吃音キラキラ物語を前にして思うこと

吃音エッセイ
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 今朝、このブログのアクセス数が少ないことでとてもネガティブな気持ちになり、そこからやっとの思いで持ち直したというのにまたもや気持ちがかき乱された。
 教会へ行ってきた母がある方から新聞記事を渡されたそうで、わたしにとのことだそう。その記事は吃音についての記事で、まぁ、その方はわたしへの思いやりの気持ちで渡して読んでもらいたいと思ったのだろう。そのわたしを気遣い思いやろうとする気持ち。それ自体をわたしは否定するつもりはないし、それすらも攻撃しようなどとは思わない。
 けれど、その新聞の記事を読んだらまるでわたしがダメ出しされているような、そんな気持ちになった。
 それは吃音キラキラ物語だった。吃音があり、中学時代には壮絶ないじめを受け、それから苦労して看護師となり、今は患者に寄り添って生き生きと活躍している。その人の吃音は年々ひどく重くなっているのだけれど、それでもめげることなく仕事をしている。あぁ、何ていい話なんでしょう。キラキラしております。キラキラして感銘を受けずにはいられません。もしかしたら涙さえも誘うことでしょう。そんなにつらい思いをしてきて、吃音で大変なのにそれでも看護師をやっているだなんてすごいですね。素晴らしいですね。もし、そんな彼のドキュメンタリー番組でも作ったらもう視聴率取れるよね。それくらいキラキラしていた。
 このキラキラ吃音物語の何が問題かと言えば、そこで紹介されている人のようにキラキラできないのが普通だからだ。逆に言えば、多くの吃音者がキラキラ活躍できないからこそ、そのキラキラ話はキラキラすることができるのだ。
 こういうことを言ってしまうのも何だけれど、別にキラキラしなくたっていい。活躍してキラキラしなくたっていいんだ。それをこんなにキラキラ活躍している人がいるんだと祭り立てることによって、頑張ろうと思っても頑張れない人、頑張る気力さえ今の段階では起きない人に焦りを生み出させる。そして、自分は何てダメなんだと比較による自己否定、それも終わることのない自己否定が延々と開始される。活躍している人、それも困難を物ともせず活躍している人というのはキラキラする。いや、しているように見える。でも、あんまりクローズアップしないでほしいんだ。キラキラできていない人が苦しくなってしまうから。何で自分はキラキラできていなくて、こんなにダメなんだと卑下してしまうから。
 頑張ることは素晴らしい。夢に向かって邁進していく姿は素晴らしい。でも、そればっかりだと、そればっかりほめちぎるとひずみや歪みは必ず出てくるんだ。
 何で新聞はダメな人を記事にしないのかね。吃音で働くのが怖くて怖くて、その結果精神疾患になって、自殺未遂も何度もして、それからも精神病院に入退院を繰り返して、今はようやく落ち着いて、親のスネをかじりながら障害年金をもらって、毎日ビールを飲んで、特に勉強もせず、就労意欲など全然なくてただただ毎日、ゴロゴロ、ゴロゴロ、テレビをダラダラ見ながら過ごしている。
 でも、わたしはこの人をダメだとは思わない。新聞記事になるような輝かしいことがなくても、この人はこの人なりに人生を懸命に生きてきたし、今だって生きているんだ。
 いじめ体験をくぐり抜けて、そこから立ち上がって、苦学の末、看護師になってという話はもちろん素晴らしい。でも、それをあんまり大きな声で言いふらさないで欲しい。そんなにほめなくたっていいと思うんだ。もうその人は十分人から認められてほめられているんだからね。むしろ、課題は自分のことをダメだとダメだと否定してしまっている夥しい人々の群れにどうやって生きる希望や充実感を持ってもらうかということの方だと思う。新聞は、特にその記者さんたちにはもっと日頃ほめてもらえていない人をほめてあげてほしいと思う。
 吃音の人のみんながみんな、吃音がありながらも人と接する仕事につけるだけのメンタルがあるわけではないから、そういった成功体験はロールモデルにはならない。使えそうな人は使ってもいいと思うけれど、必ずしも役立つとは限らない。
 というか、わたしだって自分が仕事をしないで無職でいることを良しとしているわけではありませんよ。無職を謳歌して、無職最高とか無職万歳などと思っているわけではありませんよ。いつも頭のどこかには無職であることについて引け目があって負い目があるんです。うん、だからそれをわかっているのに周りからチクチクつつかれると頭にくるわけ。何かやろうと思っていたところに、親からそのことをどうしてやらないんだと言われると頭にきて反抗するのと同じ。だから、分かっている。多くの働いていない精神障害者や吃音者は必ず自分の弱点のようにそうした働いていないことの負い目を抱えている。つつかれなくても、しかるべき時になったら、本当にやりたいと思ったら人は動くから任せてほしいんだ。
 結局、キラキラ物語が発してくるメッセージは「お前もこの人のように頑張れ」。この一点に尽きる。だから、言うならばアドバイスみたいなもの。アドバイスであればこそ不用意なものは避けた方がいい。おそらく母を通してわたしにその新聞記事を渡してくださっった方はわたしに頑張ってほしかったのでしょう。でも、もうそんなキラキラ記事持ってこなくても、わたしは頑張っているんだ。頑張りが足りないってお叱りを受けるかもしれないけれど、みんなそれなりに頑張っていて、そう見えない人であっても、その人なりに頑張っている。だから、どうしてこの人のように頑張れないんだ、頑張らないんだ、ではなくて「頑張ってるね。最近どう?」とねぎらうことが大切だとわたしは思う。
 もっとキラキラ物語なんかじゃなくてダメダメ物語とかぼちぼち物語とか、そういった記事的にはパッとしない、そんな普通の人の営みに光が当てられたらとわたしは願う。でもね、みんな見落としがちだけれど新聞って、新聞社って儲けないといけないからね。だから、商業的に人目を引いたりパッとするものを載せたがるわけなんだ。でもさ、○○さんが今日もお家で一日中ゴロゴロしてビールを飲んでお笑い番組を見ながらおならをしていました、っていう記事とかあったら面白いと思うんだけどな。それとか、今日も特に変わりありませんでした。本日も晴天なり、とかね。もうこうなったら新聞が売れなくなる~。感動とか全然ないじゃないの。でもね、そうした平凡なパッとしない日常こそが、そんな平和な普通の暮らしこそが一番価値があって素晴らしいんじゃないかってわたしは思うんだな。あ~、でもわたくし星はキラキラしたい。キラキラしてビッグになりたい、と最後の最後でいい話を全部ぶち壊しましたとさ。チャンチャン。なんてね。

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