど、先に進めば進むほど難しくなってくる。でも、これは幸せなこと。数学がだんだん難しくなっていくのと同じようなもので、高度になっていくことは自分が先に進んでいるれっきとした証拠だ。ずっと簡単なままだったらやる気しないでしょ? 難しくなっっていくから俄然やる気が出てくるのです。などと言いながらもこうも難しいとため息が出てしまう日も正直ある。ムズ! ムズムズ!!
 これだけ難しいながらも続いているのはやはり仲間がいてくれるおかげだろう。正直、日曜日を除いて毎日ヘブライ語というのはなかなか大変だったりする。どうしても人間楽な方に流れてしまいがちで、「今日はあんまりやる気しないなぁ」と思うこともしばしばなのである。けれど、仲間がいる。仲間がいて共にこのヘブライ語という大きな山を一緒に登ってくれているではないか、と思うとさぼることが後ろめたいことに感じられて、やる気がしない日であっても15分くらいはやることができるのだから仲間の力にはスゴいものがある。
 ヘブライ語の文字の読み方(発音)が一通り終わったわたしはやっと文法編に突入したのだ。突入して今までのはウォーミングアップだった、ってなことに気付かされた。やっと本番なわけだ。ここからヘブライ語の本格的な学びが始動するのだ。今までのウォーミングアップですら、「ムズい。ムズい」と音を上げそうになったわたしのことだから、これから先何度も何度も折れそうになることだろう。でも、わたしは一人じゃない。わたしには共に同じ目標を目指している尊い仲間がいるのだ。だから、大丈夫だと思う。
 何でもヘブライ語の名詞には男性名詞と女性名詞しかないらしい。じゃあ、LGBTなレインボーな人はどうしたら……、と思ってしまうわけだが、それはさておき、ヘブライ語の名詞は男か女かはっきりしているのだ。驚くべきことは名詞ならすべて、つまりは抽象的な言葉なども含めてすべてに性別があるということなのだ。男子生徒や女子生徒なら性別は明らかだろう。けれど、本とか鉛筆とか自由とか性別がどっちなのっていう言葉にも性別はある。そして、男性か女性かどちらかなのである。わたしが思うにこれだけ男性か女性かにこだわるのは、性別が重要なことだったからではないかと思う。男か女か。現代は男女平等の時代だけれど、ヘブライ語の世界は違うのだ。聖書を読んでみれば、いわゆる男性優位の世界なのは言うまでもないことだろう。
 ヘブライ語、難しくなって大変になってきたけど、同時に面白くもなってきた。一歩一歩、ヘブライ語の旧約聖書が読めるようになっている未来の自分へと近づきつつある。うれしい。8月から本格的に始めてはや3ヶ月ちょい。人間、続ければできるようになるものなんだね。しみじみそう思う。
 神学校制作のDVDを見ながらも、今わたしは聖書ヘブライ語ではなくて、現代ヘブライ語に迂回して勉強している。遠回りのようだけれど、かえってその方が近道じゃないかと思う。わたしのヘブライ語の師匠も使用したテキストを用いて勉強しているのだから、大丈夫だと思う。「現代ヘブライ語→聖書ヘブライ語」のルートで行こうかなと思っている。
 ヘブライ語の初級文法、1年か2年くらいでものにしたいな。とはいえ、なかなか思い通りに進まないのが語学だけれど、とりあえず今やっているところを確実にする。そして牛歩のごとく行く。毎日(日曜以外)続ければきっと早いうちに終わるだろう。まぁ、焦らず急がずやっていきたい。

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