すごい

いろいろエッセイ
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 今日、地域活動支援センターに5、6年ぶりに行ってきた。地域活動支援センターというのは精神障害がある人が利用するサロンのような場所で、各自来ている人たちと話をしたり、好きなことをして時間を過ごすそんな場所。
「何か運動をやっているんですか?」と聞かれてわたしは「ヨガをやっています」と答える。そして、次々と質問が来て、わたしがそれにヨガを週3で1回につき1時間半やっていると答えると、そこのスタッフは「すごい」を連発してくれる。「メチャクチャやってるじゃないですか」とまで言う。でも、わたしはその言葉を素直に受け入れることができなくて、「そうなのかなぁ。すごいのかなぁ?」と思ってしまう。何かそれくらいやるのがヨガの道場に来ている人たちにとっては当たり前のような感じなので、特段自分のことをすごいとも何とも思っていなかったのだ。でも、そのスタッフの人にとってはそれはすごいことらしい。
「すごい」。そのフレーズは当たり前だけれど、自分がすごいと思った時に発せられる言葉だ。自分よりも優れていたり、自分よりも頑張っていたり、何か優れた成果を出している。そんな人に対して尊敬も含めた上でかける言葉。
 この言葉はいかんせん主観的だ。絶対的にすごいことなんてこの世にはない。わたしにとってヨガの道場に週3で通うことは何もすごいことではない。すごいどころか、週5とか週6で通えていないのだから、まだまだだとさえ思う。そのわたしにとってはまだまだだと思えてしまうことであっても、何もやっていない、やったことのない人にとってはきっとすごいに違いない。
 この主観的な「すごい」という言葉。なかなか曲者だとさえ思う。なぜなら、この言葉を言われると気持ちがいいからだ。脳内で快感物質が分泌されるのを感じる。そして、この賞賛だったり承認だったり尊敬を受けられるのならば、他の何を犠牲にしてでもそれを得たい。そんなことさえ思わせてしまう力がある。
 すごくなりたい。すごいと言わせたい。そんな欲望さえわいてくる。でも、どうなったら満足することができるのだろうか。どこまで到達したら満ち足りるのだろうか。
 わたしのヨガの師匠は何事においても自分が心地良い程度を探っていくことが大事だと言っていた。人によってその程度には差があるからだ。ある人は、たとえばヨガなら公民館のヨガでリフレッシュできればいいと思うかもしれない。そして、それに満足してそれ以上は求めようとはしない。その一方で別のまたある人は、ヨガを人生におけるいわゆるライフワークとして、さらにはライフスタイルとして志向していきたいとさえ思っている。だから、公民館などで習えるヨガでは物足りなくて、本格的なインドで修行をしてきたような先生から教わろうとする。
 つまり、自分の軸がないとブレまくって、人にどう思われるかとか、どう評価されるかということに振り回されてしまう。でも、それをやるのは自分だし、やめるのもやらないのも自分。だったらそれでいいんじゃないかと思う。
 が、それにしても疲れた。5、6年ぶりの地域活動支援センターへの初参戦はいかんせん頭が疲れた感じだった。普段、母以外の人と話をしていないですから。いろんな人といろんな話を休むことなくというのはなかなかエネルギーが要る。でも、脳にとってはすごく良かったと思う。いろいろな新しい刺激が入ってきて活性化されたように思うから。
 あと、こういう風に人との交わりの場に顔を出すというのは新しい発見もある。来ていたある女性利用者からわたしのことを「いい男」とか「優しい」などとおほめの言葉をいただいたのだ。こういうのって家族から言ってもらっても、家族からということで今一つ自信が持てないものだけれど、第三者から言われると何だかその気になってくるから不思議なものだ。自分は働いていなくて、Yahooの知恵袋で言うところのクズでダメな男ではないか。こんな男を誰も女性は見向きもしてくれないのではないか、などと決めつけてしまっていたけれど、精神障害があって自分も働いていなかったり、働けない女性から見たら、きっとそんな風には思えないのだ。むしろ、同じ苦しみを抱えている仲間として、「よくやっているよ」と言いたくなってくるくらいなのだと思う。少なくとも今日参加した限りでは「働いていない男はクズでダメなやつ」などと言うような人はいなかった。むしろ、そこにいた女性は、「調子が悪くてやる気が出ない。前は興味があったことに今は興味が持てない。楽しくない」ということを言う男性に「波があるから仕方がないよ」と優しく慰めていた。自分が不調だったり障害だったり苦しさを抱えているからこそ言える言葉であり、そんな弱さに寄り添うような優しさ。そんな優しい彼女がわたしには女神様か何かのように見えたくらいだった。
 男というのは働いてなんぼで、働かない男なんてクズみたいなもの。そんな風に思っている女の人はいることだろう。男というものを強さで評価して弱い男は切り捨てる。そんな情け容赦のないことを平気で言う女性もいる。女を守れないひ弱で情けない男なんて価値がない、と。でも、そういう評価基準で裁かない人もいるのではないか。そんなことを今日行った場所で思った。むしろ、働くこととかそういったことよりも別のことに重きを置く人もいるのかもしれない。もちろん、それが多数派でないことは分かっている。多くの女性はおそらく強くて優しくて思いやりがあって頼りがいがあって自分を守ってくれるような、仕事もきちんとしていてできる男を求めているのだろう。そんな男に自分があてはまらないことに引け目を感じ続けていたわけだけれど、それがすべてではない。もっと価値観というものは多様であって、いろいろあってまだ自分が知らないだけで出合っていないだけ。女性も本当にいろんな人がいるのだから、わたしに最大級の「いいね」をしてくれる人がいるのではないか。そんなことをも思ったのだ。
 わたしは自分のことをすごいなんて思っていなかった。ただ目に入るのは自分よりも上にいる人たちの姿だけで、そんな彼らが「もっと、もっと」とは言わないものの、暗黙のうちに無言の圧力をかけてくる。でも、もしかしたらわたしはすごいのかもしれない。ヨガを道場へ行って週3で習っていることも、読書を20歳の頃から今まで続けてきたことも、こうして長々と文章を書けていることも、お料理がそこそこ作れることも。そして、身体が自由に動かせなくてベッドで寝たきりでいる人から見たら、わたしがこうして普通に暮らせていてヨガまでできていることはきっとすごいことなのだろう。さらには、死んでしまっていてもうこの世にはいない人から見たら、どんなにみじめに見える人であっても、うらやましい限りでありすごいのだろう、きっと。
 今日は地域活動支援センターで精神保健福祉士のWさんとも直に会って話ができて有意義だった。彼女はわたしのことを「目が優しくなった」と言ってくれた。どうやら変わったらしい。わたしがいい意味で。
 ヨガの道場もそれはそれで上を目指していくというか、ヨガという修行をしている人たちの群れとしていいとは思う。でも、そればっかりになってしまうと、強さばかりになってしまう。時々は、ゆるい場所にも行った方がいいのかもしれない。と言いながらも今後も地域活動支援センターに行くのかどうかは分からない。未定であります。
「すごい、すごい」と今日、何回言われたのか分からない。わたしってすごいの? いや、みんなすごいんだよ。生きているだけで。何も成し遂げていないように見えても、生きているだけでもうそれだけですごい。甘やかしているだけだと思う人もいるかもしれないけれど、お互いを「すごい」とリスペクトし合うことこそ、この承認に飢えている時代に求められることだと思う。Yahooの知恵袋で働いていない男のことをクズとかヒモ呼ばわりして辛辣に批判していた人。その人たちこそ承認に飢えているのだと思わずにはいられない。そんな人たちに向けて「すごい」と言ってあげたいな。

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