祖母の輸血の頻度をめぐって

 祖母に対して取り返しのつかないことをしようとしていたことに気付かされた。
 ガリガリにやせた祖母は輸血で何とかもっている感じだ。だから、輸血をしなかったら死んでしまう。輸血によって命を長らえている祖母なのだ。
 その祖母が12月の終わり頃に感染症にかかって、今までかかっていた病院に入院したことは前に書いたかと思う。で、それからの話。何と祖母は回復して来週には退院するらしいのだ。これはめでたいことではないか。
 が、ここでまたしても重大な選択をわたしたち家族は迫られることになるのだ。そう、輸血をどれくらいの頻度でするのか、ということである。医者は、主治医は週1だと言っている。けれど、もしも金銭的に苦しくてそれではやっていけないのであれば、2週に1回でもいいと言う。でも、週1でやった方がいいらしいのだ。素直なわたしはその言葉を鵜呑みにして、一日でも祖母には長く生きていてほしいと思い、週1にしてもらうという方向で話を進めようとしていたのだ。しかし、そう思いながらもやはりお金は惜しい。その通院1回につきタクシー代やらヘルパー代やら何やらで3万円はかかるのだ。つまり、月に4回だと2回の場合に比べて6万円も多くかかるのである。6万円くらい払ってあげなさいよ、とあなたは言いたくなってくるかもしれない。でも、決して楽ではない金額なのだ。そういうわけで、その6万円を払うかそれともやめるか、逡巡していたのである。迷っていたのだ。
 一人で迷っているのは得策ではないと思ったわたしは精神保健福祉士のWさんに相談してみた。Wさんはわたしの話をうんうん頷いて傾聴してくれ、最後にこんなことを言った。「難病かどうかということも含めて、病院のワーカーに相談してみるのがいいんじゃないか」と。そうしたらいい案を出してくれるんじゃないか、と。今は午後5時、ジャスト。今ならまだ間に合う。けれど、わたしは病院のワーカーには電話をしなかった。実はWさんに電話をかける前に祖母が契約していて入所していた施設のワーカーに電話していたのだが、つながらなかったのだ。だから、病院のワーカーに電話することは時間的に難しかった。施設のワーカー、社会福祉士のHさんと話すために施設に電話したわたしだった。今もまだ面談中とのことで、折り返しの電話を待った。
 電話がかかってきてわたしは本題である総費用が要介護2だといくらかかるかということを質問した。Hさんは的確に答えてくれた。で、それで話は終わるはずだったのだが、どういうつながりなのかポロっと今、祖母の輸血の頻度をどれくらいにするかということで迷っているということを明かした。
 そうしたらHさんはやんわりとこんなことをわたしに言った。わたし個人の意見ですが、と前置きした上で、ご本人にとって輸血は体力的な負担が大きいのではないか、輸血をすると決まって高熱を出す、それがご本人は大変ではないのか、それに輸血をしに病院へ行くと一日がかりです。
 わたしははっとした。この人は祖母の視点から輸血の頻度について思うことを言ってくれているのだ。実際に施設で祖母と近くにいながら感じたことをわたしに教えてくれているのだ。さらにHさんは生活の質ということを考えることも必要ではないかと言う。その上、毎週か隔週かと凝り固まっていたわたしの考えに対してこともなげに「輸血の回数はやっていきながら変更できますからね」とも言う。
 わたしは言うまでもなく祖母の視点に立てていなかった。医者の視点からしか考えることができていなかったのだ。医者の視点。それは患者をとにかく良くすること。そのためには患者にある程度は苦痛に耐えることをも要求する。治す。改善する。良くする。もちろんわたしは良くすること自体を否定するつもりはない。良くなれるのなら良くなった方がいい。このことは認める。けれど、考えてみると何のために病気を良くするのだろう? 病気を良くするために良くするんだ、では手段が目的になってしまっている。健康になるために健康になる。たしかに健康が人生の目的だという変わり者にはこの目的でもいいだろう。でも、違うはずだ。そう、幸せになるため、幸せを感じる時間を増やすために病気を良くしたり、健康になろうと生活を整えるのではないか。
 良くなりたい。治りたい。だが、仮に病気が完治したとしても幸せを感じることができないとしたら、何のために病気を治したのだろうか。だから、治すことも大切だけれど、その治そうとする先に幸福が待っていなければ本末転倒である。
 わたしはあやうく祖母の残りの時間をつぶしてしまうところだった。毎週、輸血をやって高熱にうなされていたであろう祖母。そうなったら、体力的にも弱ってくるだろうし、人生の質も落ちてくる。それが祖母にとって幸せな状態だと言えるのだろうか。
 たしかに毎週輸血をやるのがベストなのだろう。医者から言わせれば、それが一番長く生きる方法なのだろう。でも、仮に輸血の頻度を減らしたことによって生きられる時間が短くなったとしても、その息を引き取るまでの時間が充実していて幸福に包まれていたらそれでいいじゃないかと乱暴なようだが思うのだ。もちろん輸血はやります。輸血自体をやめることにはわたしは賛成できない。そういうわけだから、輸血の頻度を月2くらいにするのがベストではないか。Hさんとのやりとりを通してそんなことを思った。
 わたしが祖母に望むこと。それは最期の時間を存分に楽しんで味わって幸せを感じてほしい。これに尽きる。苦しみながらただ長く生きた、というのではわたしは悲しい。わたしが祖母の施設の利用代金の一部を払うのは祖母が喜ぶ顔を見たいからだ。
 とにもかくにも祖母がどう思っているか聞いてみたくなったわたしはHさんに「祖母に聞いてみます」と言って電話を切ったのだった。祖母に電話で聞いてみると、輸血は月2回でいいらしい。4回だと大変だから2回でいいとのこと。本人にそう言われてしまったからにはそれを尊重せずにはいられない。これは、これはまさにWin-Winの関係。祖母自身も2回がいいっていうことだし、わたしも正直2回の方が金銭的にも助かる。問題は生きることができる時間が短くなるかもしれないこと。でも、もう90歳なのだから十分生きた、と言うと語弊があるけれど十分生きた。それに生きられる時間が短くなっても幸せだったらそれでいいじゃないの。
 病院のワーカーに相談しなくてもいいような気がしてきた。答えはもう出ているようだから。祖母の残りの時間が安らかでありますように。

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