聖書を原典で読めるようになりたいとヘブライ語とギリシャ語を勉強中

 数日前からヘブライ語の勉強を毎日1時間くらいしている。もちろん日曜日はお休みにしているのだけれど、それにしても毎日1時間というのは、なかなか上達するものである。
 8月から本格的に始めたヘブライ語も5ヶ月目に突入。あと1ヶ月でもう半年になるわけだ。早い。時が流れるのは本当に早いものだと痛感せずにはいられない。
 最近、ヘブライ語が上達したものだと我ながら惚れぼれするのは、前よりもヘブライ語を読む速度が上がっているからだ。最初のころは、はっきり言うまでもなくよたよた読んでいた。一文字読むのに4、5秒かかっていたと思う。けれど、それが今ではスッと読めるのだ。もちろん、ヘブライ語の朗読CDのスピードで文字を追っていくまでには上達していない。それはネイティブレベルだ。そこまではまだ行っていない。そこまでは行っていないけれど、それでも前よりは読むスピードが上がってきていて、スッと行ける。これってすごいんじゃありません? よく己に勝てとか、自己新記録を目指せとか言うけれど、まさにわたしの場合、自己新も自己新。何せ読む速度が確実に上がってきているのだから。
 こういう経験って本当に嬉しいし励みになる。考えてみれば、みんなこうしたことを多かれ少なかれやってきたのだ。わたしは日本語のネイティブだが、それでも日本語のひらがなを初めて覚えようとした時のことを思えば、みんな最初はよたよたなのだ。よたよただったのだ。みんな、最初はよたよた。覚束ない足取りで文字を必死で読もうとする。よたよたどころか、読み間違えたりもする。それでも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが少しペースアップしたよたよたになる。そして、それからも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが二段階速度が上がったレベルになる。こうして、こうして、あきらめずに読むことを続けていくと、読もうとしなくても自動的に読めるようになる。もうそうなれば、よたよたではない。その状態になるまでには相当の年月の努力が必要だけれど、やっていけば、あきらめないで堅実に続けてさえいけば、いつかは分からないけれども、いつかはそうなるのだ。そのレベルに到達する日がやってくるのだ。
 わたしのよたよたヘブライ語が少しましなよたよたになってきた。続けることの力を知るのである。
 こうなってくるともう嬉しくて仕方がない。さらに勉強したい気持ちが湧いてくる。そして、こうした成功体験はわたしをやればできるんだと思わせてくれる。わたしも捨てたもんじゃないな。結構いけるじゃん。やればできるじゃん。
 ヘブライ語の勉強仲間のFさんに最近こんなことをわたしはTwitter上で言った。「8月頃にはFさんもわたしもヘブライ語のアレフベートをやってたじゃないですか。それを思えば今のわたしたちはものすごく成長してますよ。ものすごい成長して進歩してます。」Fさんは「そうですね。そうだったですね」と話を受けてくれた。Twitter上でヘブライ語の勉強仲間を募集したらFさんがダイレクトメールをくれたのだ。そこからわたしたちの励まし合いながらのヘブライ語の勉強が始まったのだ。ちなみに以前、ブログの記事でもふれたTさんは、と言うと、ヘブライ語の入門テキストを通読されたらしいのだが、彼には彼の方向性があるらしく、日本語訳聖書と英語と日本語の対訳の聖書をじっくり読みたいとのことで、その方向性を尊重したいとわたしは思っている。
 たしかに聖書の原典を読めるようになりたいと原典の言語を学び、それを読む方向に持って行くのも一案であるとは思う。けれども、聖書を原典で読むことだけがすべてではないのだ。人それぞれ聖書に対する姿勢や取り組み方は異なるし、実際異なっていてもいい。むしろ違うからこそ面白いとも言える。でも、わたしが思うにいずれTさんも聖書を原典で読みたい、となるんじゃないかと期待している。まぁ、彼がいつそう思うようになるかは彼と神様のみが知ることだけれど。
 人生は長い。極端な話、80代からヘブライ語を始めてもいいのだ。80歳からヘブライ語を学ぶ。いいなぁ。そう思えば、30代、40代でヘブライ語をやらなくたって別にいいじゃないか。楽しみは最後にとっておく、というイチゴのショートケーキのイチゴを最後まで残しておくような人もいることだろう。
 聖書を原典で読むこと。これはとても意義があることだとわたしは考えている。だから、ヘブライ語をやっているわけなのである。ヘブライ語をやっていて感じることは、中東の息遣いってこれなんだよなぁっていうことだ。パレスチナの乾いた砂漠の言葉のように感じるのだ。
 そういう意味ではわたしはアラビア語にも興味がある。ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、とやったら次はぜひともアラビア語を学んでみたいと思っているくらいだ。
 ヘブライ語で旧約聖書を読む。ギリシャ語で新約聖書を読む。ラテン語でウルガタ聖書を読む。そして、アラビア語でコーランを読む。あ、それから忘れてた。ドイツ語でルター訳聖書を読むんだった。それだけやれば上等だろう。文句なしだろう。
 原典を読むことはまさにその息遣いにふれることではないかと思う。おそらく日本文学の芥川とか太宰とか漱石を英訳とか外国語訳にしてしまっては、あの味わいは出てこないだろう。ましてや、詩とか短歌とか俳句となればなおさらのことである。俳句の英訳ってあるらしいんだけど、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」をフロッグ何たらにしてもきっと味わいが出ないだろうなぁ。
 まぁ、ネイティブでない人間に外国語が分かるのかという難しい問題もあることはあるけれど、それでも原典で読むことは翻訳されたものを読むよりも、その原典に近付けるだろうことは確実ではないかとわたしは思う。たとえばシェークスピアを理解したいと思ったら、それも深く理解しようと思ったら自然と英語の原典へと向かわないだろうか。それと同じように、聖書を理解しようと思ったら自ずと原典へと引き寄せられていく。わたしは原理主義者ではないけれど、原典を読むことによって聖書の息遣いを感じることができると思っている。そして、それが神へとさらに近付いていく一つの方法なのではないかと思えるのだ。もちろん聖書を読むことよりも無心に祈ることをした方がいいという信仰篤い方の御意見もあることだろう。けれど、それも一つの方法ながら、聖書の息遣いを感じることが出来るように原典に取り組むのもいいのではないかと思うのだ。
 聖書がどこまで神の言葉か、というのは難しい問いでキリスト教陣営においても二つに分かれてしまっているくらいなのだから、拙速に回答を出すことはできない。でも、わたしは少なくとも聖霊の働きが聖書には及ぼされていると信じている。逐語霊感説まではいかなくても、少なくとも聖書には聖霊の働きが豊かに注がれている。それを信じる時、その聖霊を受けて書かれたものは、その書かれた言語の形式によってまとめられているのだから、少なくともその形式について学ぶことは意義のあることだと思えるのである。
 そういうわけで、やる気満々のわたしは何とヘブライ語だけではなくてギリシャ語もやることに決めたのである。二兎追う者は一兎も得ず? いやいや、追って得てみせますよ。星さん、二兎追いながら十兎くらい捕まえてみせますよ。豪語した。豪語してしまった。前言撤回するなら今のうち、とばかりに撤回はいたしません。(笑)
 ヘブライ語を学んで旧約聖書を原典で読む。そして!! 新約聖書を原典で読むためにギリシャ語を学ぶのだ。
 で、ギリシャ語始めたのだけれど、このギリシャ文字って数学で出てきませんでしたか? アルファ、ベータ、シータ、ガンマなどなど、出てきましたよ。たしか。それで、たしか放射線もアルファ線、ベータ線、ガンマ線とあったよね。もしかして、ギリシャって数学と縁が深かったりして。(予想)だから、数学でギリシャ文字がたくさん登場してきたんだろうなぁって思うわけ。(予想)
 未知の分野のギリシャ語。何でも語順はどうでもいいとか、よくないとか。あんまり適当なことを言うのは良くないので、ギリシャ語についてはこのあたりにしたい。
 ヘブライ語とギリシャ語。二刀流でやっていきたい。

 追伸
 注文しておいたギリシャ語の入門テキストとギリシャ語の新約聖書(原典)とそれの朗読mp3CDが先日届きました。ギリシャ語の新約聖書をパラパラ~と読んで猛烈に感動しました。この中にイエスさまのことが書いてあるんだと思うと感動せずにはいられないのです。これが原典か、と感動です。そして、朗読CDを聞いてみて、またもや感動。やりがいあります。新約聖書、3年以内に読めるようになってみせます。目標、3年です。

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