放送大学をやめることにした

いろいろエッセイ放送大学
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 わたしにとっての新しいチャレンジは放送大学で勉強することだった。人間のこころについて学びたい。そんなわけで心理学メインで勉強するために入学したのだった。
 それから4年くらいが経とうとしているだろうか。4年も経てば、というか人間というものは常に変化して移り変わっている存在だから、もちろんその当時のわたしと今のわたしとでは違う。が、変わったこと、変わらないこと。それぞれあって、今のわたしを織りなしている。
 放送大学で心理学をかじってみて分かったことはもちろんある。その学びが今のわたしにすごくいい影響を与えていて、人としての深みが増したであろうことも事実だ。けれど、今のわたしは心理学に昔ほどの関心がなくなった。それ以上にもっとやりたいこととか関心があることが出てきて、そのことをやりたいのだ。だから、前向きな理由で放送大学をやめるのだ。
 放送大学に魅力を感じなくなったのは、別に独学でもいいんじゃないかと思えたからだ。放送大学の学費、普通の大学に比べたら破格の待遇だけれど、それでもわたしにとっては高い。放送授業という普通の授業を一科目履修すると1万1000円かかる。だいたいわたしのペースだと一学期間に三科目くらいだから3万3000円になる。これって結構大金じゃないですか、と思ってしまう。これだけのお金があれば、豪華でデラックスな高い本だって買える。一般的な本ならだいたい3000円くらいだから11冊は買える。それなのに、そこをそうしないで授業料として収めることに意義があるのか。だんだん疑問に思えてきた。いや、この3万3000円というのは講義の授業料も含めての値段だよと常識人なら言うことだろう。でも、何もそこまで高いお金を払ってまでして、その授業を聞きたいとか思わないし、思えない。
 で、結局独学にたどり着く。立花隆さんが本の中で言っていたことがあって、それが今回やめるにあたってわたしの背中を後押ししてくれたんだ。立花さんは言う。大学で学ぶことなんていかほどのものでもない、と。それよりも自分で自主的に独学することの方が身になるし大事だってね。わたしにはそこまではできないけれど、本当に一生懸命学べば独学でも大学院を何回も出たのと同じくらいのところまで行けるらしいのだ。
 どんなに環境が整えられて、学校という設備があり、教えてくれる先生がいても、最後は何だかんだ言って、自分の頭にその学んだことをインプットしなければならない。学校という設備も、懇切丁寧に教えてくれる先生も、それを代わりにはやってくれない。だから、最後はいかに吸収しようとするか、学ぼうとするか。いや、学びたいか。そこにかかってくるんだ。
 それにわたしの学びたいことは放送大学の中にはない。放送大学の枠の中にはないのだ。アーユルヴェーダもなければ、防衛もなければ、宇宙はあることにはあるけれど少ししかなくて、アンチエイジング医学もなければ、ヘブライ語もなければ、キリスト教の科目もない。だとしたら、自分のわがままなニーズを満たすためには独学するしかないんじゃないか。わたしにはわたしのやりたい、学びたいと思うことがある。わたしが放送大学という枠に合わせるのではほとんどやりたいことができない。だから、わたし独自の学びは自分でプロデュースしていくしかないんだ。
 あとわたしは大卒という肩書きに魅力を感じることができない。もちろん、自分が就きたい仕事が大卒以上とか、取りたい資格が大卒でなければ受験資格が得られないなどという場合には、放送大学を何が何でも卒業しなければならないだろう。でも、わたしは今の段階で何か就きたい仕事があるわけではないし、大卒でなければ取れない資格を目指しているわけでもないのだ。ただ大卒。漠然と大卒。ただそれだけのことであって、そこに明確な目的などがあるわけではない。となれば、何のために高い学費を払ってまでして放送大学を卒業しようとするのか腑に落ちないのは当然のこと。つまり、メリットがない。わたしにとっての魅力というかメリットがない。端的にない。
 わたしは案外と言うか、言うまでもなくお気楽な人間で、自分が勉強したいことが勉強できていれば何も不満はないのだ。
 これを読んでくださっている方で放送大学をやめるかどうかと悩んでいる方はよく考えてほしい(って言われるまでもなく考えると思いますが)。これはわたしの場合っていう話であって万人に適用できるかどうか、というと疑問だからだ。人それぞれ置かれた状況も育ってきた環境も違う。能力も性格もありとあらゆるものが違う。だから、わたしの場合こうするっていうだけの話で、これを鵜呑みにして「じゃあやめよう」と特に考えもせずにやめることだけはしないでほしい。
 わたし自身、放送大学の枠に収まりきらないくらいユニークな人間になってきたんだなぁって逆に今回大学をやめることを前向きに受け止めている。放送大学とか、何々大学とか、そんな狭い枠に囚われないで、もっと自由な視点を持って学びを展開していく人が増えてくれたらいいなって思う。
 学びってさ、有名な話だけれど「まねぶ」から来ているんだよね。真似をするんだ。とにかく真似をして模倣をする。それが学ぶということの一番原初的な形であり、あり方なんだ。だから、どういう方法を使って真似てもいいわけなんだ。とにかく、何を置いても真似することができさえすればいいのだ。
 放送大学はやめるけれど、今まで以上に勉強や読書をしていきたいなって思ってる。そして、自分独自の世界を紡いでいくんだ。自分にしか出せない色を出していくんだ。学ぶものの取り合わせに、学ぶ時間に、頻度に、完成度。どれを取ってもそれは世界に一つしかない学びなんだ。だから、誰かと同じことをやる必要なんてない。自分がやりたいこと、学びたいことを追求していけばいいんだ。
 やめる。この言葉はネガティブな意味合いを濃厚に持っている。けれど、やめた方がいいと思ったことをやめるのは大事なことだよ。本当はやめたいのに、苦しいくらいそれをやる気がしないのに、それにしがみつく。それは幸福なあり方ではないと思う。やめたいものをやめる。世間体とか見栄とか、そういうこと抜きにして自分の本心に従う。すごく大事なこと。
 わたしは学生から無職になる。でも、学生ではなくなるけれどあり方は姿勢はれっきとした学生だ。学ぶ者、学者と言ってもいいかもしれない。そうだな、これからは学者って名乗るかな。カメラマンと同じで名乗るのは自由だからね。三流だろうと何だろうと、学ぶ者であることに変わりはない。でも、控え目に無所属の学生ってことにしとこうかな。学者だと立派感が立ちこめちゃうからね。あー、でも学者もいいかも。えへ。学ぶ者だから嘘は付いていないよ。
 星大地、放送大学生から学者へ。ステップアップ? いやいや、わたしはわたしで変わりませんけどね。

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