ピカイチ

いろいろエッセイ菜食
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ぴかいち【光一】
②多数の中で最も傑出していること。また、そのもの。
(『広辞苑』)

 わたしはほとんどメールのやり取りをしていない。気が付くと無精になっている。精神保健福祉士のWさんにメールを送ってくれるようにお願いしていたのに、そのことをすっかりと忘れていた。
 5日に届いていたWさんからのメール。わたしはそれを急いで開く。もう15日も経っている。この待てない現代において15日もメールを放っぽっておくというのは非常識そのもの。
 文章を読む。割合長文のようだ。そうだそうだ、前回電話で話した時にわたしがブログのアクセス数が少なくて……と彼女にこぼしたんだった。そこで時間がなくて続きはメールでってなったんだった。いや、そうではなくて、Wさんがリカバリーストーリーという精神障害のある人が語る回復の物語を語ることについての話をしてくれて、その話が時間切れになったんだった。いやいや、記憶違い、記憶違い。
 正直なところを打ち明けるとあまりわたしはリカバリーストーリーには関心がなかった。なぜなら、精神保健福祉には今のところこれと言って興味がないし、同じ精神疾患の知人・友人などがいるわけでもない。地域活動支援センターへも相談という形でコロナが到来する以前、Wさんと話をするために月1で行っていただけだったし、精神保健福祉とは距離を置いてきたからだ。
 Wさんには申し訳ないけれど、そのリカバリーストーリーの話よりも今の自分のブログのアクセス数が少ないことについての問題の方に関心があったのだ。けれど、なぜかその時、その話に興味がないなどとは言えなくて優等生的な対応が抜けないわたしはWさんに「話の続きをメールで送ってください」などとお願いしてしまったのだ。何と不誠実なわたしなのだろう。自分で自分に嫌気がさしてくる。
 彼女の文面からは本当にやさしいいい空気が伝わってきて、まるで上機嫌の満面の笑みでわたしという存在を全肯定してくれているかのようだった。その文章の中で一番わたしが嬉しかった言葉。それは「大地さんの文章はピカイチです。ブログが更新されるのを楽しみにしています。」という文面の中の「ピカイチ」という言葉。
 広辞苑でピカイチという言葉を引くと、「多数の中で最も傑出していること。また、そのもの。」とあった。どうしてこの言葉がこんなに嬉しかったのだろう。何でこんなにこの言葉がわたしに刺さってくるのだろう。なぜだろうと考えてみると、いつもわたしは自分自身のことを意識はしていないけれど、三流だと思っているからなのだろう。わたしが世界に一人しかいないように、わたしの文章はわたしにしか書けない。しかし、上には上がいて、何もわたしは執筆業で生活できるほど文章がうまいわけではないし、素人でだってわたしよりもうまい人は腐るほどいる。わたしは全然大したことがない。普通の人よりはまぁ上手いだろう。それは認める。でも、わたしより上手い人は無数におびただしいくらいにたくさんいるのだ。
 そんな書くことにおいて劣等感を抱えているわたしへの最大級の讃辞と言えば、「文章が上手いね」になる。しかもただ上手いんじゃない。「ピカイチに上手いね」とさらに来る。そこまで言ってもらえればもうこれ以上のほめ言葉を見つけるのは不可能だろう。
 と言いつつも、「多数の中で最も傑出していること」の「多数」がどれくらいの規模においてなのかが分からないのがこれまた言い得て妙なわけなんだけれど。多くの普通の人たちの中で傑出しているのか、あるいは普通ではない玄人と言ってもいいプロ集団の中で傑出しているのか、そしてさらに規模を拡大していくのであれば静岡県内だけの話なのか、いやいや、日本において? それどころか世界? 何もWさんはそこまで深くは考えていなかったに違いない。ただ単にわたしの文章が普通の人よりも上手いのを感じてピカイチという言葉をあてたに過ぎないのだろう(ってこれは本人にどれくらいのつもりでピカイチって言ったのか聞いてみないと分からないのだけれど)。でも、それでもこのピカイチという言葉はわたしにとってどんなに規模が市内に過ぎなかったとしても、最大級のほめ言葉であることはたしかだ。
 わたしは何よりも人よりも優れていたいという思いが強い人間なのだろう。思えばわたしは人生の半分くらいを競争することに価値を置いてきたのだった。
 でも、問う。人よりも優れているピカイチってそんなにいいことなのか、って。言うまでもなく、人よりもすぐれていると「上手いね」「素晴らしいね」と多くの人からほめられる。そのことに価値を置いている人たちから尊敬される。そして、それだけではなくてその上手さが職業にできるところまで達していればそのことでお金を手に入れることができる。さらにはその上手さが誰よりも優れている場合、成功者になることができて莫大な富を手に入れることができるのだ。自分でそのことをやることはもちろんのこととして、そのことを教えることも上手なら後進の指導に当たることもできる。そうなれば一生安泰。成功したサクセスストーリーまっしぐらで人生バラ色。
 でも、わたしは思うんだ。それって人間が価値付けしてるだけじゃないかってね。それも多くの人によっていいとされた場合じゃないかってね。負け惜しみなのかもしれない。負け犬が吠えているだけなのかもしれない。でも、突き詰めて考えていくと、文章にしてもその他のいろいろなものだったりにしても、そこにあるのはそのものだけじゃないかってね。思うんだな。わたしによって書かれた文章がある。ただそれだけなんだ、本来は。そこに人間はいろいろな価値をくっつけて評価してジャッジして「これはいい」「これは良くない」と判断しているに過ぎない。だから、もしかしたらそこに優劣なんてそんなものはないのかもしれない。だから、極端な話、わたしのブログの文章を3億円で売ってくださいと誰かが言ったら、その人にとってわたしの文章の価値は3億円なんだ。反対に値段がつかなくて一銭にもならないのだとしたらそれは0円なんだ。ただそこにわたしの書いた文章がある。それを誰がどう評価するかなんていうのはまさに風任せで、絶対的にこの文章が優れているとかそんなことはないし、絶対的に劣っている文章なんていうものもない。
 だから、わたしが思うにはわたしの書いた文章に誰かが深く感動してくれたり、心ふるわせるものを見出してくれるならそれでいい。もちろん、そこに商業的な価値が出てくるのであれば対価としてもらうけれど、でも一番大切なのはその文章がどれだけ読み手に刺さるかなんだ。だから、前にも書いたけれど1万人いて9990人の心をスルーしていったとしても残りの10人が「星さん、すごく感動しました。星さんの文章を読んで何かまた生きていこうって思えました」って言ってくれたとしたらそれでいいような、そんな感じなんだ。成功すればそりゃあ嬉しいよ。お金だってもらえるんだしね。でも、それが目的になってしまうと何か違う。お金をたくさん稼ぐためにいいものを作ろうでもいいのかもしれないけれど、誰かを幸せにしたいとかそういう気持ちの方が先行している必要があるんじゃないか。あるいは純粋にいいものを作りたいっていう気持ちが先行していてもいい。
 ピカイチという言葉で喜んでいるわたしのような人間に言う資格はないのかもしれないけれど、ピカイチよりももっと大事なことがあるような気がしてきた。それはSMAPの歌にもあるようにオンリー1であること。それが優れているかどうかではなくて、それがかけがえのないものであることに価値を見出す。そんな新しい価値のあり方だと思うんだ。この考え方で行くと、みんな尊いということになる。みんな価値があって素晴らしくてかけがえのないものだということになる。しかし、そうは言っても全部この図式にあてはめようとすることには無理があるようにも思える。でも、どんな存在にも聖性がある。だから、もちろん非暴力へとつながっていく。傷付けないことを徹底していくことへと向かっていくんだ。その先にあるのは平和と平安。争わず戦わず、そこには調和がある。そんな世界が訪れる。
 ピカイチはそうではないものや人があるからこそのピカイチなのであって、そこには歴然とした優劣がある。でも、そうじゃないんだ。わたしたちの目指すべきところはそこではないんだ。本当にユートピアのような争いも戦いも序列も、そういったものも何もないただただ平和で穏やかな世界。それこそがわたしたちの目指すべき世界なんだ。そんな世界、現実的じゃないし無理だよ。ごもっとも。でも、その方向へと近付けていくことはできるんじゃないですか。争いをなくしていく。心穏やかになっていく方向へと。
 そのためにはやっぱり取るべき一番の近道は菜食だな。菜食にすることによって敵対心や攻撃性を減らしていくんだ。お、まとまった。
 ピカイチが、序列ができてしまうこの世でどう生きて、どの方向性を目指していくのか。難しいようだけれど答えは菜食にあった!! 

「<日本菜食党>
 皆さん、肉を食べるのをやめて菜食にいたしましょう。そして平和な世の中、平和な社会をつくってまいりましょう。日本菜食党に清き一票をどうかよろしくお願いします。」

 と話が菜食へとつながっていって落ち着いたこのあたりで終わりにしたい。長くなりました。読んでくださりありがとうございました。
 あ、でもピカイチって言われて嬉しかったのは事実なのでその点はWさんに感謝、感謝なのであります。ピカイチの先を、という話なのでした。皆さん、ピカイチの先を目指してまいりましょう。

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