「頑張る信仰」と「ありのままの信仰」

キリスト教エッセイ
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 いつからだろう。気が付いた時にはもう既にそうなっていた。そして、紆余曲折あって今のわたしがある。
 急に何の話をし始めたのか説明不足で分かりにくかったかもしれないが、これは信仰についての話である。そう、気が付いたときには、であるのだ。
 わたしが思うに信仰には大きく分けて二種類あるんじゃないかと思っている。それは、「頑張る信仰」と「ありのままの信仰」の二つである。
 わたしが気が付いた時にはそうなっていた、というのは何を隠そう「頑張る信仰」になっていたのだ。
 頑張る信仰のいいところ。それはやっている感があるところである。
「わたしは頑張っているんだ。だから神様はきっと喜んでくださる。そして、自分がやる気に満ちあふれて成功の階段を駆け上がれているのは神様から選ばれているからなんだ。」そんな風に頑張る信仰に生きている人たちは考えている。
 このタイプはプロテスタントに多いらしいということを何かの本で読んだ。
 頑張る。たしかに頑張ることは素晴らしい。だって、みんな怠けていたら社会は停滞していくし、活き活きとしないからだ。
 でも、この信仰スタイルには問題もある。それはどこまで頑張ったら神様によしと認めてもらえるのか分からないことだ。頑張る。どこまでも頑張る。成長し続ける。で、いつまで? おそらく死ぬまでである。そして、天国へ行き安らかに憩うのである。もっともエイレナイオスの神学によれば、天国に行った後も人間は神に似たものとなるように成長し続けるらしいが。何とも気の休まらない話である。
 わたしも少し前まではこの「頑張る信仰」一色で息切れしては神様に不平不満をもらしていたものだった。
 だが、わたしよりももっと頑張る信仰を徹底してやった先人がいるのだ。それはマルティン・ルターである。ルターと言えば宗教改革を思い浮かべる人が大半だろう。
 ルターは頑張った。落雷をきっかけにして修道院に入ったルターはそこで必死に頑張ったのである。しかし、ルターはどこまで頑張っても神様によしと認めてもらえたように思えなかったのだ。まさに律法(決まり事、戒め)を守って正しい者にされようとしたのであった。でも、神様からの戒めを守れば守るほど、徹底的に守ろうとすればするほど、かえって自分が守れていないことに直面せざるを得なくなる。
 そんなルターが180度の転換をするのだ。神様から与えられた恵みさえあれば信仰が、信仰する心も喚起されて正しい者だとされる。だから律法を厳格に守る必要などない。もうすでに神様によって正しい者とされているのだから。わたしはこの信仰を「ありのままの信仰」と呼びたいと思う。日毎の糧(生活に必要なものすべて)も信仰さえも神様からのギフト(贈り物)で与えられるものなんだ。だから、その恵みをそのまま受け入れればいい。まさに他力である。
 「頑張る信仰」は自力で神様に認めてもらおうと頑張るのに対して、「ありのままの信仰」は視点が180度転回していて、もうすでに頑張らなくても認めてもらっているんだととらえる。後者の方が楽なのはもうお分かりだろうと思う。
 まぁ、「ありのままの信仰」の問題点はあることにはあるのだが、それは平和ゆえの問題である。それは恵みを強調することしかしないと平和ボケって言ったら語弊があるけれど、何もやらないでボケーっと「恵みに感謝。」と言っているだけになるのだ。
 以上をふまえて、わたしは「ありのままの信仰」にちょいと頑張ることをプラスするくらいがちょうどいいんじゃないかと考えている。神様に認めてもらうとか、神様に恥じないように頑張るのではなく、自分がやりたいから頑張る。いや、頑張るっていう言葉を使うのはやめよう。頑張るって言うと苦しい中歯を食いしばって取り組む様子みたいだから、わたしはこう言いたい。「やりたいからやっているんです。」と。何かそれが一番のような気もする。やりたくないのに頑張ってやっているんじゃなくて、やりたいからやっている。それでいいんじゃないか。
 やりたいことをやっている時って無理がないし、自然だし、力みもない。
 神の恵みを燦々とこの身に受けながら、それに感謝しつつ自然に、自然体(ナチュラル)で生きていく。そして、頑張ることに逆戻りしていたら、自分に「無理してない?」と問いかけて軌道修正していく。
 そもそも、短距離走のペースで長距離走であるマラソンのような人生を走り切ることは不可能なことだ。もっとも走るまでいかなくても、牛のように一歩一歩着実に歩んでいくことが最終的に長期的な視点に立った時には最も先へと進んでいるのかもしれない。地道にコツコツと歩んでいくものが最強ではないかと思えるのである。「うさぎとかめ」の話にもあるではないか。
 神様からの恵み。ともすると自力で恵みを獲得しようとしてしまう罪深いわたしであるけれども、この恵みに感謝することを忘れず、また、ありのままのわたしが神様に受け入れられていることも忘れず、この荒れ野である現世を神の恵みを受けながら歩んでいけたらと思うわたしなのであった。

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