相変わらずだなって思う。わたしに働けと言い続けるYさんは今日も変わらず、ブレずにわたしに働けと言う。
ここ数日間のわたしのこのブログのコメント欄を見ていただければ、どうやらまたYさんが星に働けと言っているらしいぞ、ということが分かる。
うむ。ま、いいんですけどそんなにわたしに働いてほしいんですかい? わたしが働く。働いたらどんなバラ色の未来が待っているのだろう。
どうやら彼はわたしを救いたいと思っているようだ。仕事なしのいわばプー太郎な星さんを何とかして立ち直らせて、そして常識ある人間にする。それが一番いいことで、素晴らしいことで何よりも多くの人がそれをいいことだと認めているんだから、誰も異議はないだろう。そんな態度が彼の言葉からは感じられてならない。
彼の信念がまさにいいことだとしたら彼はいいことをしているのだ(っていいことはいいっていうのは当たり前ですけど)。疑問? 疑い? そんなもの、いいことに決まっているのだから差し挟む余地なんてないよ。だってYさんは正しいんだから。
そんな調子で彼はわたしに「働け」の一本槍を喉元まで突きつけてくるのだ。というわけなんだけれど、どうして彼はここまでしてわたしを社会化しようとするのだろうか。良識ある社会人に仕立て上げようとするのか。
そもそもわたしが働いたところで彼にメリットはない。あるとしたら自分の思い通りに働いてくれたぞ、という自己満足くらいだろうか。わたしが働いたとしても彼には1円も入らない。また、何か利益を得ること自体もない。ただあるのは誇らしい満足感だけだろう。
うむ。何というか、このわたしに注いでくださっている(?)エネルギー、とてももったいないように思うのだ。申し訳ないと言うよりは実に無駄な営みのように思えて仕方がない。この時間と労力、実にもったいないですなぁ。一人の人間(この場合は星という人物)のためにここまで費やす時間とエネルギーがあるのだとしたら、何か別のことにその貴重なものを使った方がいいと思うのだ。運動をする。勉強をする。料理をする。休息する。自分の好きな趣味の時間にあてる。などなどそのどうしようもないわたしに使うはずだった時間を別の自分がやりたい有益なことに回せばYさんの人生はもっと豊かになる。それでも、「いや、私は星さんを放っておけないんだ。彼が破滅の道へとひた走っているのをむざむざ放っておけないんだ」と親切心どころか救済しようとするのだとしたらさぞかし立派なお方なんだろうとは思うけれど、はっきり言ってしまうと迷惑なんだよね。こういう言い方をするとまた問題があるかもしれいないけれども一番近い表現を探すのだとしたら押し売りとか押しつけかな。善意の押しつけ。押し売り。いやはや、迷惑な話であります。わたしはそれを要らないって言っているのに、「これをやらないとダメだ」ってどこまでも聞く耳を持たずに押しつけてくる。さらには「これはあなたのためなんです。これをやらないとあなたは不幸になってしまうんです」という論調で迫ってくる。うむ。ありがたいようでありがたくない、まるでご近所さんや親戚からの無遠慮なアドバイスっていう感じだろうか。
ま、いいんですけど、星がどういう気持ちなのか分かってほしかったのでこの記事を書いた次第であります。
わたしだってね、本当に働かなければならない状況になって働かずにはいられなくなったらそりゃあ働きますよ。それにもしもそんな状況になってもそれでも働きたくないとその時のわたしが思うのであれば、諸制度を活用して生き抜く所存ですからご心配なく。
わたしはもしかしたら愚かな道を突き進んでいるのかもしれない。そして、それがYさんにははっきりと見えるからこそアドバイス、いや彼に言わせれば警告をしてくれているのかもしれない。
でもね、わたしはわたしでしっかりと自分で責任を負っているんです。働かないことで自由を得ている反面、大きなリスクだって負っているのです。もし、ここまで言ってもなお「働け」とわたしに言うのでしたらもう中途半端なアドバイス(いや警告でしたね)なんかしていないでわたしの人生を全部背負ってください。全責任を負ってください。それができないのなら軽はずみに働けだの何だのと言わないでください。わたしの人生に口出しをするからにはそれ相応の覚悟があるのでしょうね? ないなら黙っていてくださいまし。
とかなり熱くなりましたが、ま、いっか。地球上の80億人のうちの1人がワーワー言っているだけだからね。手放そう。そして、自分の人生の時間を気にせずまた歩んでいこう。Yさんはわたしにとってはおそらく旅路ですれ違う通行人でしかないだろう。だったら、そんなに気にすることないじゃん。そもそも、彼はわたしの人生に何も責任は負うつもりはないみたいだし、一緒に歩んでくれるわけでもないみたいだしね。
批判するのは無料。つまりタダ。だから好き勝手なことが気楽に言える。でも、そこに責任が伴う時、途端に好き放題言えなくなる。アドバイスって責任発生しますよね。そのアドバイスで人が不幸になったらどう責任を取るんですか? だからアドバイスは慎重に行わなければならない。
何だか「ま、いっか」の言葉に救われている星なのであった。Yさん、矛盾するようですけれど「ま、お好きにどうぞ」。平行線のままお互いそれぞれの道を歩んで参りましょう。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。