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 森羅万象が波みたいなものだとしたら、わたしたちはどのように生きていったらいいのだろうか。
 わたしたちはすぐに人と比べる。そして、「俺のほうがすごいんだぜ」とか「わたしのほうが優れているのよ」などと誇示する。けれど、それは波のしぶきの飛沫でしかない。だとしたら、それを誇ることにどれだけの意味があるのか。
 波という思想に到達してから(まぁ、受け売りだけどね)、何だか見える景色が変わってしまった。何かを頑張ろうとか、達成しようとか、やってやるぜ、みたいなギラギラした欲望がすーっと消えていったわけではないけれど弱くなってきた。
 波。深淵な思想。すべては、この宇宙全体とそこに存在するものは波のようなもので、すべては同じ海の水が形を変えた現象にすぎないという思想。たしかに真実なのかもしれない。しかし、あまりにも真実すぎてわたしの小さな器では受け止めきれない。
 すべてが波だとしたら、なぜ向上しようとするのだろうか。良くしようとするのだろうか。そうすることに何か意味があるのか。わたしたちはとかくいろいろなものを良くしようとする。商品を、自分自身の身体を、心を、精神を。けれど、すべては波なのだ。だから、どんなに何かを良くしようとしたところで、それは少し波の形を変えるだけのことでしかない。商品という波を、わたしという波を、森羅万象という波を。
 こう考えていくと、今まで人類が歩んできた歴史も波であり、膨大な書物も波。波、波、波。とにかくすべてが波。わたしがそのことに絶望したとしても、それも波(心だって波だから)。
 波はたしかに存在する。が、すぐに消えてしまう。波は海水に戻る。人間や生き物が死ぬと土に還っていくように。
 神様はどこにおられるのだろう。神様はわたしたちの中におられるのだろうか。万物の中にあまねくおられるのが神様のような気がする。ということは万物が神なのだろうか。森羅万象、万物は神の化身なのであって、探すまでもなく、求めるまでもなく神様はわたしたちの中におられるのだろうか。いや、神様とわたしたちの境界などないのかもしれない。となると、わたしも神様。あなたも神様。みんな神様。あぁ、わたしの中の素朴で伝統的な神学が崩壊していく。こうしたことは考えれば分かるのだろうか。考えても分からないんじゃないか。だって、神様の話だからね。
 今、わたしの目の前に積みあがっている本、キーを叩いているポメラ、目の前にあるもの、そしてわたし。すべてが波。やはり、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は真理を指し示していた。諸行無常の波がいつ終わるともなくいつまでもいつまでも行ったり来たり、寄せては返し、寄せては返ししている。わたしの人生はあと数十年で終わる。そうしてわたしという波はまた海の水へと戻っていくのだ。そして、また別の波としてやってくるのか。それとも、波になれるのは1回だけなのか。そこんところは分からないし、考えてもおそらく分からない。
 わたしは惑わされているのだろうか。それとも、禁断の果実を食べたアダムとエヴァのように目が見開いて本当のことが見えるようになった、ということなのだろうか。
 森羅万象が波なのかどうかは置いておくとしても、この波の思想でハッとしたわたしは自分という存在が不思議で不思議で仕方がない。わたしって何者なんだ? そもそもわたしって誰?(別に記憶喪失になったわけではない)この世界が不可解なんだ。不気味ではないけれど、不可解で不思議そのものなんだ。もしかしたらわたしのこうした疑問に答えられる人が日本には1000人くらいはいるのかもしれない。でも、その悟った(とわたしには思われる)人に聞いてみたところで仕方がない。本当のことはいつか分かる。いや、いつになっても分からないかもな。分かるかもしれないし、分からないかもしれない。うむ、まとまりのない文章。こればっかりは考えたところで、どうなるわけでもないしな。
 森羅万象は波である。きわどい!!

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