生活改善!!

 精神的な不調がやってくる。重い重い不調が。わたしの場合、うつっぽくなる。気持ちがくさくさしてきて、前向きになることができなくなり、ただただ色々な人や物事に対して不平不満を並べ立てるようになる。
 この不調、どうしたものか。いろいろアプローチはあるだろうとは思うけれど、わたしはクリスチャンでありながらもキリスト教的なアプローチはどこか心もとなく感じた。で、どのアプローチをとったかと言うと、精神医学的なアプローチである。キリスト教はキリスト教としてひとまず置いておいて、ともかく医者の言うことに耳を傾けようと思った。それも精神科医ならわたしのメンタル不調に有効な処方箋を持っているに違いない。わたしは精神科医の樺沢紫苑の本を開いた。
 その本を夢中になって読んで一日で読み終えてしまったわたしである。いわゆるハウツー本だが、しっかりと科学的な根拠があるハウツーが載っている。
 わたしの場合、目覚めの瞬間から不快なのだ。どうしようもないくらい暗いもやがかかっているようで目覚めが悪い。そして、やる気がしない。今日が始まるというのに、開始早々憂鬱なのである。樺沢氏によればこれはセロトニンがうまく分泌されていないらしい。だから、憂鬱で気分がふさぐらしいのだ。
 そうか。そうだったのか。なら、セロトニンを増やすようなことをすればいい。そういうわけで生活習慣を見直してみることにした。
 朝、目覚めが悪いのはなぜか。本を読んでいて思い当たることがあった。
 わたしは寝る前にお腹が空いたからといって食べていたのだ。それもよく食べていた。食べていなかった時の方が少ない。何でもこれがよくないらしいのだ。睡眠の質を下げてしまうとのこと。食事は寝る前の3~4時間前に済ませておき、それ以降は食べないようにと本には書かれていた。
 それから寝る前に興奮系娯楽に近いことをしていた。エキサイティングな勉強をしていたのだ。やはりこれも良くなかった。さらにネットをやる日には寝る直前までパソコンをやっていた。ブルーライトが良くない。安眠を妨げる行為である。
 寝る前の2時間はリラクッスタイムにした方がいいとのことで、それはごもっともだと思った。アクティブな活動は昼にやっておき、夜はひたすらリラックスする。そうしたメリハリをつけることが大事だそうだ。
 わたしは最近あまり運動をしていなかった。週150分は運動した方がいいとのこと。1日あたり少なくとも20分は運動する必要がある。ウォーキングなどの有酸素運動に筋トレなどの無酸素運動を組み合わせる。それが最強。
 で、朝散歩をするといいらしい。特にメンタル疾患の人は毎日やってくださいとあった。白湯を飲んで起床してから1時間以内に30分程度散歩すべしと本にはある。
 そして、朝シャワー。で、夕方また運動して、寝る90分前までに入浴を済ませる。
 ここまでやればもう眠くなるでしょう。わたしは今日、朝散歩はまだ初日だからやっていないけれど、夕方ウォーキングをして夕食後にシャワーを浴びた。もうこれだけで眠い、眠い。運動プラス入浴がこんなに効くとは生活習慣の改善をなめてましたよ。睡眠薬飲んでいないのに、もう本当眠い。自然な眠り。いいねぇ。こういうのを待ってたんだよ。
 明日は朝散歩をやろうと思う。で、朝シャワーも。で、昼はバリバリ活動して夜はリラックスして寝るんだ。
 最後にポジティブ日記を書くといいって本にあったから、簡単に今日あった嬉しかったこと、楽しかったことを書きたいと思う。

「ポジティブ日記」
 ①ネットで注文したみかんが届いた。いいみかんかどうか心配していたけれど、箱を開けて食べてみたら、みかんが新しくて新鮮でみずみずしくて美味しかった。スーパーのみかんよりもずっと良かった。訳あり品ということで心配もあったけれど、安くおいしいみかんが10kgも手に入ったのだから、大満足。おいしいみかんで嬉しかった。
 ②夕方に散歩してそれからシャワーを浴びたらもう眠い。これはもう寝る前の睡眠薬を飲まなくても眠れるんじゃないか。薬を飲まなくても眠れそうな感じなのが嬉しい。夜中に目が覚めることがなくて、朝の目覚めが良かったらいいな。健康的な方向に向かっている自分が嬉しい。
 ③今日食べたお弁当のハンバーグが美味しかった。それから自分で作ったカレーとラッサムもおいしくて良かった。
 ④ご飯が食べられなくなって入院した母から電話があって、順調に食べられるようになってきているとのことでほっとした。回復してきていることが嬉しかった。

ヘブライ語、できるようになってやるんだ

 何か気分が重い。やる気がしない。
 ここんところハードだったのだろうか。もしかしたら知らず知らずのうちに無理をしていたのかな。思い当たるふしはいろいろある。
 今日、あんなに調子が良かったのに、急に一転したのだった。豚バラと里芋のカレーを食べ終わったあたりから急に調子が悪くなりだした。カレーを作ったのが疲れたのかもしれない。昨日と今日、二日続けてネットを割合長時間やっていることもメンタル悪化の原因なのだろうか。そして、今日は筋トレも散歩もしていない。運動不足。ここんところ、目覚めが悪い日が続いているということもあるかも。
 何か疲れた。一日中何もしないで寝ていたい。明日は日曜日で教会の礼拝だけれど、何か行くのがとても億劫になりだしてきた。何かそういう気分じゃないのよ。
 放送大学の試験も終わって、さぁヘブライ語をやるぞーってな時にげんなりしているわたし。ヘブライ語が重い。やってできるようになったらそりゃあいいんだろうけれど、今のわたしにとってはとても重い。2ヶ月で『ヘブライ語入門』を終了させようという計画自体に無理があるのかな。計画を立てようとすると途端に気が重くなる。
 ともかく計画なんか立てないで、できるだけ、やれるだけヘブライ語を勉強する、でいいんじゃないかという気もしてきた。その日、その日、できるだけでいい。精一杯その日、その日勉強できたらそれでいいじゃないか。それが精一杯なんだからそれ以上は無理だ。
 というわけで明日からヘブライ語の勉強を本格的に本腰を入れて始めよう。と言うと苦しくなってきちゃうから、まぁ、焦らず気張らず最善を尽くす。やれるだけやる。それでいい。それでいいと思う。それをやっていけば自然と勉強時間も増えていくことだろう。時間は計らない。進捗状況もノートに書いたりはしない。ともかくその日、やれるだけやる。テキストが1ページしか進まなかったとしてもよしとする。体調は毎日違うんだから、不調の日があってもいい。でも、毎日やる。ヘブライ語を中心にした生活を送っていく。
 ヘブライ語、できるようになりたいんだ。そして、イエスさまも読まれたヘブライ語の旧約聖書を何が何でも読めるようになってやるんだ。

祖母の輸血の頻度をめぐって

 祖母に対して取り返しのつかないことをしようとしていたことに気付かされた。
 ガリガリにやせた祖母は輸血で何とかもっている感じだ。だから、輸血をしなかったら死んでしまう。輸血によって命を長らえている祖母なのだ。
 その祖母が12月の終わり頃に感染症にかかって、今までかかっていた病院に入院したことは前に書いたかと思う。で、それからの話。何と祖母は回復して来週には退院するらしいのだ。これはめでたいことではないか。
 が、ここでまたしても重大な選択をわたしたち家族は迫られることになるのだ。そう、輸血をどれくらいの頻度でするのか、ということである。医者は、主治医は週1だと言っている。けれど、もしも金銭的に苦しくてそれではやっていけないのであれば、2週に1回でもいいと言う。でも、週1でやった方がいいらしいのだ。素直なわたしはその言葉を鵜呑みにして、一日でも祖母には長く生きていてほしいと思い、週1にしてもらうという方向で話を進めようとしていたのだ。しかし、そう思いながらもやはりお金は惜しい。その通院1回につきタクシー代やらヘルパー代やら何やらで3万円はかかるのだ。つまり、月に4回だと2回の場合に比べて6万円も多くかかるのである。6万円くらい払ってあげなさいよ、とあなたは言いたくなってくるかもしれない。でも、決して楽ではない金額なのだ。そういうわけで、その6万円を払うかそれともやめるか、逡巡していたのである。迷っていたのだ。
 一人で迷っているのは得策ではないと思ったわたしは精神保健福祉士のWさんに相談してみた。Wさんはわたしの話をうんうん頷いて傾聴してくれ、最後にこんなことを言った。「難病かどうかということも含めて、病院のワーカーに相談してみるのがいいんじゃないか」と。そうしたらいい案を出してくれるんじゃないか、と。今は午後5時、ジャスト。今ならまだ間に合う。けれど、わたしは病院のワーカーには電話をしなかった。実はWさんに電話をかける前に祖母が契約していて入所していた施設のワーカーに電話していたのだが、つながらなかったのだ。だから、病院のワーカーに電話することは時間的に難しかった。施設のワーカー、社会福祉士のHさんと話すために施設に電話したわたしだった。今もまだ面談中とのことで、折り返しの電話を待った。
 電話がかかってきてわたしは本題である総費用が要介護2だといくらかかるかということを質問した。Hさんは的確に答えてくれた。で、それで話は終わるはずだったのだが、どういうつながりなのかポロっと今、祖母の輸血の頻度をどれくらいにするかということで迷っているということを明かした。
 そうしたらHさんはやんわりとこんなことをわたしに言った。わたし個人の意見ですが、と前置きした上で、ご本人にとって輸血は体力的な負担が大きいのではないか、輸血をすると決まって高熱を出す、それがご本人は大変ではないのか、それに輸血をしに病院へ行くと一日がかりです。
 わたしははっとした。この人は祖母の視点から輸血の頻度について思うことを言ってくれているのだ。実際に施設で祖母と近くにいながら感じたことをわたしに教えてくれているのだ。さらにHさんは生活の質ということを考えることも必要ではないかと言う。その上、毎週か隔週かと凝り固まっていたわたしの考えに対してこともなげに「輸血の回数はやっていきながら変更できますからね」とも言う。
 わたしは言うまでもなく祖母の視点に立てていなかった。医者の視点からしか考えることができていなかったのだ。医者の視点。それは患者をとにかく良くすること。そのためには患者にある程度は苦痛に耐えることをも要求する。治す。改善する。良くする。もちろんわたしは良くすること自体を否定するつもりはない。良くなれるのなら良くなった方がいい。このことは認める。けれど、考えてみると何のために病気を良くするのだろう? 病気を良くするために良くするんだ、では手段が目的になってしまっている。健康になるために健康になる。たしかに健康が人生の目的だという変わり者にはこの目的でもいいだろう。でも、違うはずだ。そう、幸せになるため、幸せを感じる時間を増やすために病気を良くしたり、健康になろうと生活を整えるのではないか。
 良くなりたい。治りたい。だが、仮に病気が完治したとしても幸せを感じることができないとしたら、何のために病気を治したのだろうか。だから、治すことも大切だけれど、その治そうとする先に幸福が待っていなければ本末転倒である。
 わたしはあやうく祖母の残りの時間をつぶしてしまうところだった。毎週、輸血をやって高熱にうなされていたであろう祖母。そうなったら、体力的にも弱ってくるだろうし、人生の質も落ちてくる。それが祖母にとって幸せな状態だと言えるのだろうか。
 たしかに毎週輸血をやるのがベストなのだろう。医者から言わせれば、それが一番長く生きる方法なのだろう。でも、仮に輸血の頻度を減らしたことによって生きられる時間が短くなったとしても、その息を引き取るまでの時間が充実していて幸福に包まれていたらそれでいいじゃないかと乱暴なようだが思うのだ。もちろん輸血はやります。輸血自体をやめることにはわたしは賛成できない。そういうわけだから、輸血の頻度を月2くらいにするのがベストではないか。Hさんとのやりとりを通してそんなことを思った。
 わたしが祖母に望むこと。それは最期の時間を存分に楽しんで味わって幸せを感じてほしい。これに尽きる。苦しみながらただ長く生きた、というのではわたしは悲しい。わたしが祖母の施設の利用代金の一部を払うのは祖母が喜ぶ顔を見たいからだ。
 とにもかくにも祖母がどう思っているか聞いてみたくなったわたしはHさんに「祖母に聞いてみます」と言って電話を切ったのだった。祖母に電話で聞いてみると、輸血は月2回でいいらしい。4回だと大変だから2回でいいとのこと。本人にそう言われてしまったからにはそれを尊重せずにはいられない。これは、これはまさにWin-Winの関係。祖母自身も2回がいいっていうことだし、わたしも正直2回の方が金銭的にも助かる。問題は生きることができる時間が短くなるかもしれないこと。でも、もう90歳なのだから十分生きた、と言うと語弊があるけれど十分生きた。それに生きられる時間が短くなっても幸せだったらそれでいいじゃないの。
 病院のワーカーに相談しなくてもいいような気がしてきた。答えはもう出ているようだから。祖母の残りの時間が安らかでありますように。

変わった贈り物

 人に物をあげるのは難しい。それは言うまでもないことだ。そのあげようとしている物を気に入ってくれるかどうか分からないし、要らないものだとかえって場所ばかりとらせてしまって邪魔になり、ちょっと……、という結末になる。
 そんな恐れを抱いていたわたしである。わたしがあげようとしているこれ、気に入ってもらえるかな? 気に入ってもらえなかったら、その時はその時だ。持ち帰ろう。
 わたしがあげた物。何だと思います? おそらく誰もこれに正答を与えることはできないだろう。当てた人はおそらく超能力者か予言者だろう。
 場所は教会で今日は元旦礼拝。2022年開始早々、そのプレゼント計画は遂行されたのだった。礼拝が終わる。さぁ、これからだ。これからが勝負(?)だ。テンションが上がってくるが不安も高まってくる。もしも、これを気に入ってもらえなかったらどうしよう。断られるんじゃないか。不安は高まる。でも、もう持ってきたのだ。持ってきてしまったのだ。だから、あげるのだ。
 ヒントその1、固い。その2、食べ物ではない。もうこの段階でチョコレートでないことはたしかだ。その3、小さい。
 ピンポーン(回答ランプ点灯)、単4乾電池。
 ブーッ。ヒントその4、生き物。
 ピンポーン(回答ランプ点灯)、アメンボ。
 ブーッ。いい線行っているけれど違う。ヒントその5、星さんと言えば?
 もうお分かりだろう。正解はモンシロチョウ。それも幼虫じゃなくてさなぎね。
 星さん、自由でしょう? 教会で未だかつてモンシロチョウのさなぎを贈ったり贈られたりした人っているのかな? 滅多にいないだろうねぇ。
 でも、これ喜んでくれるのかな。モンシロチョウのさなぎなんてプレゼントされて困らないかな。そうした懸念がどこまでもぐるぐると渦巻くのだ。もうこうなったら当たって砕けろだ(名言?)。
 で、勇気を振り絞って何人かにプレゼントしてみた。それも好意的に受け止めてくれそうな、喜んでくれそうな人に。
 そうしたら、彼らは本当に目を輝かせて喜んでくれた。あげてすぐに「どうしたらいい?」とは質問されたけれど。普通の人(と言うのも何だけど)はモンシロチョウのさなぎとか見たことがないようなのだ。今は自然も少なくなってきて、道ばたにモンシロチョウのさなぎがあるわけではない。そもそも、モンシロチョウの場合、キャベツの葉っぱの割合目立たないところにさなぎになるから、普通に生活しているだけではとてもお目にかかれないのだ。だから、彼らにとってみれば、さなぎから蝶になるということは理科で習って知っているけれど、実際にさなぎを目にしたことがほとんどない。まさに異文化のようなのだ。
 わたしも初めてモンシロチョウを育てた時にはさなぎってこうなるんだ、と教科書的なことを知っていたにせよ、とても新鮮で驚きに包まれたのだった。だから、彼らが子どものように目を輝かせたのももっともなことなのだ。
 あと3ヶ月もすれば春がやってくる。そうしたら、無事に行けばモンシチョウは蝶になるんだなぁ。やっぱり、モンシロチョウを育てる一番の醍醐味はさなぎから蝶になる変化だろう。だから、一番おいしいところを体験できる機会を彼らにプレゼントできたのだ。
 どうせ虫でしょ? んなもん育てて何になるの? 何か得でもするの?
 たしかに育てたところで金になるわけではない。何になる、と言われると答えに窮する。でもね、これは体験してみた人じゃないとわからないことなんだよ。モンシロチョウを育ててみた人じゃないと分からないことなんだよ。批判は重々承知だけれど、「やってみてから言ってくださいね」って言いたくなる。やってみたら、育ててみたらその素晴らしさに開眼することだろう。
 小中高でキャベツ畑でも大規模につくればいいのに。そう思う。それでモンシロチョウも育てるの。ダイコンなんかもいいな。で、カブラハバチ育てる。って結局害虫飼育じゃん(笑)。きっと生徒の情緒も安定してくるだろうと思うよ。
 話を戻して、不安に思って心配しながらの贈り物だったけれど、喜んでもらえて良かった。本当に良かった。
 たかが虫、されど虫。この虫を喜べるような素直で純粋な心を与えてくださった神様に感謝、感謝である。心に余裕がないと虫を贈られてもきっと喜べないよね。その余裕をも与えてくださった神様に感謝。虫を贈られて喜べるその心はとても美しいと思う。こうした小さなささやかなことをこれからも喜んでいけるように神様に祈り求めつつ、この1年ぼちぼち急がず焦らずにやっていきたい。
 以上、元日記す。

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