ポルノをやめる- ゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』読了

 ゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』を読了した。
 この本を読むとポルノをやめたくなる。そんな本である。


 この本の内容をかいつまんで言うなら、ポルノ利用によってEDになったり、メンタルが悪化したり、現実のパートナーとの性的な交わりについて意欲が減退したりするという話なのだ。だから、ポルノ利用をやめてみたらどうか、という話を展開していく。そして、ポルノ利用からの回復者たちの劇的な回復の話が続く。
 わたし自身、ポルノ利用について振り返ってみると、たしかにポルノによってメンタルが悪化していたような気がするし、頭がぼーっとする感じも実感としてある。無気力になるというか、気持ちがよどんでくるのである。わたしの場合、ネットポルノなどをせずに、読書、散歩、筋トレ、執筆、料理、楽しい会話などをしている時の方が断然調子がいいのである。決まって調子が悪くなってベッドに寝込む時というのは、その前に長時間ネットをやっていたり、特にネットポルノを視聴したりしていた時なのである。わたしが調子が悪くなる時というのは大抵このパターンなのである。だから、これらの原因と思われる行動を取り除くことは理にかなっている。もっともな行動だと言える。
 この本でポルノの脳科学が説明されていたものの難解で、脳の仕組みすら覚束無いわたしには理解することができなかった。その点については、脳科学を勉強して再読に臨みたいと思う次第である。
 でも、そのポルノの脳への影響について脳科学的に迫ることもいいけれど、何よりも重要なのは、自分が実際にポルノを利用することによって本当に益を受けているかどうかと考えることではないだろうか。自分をいわば人体実験的にとらえて、どんな影響がポルノによってもたらされているのか、つぶさに自分自身を観察していくのである。そういうわけで、ポルノの影響を検証するために、ポルノを数週間ほどやめてみることを著者は奨めているのである。
 もしかしたら著者の主張はポルノをやめる方向へと傾きすぎているのかもしれない。「ポルノくらい見てもいいんじゃない?」となだめる人もいることだろう。
 でも、少なくともわたしは明らかにポルノを見ることによって害を被っていた。明らかにメンタル不調はポルノのせいだと思うし、ポルノから離れてまだ数日だが、とにかく調子がいいのだ。あの頃の好き放題裸体を見ることができたけれども調子が悪かった日々に戻りたくないのだ。
 賛否両論分かれるだろうが、少なくともわたしにはポルノ鑑賞は向いていないようだ。どうしてもポルノを見るとメンタルが低下して、頭が鈍くなる。わたしに合っていないというか、わたしの場合向いていないのだ。だからやめているし、引き続きやめたいし、将来もやめる方向でやっていけたらと思っているのである。
 平和で穏やかな日々を送りたいと思っているからわたしはポルノをやめたい。そして、キラキラ輝く生気にあふれた幸福な人生を送っていきたい。
 ただ、完全な禁欲生活を送ろうというのではない。適度に性欲は発散させる必要があると思うので、ポルノやポルノ妄想なしで純粋に物理的刺激のみで処理できたらと思っている。
 わたしが今までやめようと思ってもやめられずに来たもの、それがポルノなのである。でも、この本を伴走者にすればやめられそうな気がする。それだけこの本がわたしに与えた影響は大きい。気持ちが揺らいだらまたこの本へと戻ってやり直す。そして、また再出発。それでいいんじゃないかと思う。
 人生はポルノよりも素晴らしいもので溢れている。だから、ポルノではなく、それを享受するのである。逆にこれだけ豊かなものがあるのにポルノにしがみついているなんて、時間もお金も労力ももったいない。今までのわたしがポルノに割いていたそれらのエネルギーを別の有意義な活動に使っていけたら最高だ。
 わたしはもうすでに新しい歩みを始めている。後は続けるだけ。確実に、確実に続けていくだけ。明るい未来が見えてきたような気がする。


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祈るだけで終了?

 美しい言葉がある。その言葉は本当に美しくて、聞く者を惚れ惚れとさせる。それどころか、惚れ惚れを通り越して恍惚状態へと導いていく。
 聖書を開けば、特に新約聖書の福音書や手紙などを見てみれば、美しいまるで宝石のような言葉が所狭しとわたしたちの前に現れてくる。キリスト教は言葉の宗教だ。そして、言葉の力をどこまでも信じていこうとする。聖書の一字一句そのままが神のことばだと言うのは、ちょっと無理があるんじゃないかとわたし個人としては思うのだけれど、聖書は聖なる書物なのだということには疑うことなく同意できる。
 でも、厳しい現実に直面するような時に、こういうことを言うのはクリスチャンらしからぬ不謹慎なことではあるのだけれども、どこか聖書が綺麗事を並べているだけのように思えてきてしまうことがあるのだ。
 「神は愛」「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。」などなど。極めつけは、わたしの旧ブログ名でもある「1ヨハ3:16」である。

 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(ヨハネの手紙一 3章16節)

 キリスト教は綺麗事を並べているに過ぎないのか? 阪神・淡路大震災、東日本大震災、なくならない犯罪、交通事故、病、障害。神が愛であるはずなのに次々と起こる不条理な出来事。
 そんな時に、美しい言葉が役に立つのか。果たして、東日本大震災で亡くなった方の遺族に「神は愛です」と胸を張って言うことができるのだろうか。
「神が愛ならなぜこんなことが起きるのか?」
「神が愛だからです。」
 どうもしっくりこない。
 神の愛は人間の愛を超越したものだからと弁解したところで、到底受け入れることは出来ないだろう。
 また、わたしがクリスチャンをやっていて、これってどうなんだろう、と思う時がある。それは教会で皆で礼拝の中で祈りを捧げる時のことである。「教会の祈り」という時間があり、牧師が祈りを教会の祈りとして皆で捧げるのである。わたしはこれ自体は決して悪いことではないと思う。むしろ、いいことだ。虐げられている人たちや困難に直面している人たちのことを覚えて祈りを捧げる。それ自体は無関心で素通りしてしまうことに比べたら関心を持ち続けているわけだから、雲泥の差がある。無関心が一番良くないとたしかマザー・テレサも言っていたと思う。
 けれど、わたしはこれって綺麗事言ってるだけじゃないのか、と思えてきてしまうのだ。二人または三人が集って祈りを捧げれば神様は願いを叶えてくださる、と主イエスも言われている。わたしはそのことを全面否定したいわけではない。ただ、祈るだけで完結してしまって、実際に具体的な行動に移さずに満足してしまう、そのあり方は明らかに問題だと思うのだ。
 わたしは熱海で豪雨による土砂災害があった時、何も寄付などしなかったから何かを偉そうに言える立場にはない。そんな人間であるわたしなのだが次のように思うのだ。
 そう、熱海のことについて教会で教会の祈りを皆で捧げた時、教会にいた人たちが皆、寄付などをしていたのであればもう言うことはない。けれども、寄付も何もせずに祈って自己満足してしまうだけであったのだとしたら、それはどうかと思うのだ。それだったら祈らなくても同じ、とまでは言わないけれども、どこか無責任なように思えてきてしまうのである。
 ここでわたしの短歌を一首。

 アーメンと祈り捧げて満足だ祈れば何もしなくてもいい

 ナイチンゲールは環境を人間の力で変えることが必要だと力説する。彼女は劣悪な衛生環境の病院を改善して、死亡者を激減させた人物である。救いにおいては神様に全面的に委ねるとしても、それ以外のことについては人間の力も必要なのではないかと彼女の文章を読んでいると思えてくる。(F・ナイチンゲール『真理の探究』)できないことは神様に委ねなければならないけれど、できることは人間が取り組んで、人間の力によって改善して良い方向へと持って行くのである。
 あるクリスチャンの医師は重傷の患者の家族にこんなことを言ったそうだ。「やれることはやりましょう。そして、神に祈りましょう。」
 やれることすらやらないで、全部神様任せというのは無責任ではないだろうか。だから、やれることをやった上で神様に委ねたいとわたしは強く思う。
 熱海の災害のことで言えば、自分たちができる範囲内で寄付をするとか、やれることをやった上で祈りを捧げるべきだと思うのだ。「べき」という言葉はあまり好きではないけれど、わたしはそうすべきだとあえて書きたい。
 だから、世界の貧困問題に胸を痛めるのであれば、関連団体に寄付をする。日本のコロナ問題で苦しんでいる人のことが気にかかるのであれば、コロナ患者を受け入れている病院に寄付をする。
 わたし一人の力では無に等しいことくらいしかできないけれど、それが1万人、10万人、100万人と支援の輪が広がっていけば凄まじい力となる。
 祈りも大切だけれど、やるべきこと、できることをやる。それから祈っても決して遅くはないんじゃないか。むしろ先に現実において行動に移すべきではないかと思う。溺れている人がいるとして、具体的な助けを何もせずに祈っているだけというのは滑稽な話であるから。
 そういうわけでここまで偉そうに一人前なことを語ってきた星なのだけれど、遅ればせながら募金をしようと思う。
 こうした小さなアクションを皆がとることによって世界は良い方向へと確実に変化していく。世界は捨てたものではない。世捨て人のように祈るだけというのはやめて、この世界を、そして現実をわたしたちの手によって変えていこう!!

梅干しを干しています

 梅干しを干す。いいなぁ。とても味わいがある。この光景、どこか懐かしい。
 てなわけで、梅干しを干している星さんなのである。星なだけに梅星ってか。いやいや、漢字変換違うから。間違えてるから。星の梅干し。星は星でも干すやつね。
 星さんちでは今、梅干し作りの真っ最中で、仕上げの段階に突入したのである。
 梅干しの作り方をご存知ないというあなたに簡単に作り方をお教えしよう。えーと、どんな風にしたんだっけ? 曖昧な記憶をたぐり寄せながらって、説明するのが面倒くさい。サービス精神に欠ける面倒くさがり屋の星である。
 と・も・か・く、梅の実を一ヶ月半くらい漬けて、干して、しばらく置いて完成のうちの、干すという段階なのである。梅干しはもう干せばだいたい出来上がりといったところなのである。
 梅を干すと書いて「梅干し」なわけだけれど、「どれくらい干すんですか?」と思われたことだろう。
 そうですね。3日間くらいですね。3日間干します。
 意外と干す期間って短いのね。意外でしょ? 自分で梅干し作ってみてはじめて分かりました。短いのだ。3日干せばほぼ完成。それで干す作業は終わりなのである。
 話を戻して、梅干しを干してる風景って本当にいい。何よりも梅干しを干そうという心のゆとりというか余裕が感じられるのがとてもいい。梅干しって心に余裕がないと干せませんよ。だから、リア充な星さんなのであると自分でも思う。
 お日様の光がさんさんと降り注いでいて、ポカポカしている。そして、その下で気持ちよさそうに干されている梅干したち。いいなぁ。本当にいいなぁ。何回、いいなぁって言っても足りないくらい、いいなぁ。
 梅干しの歴史は存じませんが、日本のこころではないかと思う。日本の古き良き時代を彷彿とさせる梅干しが干してある日本の風景。こころが和む。安らぐ。ほんわかする。安心する。落ち着く。
 言うまでもなく、ご想像の通り、梅干し作るのって結構手間暇かかって面倒くさい。梅を3日干すのも、1日ごとにまたかめの中の梅液に戻して、また干すために取り出して広げて、そして、干して、と手間暇かかること申し分ない。
 でも、この行程に味がある。作る過程に味わいがあるのだ。
 今は現代で便利な時代だから、梅干しなんてスーパーへ行って千円でも出せば山のように買えることだろう。しかし、わたしはこの自家製梅干しにお金では買えない何か尊い価値のようなものを見出しているのである。現代人が失ってしまった大切なものを思い出させてくれているようにさえ思うのである。
 たかが梅干し。けれど、されど梅干し。
 で、何でわたしが梅干しを作ろうかと思ったのかと言えば、教会にある人が全部で10袋くらい持ってきただろうか。一人1袋ずつってな具合でほしい人にくれたのである。それでもらった梅の実をどうやって使おうかなぁと思っていろいろ考えたのだが、梅酒はお酒を1滴も飲まないわたしには作っても飲めないしとなった時、「そうだ。梅干しを作ろう」と決意したのである。だから、こうして梅干しを作ることができているのは教会の梅を持ってきてくれた人のおかげなのである。
 もしかしなくても、神様経由で梅をもらったようなものである。神様、ありがとう。わたしが梅干しを作るように導いてくださいまして本当にありがとうございました。

 あなたもよかったら梅干し作ってみませんか? 本当、いいですよ。

 <追伸>
 梅干しの作り方には3日干すように、とあったものの、2日干していい感じになったので試しに食べてみることにした。
 食べた。
 わたしの第一声「しょっぱっ!」。
 うー、しょっぱい。塩分少な目にしておいたはずなんだけどなぁ。とか思ったのだが、母にも食べてもらったら「美味しくできてるよ、この梅干し。」とのことだったので、こういったものであるようだ。
 それから、祖母にも食べてもらった。祖母は「美味しい。美味しい。」と何度も言って、梅干しの種を結構長い時間「美味しい」と言いながら口に含んでいた。相当美味しかったようで祖母はご満悦であった。それから、「梅干しがしょっぱすぎなくてちょうどいい」とも言っていた。
 たしかに二人の意見をもとにして考えてみるなら、これは薄味の梅干しではなくて、そう。田舎のおばあちゃんが作ったような梅干しなのである。梅干し自体で食べるよりも、おにぎりにしたら何個でもいけそうな、そんな感じの梅干しなのである。だから、上品な梅干しと言うよりは、しっかり味がついていて、しっかり酸っぱい。そんな梅干しなのだ。そういう観点からこの梅干しを再評価するのであれば、これはこれでわたしにとっては少々しょっぱいけれど、美味しいのかもしれない。
 星さん、30代にして田舎のおばあちゃんの味が出せてるわけでして。案外、そういう意味ではうまくできたのかもしれない。なおのこと、まだ梅干し作りは初回なのだから、初回にしてはおいしくできたんじゃないか。万々歳なのではないか。やりましたよ、星さん。やったー。
 そういうわけで梅干しを干すのは2日目にして終了で、梅干しは完成したのであった。
 これから梅干しライフが始まるわけで、とても楽しみだ。食べ過ぎは塩分過剰で体に良くないけれど、ぼちぼちほどほどに食べていきたい。
 いやぁ~星さん、梅干し初挑戦にして見事完成させました。やりましたよ、星さん。よくやりましたよ、星さん。毎度毎度のことながら自分で自分をほめてあげたい。
 梅干しはスーパーで買うものであって今までは自分で作るものではなかった。それをちょっと頑張ってトライしてみて、それで何とか目標を達成して、と自分自身の可能性に目を見開かされる思いだ。やればできるじゃん。わたしって案外やればできる子じゃん。だからと言って自信過剰になるのは良くないが、何か自分が今までできなかったことに挑戦してみて出来た。これは大きな成長ではないだろうかと思う。
 わたしの自己肯定感、ほんの少し上がったかも。梅干し作りを通して、多くの気付きを得た37歳の夏の終わりであった。よくやった。梅干し食べられるの、嬉しいなぁ。
 以上、長くなりましたが追伸でした。
 ここまで読んでくださったことに感謝!!

言葉にならないもの

 言葉にならないもの。そういうものを記録したいと思う。願う。それは、そもそも無理なことなのかもしれない。不可能なのかもしれない。だって言葉にならないものなのだから。
 今、わたしが感じていること。これは言葉にならない。まずもってして言葉にはならない。言葉は便利な事象変換器ではない。
 今、わたしの目の前には猫のルルがいる。それを言葉で伝えようとする。必死になって伝えようとする。けれども、この光景を完全に文章において再現することはできない。
 では、映像だったら可能なのか? それも無理な話である。今、わたしが感じている質感、温度、それらを伝えることはできない。
 でも、いつか科学技術がどこまでも発達していったら、わたしが今ここで目の前にいる猫のルルと三次元の空間、それから質感、温度、などなど微細なところに至るまで再現できるようになるかもしれない。
 それでも、できないだろうことは、わたしがどのような感覚で、何を思い、何を考えているかについて、今ここにいるわたしをわたしとして体感すること。これはできない。いや、科学技術が発達すれば・・・、できるかもしれない。あなたがわたしになって、わたしがあなたになる。それを体験できる。素敵は話なのだろうか。
 いやはや、どこか抵抗がある。科学技術が・・・って、たしかにそうかもしれないけれど、そうなるとわたしが分からなくなってくる。わたしもあなたも溶け合って一つになっていくのだろうか。そして、そんな世界をわたしたちは望むのだろうか。
 言葉にならないもの。それはわたしが今感じているこの感覚。わたしがわたしであること。
 ところで、と言うのにはヘビーな話だけれど、ところで祖母の寿命が迫ってきた。予定通りに行くのであれば来月の5日か6日頃には亡くなる予定だ。まだ亡くなるような感じがしない。もしかしたら、もっと生きるのかもしれないという希望すら湧いてくる。医者の余命宣告は案外はずれるものなのだろうか。わからない。それはわからない。けれど、祖母がもう少しで亡くなるとしたら、祖母を見ることはもう見納めになる。
 祖母が目の前にいるということ。言葉にならない。祖母がいなくなって目の前に見えなくなること。これも言葉にならない。
 もしかしたら、すべてのものが言葉にならないものなのかもしれない。再現することのできない一回ぽっきりの、一回しかない、一回だけの出来事。だから、一期一会という言葉は的を射ている。その瞬間のその人に会えるのはその瞬間だけなのである。そう考えるとわたしが生きているこの瞬間、瞬間が何かとても尊いものに思えてきた。と書きながら涙ぐんでいる、涙ぐみ始めているわたしである。
 というような感じで猫のルルを眺めていたら、「何だニャ?」と少し怪訝そうだ。このルルだって明日ではないけれど、いつかは死ぬのだ。尊い。そして、有り難い。生きていることが、猫のルルが生きていてくれることがこんなに愛おしいとは。
 相変わらずネガティブで自己中で自分と他人の境界線が曖昧で侵入的でおそらくこの調子が続くであろう祖母ではあるが、一期一会だと気を取り直していきたい。
 言葉にならないものを「言葉にならないもの」と言葉にしていることはしているが、やはり言葉にはならないものなのである。だから、言葉にならないものなのである。
 言葉からこぼれ落ちる豊かなものを感じ取りつつ、それでも言葉にならない日常や考えや感触を言葉にしていけたらと思うわたしなのであった。言葉にならないからこそ、それが不可能であるからこそ、逆説的だが言葉にしていこうとするのである。そこに人間らしい営みがあるように思えてならない。
 毎日のありふれた出来事を味わっていきたい。

聖人になれないんです!

 最近、神秘神学の本を読んでいるわたしである。読んでいるといろいろな人が登場してくる。その登場してくる人たちがすごい人たちばかりで自分がつまらない人間のように思えてくる。
 まだ全体像が見えるところまでは到達していないのだけれど、東方正教会の聖人に特に惹かれる。
 わたしはプロテスタントのクリスチャンだから西方のキリスト教を信奉している人間だ。だから、東方にはあまりなじみがなかった。けれども、彼らのことをざっくりとではありながらも学び、知識を深めていくうちに唸らされてしまったのだ。
 すごい。何か聖なるまさにホーリーなのである。とにかく神秘的でさえあるのである。
 それに引き換え、わたしは一体何なのだろう。信仰は他者と比較するものではなく、自分と神様の関係だということは分かっているのだけれど、彼らのあまりの聖性ゆえに自分が薄汚く汚れに満ち溢れているように思えてくるのである。わたしは唾棄すべき人間だ。汚い。汚い。まるで肥溜めの中でのたうち回っているようなそんな人間なのである。「それって人間らしくていいじゃない?」とはとても思えない。
 わたしは、そう。聖くなりたい。どこまでもどこまでも聖くなりたい。それでその清らかさで神様のもとに召されたい。そんなことを思う。
 となると修道院へ入って現世の享楽をすべて捨て去らなければならないということになりそうだ。でも、できない。わたしにはできない。現世の刺激は刺激で捨て難い魅力を放っていて、わたしはそれらをゴミ箱の中へと捨てることができない。
 Googleで検索すれば一生かかっても見きれないほどのアダルト動画が用意されている。何という誘惑なのだろうか。そして、それに負けて情欲のとりことなっている醜いわたし。
「もう嫌だ。こんな汚れた世の中、捨てるんだ。捨てたいんだ。」と思う時もある。けれども、また気が付くとネットの成人向け動画を視聴しているわたしなのだ。成人にはなったけれど、聖人という意味では成人になれていない。少々分かりにくい言い方かもしれないけれど、聖性という点においてはわたしは赤子のようなものではないかと思うのだ。聖人と崇められている人たちを大人とすれば、わたしは赤子に過ぎない。いや、下手をすると受精卵か未熟な胎児レベルでしかないのかもしれない。それくらいわたしは彼らと比べて未熟な存在なのだ。
 20年とか30年も禁欲をしている彼らの心の状態を想像することは、3日の禁欲であっても激しい苦痛を覚え難しいわたしにはまったくできない。何か超人的というか、別の次元に突入している。生きている世界が違うようにさえ思うのだ。
 少なくとも言えることは、アダルト動画を見ているような聖人はいないだろうということだ。そんな聖人、何か嫌だ。嫌に決まっている。
 ここで素朴な疑問がわたしの中で浮かんでくる。神様はなぜ人間の性欲をお造りになられたのか、ということだ。
「あんたねえ、そんなこと言うけど、人間、性欲がなくなったら人類滅びちゃうよ。」
 もっともな指摘ではある。でも、わたしはそのことに一歩踏み込んで問いたいのだ。なぜ性欲がなければ人間を増やせないように神様は人間をお造りになられたのだろうか、と。わざわざ、性とか生殖とか厄介になりそうなものを用意しないで、神様ご自身が人間を増やしたい時に無からポンっとその度に創造されていても良かったんじゃないか。そんな理屈をこね回す姑息なわたしなのである。
「あんたねえ、性欲を敵視し過ぎなのよ。性欲っていうのはねえ、いや性はね、人間に生きる希望と喜びと充実感を与えるものでもあるのよ。だから悪いものじゃないの。素晴らしいものなのよ」
 わたしにこうして「あんたねえ」と話しかけてくる子どもが4人くらいいる仮想の肝っ玉母さんによれば、わたしは性というものを嫌悪し過ぎているとのことのようだ。
 主イエスだって「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。・・・天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11,12)と言われているではないか。
 わたしが禁欲できないからと言って気落ちしなくてもいいのである。そうか、できる人だけでいいのか! 東方の聖人たちはもしかしなくても恵まれた人たちではなかっただろうか。あぁ、御言葉に救われるような思いがする。
 アダルト動画を見ることの是非はともかくとして、禁欲することができない自分を責め立てる必要はなかったのだ。
 別の言い方をするのであれば、神様がわたしのためにお造りになられた性的欲求である。他人に迷惑をかける性欲の発露はダメだけれど、この与えられた性というものを大切にしながら生きていくことは尊いことではないのか。何か重い心のおもしが幾分か取り去られて楽になったような、言うならば解き放たれたような感じがする。
 聖人。なれる人はなればいい。なりたい人はなればいい。でも、なれなかったとしても、それも神様の御計画であり御心ではないだろうか。
 クリスチャンをやっていると自分の俗悪さに吐き気がする時がしょっちゅうある。教会行ってアーメンしてるけど、全然聖くないじゃないか。でも、こうも言える。聖くないからこそ、罪にまみれているからこそ、泥沼の中を転げ回っているからこそ、悲惨だからこそ教会へ行くのだと。もしわたしが既に聖人になれているとしたら、教会なんて行く必要、微塵もない。罪人だからこそ教会へ行くのである。
 死ぬまで罪人のわたしである。でも、だからと言って自分から罪を無尽蔵に増幅させることもいただけないことだと一方で思う。アダルトコンテンツとは適度な距離(?)を取りつつやっていけたらと思う。って中途半端な結論に落ち着いたわけだが、完全に聖くなれないのが人間なのである。と言い訳をする聖くないわたしなのであった。肩の力が抜けていて、力みがなくていいと言えばいいのかもしれないが。
 緊急事態宣言が発令されてからというもの、うちの教会も公開礼拝は中止して家庭礼拝を、ということになった。今まで礼拝を守れていたことがいかに恵みであったかを噛みしめる日々である。教会恋しいなぁ。でも、またきっと再開される。だから、大丈夫だ。コロナはじきに収束する。だから、大丈夫だと信じたいし信じている。


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