残そうとしなくても残してるよ-内村鑑三『後世への最大遺物』を読んで

キリスト教エッセイ
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 Yさんからぜひ読んでください、とのことで、星さん早速注文して読みましたよ。内村鑑三『後世への最大遺物』読了!! 星さん、真面目、律儀、几帳面。ちゃんと読むところが偉くない? って自分で言っちゃう。
 いやぁ~、何ていうか引き込まれましたよ。面白くて一気読みした。3日くらいかかるかと思ったけど、一気に読めた。
 ネタバレになるけど、本の内容をざっくり言ってしまうと、後世に残す遺物には、金銭、事業、思想、文学、教育がある。お金を後の世の人々に残す。何か事業をやってその果実を後世の人々に残す。思想、文学を紡いで残す。教育という形でもって残す。いろいろと残せるものはある。そうしたものを残していった偉大な先人たちを内村は紹介していく。が、そうしたものを残せない人はどうしたらいいのか。鋭い問いである。誰しもがさきに挙げたようなことができるわけではないからだ。じゃあ、そういういわゆる無名の無力な人たちはどうしたらいいかって言うと、内村は「勇ましい高尚なる生涯」を残すことはできるんじゃないかって提案するんだ。そして、さきの遺物ももちろん素晴らしいんだけれど、それ以上にこの遺物には価値があって、これこそが後世への最大遺物だと彼は力説する。要するに高尚に生きて、つまり真面目に生きたらいいんじゃないかってことだ。真摯に生涯を生きる。それこそが何物にも代え難い。そう内村は説いているように思える。
 わたしはこの内村の文章を読んで満更わたしも捨てたもんじゃないなって思った。なぜなら、わたしはこのブログを通して自らの思想を紡いで発表しているからだ。わたしの文筆はおそらく、というよりは確実に歴史に埋もれていくものだろう。内村が挙げたジョン・ロックのように人々に絶大な影響を与えて、国をも動かすなんてことはできない。ジョン・ロックが100の影響を与えたとしたら、わたしのなんて限りなくゼロに近いものでしかないだろう。0.0000000000000…01ではないかと思う。でも、影響力が皆無だとしても、もしもわたしの文章が死後にも記録媒体に残されて後に数名であったとしても、彼らに何らかの感動を与えるのであればこれには意味があるのではないかと思うのだ。わたしは残している。残せているじゃないか。仮にわたしが明日死んだとしても、このわたしの文章はいつまでかは分からないけれども残る。だから、これこそわたしにとっての後世への遺物なのだ。ささやかな贈り物と言うしかないような、本当に小さなささやかな贈り物。
 わたしは内村に励まされたような気がした。「星さん、もっと書きなさい。後世にあなたの文章をもっと残していくのだ」と言われているような、鼓舞されているような気がするのだ。
 でも、まぁ、内村の言うように、その人が残したものよりも、その人の生涯の方が優るというのはもっともだと思った。
 だが、わたしが内村と少し考えが違うのは、後世への最大遺物などとおおげさなことを言わなくても、もうすでにみんながそうしたものを残しているという点だ。
 人類の歴史が始まってからたくさんの人が生まれては死んでいった。生まれては死んで、生まれては死んでいく。その繰り返しの中で多くの無名の人たちは何かを考えてきたと思うのだ。何もまったく考えないで毎日を暮らすなんていうことは不可能だから、みんな多かれ少なかれ思想を紡いできた。その思想が今晩のおかずを何にしようかとか、誰々さんが今日も素敵だったとか、ダンナがうっとうしくて仕方がないとか、お金がなくて嫌になるとか、いろいろあったことだろう。
 もちろんそうしたことは記録として残されてこなかったから時の流れと共に消え去っていった。でも、わたしが思うにそうした人々の一人ひとりのかけがえのない生涯。わたしはそれこそが内村のオーバーな言葉をあえて使うなら、後世への最大遺物であると思う。こうしたものはおそらく後世には残らないことだろう。しかし、これこそが最大遺物だと遺ってもいないが思うのだ。だから、肩肘張って、俺は後世への最大遺物を残すんだなどと意気込まなくてもいい。そんなことをしなくても、あなたの最上のものは後世の人が認識するかどうかはともかくとして遺っている。遺っていないけれども遺っている。それは遺物ではない? いやいや、遺らない遺物も遺物なんじゃないの?(言葉の上で矛盾してるけど。)
 中にはとんでもない生涯を送って、大勢の人たちに呪われながら息を引き取る人もいることだろう。けれど、そうした人の人生であっても一瞬のきらめきはあったはずだ。99.9999%はダメだったかもしれない。しかし、その残りのかすかなきらめきが2秒か3秒だったとしても、あったんじゃないか。
 いいものを残そうと頑張って真面目に生きることは素晴らしい。でも、それができなかったとしても、その生涯は決してひけを取らない。それはそれで後世への最大遺物であるとわたしは思う。
 でかいことをやれた人は賞賛されて絶賛されて、すごい人だったと後世の人々に語り継がれる。でも、何もできない人。それもどうしようもない欠点だらけの生涯しか送れなかった人であってもそれはそれで意義が十分にあったし、あると思う。
 神様にとってはみんな大切で特別な存在なんだ。神様も人間の価値に甲乙つけることはできないと思うな。生前神様に逆らい続けたり、無視し続けた人であっても、神様にとっては大切な人なんだよ。
 内村はすごく真面目な人間だと思う。でも、もっと真面目じゃない人に優しい目が開かれていたら、彼の思想にもっと深みが出たんじゃないかな。(内村のことはほとんど知らないので直感的に思ったことを好き放題にわたしは言ってるだけだけど。軽薄御免。)
 真面目な人間は不真面目な人間が許せないもんなんだよ。だから、そういう輩は最後の審判で地獄に落ちるんだよ、とはっきりと明言したくなってくる。でも、わたしは不信心な者も信仰あつい者も同じように愛してくださるのが神様だと思っている。まるで太陽のように、正しい者にも正しくない者にも同じように光を降り注いでくれるんだ。きれいごとだと思うのなら思っていてくれればいい。どちらにしろ終末に決着が付くのだからそれまで待とうではないか。
 残そうとしなくても残せる。後世への最大遺物か。みんなそれを残してるから大丈夫。たとえ後世に語り継がれなかったとしても、記憶に一切残っていなかったとしても大丈夫。神様のもとには残っているから。やっと分かった。神様のもとには残ってるんだ。ようやくスッキリした。神様のもとにあなたの生涯は永遠に最大遺物として残り続ける。まぁ、後世の「人々」への遺物を残せなかったとしてもね。
 でもね、神様だけじゃなくて後の世の「人々」にも残したいと思ってしまう。残せるものなら残したいと思ってしまう。罪深いな、わたし。
 そんなわけで今日もわたしはブログの執筆をやっているんだろうな。あはは(笑)。

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