別の意味で重症なわたし

いろいろエッセイ
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「人生初のハローワークへ行ってきた」という星が働く気になったらしいよ、という記事を書いて、その働きたいと思うようになったということを精神保健福祉士のWさんに報告しようと思って電話した。そうしたらまた意外な展開が。Wさんと話をしていくに従って自分が求めていること、こうなりたいというのが見えてきた。それはそれは意外なことだった。
 わたしは働きたかったわけではなかった。働きたかったのではなくて、とにかく体力をつけたかったのだ。だから働くことは体力をつけるためのある種の手段でしかなくて、働くかどうかではなくて乱暴な言い方をしてしまえば、体力がつくのなら何でも良かったのだ。
 Wさんと話をしていて思うこと。それは徹頭徹尾、わたしの意向を尊重してくれるということだ。考えていること、自己決定を尊重してくれるということだ。だから、アドバイスらしいアドバイスはほとんどしない。ただ穏やかに話を聞いてくれて適切な相槌や冴えた返しを入れてくれる。控え目な態度という言葉がふさわしく、わたしが働きたいと言っても特にこれと言って喜ぶ様子もない。やりたいと思うならそれでいいと思いますよ、というスタンスで何もわたしの人生を導いたり指図したりはしない。
 Wさんがわたしが発する光を鏡か何かのように反射してわたしへまた返してくれたおかげで自分が何を求めていてどうしたいと思っているのかが分かってきた。話を聞いてもらうだけで答えが出るというやつですね、まさに。自分自身の考えが整理されてきてはっきりしてくるのだ。
 で、電話を通してわたしはとにかく体力をつけたいと思っているんだなということが分かった。が、まだこの時にはヨガを教えるために必要な資格を取りたいと思う気持ちが満々だった。
 それから食事をしてシャワーを浴びている時、突然ヨガの資格に対する否定的な考えが浮かんできた。「本当に必要なのだろうか」と。必要。自分にとってそれが本当に必要なのか。とてもシンプルな問いなだけに答えるのは難しい。わたしにとってヨガのその資格は必要なものとなっていた。が、改めて自分自身に問いかけた時、何か違うような気がしてきた。何が違うのか? お金を払って所定のカリキュラムを修了すればそれでヨガが本当に深まるのか、という疑念が浮かんできたのだ。いわばお金を払ってヨガの深まりを買う。ヨガの精神性を買う、というこのあり方。しかし、そうは言ってもわたしはヨガのDVDを持っていてそれらからは心の平安だったり安らぎを得てきた。ヨガの本だってわたしがお金を払って手に入れたものだ。が、ヨガの本当の精神性というものはお金で買えないものではないのか。そんな数十万円払ったから手に入るものではなくて、それはもしもヨガの神様がいるのだとしたら、そのヨガの神様が与えたい人に与えるものなのではないか。レッスン料が高いいいヨガの先生にヨガを習えばおそらくヨガは深まっていくことだろう。けれど、わたしはそんな商業的なヨガに、言い方は悪いのだけれどそうしたお金儲けのヨガは何か違うのではないかと思ってしまうのだ。むしろ、世の中では乞食同然の人で身なりも悪くて、お金も社会的な地位もない。そんな人の中に本当の聖者はいるのではないかという気がしてきてならないのだ。まぁ、そうは言ってもわたしは商業的なヨガを通してヨガというものにふれている。だから、そうしたヨガを悪く言う資格はないのかもしれない。でも、何か違うような、違うような気がするのだ。急にわいてきたこの思い。これは一体何なのだろう? わたしの直感なのだろうか? 本能的に察知したものなのだろうか? 分からない。が、急にあれだけ手に入れたかったヨガの資格が色褪せてきてしまって、あれだけ熱くなっていたのが嘘みたいに過ぎ去ってしまった。
 これはまさに熱しやすく冷めやすい恋愛感情のようなものなのかもしれない。RYT200にあれだけのぼせていたのが急に冷静になってしまった。しらけるまでは行っていないけれど、それでも冷めてしまった。
 また、シャワーを浴びている時にこんなことも思った。やはりこの世界は幻であって存在していないのではないか、と。わたしが見ているのは夢なのではないか。そんな風にまた思えてきてしまった。この考えに取り憑かれるやいなや働いてお金を得たいとか何か目標を達成したいとか、素敵な恋人がほしいといった欲望は雲散霧消してしまう。この世界がまるでテレビゲームのRPG、行ってみればドラクエのお使いのように見えてきてしまう。だから、テレビゲームが終わってしまえば、あるいはゲーム機やテレビの電源をコンセントから強制的に抜いてしまえばそれでこの世界は終わってしまうのだ。すべてが夢、あるいは幻。夢や幻自体はそれとして存在しているのだけれど、それらがちゃんと実在しているかどうかと言えば所詮実体はなく実在してはいないのだ。
 この変わりよう。前の記事ではあれだけ現実的に物事をとらえて考えることができていた人が急にある時を境に現実感を失い、「この世界は存在していない。所詮は幻なのだ、夢なのだ」とわめき散らす。と、また夢と幻の中でこうしたことを主張しているわけであって、夢の中で必死になって文章を書いていて、その夢の中で夢の中の世界に住んでいる存在してもいない人々に「こう思うんです」とブログで訴えかけている。まぁ、何で書くのかね、という滑稽な事態となっている。って、星の非現実的な妄想が始まったよ、といったところだろう。
 これだけ考えがコロコロ、コロコロ変わるようでは情緒不安定だと思われても仕方がない。でも、こう思うのだから仕方がない。というか、わたしの世界観が浮き世離れしているだけなのだけれど。このことを誰かと議論してもらちが明かないだろう。なぜなら、そのわたしと議論している人も幻や夢の中に登場する実在していない存在でしかないのだから。となると、この世界は別にどうでも良くなってしまう。
 うむ、迷走し始めたぞ。どうしたものか。
 とこの世界を考えるなら、わたしは毎日をどう生きればいいのだろうか。どう生きていったらいいのだろうか。やる気が、やる気が失われてしまうのだ。所詮、テレビゲームの中で成長したり、強くなったり、お金持ちになったりするだけでしょ、で終わってしまう。このいわばテレビゲームのような現実をどう生きるか。なかなかこれは難しい課題ではある。とまたもや夢幻の中で必死になって語っているわたくし星。すべてが無力化されてしまう。無意味化されてしまう。しかも前に書いた通りこの感覚、言うなら直感的な悟りを自然の中にいる時に得たのだ。ということはそれなりに真理なのかもしれない、とも思う。あるいはキリスト教的に考えればわたしの中にサタンが入ってしまっていて欺かれているのか。ともかく、この世界が実在しているかどうかということについてはどんなに議論しても結論は出ない。言うまでもなく徒労に終わるだけだ。
 すべてを破壊して粉砕するこの思想の前でひとりわたしはただぼーっと佇んでいる。「どーする、星!?」って幻の中でどうするとか言っても意味ないし。自分でも救いようがないと思う。これは重症だよね。うん、重症だよ。



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