一点

いろいろエッセイ
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 わたしを含めた多くの人たちが、毎日のように自分にダメ出しをしていると思う。「もっとこうした方がいい」「こうしなければ」「こんなこともできないなんて何て自分はダメなんだ」「全然できてないじゃないか」「そんなんじゃ話にならない」等々と自分に向けられる、語りかけられる言葉はどれも辛辣なものばかり。こんな感じでもっと向上すべく発破をかけるような言葉を自分に送り続ける。で、だんだん疲れてくる。一体いつになったらこれでいいって思えるんだろう、って。
 言うまでもなくこの調子でやっていたら、いつまで経っても自分に合格点、及第点は与えられない。どこまで行っても、どこまでやっても自分はダメ。足りない。もっと改善の余地がある。修行が足りない。それはまるで、未来の幸せを求めてどこまでもどこまでも、「未来、未来」と遠くばかりを見て、いつも先のことばかり考えているような、そんなあり方とうり二つだったりする。
 たしかに自分を向上させるためには、自分自身に批判的であることが必要なのかもしれない。満足したらそこで成長は止まり、それ以上は上がっていかない。満足したら終わり。終了。
 以前、テレビを見ていたらフィギュアスケートの羽生結弦さんがものすごくストイックなことを言っていた。いや、ストイックを超えて悲壮感さえそこには漂っていた。オリンピックで金メダルを何回も(3回だったかな?)穫っているのに、それでもまだまだ精進していきたい。もっといいスケートができるようになりたい、みたいなことを平然と言ってのけたんだ。世界一になっても、それでもまだまだ上を目指し続ける。だったら、わたしたち凡人、一般人はどうなっちゃうわけ?、てなことをその時思った。世界一になってもそれでも上を目指さなければならないのだとしたら、もちろん世界一にすらなれていないわたしたちはまずは世界一になるために血のにじむような努力をしなければならない。わたしは羽生さんの言葉から、そんなことを言うつもりはなかっただろうけれど、「世界一にすらなってないんだから努力が足りないですよ」と言われているような気がしてきて、何だか気が滅入ってきたんだ。
 世界一。ナンバー1。って世界一になれるのって世界で一人しかいないんだから、みんなが一番になるなんてことはそもそも無理だし不可能だ。
 一番。一番って気持ちがいい。わたしが小学生の時にテストで100点を取った時、そう思った。100点を取れば文句なしの一番。100点以上の高得点はないのだから、100点を取ればとりあえず一番。
 このあり方が大人になった今のわたしの根底にしっかりとしみついている。だから、もっと向上しなければならないと思ってしまうし、一番になれるものならなることは素晴らしいことだと思ってしまう。
 しかし、それはどこまで行っても今の自分を認めてあげることができていなくて、ひたすら自分に過酷なダメ出しをしているだけだとも見ることができる。
 わたしは目標を持つことはいいことだと思う。何も目標がなければただ行き当たりばったりに闇雲に進んでいくだけでしかないからだ。でも、今のわたしが思うには、もっと今を生きた方がいいんじゃないかという気がするのだ。今を生きる。それは今に集中することでもあると思う。目標は目標として一応大まかに立てながらも、それに縛られすぎずにとにかく今に集中してやるべきことをやっていく。となれば、未来ばかりを見て、今をないがしろにする生き方とは違う生き方になってくるだろう。
 ダメ出しは未来のことばかり考えている。視点が未来へばかり行ってしまっていて、今が置き去りになっている。未来を良くするためにダメ出しをしている。違うかな? もしも、今、今、今、と今に集中できていたら未来のことはあまり視野に入らなくなるだろうし、そもそも今を生きていればありのままの自分がそこにいるだけではないか。
 自分へのダメ出しも必要な時はあるだろう。でも、そのダメ出しは今に至るまでの自分自身を丸ごと否定してしまっているんじゃないか。だって、今までの過程をすべて経て出来上がったのが今の自分であって、それを否定するってことは自分のこれまでを否定するってことでしょう?
 だからまずは否定も肯定もしないでただありのままの自分自身を認める。そういう感じで、ありのままの今現在に至る自分を俯瞰して眺めたら、きっと満更でもないな、とか結構いいんじゃないのって何だか自分のこれまでの歩みが愛おしく思えてこないかな? 何もできていない。何にもやれてこなかったじゃないか、とわたしだって思うときもある。でも、それは自分自身を不当に過小評価してしまっている。仮に何もしてこなかったとしても、何もしてこないことをしてきているじゃないの(笑)。少なくとも目に見える業績とか成果とは無縁の人生であったとしても、何もしてこなかったとしても、生きてきたじゃないの。生きてきた。それだけで立派なこと、ってわたしは思うようにしている。
 だから、目に見える結果を出していて社会的に成功できている人はその調子でやっていってくれればいいと思うし、反対に特にこれと言って輝かしい業績をあげてこられなかった人もそれはそれでいい。というか、どんな業績よりも、名誉や肩書きや地位や成し遂げたこと。そんなことよりも、ただあなたが今日まで精一杯生きてきてくれたこと。それがどんな業績やら何やらよりも素晴らしく価値があるんだ。何をなしとげたかなんて、人生のおまけのようなものでしかない。生の輝き、命の輝きの前ではお金も地位も名誉も勲章もどうってことないし、かすんでしまう。
 わたしが言っていることを負け犬の遠吠えだと思うのであれば、それでもかまわない。というか、負け犬だって立派に生きているじゃないの。それで「俺は負けたんだぞ~」って立派に遠吠えをできている。その犬が今、生きていること。そして、これから先もおそらく生きていくこと。勝とうが負けようが、そんなこととは関係なく時間は流れ、自分の命は輝き続ける。そして、平等に死が訪れる。わたしはそれでいいんじゃないの、っていう気がするな。
 だから、競争に勝って勝者となりたい人はなってくれればいい。その人にとってはその勝つということが人生の至上命題なのだろうから、それならそれでいい。でも、勝った人は負けた人とか、勝ちたいけれど勝てない人を貶めてはならない。それだけは最低限のルールだと思う。でも、勝っても負けても、勝てなくても、人生は続いていくし、時間は流れていく。100年後、1000年後、1万年後にその勝ち負けのドタバタ劇を知る人はおそらくいない。ただただ忘却があるだけで、そんな昔のことに関心を持つような人はいない。そもそも、宇宙が誕生してから現在までの時間において、そのいわゆる社会的な成功をしたかしなかったの勝ち組と負け組がいかなる意味を持つのか。ほとんど意味がないもののように思えてこないだろうか。少し話のスケールが大きくなりすぎたけれど、まぁ、わたしはこんな風に考えている。でも、わたしは思う。この136億年の宇宙の歴史において、瞬間にもならないような点として、しかしたしかにその時にわたしやあなたが存在していること。その一点にたしかに在るということ。そのことに目を見開かされるとき、ただただ驚愕というか畏敬の念に包まれるのだ。それってすごいことだよ。競争に勝つとか負けるとか、そんなことかすんじゃうと思うけどな。

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