ついにわたしも働く!?

いろいろエッセイヨガ
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 実はわたしは働いてみようかな、と最近思った。それは本格的なヨガ教室へとヨガを習いに行きたくて、そのための費用を稼ぎたいと思ったからだ。やっと、やっと、ついに、ついに。あの理屈ばかりこねて一向に働こうとしなかったわたくし、星が働こうと思ったのだ。
 が、昨日の記事を書いたらその熱意は冷めてしまった。わたし自身がヨガに執着していることに気付かされてしまい、何だかな~っていう感じになってしまったんだ。
 ということはわたしはこれからもレッスン料の安いヨガ教室へと週1で通いつつ、ヨガのDVDを見ながらひたすらヨガに励んでいく、という道を進んでいこうとするのか。本当はお金があったらいいヨガ教室へと行きたいという気もする。けれど、果たして交通費も含めて月2~3万円もヨガのためだけに出費するというのはいかがなものなのか。そこまでしてわたしはヨガを深めたいのか。自分自身にそうしたことを問いかけていたら何だか分からなくなってしまった。ヨガのDVDでやるヨガも決して満更捨てたものではない、などというどころではなく心地よい満足感と安らぎをもたらしてくれている。
 働く。働けば最低賃金の仕事でも週4で1日4時間くらいで月に5~6万円は稼げる。それはわたし自身の行動の幅、可能性を確実に広げることだということは自分でも分かってはいる。けれど、お金を得る反面、当たり前だけれど、今までのような気ままさ、気楽さはなくなる。仕事のある日はガッツリ4時間、仕事に時間を取られてしまうのだから、自由時間は減ってしまうのだ。言うまでもなくわたしは精神障害者であり、働くこと、つまりは労働を免除されている。大人のたしなみであり、言うならば義務とでも言ってもいいような、そんな働くということをしないでここまで来たのだ。そして、ここまで障害年金で毎月やりくりして暮らしてきた。だから、最低限の生活はできてきたし、生活において特に困ることもなかった。で、ここで飛躍するのか。ステップアップするのか。就労にチャレンジして働くという経験をしてみるのか。わたしにとってはここで働いてみるのだとしたら、大きな、大きな、それは大きな新しい一歩だ。
 が、ヨガをやりたいから、という理由で、そのために稼ぎたい、働くんだと思っただけに、ここでヨガを自分自身がそこまでしてやりたいのかどうかが見えなくなってきているというのは就労に向けてはまさにぐらついてきてしまっていてやるのかやらないのか、今一つはっきりしない状態だ。
 わたしはヨガをやりたいのか? それもいい先生から本格的に働いてまでしてやり、深めたいのか? わたしの始まってからまだ1年あまりのヨガ人生において、大きな決断というか岐路の前に立たされている。
 そうだな、今ここまで書いてきて思ったのだけれど働こうとする目的を本当に自分自身がやりたいのか、そこまでしてやりたいのかっていうことを真剣に考えた方がいいな。まずはこの動機がしっかりとしているのかどうか自分自身で確認作業をした方がいい。
 と言いつつも焦ることはない。じっくり考えればいいんだ。じっくり考えて自分自身の内側からの声をしっかりと聞けばいい。自分自身に「どうしたいの?」と問いかけてみる。「本当に働いてまでしてヨガを習いたいの?」と聞いてみる。そうすれば自ずと答えは出てくるはず。
 もちろん、働いて定期的な収入があった方が、つまりはお金があった方がヨガをやるかどうかということは置いておくとしても、ある意味安心感は出てくる。備えあればこそ。まずはお金がなければ。先立つものはお金だ。この考えを否定することはできない。
 さて、どうしたもんかね。わたしは働くのかね。それとも働かないのかね。今ここで「えいやっ」と決めることはできない。というか、即断しなければならない案件でもない。じっくり考えていい。差し迫ってお金が必要とかそういう話ではないから、まぁ、ぼちぼちでいい。
 そういうわけでわたしは本当に恵まれているとつくづく思う。障害年金などをもらえない普通の人たち、いわゆる健常者は日々の糧を稼ぐために日夜仕事をして働いているのだ。彼らには本当、頭が下がる。下がりっぱなし。
 わたしの働こうかどうかという話は、今一応普通の暮らしはできているのだけれど、さらにその質を高めるためにどうしようか、っていう話だから贅沢な話だとも言える。あれをやりたい、これをやりたい。だから働く。そのために稼ぎたい。そういう感じだからこれはさらに上へとステップアップしていこうとする上での悩みだ。より良くなろうとするがゆえの悩みだ。わたし自身、こうしたことで悩めることそれ自体元気になってきたということであり、とても嬉しく思うし、わたしに関わってくれた人たちやヨガなどには本当に感謝している。
 お金というものは欲望をかなえる、満たすためのものであるとも言える。だから、煩悩なんだ。執着なんだ。果たして自分の欲するがままにお金を稼ぎ、次から次に目標やら夢やらをかなえて自己実現していく、そんな生き方が素晴らしいのかどうか。わたしにはよく分からないし、そのあり方を疑ってさえいる。欲望は、夢は、自己実現は小さく収まった方がいい。最小限であればあるだけいい。そんな思想の影響をわたしは受けているところだ。だからこそ、自分で稼ぎ、それを元手にして欲望を満たし、自己実現を達成していこうとする方向性を果たしてやってしまっていいのか、今一つ自身が持てない。
 人生は一度きりなんだからやりたいことをやろうよ、と多くの人が思い、それを口にする。が、それは本当にいいことなのか? むしろ、欲望を手放して、執着をなくしていったほうがいいのか? わたしはこの二つあり方の前で立ち止まっている。
 ヨガをやりたいという執着。深めていきたいという執着、言ってみれば煩悩。手放してシンプルな生き方をしていきたいと思うけれど、そうすることに執着することはそのことを手放せていないのではないか。じゃあ、本当に手放したらどうなるか、と言えばありとあらゆる欲求や執着を捨ててしまえば餓えて死んでいくしかない。だから、ほどほどがいいんじゃないか、とは昨日の記事の「ほどほど」に書いた。
 答えが出ない。けれど、何だかんだ難しいことは言わないで、まずは働いてみなよ。やってみて、やっていきながら考えればいいじゃないの、とも言えないことはない。わたしは最初から完璧に主義とか思想だとか、そういったことに忠実であろうとする悪い癖があるのかもしれない。気楽に、気軽に。まずは働いてみる。難しいことはそれから。嫌だったら生活がかかっているわけでもないんだからやめてもいいわけだし。……と本当わたしって恵まれているな。
 ここまでぐだぐだ働くだ、働かないだ、とああでもない、こうでもないと書いてきたけれど、まぁ、いろいろ考えて結局やらないということも十分ありうるのでどうか過剰な期待をお持ちにならないように。この記事をわたしに以前働けとうるさかったYが読んでいたら猛プッシュすることだろう。でも、今回のことはYとは何の関係もございませんのでこのことは誤解しないようにしてくださいましな。
 わたしが働くのか、それとも働かないのか。それは風の向くまま。気の向くまま。本当、ぐだぐだしております。未来を知っているのは神様だけなのかも。その決められたことへとわたしは向かっているだけで、って。珍しくクリスチャンらしいことを言えたところで今日の記事はおしまいにいたしましょう。読んでくれてありがとうございました。

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