承認の先にあるもの

いろいろエッセイ
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 誰しもが思うこと。わたしたちの多くは凡人だから人から認めてもらえないと心がカラカラになってくる。それはまるで植物にとっての命の水のようなもので、それがないと生きていけない。
 わたしのことを分かってほしい。理解してほしい。みんな多かれ少なかれそう思う。でも、分かってもらったとしてだから何だと言うのだろう? もっと言ってしまうのであれば何になるのだろう? これを鳥が高いところから眺めるかのごとく俯瞰するのであれば、二人の人がいて、その二人が何やら話をしていて、一方がもう一方に「分かってくれよ」と訴えている。その訴えに対してそのもう一方は「うんうん、分かるよ」としきりにうなずいている。
 こういうこと言っちゃあお終いかもしれない。人と人ってそもそも分かりあえるのだろうか、と。いや、分かりあえない、究極的なところ分からなくて分かりあえないからこそ、少しでも相手を分かろうとする、ということなのだろうか。
 この世界には「分かって、分かって」と貪欲に求めてやまない人たちがいる。そういった人はひたすら自分の話をして、理解されることを望んでいる。その時に、キリスト教的な発想で行くのであれば、わたしとあなたは他人でそこにはしっかり境界線があるのだから分かり合うことはできない、ということになる。どんなに腹を割って話をしてもどこまで親しくなっても、あなたとわたしは別の人で他人なのだから分かるなんてことはできないと考える。それとは逆に自分と相手を同化してその境界線をなくして、相手自身となって理解する。そうした仏教的な行き方もある。そのどちらが事実に基づいているのか、わたしにはよく分からない。どちらも本当のような気がしてくる。うーん、どっち?
 認められる。認められたところでそれは認められたということだけでしかない。それ以上でもそれ以下でもない。その判断する人が「あなたの言っていることには価値があるよ」「あなたのやっていることには価値があるよ」と思ってそれを言葉にしただけでしかない。
 この承認されるという経験に浸かりすぎると、人は弱くなるのだと思う。そして、その自分を承認してくれる人に依存するようになる。それはそうだ。何も価値がない(と自分では思っている)わたしにひたすら価値を与えてくれるのだから。つまり、そのほめて認めてくれる人がいなくなったら自分が無価値になってしまうということ。
 わたしが大学生だった時、わたしはカウンセラーに依存してしまっていた。誰もわたしのことを理解してくれなくて、孤独で寂しくてつらかった。そんな時にカウンセラーは優しく寄り添ってくれた。けれど、わたしがそのカウンセラーに恋愛感情があることを伝えると、途端に態度や口調が事務的とまでは行かないまでも、距離を置かれるようになった。それがまたつらくて、つらくてわたしの精神状態は悪化した。せっかくわたしを理解してくれる人を見つけたのに、今度はその人がそっけなくなる。それだったら最初から優しくしてくれない方が良かった。そんなことまで思った。
 これは自分の価値を判断することを自分ではなくて他の人に丸投げしてしまっているからであって、そうなると絶えずその丸投げしている人の顔色を伺うことになる。だから、その人から冷たくあしらわれたり、関係が壊れたりすれば、見捨てないでとばかりにその相手にしがみつくことになる。
 最近のわたしは価値というものを観念と考えるようになってきているから、その他者からの評価から距離を置くことができるようになってきた。そして、得てしてそのジャッジを下す人というのは多くが適当だから当てにはならない。自分の狭い了見で自分自身の好き嫌いに基づいていろいろ言っているだけでしかない。その大半が適当な意見や感想でしかない中で、わたしが参考にするのは自分が信頼している人がした判断や意見などであって、それ以外は受け流したいものだと思っている。
 人からほめられる。認められる。それはとても心地いいこと。けれど、その承認はその人が認めてくれたというだけのことであって、だからと言ってわたしがそのおほめの言葉によって別の存在になるというわけではない。ただわたしがここにこうしていて、その言動なり何なりを誰かが認めてくれた。それだけのこと。
 それだけなんて冷めた物言いをするけれど、それがとても大事なことなんじゃないの、と思う人が大半だろう。承認を得ることによって、人がライオンに変身したり、スーパーマンのようになるわけではないものの、そうした自分自身が受け入れられる経験を通して人は前向きに人生を生きていけるのではないか。誰からも承認されず、「お前は本当ダメだよ」「お前はクズだ」などと聞かされ続けたら普通の人なら参ってしまうし、いろいろな問題行動へとつながっていくことだろう。たしかに冷めた目で見るなら「ほめられたところでそれが何?」と言えてしまうけれど、この世間というか周りの人たちを見回してみれば、ほとんどすべての人が何らかの承認を誰かから受けている。その程度はいろいろだけれど、それでも何らかの「いいね」をもらっている。
 わたしはどうしても承認だけではなくて、その承認の先にあるものが気になってしまう。承認された先に一体何が待っているのだろう? そんなことを考えてしまうのだ。承認の先にあるものを突き詰めていくと、死が待っている。しかも、しっかりと口を開けてすべての人を呑み込むがために待っている。当たり前のことだけれど、100年後には今この地上に生きている人間はもういない。みんな死んでいる。
 だとしたら一体生きている間に受けた承認にどれだけの意味や価値があるのだろう、あったのだろうとどうしてもわたしなどは思ってしまう。過去の人類の歴史においても、連綿と承認という営みが繰り返されてきた。「いいね」「すごくいい」「魅力的だね」「かっこいいね」「きれいだね」「最高だね」「素晴らしい」。そんな今やもう消え去ってしまった無数の承認の言葉たち。
 人類がここまで滅びずに続いてきたのも、常にそこに承認があったからではないか。となると、承認というものは人が生きていく上での原動力なのかもしれない。
 誰かが認めてくれたとしても、それは一人の人が肯定的なメッセージを自分に向けてくれただけでしかない。つまり、一つの感想や意見でしかない。しかし、どうしてこれほど人からの承認に揺さぶられるのだろうか。結局本能? 生きていく上での。
 承認の先に何があるのかと考えてきたわけだけれど、その先には死があって謎に覆われている。もちろん、その死の先にはこうなっていると信じていて、そうなることを確信している人もいることにはいる。でも、その確信が正しいということはこの世では証明できないし、死んだらどうなるのかとかどんな世界が待っているのかということは、やっぱり死んでみないと分からない。
 となると承認というものはある意味、スパイスのようなものなのかもしれない。人生という食材に振りかけるスパイスであって、それがあると人生はとても楽しく充実するのだ。刺激を与えて活性化してくれるものとして、これを活用しない手はないだろう。
 しかし、そうは言いながらもそのスパイスもかけすぎたりして、それに頼りすぎると不調を引き起こす。あったら嬉しいけれど、まぁ、ほどほどにあればいい。それくらいの方がいいと思う。それがないと生きていけないとなってしまうと苦しくなってくるから。
 絶対的な承認などというものを得ようと思い始めると神様を持ち出さざるをえなくなってくる。けれど、神様からの承認も神様にとっての「いいね」でしかないのだから、それも本当の意味で絶対的かどうかと言えばちょっと違うとわたしは思う。ましてや、人からの承認なんて絶対的でも何でもなくて単なる一個人の意見や感想でしかない。所詮、数十年生きてきてたどり着いた狭い了見や限られた経験などからこれはいいだの何だのと言っているに過ぎない。
 その個人的な意見や感想、さらにはそれが集まってできた世間からの評判や評価などというものをまるで絶対的なものであるかのように振り回す人がいるけれど、個人や社会や世間などというものはあまり当てにしない方がいい。それよりは自分自身の直感で行った方がいいのではないか、と思うのだ。みんなが素晴らしいと言うもので自分が良く思えないものというのはあるし、その逆も然りだからだ。みんなはこの料理がおいしいと言っている。評判もすごくいいし、みんなが認めている。でも、自分はとてもそうは思えなかった。そんなことだって時にはあるのだ(まぁ、世間から評価されているものを選べば外れることは少ないけれど)。
 とまぁ、承認の先やら何やらと考えることもできなくはないけれど、とりあえず今があるのだから未来のことばかり先走って考えるのではなくて今を生きたいものだとわたしは思う。ヨガをやっている時にふと感じる「今だ。わたしは今にいるんだ。たしかに今ここにいるんだ」という感覚。そして、自分の思うがままにというか素直に飾らずにいいものを「いいね」と認めて承認する。それでいいんじゃないか。むしろシンプルでいいのだと思う。
 と書いてきましたが、この記事だってわたしの現時点でたどり着いた狭い了見でしかないと言ってしまえばそれだけのこと。最後はあなた次第で、この一個人の意見をどうとらえて、どう取り込んで、どう生かすかはあなたに委ねられている。
 承認の先には何もないかもしれないけれど、それでも承認されて承認する、そんな当たり前の日々を送っていきたい。承認に寄りかかり過ぎず、自分を見失わずにやっていきたい。

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