母親思い

 今日、精神科の外来に行ってきたんだけれど、診察も終わって、病院の近くの薬局で薬を待っていたときのこと。
 体格のいい、そうだな。40代後半くらいかな。それくらいの男性が母親らしき人と一緒に来ていて、薬をもらうためにカウンターへ行ったときのことだった。何も特別なことがあったわけではない。しかし、わたしは思わず眉をひそめてしまった。何があったか。息子が困らないようにと母親らしき人が声をかけているのに、その息子(らしき人)が母親に「あっちへ行け」とか追い払うかのような仕草をしてしっしっみたいな態度を取ったのだ。
 見るからにその男はわたしが想像するに、自分の生活は母親とか家族任せで、おそらく家事はほとんどやってもらっているような感じが漂っている。今日、この通院だって母親の車に乗せてきてもらったか、母親に手取り足取りやってもらってタクシーで来ているか、どちらかだろう。
 わたしはその様子を見て、カチンと来た。以前のわたしだったらその男に「母親に向かってその態度は何だ」と怒鳴り散らしていただろうけれど、それから大人になった星はそういうことはしない。ただ、その少しもの悲しそうな表情をしている母親を不憫に思うだけだった。わたしもどちらかと言えば甘やかされて育ってきた方かもしれないけれど、その男からはそうした空気がぷんぷんしているのだ。おそらくその男が何かをほしいと言えば、その通りに母親は与えてきただろうし、今だって与えているんじゃないか。もちろん、その親子には親子の歴史があって、第三者であるわたしがズカズカと土足で上がり込んでいいものではないし、それはやってはいけないことだ。しかし、あまりにも目に余る。この態度はひどいんじゃないか。
 自分の親が毒親で過干渉だったり、傷付けるようなことを平気で言うのであれば、「あっちへ行け」というの仕方がないとしてもまだ分かる。しかし、その男と母親はそういうようではなくて、ただ息子があまりにも自己中で思いやりがないために、母親を冷たくあしらっているようなのだ。
 母親。母親はみんなお腹を痛めて子どもを産む。まず、妊娠を知ったときの喜び。そして、お腹の子をそれはそれは大切に愛おしみながら数ヶ月も育む。それから、女性にとっての最大イベントである出産。すさまじい陣痛に耐えながら我が子を命をかけて産む。生まれたら生まれたで子育て。3時間おきに寝不足になりながらも、我が子のためにと授乳をする。授乳が終わったら離乳食。慣れない料理に戸惑いながらも離乳食をつくって食べさせる。そんなこんなで、時が流れていき、小、中、高、大、成人式、就職と母親はいつも子どもと共にいて成長を見守り続けている。これってすごいことなんじゃないかと思う。
 それを「あっちへ行け」はないんじゃないか。今、この文章を書きながら、わたしが感じた怒りややるせなさが正当なものであったことに気付かされている。
 わたしは今、母親との二人暮らしだ。毎日楽しくやれている。人間関係も良好で、彼女もわたしとの日々を楽しんでくれているようだ。
 もう38にもなるというのに、母親と同居? マザコンもいいところなんじゃない? いやいや、マザコンではない。と言いつつも仮にマザコンだとしたら、この呼び方はやめてほしい。マザコンではなくて、「母親思い」だと言ってほしい。もちろん、母親と今でも一緒にお風呂に入るとか、新婚旅行には母親も一緒に連れて行くつもりだ、とか言うのであれば、やはりそれは度を越したマザコンだろう。でも、まぁ、わたしはしっかりと節度を持って母親とは付き合えているので、ご心配なく。しかしながら、ここまで母親との生活が楽しいとあえて彼女をつくろうとか、パートナーがほしいとか思わないので、強いて言うなら問題はそれくらいかな、と思う。でも、母親が施設に入所したり、亡くなったりしたらきっと寂しくなるだろうから真剣にパートナーがほしくなるかもしれないだろうな。それはともかくとして、まぁ、そんなこんなで楽しくやれているのだ。
 わたしが母親を大切にしてやまないのは、自分が苦しかったときに本当に支えてくれたからだ。感謝、感謝なのだ。わたしが死にたいと昔、打ち明けたときにも「あなたはわたしの宝物だから死なないで」としっかりと懇願してくれた母なのだ。そのどん底だったときに支えてもらった経験があるからこそ、多少大変なことがあっても乗り越えることができるのだ。今までだって乗り越えてきたし、これからも大丈夫だと思っている。
 そんな大切な母だからこそ、母にはぜひともキリスト教の洗礼を受けてもらいたいとわたしは思っている。受ける適切なタイミングがなかなか来なくてほぼ天国泥棒(死ぬ直前に洗礼を受けること)になっても構わない。わたしは母の魂が死後も安らかに平安につつまれることを願っているのだ。それも確実に、である。今はコロナ禍で聖餐式はできないけれど、いつか一緒に聖餐に与れたらと思う。一緒にぶどうジュースと白いウエハースを食べたいな。ま、近いうちにその日はやってくることでしょう。
 母との毎日の平凡な二人暮らし。このつつましい一日、一日を味わいながら大切に大切に送っていけたらと思う星である。もしかしたら、いや、もしかしなくてもこうして母と楽しく暮らせている今が一番幸せなのかもしれない。5年後、10年後にはどうなっているかはもちろん分からない。わたしにパートナーができているかもしれない。でも、パートナーが得られたら母もその輪に加わってもらってどうなるかは分からないけれど、わたしと彼女と母の3人で楽しく暮らして行けたらなと思う。だから、彼女には母と同居してもらうことを求めるんだ。これってマザコン? いやいや、母親思いだと言ってください。それだけ母親はわたしにとってかけがえのない大切な人なんです。わたしが選んだパートナーだったらきっと素敵な人だろう。(って自分で言っちゃう。)どうしてもと言うのならと同居も受け入れてくれることだろう。まぁ、こうした話はそのときになったらそのときで違った展開を見せるかもしれない。でも、今はこんな風に思っているのだ。
 おそらく母親思いの星。素晴らしい未来を、ではなくて、すでに現在がもうすでに未来なんだ。だから、今を大切に生きる。今を大切に大切に生きる。母と一緒に生活できるのもあと10年ちょっとくらいなのかもしれない。一日、一日に母への感謝の思いも込めながらやっていけたらと思う。お母さん、いつもありがとう。感謝してます。

みんな違ってみんないい

 わたしたちは言うまでもなく、自分のやっていることが正しいのだと思っている。あるいは、そこまで思えなくても思いたいものだと願う。自分のやっていることが100%誤りであって間違っているのに、それをやっている人というのはあまりいないのではないか、とわたしは思う。だから、みんな人それぞれ100人いれば100通りの論理があり、正しさがあるのだ。
 みんな違ってみんないい、という言葉がある。わたしはこの言葉に完全に同意することはできないけれど、それでもおおむね賛成だ。
 わたしはある時期、熱狂的な信仰主義になってしまっていたことがある。保守的なキリスト教と言ったらいいだろうか。それも原理主義に限りなく近いような。とにかくキリスト教の神様を信じることが何よりも素晴らしく大切なことで、それ以外の信仰は全部論外。神様を信じない人は失格者。その考え方はとても分かりやすくて、世界を単純化してくれる。神を信じるか、否か。それもキリスト教の神様を信じるか、否か。
 そんな感じの信仰を持っていたんだけれど、教会を変えてからわたしの信仰も変わっていった。わたしが以前の考え方を今行っている教会の聖書研究会の皆がいるところで、牧師にぶつけてみたことがあった。すると、自分の信仰を他の人に押し付けようとするのはよくない、と諭されたのだ。それにキリスト教の神様はクリスチャンのためだけのお方ではなくて、世界中のすべての人のための神様なんだから、とも牧師から言われた。そのガチガチではないやわらかでしなやかな考え方にわたしは感化された。もちろん、保守的なキリスト教とそうではない自由主義的なキリスト教と両者は併存しているのは事実なのだけれど、何だかわたしはその自由な方の影響に動かされ始めていて、以前とは変わってきたように思う。
 保守的なキリスト教も行きすぎると原理主義になってしまい、それはもうすでに律法主義に陥ってしまっている。
 律法。神様からの命令。それを何が何でも守らなければならないとすると、とても窮屈になる。お前は今日、礼拝を休んだな。酒を飲んだな。タバコを吸ったな。ポルノを見たな。無駄なことに時間を使ったな。つまり、お前は神様にふさわしいことをしていない。できていない、と断罪するのだ。で、行き着く先は、起きている時は絶えず祈りを捧げて神様のことを考え続けなければならない。一瞬たりとも何か別のことを考えているようであってはならない。苦しいな。そして律法主義はどこまで行っても平安が得られないのである。神様に従うとは一体どこまでやったら及第点なのか。それがはっきりと示されてはいない以上、どこまでもどこまでもやらなければならない。そして、どこまでやってもまだできる、足りないのではないかという疑いが伴う。普通の人から見たらこの人はもうすでに立派な聖人だと思うことだろう。しかし、この人自身は「足りない、足りない。神様のために全然生きることができていない。捧げることがまだまだ足りない」と不安な状態を脱することができない。要するに、どこまでやってもよしにならないのだ。
 とは言えどもじゃあ、それだったら律法なんて無視して好き放題生きていいのか、と言えばそれもまた極端すぎる。わたしはバランスじゃないかなぁって思う。律法主義に陥ることなく、しかし放縦主義にもならない。そのほどよいところが理想だと思うようになったのだ。ほどほどに神様からのルールを守りながら、ほどほどに自由に生きる。(もちろん絶対に破ってはいけない神様からの掟は破っちゃだめだけど。たとえば殺すなかれ、とか不倫とか。)
 神様が人間に自由意志をお与えになったかどうか、そのことについてはここでは突っ込まないことにしても、わたしたちに自由があるのだとしたら、それは神様からの素晴らしい恵みではないかと思う。(注:ここでは人間には自由意志があるんじゃないかという前提で話を進めているよ。)そもそも、規則を100%完全に守れ。守らなかったら罰する。厳守だ、というのであれば、最初から神様が人間を自由な存在としてはつくらずに、完全な操り人形としてつくればよかっただけのことだ。でも、神様はそんなことはなさらなかった。人間を自分の意志で考えて好きなように行動できる存在としてお造りになられたのだ。それに操り人形とまではしないとしても、自由に生きさせることがみ心ではなかったとしたら、人間は画一的にならなければならないよ。みんな同じことを寸分違わずまるで機械のようにやっているんだ。っていうか、もしそうやって窮屈な行き方をさせたいのであれば、一人ひとりを異なる個性を持ったユニークな存在としてつくる必要もないと思うけどな。
 冒頭で、みんな違ってみんないい、という言葉に完全には同意できないと書いた。それはやはり、人に迷惑をかけたり、自分自身や他者を傷付けたりすることは良くないと思うからだ。だから、そういうことをする人を「いい」と手放しでわたしは認めることができないのである。しかし、と思う。この言葉は神様が人間一人ひとりをどのようにお考えになっているかを明快に指し示すものではないか、と。いろいろな人がいる。なかには問題がある人もいることだろう。しかし、そうした人であっても神様が造られたのであって、神様にとっては大切な作品なのである。神様の作品。そう考えるとわたしは手放しですべての人を容認できないけれど、神様はもうすでに受け入れられているのではないか。みみっちいことを言われない神様である。神様にとってはみんな大切な存在なんだ。一人ひとりが特別な存在で、一人ひとりが愛おしい。だから、みんな違ってみんないい。
 わたしは神様ではないから、到底この神様の境地にはなれないだろう。やっぱり、どうしても自分を認めて愛してくれる人が好きだし、批判されたり毒づかれることは好きではないからだ。でも、神様はどんな悪態をついて「お前なんかいなくなれ」と言われても、変わらずにその人のことを愛し続けられる。そこが人間には真似できない神様のすごいところなんだ。
 わたしが生涯を終えるまでに、みんな違ってみんないい、と言えるようになるか、それは分からない。けれども、幸せの階段をどこまでも駆け上がって上っていくと、最後はそうした境地にたどり着くんじゃないかなっていう気がする。この世の悪をすべて赦し、それすらも抱擁することが凡人にできるか。まぁ、わたしには一生かかってもできないかもしれない。でも、そういう方向になっていけたらないいな、と思う。
 みんな違ってみんないい、か。深いな。

ぐだぐだ不調日記、大ヒット御礼?

 やってまいりました。星さん恒例のぐだぐだ不調日記。楽しみにしてくださっている方も多いと思いますので、っていないか。一人でボケツッコミをしているのは寂しいので状況を説明しますと、今日も久しぶりに調子が悪いのです。って不調日記なんだから当たり前と言えば当たり前。そんなの面白くも何ともないよ。それよりも今回の経緯をお話しようと思う。
 あれはたしか夜中の1時頃だったかと思う。夜中に目が覚めちゃったんだよね。で、寝ようと頑張ってみてもどうにも眠れない。そんなわけで起きていることを決意したのはいいものの、何とそこからだいたい2時頃からだったかな。パソコンをやったのだ。はい、毎度恒例のやつね。そしたら面白くなっちゃって5時頃までやってたわけだ。それからもう調子が悪くなっているのはうすうす感じていたけれど、頑張ってお風呂に入った。しかも体も髪も洗わず、ただ湯船につかっただけ。そんなこんなしてたらもう6時半。ごみを出さねば、とごみをまとめる。で、7時。ごみ出し。それからやめとけばいいのに、朝散歩を強行。きっと朝散歩をしたら体調も戻るはずさ、という希望的観測に従ってやってみたんだけれど、やっぱり調子が悪い。いつものコースをいつも通りに帰ってきたものの、やたらと散歩中に先の尖ったものが気になってしょうがない。天気は薄曇りでまるでわたしが世界から歓迎されていないよう? 外の世界から悪意を感じることはないけれど、どこかよそよそしさを感じる。自意識過剰。で、8時頃から母と浮かない顔で食事を何とかして今に至るというわけさ。ってこのまとまりのない文章は何なのだろう。ほとんどただの独り言じゃん。
 今のわたしの頭の状態は、脳味噌の中にもやがかかっていて、頭が拘束されている感じがする。とにかく不快なんだよ。何ていうか、レボトミン(注:統合失調症の治療に使われる抗精神病薬。ガツンと神経を遮断するような感じの薬。メジャートランキライザーでなかなか強烈である。)を10倍くらいに薄めたものを飲んだような感じと言ったらいいだろうか。とにかく難しいことを考えられないんだ。いつもだったらパパッとできることが動作が緩慢になってできなくなっている。倦怠感。だるい感じ。頭が冴えない。どんより。こんな形容が一番しっくりくるような。
 ネットを1時間やって不調になる人間が3時間もやったらもう絶不調になるのは目に見えている。わかってはいたんだ。きっと、パソコンをやると調子が悪くなる。だから、やらない方がいいって。でも、誘惑にはあらがえなかった。星さん、Hなサイトでも見ていたのかね? いやいや、真面目なことをやっておりましたよ。星がネットで何を見ていたかと言うと、本棚なのだ。星さん、本棚がほしいのだ。何せ、うちには本棚が1つしかなくて、本がほとんど平積み状態となっていて、何とかしたいと思っていたところだったのだ。
 短い時間だったらいいんじゃない? 悪魔がわたしに囁く。15分でやめれば大丈夫のはずが3時間もやっとる~!! ネットの魔力に完全に食われている星である。
 ここまででやっと1300文字。ここまでの道のりは果てしなく長かっただ。(カールおじさんならぬ星お兄さん)
 教訓。ネットは15分くらいにしておきましょう。やりすぎないようにしましょう。
 ってわかっちゃいるけどやめられないんだ。でも、教訓生かさないと何のための教訓なのか分からないよ。生かされない教訓。同じことを毎度毎度のように繰り返して進歩のない星。
 いや、進歩はあるよ。それはこのぐだぐだ不調日記がついに第2回を迎えたじゃないですか。これってものすごい進歩ですよ。この不調日記、これからも続けてくださいよ。
 って不調にはなりたくなーい!! もう嫌だ。こんな不調には二度となりたくない。これからはパソコンの時間をきっちり15分にするんだ。守るんだ。
 星さん、ぐだぐだ不調日記大人気です。続編をみんながまだかまだかと待っていますよ。じきに映画化されるという噂も流れているくらいです。
 それなら星も身を削る覚悟だけれど、今のところはそんな話はないし、調子が悪くなると自分がくたびれて苦しいだけだ。
 星さん、映画化、テレビドラマ化、アニメ化、原作が50万部超えです!!
 ってそんなこと、ない、ない。映画化された暁には主演を誰にするかな。って、ない、ない。ないから心配しなくて大丈夫。星さんは自分の体調を良くすることに集中してくださいな。

仮想現実

 今はもう夜の7時。もう? そうなのだ。もう7時なのだ。もうあと1時間か2時間くらいすると就寝時刻になる。本当は執筆は早めにやっておきたかったんだけれど、何だかんだでできなくて、こんな夜遅くになってしまっている。夜遅くというのが7時というのが可愛げがあっていいのではないかと思う。そんなわけで、夜の9時頃に電話をよこされるともう寝ようと思ってたのに~、という感じなので、結構迷惑だったりする。オールナイト? 夜明けのコーヒー飲みませんか?、とは一切無縁な規則正しい生活を真面目に送っている星さんだが、さて今日は何について書こうか。
 そうだな、仮想現実について書こう。とは言うもののわたしは仮想現実(バーチャル)についてほとんど専門的な知識がない。いわば聞きかじった程度。そんなんで記事を書こうなんて百万年早い!!、と怒りをあらわにされる方もいることだろう。ただ、百万年どころか千年だって人間は生きられませんぜ、ダンナ。ということを付け加えたところで仮想現実について思うところを書いていこうと思う。
 わたしが個人的に危惧していること。それは仮想現実の技術が向上していくと、現実との区別が付かなくなってしまって、ついには現実ではなくて、仮想現実の方を選んでしまうのではないかということだ。これは言うまでもないことで、現実に生きる必要がそもそもなくなってしまうのだ。
 仮に危険な話ではあるが、自分が好きで好きで仕方のないアイドルと仮想現実で一緒に過ごすことができるとしよう。この時には技術がどこまでも進歩していて、この仮想のアイドルと現実の空間におけるアイドルとの違いはほとんどない。ただそれが実在する本人そのものでないだけで、それ以外はすべて本物と何ら変わりがない。しかも、この仮想現実のアイドルは自分を溺愛してくれるのだ。こんなに好きだったアイドルが自分とイチャイチャしてくれる。しかも五感はリアルそのもの。すべてがほぼ本物。
 わたしが思うに、こうした欲望はまっさきにアダルトコンテンツとして商用化される。絶世の美女が現実と何ら変わりなく、心ゆくまで楽しませてくれるのだ。
 こうなったらどうして現実を生きなければならないのか、という根本的な疑問が浮かび上がってくることだろう。なぜ、苦しいだけの面白くもない現実世界を生きていかなければならないのか、と。現実世界では自分にはお金もないし、学歴もないし、社会的地位も名誉もないし、女性にはもてなくて馬鹿にされる始末だし、生きていても何も面白いことや楽しいことがない。かと言って自らの命を絶つこともできない。こういう人にこうしたサービスが紹介されれば絶対に飛びつくことだろう。「これはいい!」と救われた気持になること請け合い。
 現代でも現実逃避をしている人たちがいる。別にそれが悪いとか何だとか批判するつもりはない。わたしだって高校生の頃、恋愛シミュレーションゲームに現実逃避していた口だから人のことをとやかく言うことができないのである。
 現実は面白いよ、と彼らの心を開こうとしてもそれはなかなか難しいことで、一筋縄ではいかない。けれど、生身の女の子と付き合った方が断然楽しいよ、と説教をする人だっているくらいだろう。
 それが完璧な現実と何も変わらない仮想現実が到来してしまったら、この生身の女の子の方がいい、という理屈は通用しなくなる。だって、もう仮想現実で生身の女の子とイチャつくことができるのだから。それに完璧な仮想現実では、そこに登場する女の子はユーザーの嫌がるようなこと、幻滅するようなことは一切しないし、まるでベテランの心理カウンセラー真っ青の神対応を当たり前のようにしてくれるのだ。その女の子には人間関係を送る上での膨大なマニュアルが組み込まれていて、とにかく完璧なのである。こうなると夢の国の○ィズニーランドでさえも足下には及ばないことは言うまでもないことだろう。
 が、そこで満足してその世界に安住してしまうのだろうか。もちろん一定数は安住してしまうことだろう。しかし、そうしたまるで竜宮城のような夢の国にいるかどうか。そのことを選ばなければならない時代がいずれはやってくるのではないかとわたしは思うのだ。
 果たしてわたしはそうした仮想現実が完成したら、その世界の住人でい続けたいと思うのだろうか。分からない。まだそうしたものはできていないのだから。
 おそらくその電脳世界では自分もまわりの人たちも歳を取らない。永遠の自分がありたい理想の姿のままでそこに住み続ける。まさに永遠の命。が、ある時、その電脳世界が何者かによって破壊されてしまう。そのコンピュータの電源が何者かによって破壊されたのだ。……こんな話を長編小説にでも書いたら面白いだろうとは思うのだけれど、この世に永遠というものはない。どんな機械だっていつかは壊れるから、どんなにメンテナンスをして細心の注意を払ってもいつかはだめになる。
 人間はいつかは死ぬ。だからこそ、天国には意義がある。この世が天国になっちゃったら天国なんてかすんじゃうじゃん。ほとんど意味がないじゃないですか。
 わたしはもしもこの記事で書いたような仮想現実ができたとしても断固としてこれを拒否したい。わたしが長年好きなアイドルと電脳空間で楽しく暮らせるとしてもそんなのごめんだ。そんな騙され続けるような幻のような世界でどんなに幸せになっても意味がない。わたしにはこの現実世界がちゃんとあって、そしてそれが終わったら天国という場所がしっかりと用意されている。だから、そんな感じでしっかりと線を引けるはずだ。(と思う。って心許ないな。)この現実世界がたとえどんなにつまらなくても、面白くなくても、いやいや、苦しい場所だったとしてもそれはそれで意味があるんだ。わたしは現実をしっかりと生きたい。どんなに安楽なつくりものの世界があったとしてもこれを受け入れたくはないのだ。たとえそれがその時代の多数派でなかったとしても、頭の固い頑固じいさんだと言われてもわたしはこのあり方を貫きたい。
 と真面目なことを考えているこの現実が実は、仮想現実だった!、なんてことがないようにと神様に祈る星なのであった。(最後にそんなオチ?)

進むべき道

 今日は日曜日。いつもだったら教会へと向かうのに、礼拝の時間を自室のベッドで過ごしていた。何だか教会に行こうっていう気が起きない。きっとここ連日忙しかったから疲れているのだろう。知的な活動は4時間がほぼ限界だというのに、6、7時間やっていた日もあったし、とにかく疲労といった感じ。それにわたしの中で少しばかり葛藤、というかモヤモヤもあった。それはここ数日間の批判の応酬で心が傷付いてしまったことももちろんある。しかし、それ以上にわたしの中で大きかったのは、最近異教的なものにつかっていて、こうした態度がクリスチャンとしてどうなのだろう、と心にトゲのようなものが刺さっていたのだ。のどに魚の骨が刺さっているみたいな。あれである。元来、わたしは書物や人の言動から影響を受けやすい素直な人間である。だから、異教的な考え方、つまり思想的なものに染まり始めていたのだ。さらには、首に十字架のペンダントをぶら下げているくせに、ろくにお祈りもしていなかった。そんなわけでわたしはまるで神様に逆らっているようにしか思えなくて、ある意味、気まずい思いをしていたのだ。学校の教師の言うことにそむき、有害図書ばかり読んでいるみたいな、と形容するのが最も適切だろうか。
 わたしは祈った。「進むべき道を示してください」と。そうして20分くらいは祈り続けていただろうか。すると、あることに気が付いた。わたしは自分がどうなりたいか、といったことばかり考えていたんだな、ということに。つまり、自力に頼り、自分の意志で人生を切り開いていこうとしていたのだ。やはり、というか自力に頼るものは滅びる、と何かで読んだと思う。自分がどうしたいか、もある程度は必要だけれど、自分が、どうかではなくて、神様がわたしに何を望んでおられるのか、という視点に切り替えられるかどうかがポイントなのである。その視点に180度切り替わった時、わたしは神様からのメッセージを聞けたように思う。
 神様はわたしに従いなさい、と言われた。それは牧師としての召命ではなくて、もっと広い意味で、わたしのことを考えなさいと言われているように感じたのだ。わたしは最近、神様のことをほとんど考えていなかった。神様はわたしに従うことを求めておられるのだ。すると、これをやったらいいんじゃないかっていう道が与えられたのだった。
 神様がわたしに求めておられることは、大きく次の2つ。世界の貧困・飢餓問題の解決、ならびに平和に貢献しなさい。それから、聖書語学などを学び聖書を原典で紐解くこと。キリスト教神学やキリスト教史、それから神学者の著作を読みなさい。そして、何よりもわたしを求めて従いなさい。
 ここまで言われてしまうとあえて異教的な思想を学ぶ必要はない。(もちろん体調を良くするためのアーユルヴェーダはテクニカルなものだから別として。)何か、とてもすっきりした。自分のやるべきことがはっきりしたというか。
 で、以前買ってはみたものの途中まで読んでそのままになっていた貧困・飢餓についての本を再び読み始めたわたしである。
 途中までで思ったこと。それはわたしが恵まれているということである。わたしは働いていない。けれども、生活は障害年金で何とかなっていて、もちろんお腹をすかせたままでいることもなく、三度三度のご飯をお腹いっぱいになるまで食べることができている。しかし、本によると、世界には8億人あまりもの人がお腹をすかせてひもじい思いをしているのだ。その話が実に深刻で、栄養失調のために失明する人がいる。(ビタミンAをとれれば失明しないで済むのだが。)失明だけでは済まず、餓死する人がいる。この瞬間にも今も地球上では餓死している人がいることだろう。
 わたしは自分が調子良く過ごすためにいろいろな努力をしてきた。いろいろ体や心にいいことをやってきたのだ。けれど、この惨状は一体何なのだろう。豊かな暮らしを送れている人がいるかと思えば、一方では貧しさのあまり餓死している。それも必死の思いで働いているのに食べ物を買えるだけのお金を手に入れることができなくて飢え死にしている。
 何だか自分がとても悪いことをしているような気がしてきた。働きもしないのに三度の食事にありついているわたしと、必死の思いで働いているのに食事にありつけず死んでいく人。
 わたしには生存権が保障されている。だから、悪いことはしていないのだ。食べていいのだ。むしろ、貧しい国の人にこの権利が保障されていないことが問題なのだ。頭では分かる。けれど、何というか、心情的に後ろめたいというか。
 わたしの勝手なイメージだが、アフリカの貧しい国の黒人が必死の思いで働いている。額に汗して働いている。ガリガリに痩せていて、ろくに食べていない。
 理不尽。何という理不尽なのだろう。言葉を失うとはまさにこのことだ。わたしにできることは何かないだろうか。
 神様がわたしに示してくださったこの道を進んでいきたい。まずは、貧困と飢餓の本を3、4冊読み終えること。すべてはそれからだ。神様に祈りをささげて対話をしながら、新たな道を一歩一歩進む。
 神様はいつもわたしと共にいてくださる。だから大丈夫。大船に乗った気分でどーんと行こうではないかと思っている。

PAGE TOP