【放送大学】『家族問題と家族支援』第10回 DV(ドメスティック・バイオレンス)の問題構造

 1.DVとは

 DV(ドメスティック・バイオレンス)とは配偶者やパートナーなど、親密な関係にある(または、親密な関係にあった)相手から振るわれる暴力のことをさす。この回では、おもとして配偶者間の暴力として考えていく。
 DVは、夫婦という関係の中で起こるため、表面化しにくく、表面化しても夫婦喧嘩などと軽視されがちで、私的で個人的な問題とみなされやすい。しかし、DVは暴力であり許されるものではなく、社会的に対応すべき深刻な問題である。
 DVにはいくつか種類があり分類できる。おもなものとしては、「身体的暴力」「精神的暴力」「性的暴力」「経済的暴力」「社会的暴力」である。その中でも「社会的暴力」は、人間関係や行動を不当に監視したり、制限したりする行為をさす。その他にも「子どもを利用した暴力」などもあることを付け加えておきたい。
 DVは多くの場合、複数の種類の暴力が重なる「暴力の複合性」という特徴がみられる。
 暴力は男性から女性に対してだけでなく、逆の場合もあり、あるいは同性カップル間でもみられるが、被害者の多くは女性が圧倒的多数を占めている。
 これらのことから、DVは女性の問題として男性にとっては関係のない問題だと受け止められてきたが、近年、DVを男性の問題として捉える動きが出てきた。男性による女性への暴力をなくす運動としてのホワイトリボン・キャンペーンという啓発運動である。このキャンペーンのターゲットは、暴力を振るわない男性であり、彼らが女性への暴力の現状を知らなかったり、あるいは知っていても沈黙しているために、結果的に暴力の発生と継続に荷担しているという考えに基づいている。暴力のない社会を実現するには誰もがDVについて学ぶ必要がある。

 2.「女性に対する暴力」の社会問題化

 日本でDVが社会問題として認識され、政策課題とみなされるようになったのは1990年代後半以降のことである。背景としては、世界的な女性の人権運動の展開の高まりがある。1975年の国際婦人年を契機として、1993年の国連総会では「女性に対する暴力撤廃宣言」が採択された。こうして、「女性に対する暴力」は国際社会において優先的に取り組むべき課題となったことにより、日本国内でも政府が対応に動き出すことになったのである。
 そして、日本政府は1996年に「男女共同参画2000年プラン」を策定した。このプランの11の重点目標の一つに「女性に対するあらゆる暴力の根絶」が挙げられている。
 それから後の1999年には「男女共同参画社会基本法」、2000年「男女共同参画基本計画」と進められていったものの、政府はDV防止法制定には消極的であった。そして、何とか2001年4月に「DV防止法」(正式には、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」)が成立したという次第なのである。日本のDV根絶のための取り組みは遅れているというのが実態のようである。

 3.DV被害の実態

 国によるアンケート調査によって、女性の3人に1人、男性の5人に1人がDV被害を経験していることが分かった。DVは一部の限られた人にだけ起きているのではなく、身近な問題なのである。男性のDV被害者も少なくないが、複数回被害にあったことのある人の割合は女性が圧倒的に多く、7人に1人がこれに該当する。さらに女性の20人に1人は命に関わるほどの暴力を振るわれたことがあり、非常に深刻である。テキストには被害女性の生々しい壮絶な経験が記されていて、事態が異様なほどに深刻であることが伺われた。
 傷害や暴行の被害者が女性であるのに対して、殺人では女性が加害者となるケースが少なくないのは、その女性が逃げることもできずに相手を殺すしかない状況に追い込まれたからではないか。著者はDV被害者に対する保護体制の不備が反映されているとみている。

 4.DVの構造と特性

 DVの構造を示すものとしては、「パワーとコントロールの車輪」の図がある。
 DVが車輪のかたちで表現されていて、車輪は外輪、その内側、車輪の軸の3つの部分からなっている。これらの詳細をみていくと、外輪は「身体的暴力」、その内側が「心理的暴力」「経済的暴力」「性的暴力」「子どもを利用した暴力」「強要・脅迫・威嚇」「男性の特権を振りかざす」「過小評価・否認・責任転嫁」「社会的隔離(孤立させる)」といった「非身体的暴力」であり、車輪の軸が「パワーとコントロール(力と支配)」となっていて、これは「男性の権力と支配」である。そして、背景には社会の「性別役割分担の強制」「結婚に関する社会通念」「子どもをめぐる社会通念」「世帯単位の諸制度」「女性の経済的自立の困難」「DV被害に対する援助システムの不備」がある。
 車輪の内側の非身体的暴力は目に見えずわかりにくい。この暴力が外輪の身体的暴力を支えている。そして、これらの暴力の相乗効果によって、暴力の威力は高まり、男性の力と支配はいっそう強化される。つまり、身体的暴力はもちろんのこと、非身体的暴力によって、女性に自責感情を植え付けたり、女性の自己肯定感を奪うことによって加害男性の支配から逃れられなくする。身体的暴力を振るわなくてもそれをほのめかすことによって、女性は非身体的暴力だけであっても男性の支配下に置かれてしまう。
 DVの本質的な構造としては、女性を無力化して逃げる力をも奪うのである。DVで夫の支配下に置かれた妻は、もはや思考力も判断力も停止状態に追い込まれている。
 このことは児童虐待の問題へとつながる。そうした状態で夫がわが子に暴力を振るっていても、母親として子どもを守ることができなくなっているのである。家庭という密室の中で、夫のDVにより無力化された妻は、暴力の被害者であるがゆえに、加害者にもなりうるのである。DVは相手を支配してその人の力を根こそぎ奪い取る卑劣な行為であり、社会はこのことを深刻に受け止めなくてはならない。
 女性のDV被害の背景には、男女間の社会経済的地位の格差がある。そのため、DVを根絶するには、社会における男女平等の実現が不可欠である。
 そこで、男女平等実現の有力な戦略とみなされているのが「ジェンダーの主流化」である。つまり、すべての政策領域のすべての政策過程にジェンダーに敏感な視点を組み込むことが必要なのである。
 そして、著者はまとめる。「DVを撲滅し、暴力のない社会を実現するには、DV被害者の保護体制を完備するとともに、ジェンダーの主流化を徹底し、男性優位の社会構造を是正することが不可欠である。」と。

 <わたしの感想>
 わたしはDVという言葉は知っていたけれど、詳しいことは知らなかった。「夫が妻に暴力を振るうのがDVらしい。」その程度の理解だった。
 予備知識ほぼゼロの状態からの今回の学びであったが、いろいろと考えさせられた。
 わたしは女性とお付き合いしたことがない人間なので、(2021年6月18日現在。続く?)もちろん結婚したこともない。だけど、パートナーは慎重に選んだ方がいいなとつくづく思った。
 パートナー。それは別居婚とかは別として、基本的に人生の多くの時間を共有する相手である。だから、どんな人をパートナーに選ぶのかということは人生を大きく左右する一大イベントであり外せない選択なのである。だから、多くの人はパートナーは慎重に吟味する。その人の言葉、行動、その他もろもろ観察できるところすべてから、「この人は信頼できるのだろうか」、「一緒に人生を歩んでいけるのだろうか」と懸命に情報を集めるのだ。
 幸せになりたくてみんな結婚する。夫婦になる。でも、現実には一定の割合でDVという現実が起こっている。
 どうしたらいいのか。どうすればいいのか。どうすればDVを根絶することができるのか。問題が起こっている背景が複雑でこれだという明日からDVをなくす方法のようなものはわたしには思い浮かばないし、そんなに生やさしい問題ではない。
 わたしが個人的に思うことは、大人になりきれていないんじゃないか、ということだ。本当の意味で成熟した素敵な大人は、パートナーを支配して力ずくで従わせようなんてことはしないし、むしろどうしたら相手を少しでも幸福にすることができるのだろうかと常に自問自答して、その相手のことを思いやる。そして、二人の関係を育んで豊かなものにしていこうとする。
 簡単に言ってしまえば、相手が嫌がることをするのはすべてDVだと言えるだろう。嫌がる相手に強要すること。これがDV。このシンプルな定義に従えば、いろいろなこの世の問題はすべてこれにひっかかる時に起きていることが見えてくる。
 むしろ相手が喜ぶことをする。そして、どうしたら相手が喜んでくれるだろうかと想像力をはたらかせる。そうすれば、独りよがりではなくなる。自分も相手も幸せになれる。それこそが愛ではないかとわたしは思う。
 けれども、なかなかこれが難しい。相手の立場になって、相手が喜ぶことを模索するというのはなかなか骨が折れる。手間も労力もかかる。自分にとっての欲望を追求する方が断然楽なのである。でも、そこに愛はない。そこにあるのは、相手を自分が気持ちよくなるための道具としてしか見ようとしない、つまり相手を人格として尊重できていない大人になりきれていない未熟な人間の姿なのである。つまり、相手を使い捨てのおもちゃとしてしか見ていないのだ。古くなったり要らなくなったら平気で捨てるような、そんな玩具なのである。
 ここまでまるで偉そうに一人前みたいな分かったような口調で書いてきたわたしだが、わたしが語った理想の愛を実践できるかどうかということは実に怪しい。でも、その方向性さえ間違っていなければ、きっとおかしな方向へとは行かないだろう。道をそれてしまったり、迷い込んだりすることあるかと思う。でも、方向性、つまり目的さえ見失わなければおそらく大丈夫なのだ。
 わたしにとっての方向性、それはイエス・キリストである。イエスさまに倣えばおかしな方向に行くことは絶対にない。これだけは断言できる。
 最後に宗教的な話へとリンクしたので、「そうまとめますか。」と思われた方もいることだろう。最終的には倫理的なものへとたどりつく。これがわたしの拙い持論である。人間を支える倫理的なもの。それがわたしにとっては、「わたしにとってのロールモデルはイエス・キリストだ」というところで落ち着くのである。イエス・キリストの教えを実践すればDVなんて絶対に起こらない。いや、起こるはずがない。隣人愛を説きながらDVするなんてことは不可能だからだ。
 DVの学びをしたことによって、さらに、いい人に出会いたいなぁという思いが強くなった。
 神様、良き伴侶を与えてください。


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【放送大学】『人間にとって貧困とは何か』第9回 貧困と友人関係-「伴を慕う心」の行方

 1.秋葉原無差別殺傷事件

 2008年6月8日、東京の秋葉原で、25歳の青年が2トントラックとダガーナイフによって7人を殺害、10人を負傷させる事件があった。犯人の加藤については、ネット上での彼による書き込みや彼の生育環境などに関連して様々な議論が人々によってなされた。
 「見られているかもしれない不安」と「見られていないかもしれない不安」の2つの不安が同時に彼につきまとっていたのではないか。

 2.親密圏としての友人関係

 人間関係の中に占める友人関係の比重は、全体としてはせりあがりつつある。グローバリゼーションによる帰属の不安定化が個人化を進展させ、アイデンティティを何かに所属することによって持つことが難しくなってきたからである。私が私であることの根拠を組織ではなく個人に見出そうとするようになったのである。
 「個性」や「私らしさ」が重視される社会は厄介な課題を抱え込むことになる。「私らしい私」を他者にそのまま承認させることは難しい。
 なお、他ならぬ特定の他者への配慮、関心によって相互に結合した関係の圏域を親密圏という。取り換え不能の関係のことである。
 親密圏は誰にでも平等に与えられるものではない。つまり、どんなに努力を重ねても友人を得られない人がどうしても出てきてしまうのである。また、以前は家族が親密圏となることができたが、今ではもはや自明のこととは言えない。若い男性の生涯独身率が上昇していることがこのことを物語っている。

 3.地元つながり

 未婚の若年層は親密圏への関心が強いのだが、その一方でそれが脆弱なものでかつ希少なものであるということを認識している。そのため、友人からいい評判を取り付けて友人関係を維持する、いわゆる友人問題が切実なものとなっている。
 親密圏への関心は貧困層において特に重みを増す。経済的あるいは学歴的上位層にいる若年層には余裕がある。組織、学校、家柄などを誇ることができ、自らのアイデンティティの源泉とすることができるからである。気に入らない人間関係は切り捨てたとしても痛くないのである。人は次々に寄ってくる。
 若年の非正規雇用層の研究として、新谷周平の「ストリートダンスと地元つながり」という論文がある。彼らの関係世界の特質を新谷は「地元つながり文化」と呼び、「場所、時間、金銭の共有という特徴をもった」「非移動志向の文化」であると述べている。また、学業達成が低く親はサラリーマンでないことが多い。学校の就職あっせん機能が低下し、家庭の情緒安定機能も弱いため、この文化が彼らにとってある種の居場所となっているのである。

 4.友人関係の弱さ

若年の非正規雇用層の「地元つながり」は彼らがなんとかやっていくために編み出した戦術のようなものである。しかし、内輪における安心感がかえって彼らを現状離脱から遠ざけている。彼らのつながりは「安定した仕事」へとはつながっていかない。よって閉じたサイクルの中に結果、いつまでも閉じこめられることになる。そして、彼らはメンバーの一人の誰かの行動に対しておそらく責任を取ろうとはしないし、助けるかどうかも怪しい。
 彼らは視野が狭く、「地元」の外には広い世界がありそこで評価される可能性があることを知ってはいるが、実際にどのようにしたら認められるかということを知らない。

 5.大人はどこに行ったのか

 わたしたちは親以外にも多様な人々から影響を受けて人格を作り出している。要素も組み合わせ方も個々に委ねられているため、同じ人格を有する人間はいない。その人を理解するためには家族的背景さえ押さえればいいわけではない。これらのことから、親しかモデルがいないという事態は高リスク状態であることが分かる。
 以前は親方や師匠などがいて、子どもたちは社会化され、大人になることができた。しかし、今やそうした大人は少なくなってきている。
 非正規雇用の現場で働く若者たちはいくらでも代えのきく使い捨ての労働力でしかない。彼らに社会的承認を与えてくれるのは家族以外ではローカルな友人くらいしか残されていない。ここで登場しない存在は一体誰か。同年代の友人と家族以外の大人たちである。おせっかいな大人がいないのである。多様な年齢層と彼らが接点を持つことができるようになれば、彼らにも道が開けてくるのではないか。

 6.承認と確認

 杉田真衣は、東京都内の「最低位校」公立高校出身の女性5人にインタビューを行い、彼らの高校卒業後の5年間を通じての「労働と生活の移り変わり」を記述・分析した。杉田は、5人の関係および彼女たちの人生に偶発的に訪れた様々な他者との関係にみられたものは、承認よりも確認という言葉で表現した方が適切かもしれない、とのことである。互いの生活をまなざし合い、互いの生活がそれで「大丈夫」だと確認し合うような関係を築いているのである。
 一方、秋葉原で殺傷事件を起こした加藤の場合はどうであったか。彼は地元からは離脱した人でプライドが高く、ネット空間において「今の私ではない私」を構築することに没頭した。彼の孤独はそうした私を求め続けた者の孤独である。
 彼にはヴァーチャル空間がローカルな共同世界に思えたのではないか。しかし、誰も彼を承認しなかった。承認される見込みがないこと、そのことが露わになった時、加藤は破綻したのではないか。
 彼のまわりにおせっかいな大人がいたかどうかはわからない。しかし、もしかしたらそのおせっかいな大人たちが彼を承認ではなく確認によって、もっと違った方向とやり方で「今の私ではない私」を想像するヒントを与えることができたのかもしれない。

 <わたしの感想>
 秋葉原無差別殺傷事件を起こした犯人にとっては、「まなざしがないこと、他者たちのまなざしが集まらないことが地獄だったのである」(大澤 2008)。
 わたしはブログをやっている者だが正直なところを告白すると、自分に注目が集まらないと苛立ちのようなものを覚えてしまう時がある。頑張って執筆し続けているのにアクセス数が3だったりしようものなら、途端に気持ちが揺れ動いてしまう。(最近ではありがたいことに2桁行く日がほとんどになったが。)
 世の中には人気者とそうではない人がいて、一方が注目され賞賛されるのに対して、他方はどんなに言葉を紡いでパフォーマンスをしても無視され続けるという厳しい現実がある。だからといって、無差別殺傷をやっていいわけではない。断じてやってはいけないし、容認できないし許されるものではない。
 何かもっと違うやり方、方法があったのではないか。自分が注目されない、無視されているという実感があったのだとしたらもっと別の方法で欲求不満を解消する手だてはなかったのか。そこが悔やまれてならない。
 また、わたしも障害者で定職にはつけておらず細々と暮らしているわけだが、下層から抜け出すのは本当に至難の業であるとつくづく思い知らされている毎日である。わたしの最終学歴は高卒で、大卒でしかも新卒で就職というレールから完全に外れてしまっている。レールに乗ることがすべてだと思っている人から見たら完全にアウトであり、落伍者である。わたしに待っている仕事。それはきつくて時給が安くて、あるいは時給が高い場合には危険な仕事である。そういった仕事しかわたしには残されていない。もしもわたしが安定した仕事につくことを望むのであれば、大卒にならなければならない。でも、どうやって? 金がないのにどうやって大学へ行くんだ? というわけで放送大学で地道に単位を取っているわたしなのだが、大卒って楽じゃじゃないのね、ということを肌身を持って実感させられている。というか、大卒になったところで精神障害のあるわたしにフルタイムが務まるわけもなく、障害者就労しか残されていない。となると、高い時給は期待できない。といった具合で先が見えない次第なのである。もうこうなったら一攫千金でも狙うしかないのかもしれない。
 本文では「地元つながり」が登場してきたが、わたしは地元つながりに対してさえも羨望のまなざしなのである。地元つながり云々言う前に友人が一人もいなかったからだ。だから、加藤よりも孤独なのであった。加藤には友達がいたらしいから。わたしのつながりはほぼ家族のみであって、それ以外の人間関係は皆無であった。わたしのフラストレーションが反社会的な行動へとならなかったことはせめてものわたしにとっての救いである。
 地元つながり。つながりがあるなんてなんて素晴らしいのだろう。わたしの20代は本当に孤独だった。ほとんどひきこもりみたいなものだったし、それに統合失調症という病にとにもかくにも圧倒されっぱなしだった。ようやく30代になっておそるおそる母と一緒に教会へ行き始めて物事がいい方向へと好転し始めたような気がする。それまではとにかく毎日が苦しくて苦しくて仕方がなかったのだった。
 本文を書いている放送大学の西澤教授はしきりに「おせっかいな大人」の効用を説いている。わたしもそう思った。何か世の中がスマートになりすぎておせっかいな大人が減ってきているように思えるのである。モデルが親だけしかいない、というのが高リスクであるという。もっともだ。多様な大人の姿を子どもたちが見ることによって、いや見るだけではなくおせっかいな大人に接して関わることによって、自分にとってのこうなりたいというロールモデルが確立する。わたしも教会に行っていてこうなりたいと思える人がいる。その人はおせっかいではないけれど、その人との関わりの中で本当に多くのことを教えられている。
 わたしのブログの影響力は、インフルエンサーに比べれば雀の涙ほどもない。微々たるものでしかない。でも、わたしは小規模ながらも人々に影響を与えているのである。そして、誰かをもしかしたら前向きな気持ちにしたり、励ましたり、元気を与えたり、最終的な目標としては幸せにできたら嬉しいと思っているのだ。わたしの文章に誰かを幸福にできるほどの力があるのかどうかは疑わしいし、そんなこと無理だろうとわたしは思ってしまうのだが、幸せは主観的なものであり、その人のこころが決めるものなのだから、もしかしたらという期待もある。誰かの幸福に寄与するような文章を書きたい。そんな思いでいる。
 だから、殺傷事件を起こした加藤とは真逆の方向を歩みたいのである。反社会的なことをして注目を集めるどころか、向社会的なことをしてできることなら注目も集められればベターである。
 この気持ちさえ持ち続けることができれば、たとえ注目されなかったとしても反社会的な暴挙に出ることはしないだろう。
 現在はわたしの数少ない読者のために書いているわけだが、初心忘るるべからずで初志貫徹していきたい。何かわたしの感想というよりも後半は抱負になってしまったが、とりあえずこのあたりで今回を終えたい。以上、お粗末。


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【放送大学】『中高年の心理臨床』第8回 こころとからだのエイジング-からだを中心にして-

 1.はじめに

 エイジングとは、体の成熟が終了したあとに起こる生理機能の衰えのことである。エイジングによって、身体機能が衰えてきて環境の変化やストレスに対する適応能力が低下してくると、病気にかかりやすくなったり、病気にかかってから改善しづらくなったりする。多方面にわたり低下してくるのである。
 同じ年齢で同じように成長する発達とは異なり、エイジングは個人差が大きい。エイジングは遺伝的要因に加え、生活習慣や環境要因などが大きく影響する。
 また、身体機能の変化に適応することに失敗すると、うつや不安障害などの精神疾患発症につながってしまうこともある。

 2.メカニズム

 からだのエイジングのメカニズムについては、いくつかの仮説が提唱されている。
 ①活性酸素説:活性酸素によって細胞が損傷されてエイジングが生じるという説。
 ②プログラム説:生物を構成している細胞には分裂できる限界が設定されていて、その限界を迎えた時に老化が生じるという説。
 ③遺伝修復エラー説:細胞分裂の際に少しずつ生じる突然変異が蓄積されて、最終的に破綻を迎えることによって老化が生じるという説。

 3.身体機能のエイジング

 エイジングによって、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感すべてにおいて機能低下が生じる。その中でも特に、視覚と聴覚はコミュニケーションに影響を与えて、機能低下が外出機会の減少へとつながる場合がある。
 骨格筋量と骨格筋力の低下による身体機能の低下はサルコペニアと呼ばれる。サルコペニアは転倒の原因となり、積極的に診断して治療をすべきである。サルコペニアの診断は、歩行速度、握力、筋肉量によって行われる。治療としては、運動とアミノ酸の補給が重要である。
 筋肉だけではなく、骨、関節、靱帯、腱、神経などの運動器の障害のために移動機能の低下をきたした状態はロコモティブシンドロームと呼ばれている。対応としては、運動を日常生活に取り入れることが重要ではあるが、健康状態を十分に把握しながら行うことが必要である。
 高齢になるにつれて自分の歯の本数が少なくなってくる。そうした際には、義歯を装着することが必要である。高齢者の義歯作成については、傷を生じた場合に時間を要するためそのことに注意を払う必要がある。また、義歯の管理が難しいこともあるため支援も行わなければならない場合がある。
 エイジングによって個人差が大きいものの、嚥下機能は低下していく。その際には、誤嚥に伴って起きる肺炎に注意する必要がある。また、嚥下機能に影響する薬剤もあり、適切な薬剤使用が求められる。

 4.生理機能のエイジング

 女性、その中でも経産婦では中年期以降に尿失禁を経験する人の割合が高くなる。一方、男性の場合は、加齢による前立腺肥大によって尿が出にくくなることがある。
 尿失禁には種類があり、その原因ごとによって対処方法が異なってくる。
 また、高齢になると夜間排尿に起きるようになる。
 睡眠についても、途中で目覚めてしまうことが多くなり、睡眠時間自体も短くなる。これは睡眠を誘発する物質であるメラトニンの分泌量が加齢と共に低下してくるためである。
 こうして夜間の睡眠効率が低下するため、日中の眠気が強くなり、昼間の睡眠時間が長くなりがちで、夜間の不眠やせん妄の原因になる場合もある。
 昼寝の制限と日中の活動の確保を行った上でも、つまり、生活習慣を工夫してみてもうまくいかない不眠に対しては薬物療法が行われる。その際には精神疾患であるかどうか判別する必要がある。不眠はうつ病の一症状としてあらわれることも多いからである。睡眠薬は従来はベンゾジアゼピン系が広く用いられてきたが、ふらつきや転倒、認知機能低下といった副作用があるため、最近では新しいタイプの睡眠薬が用いられるようになってきている。
 睡眠障害は多くの疾患と相互に関連する。糖尿病患者の多くに睡眠障害である睡眠時無呼吸症候群が合併するケースが報告されている。また、逆に睡眠障害のある人では肥満や糖尿病の割合が多い。原因としては、不眠によりインスリン感受性ならびに食欲を抑制するホルモンであるレプチンが低下し、食欲を亢進させるグレリンが上昇することなどがある。また、不眠は認知症のリスクファクターとなる。

 5.高齢期における身体疾患の治療

 以前は80歳代になると、身体に負担がかかる侵襲的な治療は控える傾向があった。しかし、近年では医学の進歩もあり、予後を改善したり生活の質(QOL)を向上させるために侵襲的な手術が以前よりも高齢者に行われるようになってきている。高齢者においては個人差が大きいため個別に手術の適否を判断していくことが求められる。

 6.からだのエイジングの心理的影響

 からだのエイジングに伴う老いの自覚は、社会的つながりからの撤退や生きがいの喪失などネガティブな行動、思考につながりやすい。このような認知に対してポジティブ心理学では、自分の強みを再認識し、生きがいを追求することにより、心理的ウェルビーイングの維持・向上をはかるためのプログラムが開発されている。

 7.まとめ

 中高年期の心理的課題は、身体機能の低下と様々な病気にいかに適応しながら生活を再構築していくか、ということである。この課題に対しても個人差は大きい。心理的介入としては、それぞれの生活史を振り返り、新しい課題に適応するために使える経験や強みがないかを共に探り、再適応を援助していくことである。

 <わたしの感想>
 齢を取る。そして、弱っていき、最終的には生涯を終える。この当たり前のことについて考えさせられた。わたしたちは不老不死ではない。みんなある年齢を超えると弱っていくのである。
 もちろん、運動や食事などの生活習慣を整えることによって、生涯現役とばかりに生き抜くこともできないことはない。しかし、多くの人にとっては、エイジングは避けられない現象なのである。成長が終わり老いていく。
 そんな時、どうしたらいいのか。それに対しての具体的なアドバイスが今回の学習内容であった。どうすれば健やかに生き抜くことができるのか、という問いへの模範解答のようなものなのであった。
 世の中の多くの人たちは、まずは病気を治そうと、そして次の段階としては健康になろうと、さらに意識の高い人たちともなればより健康に、つまりは絶好調になろうと努力する。この努力は素晴らしいものであって、かけがえのないものであることはわたしも認める。よりよく生きようと努力することは、人生を輝かせようとする営みで尊いものがある。
 でも、これが(健康になることが)至上命題、究極目標になってしまっている人を時折見かけるが、そこに何か転倒したとまでは行かなくとも違和感のようなものをわたしは覚える。わたしが思うに、健康は手段ではないだろうか。何か健康になること自体を人生の目的にしてしまうことが大変惜しいことのように思えるのである。
 「健康になりたい」。健康を失った人の憧れである。その気持ちそのものを否定するつもりはない。しかし、健康になることが目的なのではなくて、何かやりたいことがあるのではないか。人生が終わるまでの間にやらなければならない、やらなければ死ねないことがあるのではないか。使命と言い換えてもいいかもしれない。
 エイジングについて学んで、わたしはやりたいことがあるということを再認識できた。やらなければならないことがあるのだ。だから、そのために運動もするし、食事も気を付けるし、睡眠もしっかりとる。やりたいことをやるためには健康であることが必要なのである。そのことに気づかされたのだった。わたしにとっては大きな気付きである。もちろん、痛い思いや苦痛を味わいたくないからという消極的な理由ももちろんあることはある。けれど、積極的な理由、人生を謳歌してやりたいことを健康な肉体でやるんだという気持ち。それが一番今のわたしの中では強くなっている。
 健康あってこそ。健康でなければいい仕事はできない。それは精神疾患のわたしにとっては重々痛いほど分かっていることだ。メンタル不調だと本当にこたえる。そして、いい活動や仕事などできるわけがない。フィジカルもこれと一緒でいい仕事やいい活動などの充実した生活を送るためには健康であったほうが断然いいのである。
 わたしは精神疾患でこころの病気の人であるのだが、病気はなる前に予防する方がなってから回復させるよりも易しい。未病の段階でくいとめて改善する方がやさしいのである。わたしのこころの病気にしてもいい方向へと改善できたらと思っているのだが、ありがたいことに身体の方は健康な身である。だから、メンタルを改善するためにもフィジカルをととのえて快調に生活できるよう取り組んでいきたい。
 やりたいことがある。それをやるためには健康であることが必要だ。だから、生活をととのえる。
 方向性が見えたところで、わたしの感想は以上である。絶好調な日がもっと増えたらいいなぁ。


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【放送大学】『家族問題と家族支援』第9回 人生の終末期にある人の家族-支援のあり方-

 1.「死にゆくこと」をケアするホスピス

 死にゆく人やその家族を支援する活動は古くから行われていた。その一つがホスピス(hospice)である。ケア活動やその拠点となる施設のことをホスピスという。
 それは言葉としては4世紀ごろからあり、中世において旅人や巡礼者、十字軍兵士たちを対象とした修道院の宗教者などによるケア活動であった。そして、それはヨーロッパに広まった。
 19世紀後半には、医学や医療技術を導入した「死にゆくこと」へのケアに焦点をあてた近代ホスピスが作られる。
 そして、20世紀中頃には、がんの末期患者をおもな対象とする現代ホスピスが登場する。具体的には、1967年にシシリー・ソンダースが立ち上げたロンドンのセントクリストファーズ・ホスピスがはじまりであり、その後、バルフォア・マウント医師がモントリオールのロイヤル・ヴィクトリア病院で現代ホスピスを土台とした緩和ケアを考案し、1975年に緩和ケア病棟が開設された。
 ホスピスの理念は次のようなものである。
①死は生命の自然な過程であり、生命の終わりに近づいたときに成長の可能性があるとみなし、延命よりも個人のQOL(Quality of Life)向上を重視する。
②患者と家族を1つのケアの単位とし、ケアプラン作成過程への患者・家族の積極的参加や、患者の自己決定を促進させる。
③高いQOLを達成するために、身体面、社会面、心理面、スピリチュアル面での快適さ、患者の尊厳の保護、最期の時期におけるできるだけ自由な環境での生活を重視する。
④家庭でのホスピスケアの提供が望ましいが、不可能な場合、ホスピス施設や病院、ナーシングホームなどの施設でケアを提供する。
⑤ボランティアを含む多職種チームによるケアを提供する。
 また、WHOによる緩和ケアの定義は、「生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のQOLを、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチ」である。

 2.日本社会でのホスピス・緩和ケア

 日本のホスピス・緩和ケアは、草創期には自発的な個人や組織によるホスピスの設立や推進運動のかたちで始められ、後に医療政策に緩和ケアが導入されて発展してきた。
 詳細について本文には記されているもののここでは割愛させていただきたい。

 3.終末期にある人の家族の支援

 終末期にある患者やその家族は治療や療養をどのようにしていくか決めなければならないわけだが、その際にこの意思決定を患者やその家族と医療者やケアスタッフが共同で行うことをアドバンス・ケア・プランニング(ACP)という。患者の気持ちを大切にしながら、患者の情報を共有して意思決定していく。
 臨死期の患者の場合には家族が治療・ケアの決定を行うこととなる。その際には、医療者と家族が共に考え、共に責任を担うことが大切である。
 終末期の患者の家族に対しては、看病・看護する家族に対するケアを行い、臨死期にもケアを行い、死別を経験してからもケアを行う。特にこのケアをグリーフケアという。また、家族が患者の死と向き合う作業をグリーフワークという。そして、患者がなくなってしばらくしたら遺族ケアを提供する。
 医療者以外で予期悲嘆へのケアやグリーフケアを提供する専門家としては、チャプレンやビハーラ僧などの宗教者がいる。このほか、臨床宗教師という布教や伝道を目的とせずに魂の癒しを行っている専門家もいる。

 <わたしの感想>
 「人生の終末期にある人の家族」ということで、わたしにとってはぴったりな学びだった。祖母があと1年も生きられないという過酷な現実を前にして、家族としてどう向き合ったらいいのか、ということを考えた時、まだ具体的なイメージは浮かんでこないものの心の準備を少しばかりはすることができたように思う。
 わたしは当事者の家族という立場なのだが、スタッフ側はどのようなことをするのかということがよく分かった。
 終末期、臨死期、死別、死別後。実に手厚く患者とそれを取り巻く人々(おもに家族)をサポートしてケアしていく様子が伝わってくる。この分野で働かれている専門職の方たちはとても大変だと思う。人の命の終わりに寄り添う。なかなかこれは難しいことである。なぜなら、人間は機械でもなくロボットでもなく、生身の生き物なのだから。人間はコンディションが悪くなるとメンタルも不調になるもので、おそらくなかにはスタッフを激しい声で罵倒する患者や家族もいることだろう。でも、それでも彼らはこの仕事を辞めることはない。罵倒する彼らに仕返しとばかりに罵り返すのではなく、人間的に優しく寄り添っていくのだろう。人は必ずいつかは死ぬ。病気にならないで死んでいく人もいるけれども、病気になって死んでいく人が多くを占める。だから、彼らの仕事は必要な仕事だ。なくてはならない仕事だ。そうした尊敬の気持ちを医療従事者に向けたいと思った。
 しかし、一方でテキストに書かれているようなことが今一つわたしの祖母の場合には行われていないように思えてきた。どこか粗末なとまでは行かないが、配慮が行き届いていないようなそんな気がしてきた。祖母が外来通院という形態を取っていることもあるのだろうが、どこか医師任せになっているのである。この回で紹介されているホスピスならびに緩和ケアは一般の医療とは大きく異なっていて、とても優しいものなのかもしれない。この優しさ、この細やかさが一般の医療にも欲しい。そして、患者一人ひとりを全人的に大切に大切に扱って欲しいと思うのである。そして、患者だけではなくその周辺の家族などに対しても細やかな気配りをしてほしいのだ。わたしはわがままなことを言っているのだろうか。至極もっともなことを言っていると自分では思っているのだが。
 イライラしている。パソコンの画面ばかりを見ている。不機嫌。先生、先生と仰いでいないとご機嫌斜め。フラットな態度を患者が取ると怒る。説明をほとんど噛み砕かない。そして、患者や家族が理解できないとあきれたり「はぁ?」みたいな声を出す。デリカシーがない。
 医師不足で仕事の量も多くてイライラしているのだろう。ブラック企業並の仕事をこなしているのかもしれない。
 けれど、だからと言って患者をぞんざいに扱ってもいいのか。(こうなってしまっているシステムの問題でもあるが。)もっと医療は原点に立ち戻るべきではないかとわたしは思う。なぜ医療があるのか? 何のために医療は本来あるのか? こうした哲学的な思考がもっと問われていいはずだ。
 目の前の人を元気にしてあげたい。幸せにしてあげたい。痛みを取り除いて少しでも楽にしてあげたい。すこやかな毎日を送る手助けをしてあげたい。
 こうしたある意味、医療の現場を何も知らない者が言えた口ではないが、本来医療はそういう気持ちがあって誕生し発展してきたものではないのか。この心を疲弊しているあまり、医療者が失いかけているのではないだろうか。何とかしなければならない。
 感想をこうして書いているわたしだが、ふと昔あったある出来事を思い出した。それはわたしが入院した時のことだった。同室に新しく中年男性が入院してきたのである。その人はお薬手帳がないと大声でわめき始めた。しばらくすると看護師がやってきたのだが、その男性は看護師に「お前がお薬手帳をどこかへやったんだろう! 責任取れよ!」と激しくののしりはじめたのだ。看護師は必死になってその人の荷物の中を探していた。その間中、その新入りは看護師をわけがわからないくらいに矢継ぎ早に罵倒し続けているのである。「何もそんなに怒らなくても。」と思いながら傍観していたわたしだった。それから15分くらいしただろうか。もうお分かりだろう。お薬手帳がその人の荷物の中にあって見つかったのだ。わたしは看護師がその患者を怒鳴り散らすとばかり思っていたのだが、その看護師は怒るどころか、「見つかって良かったですね」と笑顔でにこりと本当に嬉しそうに言ったのだった。わたしはその看護師から尊敬すべき医療者の背中を見せられたのである。
 ここまでできなくてもいい。でも、患者とその家族を大切にしてほしいと痛切に思うのだ。頭が悪いのかもしれない。どんくさいのかもしれない。要領を得ないのかもしれない。けれど、大切に扱われたいのである。イライラしないでほしい。あきれないでほしい。突き放さないでほしい。そして、何よりも大切にしてほしい。
 今わたしが述べてきたマインドに医療者が立ち返ればきっと医療はもっと良くなっていく。(時間がかかってしまって待ち時間はもっと増えるかもしれないという懸念は想定されるが。)
 終末期のことをもっと勉強したいと思った。ぼちぼちやっていきたい。


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【放送大学】『人間にとって貧困とは何か』第8回 子どもにとって貧困とは何か

 1.社会問題としての子どもの貧困

 ようやく子どもの貧困が社会問題として議論されるようになってきた。自由ならびに平等という価値を追求する時、14%という子どもの貧困率は優先度の高い課題である。子どもはどこに生まれおちるのか自分で決めることはできない。そして、そこでの条件の有利不利はまさに不平等としか言うことができない。また、子どもの貧困は社会問題としての側面をも持っている。
 こうした議論に反論する人々もいる。それは日本の新自由主義者である。彼らは「親が悪い」のだから政府はかかわるべきではないと主張する。貧困への取り組みにおいて、最大の障壁は、制度と社会を強固に呪縛し続けている家族主義である。
 就学援助制度は、生活保護世帯と準要保護世帯(生活保護水準に近いと市区町村が認めた世帯。なお基準は市区町村によって異なる。)に適用される。準要保護世帯の多くは生活保護水準にありながら生活保護を受給していない世帯である。そして、就学援助を受けている世帯のうち9割以上が準要保護世帯というのが実状なのである。
 日本の子育ては社会的に支えられているというよりは家族依存の傾向にあり、日本は他の国よりも子どものいる世帯に対する社会保障給付が薄く、税や社会保障費の負担が重い傾向にあって、所得再分配が貧困削減の機能をほとんど果たしていない。
 子どものいる貧困世帯の半数以上はふたり親世帯であるが、家族形態別の子どもの貧困率はふたり親世帯では12.4%、ひとり親世帯では54.6%となっている。
 母親たちが選べる職種は、非正規の臨時・パート職がおもで、そのことの不利が明らかに直撃しているのが母子世帯なのである。日本のひとり親世帯の貧困率は高く、OECD加盟国中最も大きい。
 子どもの貧困への対策の中心は、やはり経済的な援助の具体化と積極的な教育保障ということになるであろう。ただし、貧しい子どもたちを学歴競争に向けて加熱させることを目的としてしまうと、競争の敗者というラベルをあらためて貼られた若者たちを数多く作り出しただけで終わってしまうのではないかという危惧を著者は抱いているようである。

 2.イデオロギーとしての遺伝論

 貧困を生きる人々にとって、最も厳しい敵は宿命論として機能する遺伝論である。このイデオロギーは貧者をあきらめへと誘導し「仕方がない」と現状を受容させる宿命論として立ち現れる。
 「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」という言葉がある。親の階層が上層だとその子どもの学習意欲がほとんど低下しないのに対して、より下層の場合には学習意欲の低下が顕著だったのである。つまり、多くの場合、不利はあきらめへと人々を誘うのである。不利が意欲を生むというのは特殊的な事態であり、なかなかそれを逆転するのは難しいようなのである。

 3.社会化

 人、特に貧者は宿命論にとらわれてしまいがちだが、それでもあきらめきれずに「今の私ではない私」をイメージする。その宿命論をこえるイメージはどこからやってくるのか。この問いに社会学的に答えるためにはG・H・ミードの社会化についての議論を経由する必要がある。
 ミードは、子どもが社会化において強い影響を受ける人物を重要な他者と呼ぶ。重要な他者は家族から広がっていき、その人数も増えていく。やがて、子ども(幼児)は重要な他者からの期待を自分なりにとりまとめ、一般的な期待を想像しつつそれに合わせて振る舞わなければならなくなる。そうすることで、一人の重要な他者(たとえば母親)の直接的影響から離れて、一般化された他者による自己拘束へと移行するのである。こうして、その幼児は社会というひろがりを生きる小さな個人になるのである。
 このミードの社会化についての議論を踏まえるなら、「親しかモデルがいない」という状態は高リスクであることが分かるだろう。狭い世界を相対化して社会というひろがりの中に身を置けば、その狭い世界を客観化することができる。社会化は、それぞれの家族・学校・地域・職場をこえた社会というひろがりにおいてなされるものなのである。

 4.社会関係資本

 教育社会学者の志水は、「つながり」の豊かさの度合いが学力と相関していると述べている。近隣関係が密で「地域とのつながりが強い」(地域の持ち家率が高い)、「家族とのつながりが強い(離婚率が低い)、「学校とのつながりが強い」(不登校率が低い)、この3つのつながりが豊かな自治体の子どもたちの学力は相対的に高く、逆に「つながり」が揺らいでいると思われる自治体の子どもたちの学力は低いという傾向が、経済的条件にあわせて浮上してきたという。
 貧しい子どもであるならなおさら多様な大人たちに囲まれるべきである。貧しい子どもの社会化とアイデンティティ構築の観点からは、多様な人々との接触を通じて、彼らが生きる世界をこえて存在するひろがりを感覚するところに大きな意味があるのである。

 5.攻撃される子どもたち

 貧者、貧しい子どもであることは社会的なスティグマ(烙印)である。ひとたび貧者として認識されれば、貧者としての烙印を通してしか理解されなくなる。そして、スティグマから自由になるための自己呈示は往々にして社会的に拒絶される。
 貧困のスティグマを通して貧者を見る人々は、「貧乏人らしい」もの以外の貧者の自己呈示を許さない。
 だから、NHKのニュースで母子世帯の女子生徒が生活の苦しさを訴えても、(進学できないこと、パソコンが買えないこと等)自室に趣味の物品があることが判明しただけで叩かれる事態となったのである。

 <わたしの感想>
 わたしも子どもの貧困については、子どもの側には何の責任もなく、ただ生まれてきた家庭が貧しかったばかりにあらゆる不利な状況を背負わされるのはいかがなものかと思う。大人には自己責任論を持ち出せないこともないが、子どもには無理だ。
 この不利な状況を乗り越えなければならないと人間がスタートラインが一緒だと強調する人もいるけれども、まずもってスタートラインから周回遅れくらいの差がついているのではないか。
 人間は平等のはずなのに平等になっていない。そこにやりきれない思いのようなものをわたしは感じてしまう。
 自分のことに置き換えてみれば、貧困層から一発逆転することがいかに難しいかということをわたしはひしひしと感じている。
 日本なら貧困はありながらも餓死するほどの貧困はない。しかし、世界に目を広げてみると生活保護制度があるわけでもなく、今日も飢えて餓死している人やお腹をすかせた人たちがいる。
 彼らにあなたがたが飢えているのは自己責任だと言い切れるのか。
 わたしたちは一人ひとりが徹底的に不平等である。能力、身体、精神、経済的状態、情報、環境、すべてが不平等で不公平である。不条理でさえあると言ってもいいかもしれない。
 その中でどうやっていくのが一番いい方法なのか。人類は今まで試行錯誤しながらやってきた。でも、問題は解決していない。もしかしたら解決不可能な問題なのかもしれない。でも、あきらめたくない。そんなことを思い、考えた今回の学びであった。


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