ブログの価値とその人の価値

いろいろエッセイ
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 1番というものは気持ちがいいものだ。何か自分が頂上にいるような気分で、自分よりも下にいる人たちを上から見下ろしている。そんな優越感のような、そしてそれを味わえる満足感のようなものに浸っていることができる。
 昨日書いた「星の平凡だけれど痛快な一日」という記事。読んでもらえただろうか? わたしがこのブログを始めて以来、一番長い記事だったんじゃないかと思う。約5800文字。わたしにとっては渾身の力作で、自分でも面白く、そして活き活きと書けたんじゃないかと思っていた。それだけに、ほとんどその記事が読まれていないことは残念なことだった。
 わたしは昨日6000文字近くにもなる文章を書いた。それ以外の日もだいたい3000文字くらいは書いている。が、日本ブログ村でのランキングは最近低迷し始めていて、今までは1位でいられたのにそんな時も終わってしまった。現在、上位にランクインしているある人のブログは本当に一言二言しか書いていない。文字数から言えば200文字とかそれくらいだろう。が、そんなブログがわたしよりも上位にいる。何か、これは悔しい。というか、怒りすら覚えた。何でこれだけしか書いていないのに、わたしよりも上なんだ。なんで、こんなに頑張って書いているわたしの方が下なんだ。納得がいかない。
 でも、人生なんていうものはそんなものかもしれないとも思えなくもない。ほとんど手間暇をかけていない物が大ヒットしたり、何でこんなものが人気が出るのだろうというものが売れたりする。一方で、どれだけ心血を注いで何かをやっても売れない人というのはごまんといる。まさにこれは不条理のようなもので、それを人は運とか時代の流れとか言う。
 日本ブログ村のランキングにしてみても、何のためにランキングという、競争があるのだろうかとわたしは考えてみた。まずもって言えることは、みんなを競争させるとその人たちの生産性があがり、その成果としての生産物のクオリティーが格段に上がることだ。さらには、安く高品質なものが次々と生まれてくるようになる。買う側にしてみれば、こんなにいいことはない。少しのお金でいい物が手に入る、いいサービスが得られるというのはお得以外の何物でもないからだ。もちろん、その際にはその人たちの能力も磨かれて進歩向上する。競って切磋琢磨することによって、人も成長し、その人たちの生産するものの質も上がる。逆に競争が何もなければ、のほほんとしていて「まぁ、今のままでいいんじゃないの」となって全然伸びていかないし、彼らの生産するものにしても質が悪いことだろう。そして、価格としても高い。
 たしかにそういう、安く高品質なものが作られるというメリットはある。実際、わたしたちは資本主義の世界に生きて暮らしているわけだから、その恩恵は十二分に受けている。
 が、その競争が無限競争とでも言っていいほどの終わりなき競争となったらどうなるだろうか。次々に激しい競争をしていき、高品質低価格をどこまでも目指していく。もっともっと、安くいい物を。それは買い手にとっては悪いことではないんだけれど、そんなことをどこまでも続けていったら、作り手側は疲れてしまうよ。まるでそこは戦場のような場所となっていて、やるかやられるか、食うか食われるかになると思う。無駄なものなんていうのはどこまでも削ぎ落としてなくそうとするだろうし、そうなれば本当にドライになってくる。生き残れるか、否か。
 そんな世界と対極にあるのが我らが星さんがお空の雲をぼーっと眺めているような世界だろうと思う。な~んにも考えないで、ただぼーっと、雲が~、流れていく~、のを見ているよ~。ゆっくりゆっくり雲の流れをただただ何も考えず見ている。そこには競争なんていうマインドはひとかけらもなくて、ただそこにいてぼーっとしているだけ。
 一つ言えること。それも確実に言えることは、生涯に打つ心臓の拍動の回数は決まっているということ(たしか15億回だったと思う)。だから、セカセカセカセカばかりして常に緊張しっぱなしで戦闘モードだと心拍数が多くなるから、その拍動の回数を早めに使い切ってしまい長生きできないらしい。
 これをもう少し距離を置いて遠くから冷静に眺めてみるとしたら、一匹のセミで考えてみるとよく分かる(もうセミの季節は終わったけれど)。
 ここにせっかちでいつもセカセカ常に動き回っているセミとのんびりまったり過ごしているセミがおりました。彼らは同じようにこの生涯を生きました。そして、最後にコロリとほとんど同じように死んで転がっています。おしまい。
 考えてみればせかせかしている人というのは、もともとの気質なんかもあるかもしれないけれども、本当はまったりゆったり何の心配もしないで悠々自適な日々を送りたいのではないんじゃないか。
 たしかこんな話があったかと思う。二人の人がいて、片方は毎日あくせくあくせく働いて動き回っていた。そこに毎日、昼寝をしてごろごろ何をするわけでもなく過ごしている人がいた。そのあくせくしている方の人がのんびりしている人に「なぜ働かないんだ? 働いてお金をたくさん稼げば大きな広い家で悠々自適な生活ができるぞ。のんびり何の心配もすることなく遊んでいることができるようになる。昼寝だって好きなだけできる」といったことを言う。すると、そののんびりの方の人が「それならもうやっています」と答える。
 このまったりしている人の答えはすごく強烈だと思う。この一言ですべてを説明して、そのせかせかしている人の考えを覆してしまっているからだ。もうそれをやっているのだから、何もあえてせかせか働く必要もない。もうすでにそれをやれている。だったら、何のためにあくせくあくせくするのか。あくせくすること自体が好きとか、時間を持て余すのが嫌いだとか、あるいは高尚なこの世での成し遂げたいことがあるとかいうことだったら、あくせくするのもいいかと思う。でも、そうでもなかったら本当はこののんびりしている人みたいにあくせくしている人ものんびりしたいんじゃないか。本音は働きたくなくてまったり気ままに暮らしたいんじゃないか。
 話を最初に戻して、ランキングに心をかき乱されたわたし。が、負けたところでそれが一体になるのだろうと言ってしまえないこともない。ただランキングというのは一つの情報でしかない。誰が上で誰が誰よりも下、という単なる情報でしかないんだ。それ以上でもそれ以下でもない、単なる情報。でも、この情報がわたしの心をかき乱すのは「あなたのブログは誰々のブログよりも価値が低い。そして、あなた自身の価値もその人よりも低い」と無意識下で言われているからではないかと思う。ブログのランキング、そしてそこにわたしや誰か他の人そのものの価値が絡んでくる。だから、心穏やかではいられないんだ。
 でも、人間の価値なんていうものは何かの成果で計ることはできないとわたしは思う。ここに難関大学卒の人と公立中学校卒の人がいるとする。何かよく分からないけれど、日本人はたとえば東大とか京大とか聞くと、一気にその人の株が急上昇するばかりではなく、その人の人柄さえもが優れているような、そんな錯覚に陥る。でも、この二つの指標である学力と人柄というものは必ずしも等しいものではない。わたしの遠い親戚に東大に合格した人がいるのだけれど、その人は本当に性格が悪かったそうだ。全然、人としてできていなくて人間として問題を抱えているような人。親戚はその東大の人のことを誇っていたらしいけれど、その人は結局試験を受けてそれで高得点を取れただけでしかない。わたしは思うのだけれど、勉強ができない人にも素晴らしい人はたくさんいると思う。テストをやるとさっぱりだけれど、人として素晴らしくて尊敬できる人。そんな人はもちろんいる。そういう意味で、日本人というのは勉強ができるとその人自身の人格も優れていると思ってしまう傾向がある、と外国人からよく言われてしまうのはもっともなことだと思う。
 だから、仮にわたしのブログが誰かのブログよりもアクセス数が少なかったり、人気がなくてもだからと言ってわたしの人格までもがそれによって否定されるということはない。それは別。あくまでも別のこと。わたしがブログの人気もなくて、人格的にも問題があるのだと誰かが判断するのであれば、別にそれはそれで構わないのだけれど、短絡的に「ブログが人気=その人が人格的に優れていて価値が高い」とは言えないのだ。あくまでもわたしと個別的に関わってそのわたしの人格的なことは判断してくれればいいだけのこと。
 考えてみれば、絶対的な価値なんてこの世には存在しない。あるとしたら神様がこれは価値があると考えていることくらいで、それ以外はすべて個人的にそう思っているだけの価値でしかない。だからある人がわたしを見た時のわたしの価値と、また別の人が見た時のそれは似たようなものにはなるかもしれないけれど、同じではないんだ。極端な話、わたしをある人は素晴らしい人だと思うかもしれないし、その一方でまた別のある人は最低な奴だと思うかもしれない。これだけ評価に差が出るとしたら考えられるのは、人間は全能ではないのが理由だと思う。人はどんなに努力しても物理的にも時間的にも有限な存在だから、他の誰かのことを知ろうとしてもその人のほんの一部にしか光を当てて見ることができない。もちろん、より多くの部分に光を当てよう、もっとよく知ろうと努力することはできる。でも、それにも限界があるし、そんな全能になるなんていうことはどう考えても無理。それができるのは神様だけで、神様だけがそのすべてを見ることができる。そう考えていくと、どんな賢人や高学歴だったり優れた人であっても所詮一人の有限な人間でしかないことが分かる。だから、分かりっこないのだ。その人のすべてなんて。無理無理、なのだ。
 ここまで書いてきて、わたしのブログのランキングの順位が下がることがどうしてネガティブな感情を引き起こすのか、ということが分かった。それはわたしの価値が脅かされるから。その価値がぐらつかされるから。それ以外の根本的な理由はないな、おそらく。
 というか、そんなわたしのたかだか数千文字の文章でわたしのすべては分かりませんよ。わたしはもっともっと奥深いのです。なんて偉そうに言っているけれど、わたし以外のみんながそう。みんな深みがどこまでもある。一見くだらないように見える人であっても見ようと思えばどこまでもどこまでも深い。そして、わたしたちは、完全どころかその一部でさえも把握できているかどうか怪しい。だとしたら案ずることはない。たかがわたしの文章という生産物ごときで何が分かる。最後に偉そうになってしまって恐縮だけれど、そんな思いでいる。だから、わたしは他者のほんの一部しか見ることができていない。それだから謙虚に、謙虚に分かったと思うことなくいたい。本当に完全に分かっているのは神様だけ。だから、安心して生きていきたいと思う次第。
 長文になりました。長文にもかかわらず読んでくださりありがとうございます。ではでは、それでは。



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