ぬるま湯

キリスト教エッセイ
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 今は朝の5時。さっきまでお風呂に入っていた。風呂はいい。たしか新世紀エヴァゲンゲリオンの劇中で「風呂は命の洗濯よ」と葛城ミサトが言っていたことを思い出す。命の洗濯。なかなかうまいことを言っているなと思う。実際、心の中の汚れが洗い落とされていく感じがする。お風呂に入ると心がきれいになるのだ。
 それはさておき、今日(いや今朝?)のお風呂はまた格別だった。湯加減といい、お湯の量といい、まさに極楽そのもの。(わたしはキリスト教徒だけど風呂に入った時は極楽だなって思う。)お風呂から出たくない。そう思ってしまうほど気持ちが良くて、後半は少し眠りそうになってしまったくらいだ。(あぶね~っす。)
 お風呂につかっていたら、「ぬるま湯」という単語がふと頭に浮かんだ。と同時にわたしの置かれている状況についてシビアな第三者的なまなざしが働き出した。
 今、わたしはぬるま湯につかっている。(って実際本当にお風呂でお湯につかっているわけだけど)で、このままで本当にいいのだろうか、と思い始めたのだ。おそらく最近、このブログに批判的なコメントを寄せてくださっているYさんの影響だろう。わたしの波風がほとんどない平和な毎日という水面に突如として投げつけられたいわば石のようなものだと言ってもいいと思う。投げられた石は水に波紋を生じさせる。どうやら、わたしに揺さぶりがあり、変化が起こっているようだ。
 現在のわたしは働いていない。そして、障害年金をおもな生活資金として、それに全面的に依存しながら生活している。それで本当にいいのか? わからない。少なくとも今までのわたしはそれでいいと思っていたし、思ってきた。
 考えてみる。今のままで本当にいいのか?、と。だが、いいって誰にとってそれはいいのだろうか。そして、「いいのか?」と問う時、良くないのだろうか。社会通念? 世間? 社会? 日本という国? ご近所? 親戚? 家族? いやいや、私自身にとって? 神様?
 世間や社会や日本やご近所や親戚にとっては働くことが大人のたしなみとされていて、いい大人なのに働いていないとなると、ちょっと……となることはわたし自身も実感している。彼らにとっては働かないよりも働いた方が断然いいのだろう。いや、働かなければならないと考えているようにも思える。
 わたしは彼らの価値観に従って働くべきなのだろうか。「立派にやってるね」とか「しっかりしてるね」と言われるために仕事をした方がいいのだろうか。
 こう考える時、判断基準は自分の側にはなくて、相手の側に委ねてしまっている。もちろん神様の判断基準には従うべきだけれど、それだって自分の意志を殺してしまっている。いや、そんなことを言わないで神様に従うべきなのか。そして、パウロが言っている「働かざる者食うべからず」を神の言葉として受け取ってそれに従うべきなのか。
 って「べき」って何なんだよ。わたしを今縛り上げて拘束しようとする「べき」。
 わたしには、キリスト教徒として失格かもしれないことを承知の上で言いたいことがある。これは何らキリスト教的ではない。むしろ異教的でさえある。アーユルヴェーダにこんな考え方があるのだが、わたしはそれを採用したい。「自分の体と心の声を聞く」。シンプル。何てシンプルなんだろう。わたしに寄せられる批判は重々承知の上である。
 お前はクリスチャンなのに、神様よりも自分を大切にしている。それでお前は本当にクリスチャンなのかよ。
 痛い。痛いよ。予想される批判が痛いよ。でも、神様はわたしに「自分を大切にしなさい」とおっしゃられているのだ。
 はっきり言って、わたしは新聞配達をやりたくない。コンビニのバイトも、スーパーのレジ打ちもやりたくない。
 心の声を聞く。わたしの心の声はこれらをやりたくないと拒否している。それなのにやらなければならないとしたら、それは世間や社会などがやれと言うからなのだろうか。ご近所や親戚などが働くとほめてくれるからなのだろうか。
 わたしは断固としてやりたくない仕事は拒否したい。たとえ、それが神様からの命令であっても拒否したい。(と言いつつも神様からの命令は拒否できるものではなくて、首根っこつかまれて引きずり出されるだろうから拒否できないけど。)不信心? 反社会的? 自己中? いくらでも言ってくれ。でも、わたしはやりたくないんだ。そういった仕事はやりたくないんだ。
 わたしには自由がある。どんな仕事を選ぶのも自由だ。どんな仕事だってしていい。だから、やりたくない仕事をしなくてもいいんだ。何よりもやりたくない仕事を無理矢理やるのは自分をいじめることになるし、その仕事に対しても失礼じゃないか。いい加減な気持ちでやるくらいだったら、最初からやらない方がいいだろう。仕事をいい加減にやってしまって迷惑をかけることは何よりも嫌だ。
 さらにわたしは統合失調症なんだ。社会的にも重い病気と認められているんだ。だから、労働が免除されていて、生活保障が障害年金でなされているんだ。つまり、国だってわたしに働けとは言っていないのだ。
 最近あった祖母のお葬式で仕事をして自立している弟が親戚の人から言われていた言葉が忘れられない。「立派にやってるね。」あぁ、この一言を言われるためだけに仕事をするのは空しいなって心底わたしはその時思ったのだった。というか、わたしだってわたしなりに精一杯やっていて、立派にやっているはずだ。それなのに親戚の人はわたしのことを立派だとは一言も言ってくれない。でも、いい。わたしは立派だと言われるために生きているわけじゃないから。わたしはわたしらしくイキイキと幸せになるために生きているんだから、それでいいじゃないか。開き直る星である。逆に言えば、名誉や賞賛を浴びるように受けたけれど、自分の人生が終わるかどうかという頃になって、あの時あれをやっておけば良かった、どうしてあれをやっておかなかったのだろう、などと猛烈な後悔に襲われるのだとしたら、その人の人生って一体何だったのだろうねということになってしまう。
 ぬるま湯。わたしが今つかっているのはぬるま湯なのかもしれない。でも、ぬるま湯につかっていられるのって幸せなんじゃないかな。だって、今を本当に味わえているんだから。さっさと湯船からあがって、さぁ、仕事だ、仕事だ、じゃなくてあったかいお風呂にゆっくりとつかっていられるんだから明らかに幸せだ。それに熱いお湯だと長い時間は入っていられないし、(つまり幸福が持続しない。)あまりの暑さにのぼせてしまうことだろう。でも、ぬるま湯は違う。活動性や激しさなんかはないけれど、ただ今を幸せだなって思える。今を大事にできてるんじゃないかな。そう考えるとぬるま湯もまんざら悪いものではないって思うよ。
 あなたはぬるめのお湯と熱いお湯のどちらが好きですか? わたしはぬるめの方が断然好きだな。

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