白馬の王子様。女の子の憧れ。なれるものならなりたい。近付きたい。そんなことを思ったりした時期もわたしにはあった。
けれど、なれなかった。無理だった。なれないのだ。
わたしの中の白馬の王子様的なイメージの人物は人気俳優のMだ。Mは背が高くてすらりとしていて、甘いマスクで、さわやかで、好感度抜群で、清潔感があって、女性に優しくて、思いやりがあって、……とまさに白馬の王子様を具現化したような、そんな人なのである。男のわたしであっても、その王子様ぶりは認めないわけにはいかない。それほどの人物。
けれど、Mはある日突然自殺したのだった。あんなにいい人がどうして? 何で? 何があったの? みんなそう思った。みんな俳優のMが白馬の王子様的な好青年であることは認めていて、その突然の死を驚きながら悼んだのだった。
人気俳優Mの自殺。わたしは彼の死が週刊誌で取り上げられているとき、特に彼について知ろうとはしなかった。ただ、彼が死んだことに衝撃を受けただけであって、彼の心の遍歴を知りたいとまでは思わなかった。いうならば傍観者である。しかし、今、白馬の王子様というキーワードにスポットライトを当てて焦点化するにあたって、Mのことが思い出されたのであった。
冒頭でわたしは、白馬の王子様になりたかったけれどなれなかった、ということを書いた。けれど、今のわたしは白馬の王子様になりたいわけではない。つまり、なりたくなくなったのである。
なったところでそれが何なんだ、というのが正直なところである。自然になれる人はなっても構わないと思う。しかし、白馬の王子様でいることはとても大変なことではないかと思うのだ。
まず、プロポーションを維持するために、甘いもの、カロリーの高いものをドカ食いできない。酒も飲み過ぎれば太るから、適量でセーブしなければならない。すらりとしているというのも案外大変なのである。それから、肉体美を保つためにエクササイズなどの筋トレなどもしなければならない。イケメンはゴロ寝ばかりしていられないのである。それから、それから、まだあるのだ。内面の美しさを磨くために知的な鍛錬を積まなければならない。それから、それから。白馬の王子様はかっこいい仕事をこなさなければならない。仕事もプライベートも充実させなければならないのである。それもスマートにエレガントに。
とにかく白馬の王子様は格好良くいなければならないのだから、Hなビデオを見てはいけないし、鼻くそをほじってもいけないし、おならなんて言語道断である。
もしかしたら、いやもしかしなくても、Mは自分について回っていたその白馬の王子様的なイメージを守ること、その規範に従って生きることに疲れてしまったのではないだろうか。Mのことを何も知らないわたしだが、こんな勝手な推測をしてみたりする。
もし自殺前のMと話ができたとしたら、わたしはどのようなことを彼に言ってあげることができるだろうか。
「白馬の王子様でいなくてもいいよ。ありのままのあなたでいてくれればいいよ。」と彼に声をかけてあげたいと思う。
ありのままではなくて白馬の王子様であろうとしたり、理想の自分の姿でいようとすること。それはやはり無理をしている。どこかで無理をしている。それはたしかに言えることである。
そういうことでわたしは、以前あれほど熱心にやっていたボディメイクのための筋トレをたまにしかやらなくなったし、運動もさぼり気味になったし、知的な鍛錬も前ほどがむしゃらにはやっていないし、と怠け三昧なのである。でも、それはそれでいいと思っている。運動不足で寿命が短くなるのは避けなければならないけれど、そうではなくてただ外見を良くするため、つまりはみてくれを良くすることを第一に生活する態度を改めたのだ。ありのままのわたしでいいんじゃないか、と思い始めたのである。
向上というのは言うなれば、別の言い方をすれば自分へのダメ出しである。
今の体では美しくないから筋トレしなきゃ。体型が太ってきて格好悪いからもっと歩かなきゃ。お肌が荒れてるから食生活を正さなきゃ。知識量が足りなくて賢くないからもっと勉強しなきゃ。
たしかに人間、向上することは素晴らしいし価値がある。それは認める。人間にとって張り合いは大切なものだからだ。でも、本当に心が満たされている人間はそうやって何かをがつがつ求めたりはしないんじゃないかということにわたしは気が付いたのだ。
星は進歩することを批判するどうしようもない奴だと思われる方もいるかもしれない。でも、ここまで読んでいただければわかると思うのだが、何も進歩向上すること自体を否定しているわけではない。ただ脅迫観念的に足りない、足りないと求め続けること自体がどうかと言っているだけなのである。
自分が格好良くなりたい、きれいになりたい、頭が良くなりたい、もっと健康になりたい、スマートになりたい、と思って改善に励むことは悪いことではない。大いに結構なことである。
しかしながら、格好良くなければ、きれいでなければ、誰からも愛してもらえないだろうからオシャレをする。頭が良くなければ生きていても意味がないから勉強をする。……などと強迫観念に追い立てられてこれらのことに取り組むのは病んでいるのではないかと思ってしまうのである。
「やりたいからやる。なりたい自分になりたいからやる」を逸脱する時、注意信号なのではないかとわたしは思うのだ。
何かに秀でていることは素晴らしいことだ。しかし、それがその人の存在意義になる時、同時にそのことはそれを失ったら生きていけないことを意味する。
白馬の王子様になれなかったわたしだけれど、ありのままのわたしを受け入れる方向に変わり始めている。これは大きな変化だと思う。白馬の王子様になれなくても人生が終わるわけではなく、人生はそこから始まって続いていく。そう思う。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。